アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(440)菅直人「大臣」

現職の国会議員が、自身が取り組む目下の政策や自己の政治観や国家観を人々に広く知らしめるために、党代表の重職に就いたり、総理大臣に就任して内閣を組閣する際の節目に自著を上梓することはよくある。その事例として、古くは小沢一郎「日本改造計画」(1993年)や、近年なら安倍晋三「美しい国へ」(2006年)、岸田文雄「岸田ビジョン」(2020年)などが挙げられる。公明党や日本共産党ら自党の出版メディアを持っている政党に所属の政治家なら、その出版社から直接に書籍を出すのだろうが、自民党ら独自の出版メディアを有していない政党の政治家は既存の商業系の出版社から自著を出す他なく、前述の政治家書籍の例でいえば、安倍晋三「美しい国へ」は文藝春秋からであったし、小沢一郎「日本改造計画」と岸田文雄「岸田ビジョン」は講談社から出ていた。社会の注目を集める、いわば「時の人」である重要ポスト就任の現職政治家による著作は非常に多くの人々に読まれ、相当な売り上げをたたき出すはずだから、書籍を編集して出す側の各出版社も、そうした現職政治家が執筆の著書なら是非とも自社で担当販売したいと思っているに違いない。

こうしたことから、「どれだけ現職政治家の執筆書籍を自社担当に誘導して自分たちの仕事にできるか」は、その出版社の編集者や営業担当社員の力量の優秀さを示す腕の見せ所といえる。有権者の世間の目を気にして、絶えず自身の政治家の良イメージ形成維持に細心の注意を払う現職の政治家は、だいたい実績がある大手出版社を選んで無難に自著を出す。彼らは、妙な噂や過去に失策があった三流新興の怪(あや)しい出版社から滅多に自著は出さない。そういった危ない橋は絶対に渡らないものだ、有能でデキる国会議員や都道府県知事や市長ら現役政治家というのは。

さて古くからの歴史がある老舗(しにせ)で大手の岩波新書から現職政治家の書き下しの新書が出ていたか、ふと思いめぐらしてみたら確かに以前にあった。岩波新書の赤、菅直人「大臣」(1998年)である。

菅直人という人は、なかなかの異色な日本には珍しいタイプの政治家であると、かねがね私は感心し菅の政治活動にその都度、注目してきた。何よりも菅直人は政治家一族の家柄出身ではない非世襲議員である。祖父や伯父(叔父)や父親がかつて国会議員であったという親族の地盤・看板・カバン(支持基盤・知名度・政治資金)を引き継いだ世襲議員や二世議員が異常に多い「日本の政治」の伝統的風土の中で、世襲の二世議員ではなく、市民運動から自力で頭角を現し、国会議員になって遂には内閣総理大臣に就任した。菅は戦後の国政において非常に稀(まれ)な例外ケースで、非世襲議員から首相にまでなった政治家であった。私は菅直人という人は日本の戦後政治にて、間違いなく後世の歴史にまで名が残る特筆すべき歴代総理大臣であり、非常に優れた有能な政治家だと思う。

ここで菅直人の政治家仕事の経歴を概観すると以下のようになる。

1980年・衆院選で初当選(これまで二度の落選を経て34歳で国会議員になる)
1994年・新党さきがけに入党。村山富市自社さ連立政権にて、新党さきがけの政策調査会長の要職を務める。
1996年1月・第一次橋本龍太郎内閣に厚生大臣(第80代)で初入閣。薬害エイズ事件、病原性大腸菌集団感染問題(0−157とカイワレ風評問題)に対応。
1996年9月・鳩山由紀夫が旗揚げした民主党に参加。鳩山と共に党代表となる。
2009年・自民党から政権交代を果たした民主党、鳩山由紀夫内閣発足に副総理で入閣。国家戦略担当大臣も兼務。
2010年・鳩山内閣の退陣を受け、民主党代表選挙に勝利し首班指名選挙を経て、第94代内閣総理大臣に任命される。菅直人内閣発足。
2011年3月・東日本大震災、福島第一原子力発電所事故が発生。総理大臣として災害・事故の対応に当たる。
2011年9月・民主党の野田佳彦内閣発足に伴い、総理大臣退任。
2016年3月・維新の党らと合流した民進党に所属。
2016年10月・民進党のリベラル派議員からなる立憲民主党に参加。

岩波新書の菅直人「大臣」は初版が1998年で、後に加筆した増補版が出されたのは2009年であるから、先に挙げた菅直人の政治家仕事の経歴と重ね合わせて見ると、1996年に自社さ連立政権の橋本龍太郎内閣に厚生大臣で入閣し、まさに厚生「大臣」として薬害エイズ事件や病原性大腸菌集団感染問題(0−157とカイワレ風評問題)に対応した際の自身の「大臣」経験と、長年に渡る自民党保守政権から念願の政権交代を果たし、政府与党の立場にあった2009年に鳩山民主党内閣にて副総理と国家戦略担当大臣就任時の自身の振り返りを踏まえて、岩波新書「大臣」は執筆されていることが分かる。確かに菅直人「大臣」の内容は、

「1996年1月、橋本内閣の厚生大臣に就任。以後300日、薬害エイズ、介護保険法案、O−157、豊島産廃不法投棄と、さまざまな課題に直面するなかで、何を求め、どう動いたか。市民派政治家が体験した『大臣』という仕事の虚実を具体的に公開し、大臣・内閣、国会、官僚組織ひいては日本の政治の目指すべき姿を熱く説く」(「初版」表紙カバー裏解説)

「官僚依存を脱し、政治主導へ。鳩山政権の副総理・国家戦略担当大臣である著者が『官僚内閣制』から『国会内閣制』へ転換するための具体的な道筋を説く。国家戦略局とは何か。厚生大臣の経験をもとに内閣や大臣の実態を描いた一九九八年の旧著に、新たに民主党政権の理念と方針、イギリス議会政治の視察報告などを加えた増補版」(「増補版」表紙カバー裏解説)

であり、直近の自社さ連立政権にての自身の厚生「大臣」の経験に基づく日本の政治に関する分析考察と、増補時の民主党政権与党議員であり当時の内閣副総理と国家戦略担当大臣の役職にあって、日本の戦後政治にて長期に渡り続いた自民党保守政権に対する容赦のない菅直人による批判言説になっている。つまりは、本新書にある菅直人の言葉「大臣三百日で見えたもの」「一九九六年の厚生大臣の経験から」というのは、自社さ連立政権での自身の厚生「大臣」の経験にて菅直人が痛感した日本政治の問題の指摘であり、また「国民主権への道」「民主党政権は政治主導をどう進めるか」というのは、増補版執筆時の、自民党より政権交代を果たした民主党政権からする、かつての長期の自民党保守政権時代の日本の政治に対するこれまた問題指摘の話である。菅直人「大臣」の書籍は、以上の2つの主な内容からなっているのだ。

それら子細な内容は実際に本新書を手に取り各自で熟読してもらうしかないが、ここで本書の概要を大まかに述べるとすれば、著者の菅直人により繰り返し問題にされ深刻に語られるのは、「政治家を差し置いての官僚主導の日本の政治の問題」である。これは「日本政治にての立法をないがしろにした行政肥大の問題」と言い換えてもよい。つまりは次のようなことだ。

そもそも戦後日本の日本国憲法下にて、国内政治は立法と行政と司法の三権分立よりなる。その内の「立法」は公的選挙により国民の投票信託を受けた国会議員が国会に属して立法権を行使し、また「行政」は、立法と行政とが接続する「議院内閣制」により、立法に属する国会内での最大議席獲得政党(政権与党)の代表が内閣総理大臣に指名され、その首相が各大臣を任命し組閣して、総理と各大臣は「行政の長」となり、行政権を初めて行使できるのである。そうして、さらに地方自治ではない、国内の中央政治には立法の国会議員とは出自が別な各中央省庁(俗にいう霞が関の役所)に属する「官僚」がいるわけである。彼ら官僚は、通常は難関な国家公務員試験を合格して各省庁に大学卒業後の新卒採用で入省してくるエリートたちであり、優秀なキャリア組の官僚である。彼ら官僚は「霞が関」とか「役人」とも呼ばれる。このように中央政治の「行政」には立法の国会から来る国会議員でもある首相と各大臣がいて、それとは別に元からに各省庁に属している国家公務員の官僚(役人)もおり、しかし日本の場合は総じて国会議員の「首相と大臣」よりも、国家公務員の役人である「官僚」のほうが力を持ち決定権と実行力を以て行政権を発揮し官僚主導で政治を行ってしまう。遂には首相と各大臣は「行政の長」でありながら無力な飾りに過ぎす、現実は官僚が実働し時に暗躍して、政治家の「首相と大臣」は役人たる「官僚」の指示に従い、言いなりになってしまう。この現象をして「政治家を差し置いての官僚主導の日本政治の問題」とか、「日本政治にての立法をないがしろにした行政肥大の問題」と一般に指摘にされる。

以上のような「政治家を差し置いての官僚主導の日本政治の問題」には、もともと首相や各大臣になり行政担当する国会議員の任期が非常に短かく(長期政権の安定した内閣でも総理の在職は長くて数年、総理以外の各大臣に至っては内閣改造でわずか数カ月で大臣が頻繁に変わることはよくある)、それに比べて、国家公務員として大卒の新卒採用で入省してくる役人の官僚は定年退職時まで雇用保障され、一つの省庁の特定分野の行政を数十年に渡り継続して担当するため、役人である官僚の方が行政政策に知悉(ちしつ)の政策通なプロの専門家になり、他方で任期が少ない就任期間が不安定な政治家である首相と大臣は、政策全般に精通しておらず結果、行政に際して政治家が官僚の言いなりになってしまうの事情背景があった。その他にも、首相と大臣の政治家らの行政に対する根本的な理解不足の政策勉強不足の問題や、自身の選挙票田の支持母体である特定団体・業界に対し非合理で無理筋な利益誘導を強引になす「族議員」存在の問題(例えば、全国医師会や各地の医療法人や製薬会社を支持母体とし「厚生」分野を票田にして議員当選を果たした国会議員は、彼ら厚生関係団体・業界に利するよう規制緩和の行政改革ないしは既得権益確保のための行政保護政策といった露骨な利益誘導政治をなすことから、そうした国会議員は「厚生族議員」と否定的に蔑称されたりする)が、結果として政治家不信で官僚主導の行政を誘発する事情などよく指摘される。

これは事実、相当に深刻な大問題なのである。このような「政治家を差し置いての官僚主導の日本政治の問題」、ないしは「日本政治にての立法をないがしろにした行政肥大の問題」があれば、霞が関の中央官庁の役人たる官僚が、「行政指導」の名のもとで独自に政治判断をし時に暴走して、遂には行政指導対象の民間企業や法人団体が官僚に対し手心を加えた行政施策を期待・強要するため、役人たる官僚が接待(飲食を介した利益提供)や天下り(官僚が退職後に出身官庁が管轄する業界団体や民間企業に再就職斡旋を受ける利得行為)の利権享受をなして、さらに官僚が権力を持ち肥大化し腐敗してしまう。また首相と大臣からなる時の内閣の行政組織は、彼らは同時に国会に属する公的選挙にて国民からの投票信託を制度上は受けた「(行政)権力行使の正統性」を有する政治家であるが他方、国家公務員試験をパスして新卒採用で各中央官庁に配属されるキャリア組の官僚は、実はただの行政官庁機関の役人でしかなく、その就任選出には公的選挙を経ての国民一般からの投票信託を受けていない。そういった政治家ではない、霞が関のただの行政官庁の役人に過ぎない官僚が、政治家を差し置いて行政権力を大々的に行使するのは、民主主義下の民主政治のあるべき点、「(行政)権力行使の正統性」有無の観点からして相当に非民主的で反民主主義であり、かなり問題あることなのである。

岩波新書「大臣」の中で、「内容をともなっていない国民主権の実態」や「官僚主権国家における民主主義の不在」といった、民主政治の欠落として「政治家を差し置いての官僚主導の日本の政治の問題」が頻繁に語られ非難され、「脱官僚主導」や「官僚主権から本来あるべき国民主権へ」というように、「日本政治にての立法をないがしろにした行政肥大の問題」の解決が今後なされるべき民主政治回復の文脈にて繰り返し強く主張されるのは、以上のような昔から伝統的に今日でも日本の政治にて継続する官僚主導による行政肥大の深層問題に由来している。

岩波新書の赤、菅直人「大臣」は、これまで述べてきたように、執筆時に直近の菅直人本人による1996年に自社さ連立政権の橋本内閣に厚生大臣で入閣し、まさに厚生「大臣」として薬害エイズ事件や病原性大腸菌集団感染問題(0−157とカイワレ風評問題)に対応した際の自身の「大臣」経験を踏まえた上で書かれた日本の政治問題指摘の書籍であった。

この後、菅直人は2010年の鳩山内閣退陣を受け、民主党代表選挙に勝利して首班指名選挙を経て第94代内閣総理大臣に任命され、菅内閣が発足する。そうして、2011年3月に東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の放射能漏(も)れ事故が発生し、その原発過酷事故に菅は、一国政治の最高責任者たるべき内閣総理大臣として一貫して責任ある対応を厳しく迫(せま)られることになる。岩波新書「大臣」にてクローズアップして取り上げられた「日本政治にての立法をないがしろにした行政肥大の問題」以外にも、菅直人が首相在任中に向き合った前代未聞の過酷原発事故をめぐる、当時の内閣府の首相官邸の判断・行動や、原発運営管理者であり原発事故の当事者であった「東京電力」という民間企業に対する、事故収束対応に関する政治家の内閣と監督官庁たる中央省庁の官僚よりの行政指導の政治指示の内実、さらには内閣総理大臣であった菅直人から出された自衛隊への司令命令の実態を、より詳しく知りたいと私はかねがね願ってきた。赤版の「大臣」に引き続き、岩波新書から福島第一原発事故をめぐる菅直人の詳細な回想録もしくは聞き取りのロングインタビュー集が今後出ることを、多分に望み薄であるが、私は密(ひそ)かに期待している。

岩波新書の書評(439)ロワン=ロビンソン「核の冬」

岩波新書の黄、ロワン=ロビンソン「核の冬」(1985年)のタイトルになっている「核の冬」とは、核戦争によって地球上に大規模環境変動が起き、人為的に極度の気温低下の氷期が発生するという現象を指す。

核戦争による「核の冬」現象は、核兵器の使用にともなう爆発そのものや、広範囲の延焼火災によって巻き上げられた灰や煙などの大気中を浮遊する微粒子により日光が遮(さえぎ)られた結果、発生するとされる。太陽光が大気の透明度の低下で極端に遮断されることから、海洋植物やプランクトンを含む植物が光合成を行えずに枯れ、それを食糧とする動物が飢えて死に、また気温も急激に下がることが予想されるなど、人間が生存できないほどの地球環境の悪化を招くとされる。特に将来、世界で全面核戦争が勃発した場合、世界各地で熱核爆発によって発生した大規模火災を経て数百万トン規模のエアロゾル(浮遊粉塵)が大気中に放出され、これが太陽光線を遮蔽(しゃへい)することにより、数カ月に渡る生態系の壊滅的な破壊や文明の崩壊が予測されるという。

仮に未来にあり得るとして、核戦争勃発による「核の冬」現象に伴う人類の滅亡について、岩波新書「核の冬」の中でも、英国の科学者であり「私自身、過去に星を取り巻くちりの雲が星の光におよぼす影響について研究してきて、…こんどは地球を取り巻くちりや煙の雲という問題について考え始めることになった」という宇宙よりの地球環境を分析研究してきた著者から、非常な危機感を持って例えば以下のように、将来の大規模核戦争にてもたらされる「核の冬」現象による「人類の絶滅」が指摘されるのであった。

「一九八三年の秋にワシントンで『核戦争後の地球』に関する国際会議が開かれ…会議では数多くの科学者によってきわめて限定的な核使用、たとえば米ソの現有の核のわずか約0・八パーセントが燃えやすい都市に対して使われただけでも、『核の冬』現象が生じて地球の気候やエコシステム(生態系)がいちじるしく撹乱(かくらん)され、核が全面的に使われたような場合には、人類の絶滅さえ可能なことが初めて明らかにされたのです」

「核戦争が起こると地球は急速に寒冷化し氷期になる。氷河時代よりなお寒い『核の冬』により、文明は崩壊し人類は絶滅する」と指摘する「核の冬」議論は誠に衝撃的だ。核兵器の爆発からの爆風、火球による人々の即死や負傷ら事後の直接的被害や、放射性降下物(フォールアウト)による直近の被曝の健康被害だけでなく、地表での核爆発にて大量の土砂が空中に吹き上げられたことによる灰と塵(ちり)の充満が地球表面を長期に渡って覆(おお)い結果、地球全体の寒冷化現象に至る「核の冬」という地球気候への後々までの悪影響にこそ、本当に憂慮すべき深刻な問題があるのだ。

従来、核戦争勃発後の社会や人類に関して、例えば近未来世界が舞台のバイオレンス映画「マッドマックス2」(1981年)では、核戦争後における放射能汚染を受けて、人々は汚染されていない水や油田の石油や限られた食糧を求め奪い合い、なぜかモヒカンヘアーで無茶に暴れまわる暴走族ら(笑)、不条理な暴力が世界を支配する世紀末人類の時代設定であったが、岩波新書「核の冬」では、核戦争勃発後の地球人類の様子は、そのような「生ぬるい劇画調バイオレンス映画」の未来想定をはるかに超え突き抜けている。地表での核爆発にて大量の土砂が空中に吹き上げられ長期に渡る灰と塵が充満の結果、太陽光が遮断され地表全体が極度の寒冷化の氷期に至り、この「核の冬」現象により人類を含む地球上の動植物の全ての生物が活動・生存できず、ほぼ死に絶える点にこそ、(仮に将来あるとして)核戦争勃発後の人類の本当の危機が存することを本書は私達に教えてくれる。

この「核の冬」にともなう太陽光遮断と地球の急速な寒冷化による「人類滅亡」に関する理論的考察は当然、人々に単に恐怖を煽(あお)るだけの無責任な「オカルト未来想定」の根拠なき予言めいたものではない。本新書の著者を始め、主に1980年代から「核の冬」理論を大々的に唱え始めた論者は、地球物理学や環境気候学が専門の科学者たちであるから、その主張は厳密な科学的理論の想定に基づいている。本新書にても、巻末に「付録」として「核の冬による地表の温度低下を概算する」という数値データの数式を用いて各ケース別に細かに分析予測した「地表の温度低下」の概算が、抄録の形で大まかではあるが収録されている。

核戦争勃発後の「核の冬」の警鐘に対し、それを疑問視し否定する反論意見(「仮に核戦争が勃発しても急速でそこまで極端異常な寒冷化の氷期には突入しない。想定予測の手法に問題があり非科学的で極度に悲観的すぎる」など)も昔から根強くある。こうした「核の冬」理論の信憑性や想定の是非について、私は専門の科学者ではないし、岩波新書の一読者として、本書を始めとして「核の冬」についての書籍を数冊読んでも、「もし仮にこの先の未来の世界で核戦争が起きるとして、これは想定予測の話であるから正直、仮にあるとして核戦争勃発後の地球の人類ならびに地球上の動植物や気候環境への影響に関し、現時点では誰も確かなことは何も言えないし、そう単純化して結論は出せない」の慎重な感慨を有する。だが、他方で「本新書で述べられているような核戦争後の地球にての『核の冬』到来は荒唐無稽な想定ではなく、あながちあり得るのでは!?」の思いも正直、持つ。

最後に、岩波新書の黄、ロワン=ロビンソン「核の冬」には直接に書かれていないが、本書を始め「核の冬」理論に接して議論や検討するに当たり押さえておかなければならないであろうこと、岩波新書「核の冬」を読んで私が気づいた事をいくつか挙げておく。

(1)核戦争勃発後の「核の冬」の想定が大々的に出てきてマスコミら人々の注目を集め出したのは1980年代からであり、「核の冬」は意外に新しい想定理論といえる。これには1980年代にアメリカとソ連の二大国による冷戦の核軍備の軍拡競争がいよいよ熾烈(しれつ)を極め、世界各国での米ソ両陣営に対する反軍拡・核核兵器廃絶の市民運動の高まりから、米ソ両大国の報復の核ミサイル撃ち合いによる全面的核戦争回避を訴える思想的な反核平和世論の強力な後押しが、科学的理論たる核戦争後の人類予測に関する「核の冬」理論を強力に支えている構造を見切るべきだ。「核戦争の勃発が最終的には地球上の人類を滅亡に導く」と明確に結論づける(「だからこそ現在、主要な大国は核兵器配備の軍拡競争たる冷戦体制の不毛な対立を即刻やめるべき」の議論にやがては至る)、かの「核の冬」理論は、実のところ反核平和の政治的主張を支える強力な科学理論根拠にもなっているのだ。

ゆえに思想的・政治的心情にて米ソ両国の冷戦構造下における軍拡競争を批判し核軍縮や核兵器の廃棄を訴える科学者や市民運動家は、「客観的な」政治的中立の立場を装いながらも、概して「核の冬」の科学理論を肯定し支持する傾向にある。他方、核兵器配備が一定の抑止力をもたらし、現時点での国際政治の「平和」に少なからず寄与できると目する核兵器保有の軍拡競争を是認する立場の科学者や政治家、核工学が専攻で核兵器の開発研究をなす者、また核兵器開発を推し進める国家や団体の政治的かつ経済的支配下にある研究機関の科学者たちは、反軍拡・核兵器廃絶世論に暗に支えられている「核の冬」の議論を、「荒唐無稽なありえない理論」「あまりに悲観的すぎる極端想定」などとして一笑に付したり、意地になって強力に反論・否定する傾向にある。

(2)核戦争勃発後の地球の気候環境や地球上の人類や生物への影響をまとめて総合的に判断し考察しようとする「核の冬」理論が表立って出てきたのは1980年代からと、これは意外に新しい想定理論であるが、このことに従来型の分野別に各専攻の科学者が個別に自身の専攻分野のみを研究するそれではなく、80年代以降の専攻分野の垣根を越えて各専門の知見を持ち寄り総合的に研究をなす「総合科学」成立の社会的動きを見ることができる。事実、「核の冬」理論の形成・精査に際しては、宇宙物理学や環境気候学や生物学ら、様々な分野の科学者が複数参加しているのである。

また「核の冬」理論は、「将来に核戦争が起こるとして、そのときの地球気候や人類や地球上生物に対しての影響」に関する「もし仮に起こるとしたら」の未来想定の話でしかなく、未だ発生していない科学的現象を事前に予測するのはそもそも相当に困難なことといえる。しかし1980年代以降、コンピューターの本格導入によるシュミレーションにて、大気循環や気候変動ら個別要素を分析した上でそれらの相互作用まで勘案し、最終的に一つの総合的なシュミレーションに落とし込んで予測モデルを立てる、そうした想定科学の技術手法が格段に進歩した現代の社会状況と研究環境整備の流れも理解しておきたい。「核の冬」の研究は2000年代以降の今日でも継続され、近年ではAI(人工知能コンピューター)の予測計算にて、「仮にインドとパキスタンの二国が核戦争に突入する限定核戦争が起これば、地表温度が2度から5度ほど低下する異常気象が最大10年間続き、世界的な食糧危機がおとずれる」とするシュミレーション報告(2019年)もある。

(3)地表での核爆発にて大量の土砂が空中に吹き上げられ長期に渡る灰と塵が充満の結果、太陽光が遮断さえ地表全体が極度の異常な寒冷化現象の氷期に至り、この現象により人類を含む地球上の動植物の全ての生物が活動・生存できず、ほぼ死に絶えるとする「核の冬」理論は、巨大隕石の地球衝突により、大規模火災が発生し、また地表の土砂が大量に巻き上げられ大気中に煙や粉塵が長期浮遊の結果、太陽光が遮断され急速な寒冷化が進み氷河期を迎えて地球上の恐竜が一気に絶滅に至ったとする、かつての恐竜絶滅に関する「隕石衝突説」をかなり参考にし、そこから発想やイメージの基本を膨(ふく)らませているようなフシが私には強く感じられた。岩波新書「核の冬」を始めとする「核の冬」予測の書籍をある程度、連続して読んでいると、特に「核の冬」の理論想定を肯定し積極的に唱える識者は、彼らは必ずしも自説の「核の冬」理論が恐竜絶滅に関する「隕石衝突説」の影響下にあることを明かしてはいないが(なかには両者のつながりの関連について絶対に触れず終始、強情に隠している著者もいるが)、「核の冬」提唱の論者には、同時に太古の恐竜絶滅に関する「隕石衝突説」の支持者も多くいて、その理論的影響を相当に受けている感触を私は持った。

「核戦争が起ると地球は急速に冷えて、氷河時代よりなお寒い『核の冬』が訪れる。文明は崩壊し、人類は絶滅するだろう。核先制攻撃や核シェルターなど一切の生残り戦略を無効にしたこの予測は、米ソの政治家や軍人に深刻な衝撃を与えた。二0世紀の黙示録=『核の冬』とは何か、その政治的・軍事的意味は何か、をやさしく説く」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(438)金田章裕「景観からよむ日本の歴史」

私はテレビといえば、せいぜいニュースと天気予報を毎日、軽く見る程度なのだが最近、面白くてよく視聴している番組があった。NHKの「ブラタモリ」(2008年─ )である。この番組は、歴史地理的な地形や景観に特化した散策ロケ番組で、開墾・干拓事業や街道・水路・護岸・橋の整備や寺院・城・官庁建物の配置、河川・池・坂道の形状や地質学に基づいた長年の地形変化などの知見を街歩きに盛り込んだ学術的な教養バラエティの要素があって面白い。散策する地域も昔の江戸の東京各地、日光、横浜、鎌倉、箱根、大坂、京都、奈良、出雲、博多、別府らの特集回がこれまでにあった。

毎回、タモリがNHKの女性アナウンサーと共に散策して、そこに歴史地理学や地質学の研究者や郷土史家が解説を便宜、加える案内人として参加し番組ロケは進む。その際にタモリに歴史学や地質学の専門的なことを尋ねて毎回、タモリがそれとなく正解を答えて、「さすがはタモリさん、よく分かっていらっしゃる」のような、タモリに尊敬の一目を置く番組雰囲気によくなる。確かに当番組を連続して視聴していると、タモリは歴史の細かな事象や地質学の専門的な事柄を割合よく知っているのである。

しかし、最近でこそお笑いタレントのタモリは、なかなかの高齢で、もはや芸能界のベテラン大御所であり、歴史地理にも詳しい教養ある文化人的な落ち着いた大人の好印象であるが、昔はこの人は「クレーム殺到の下品な低俗タレント」な振る舞いと世間一般からの認知で、なかなかヒドかったけどなぁ。私が子どもの頃の1970年代や80年代はタモリも壮年期の30代40代で、何かこの人は男が前面に出て異常にギラギラしていたし。当時、タモリは女性雑誌のランキングで「抱かれたくない男」の第1位によくなっていた(笑)。また「卓球をやっている人はネクラで陰気」とか、「名古屋は東京と大阪にはさまれた田舎で、名古屋弁はおかしい」など卓球や名古屋を馬鹿にして、くだらないことばかり言っていた。昔は下品な低俗タレントのイメージがあったけれど、最近はタモリもイメージチェンジして出世したよな(笑)。

さて岩波新書の赤、金田章裕「景観からよむ日本の歴史」(2020年)は、そんなタモリの「ブラタモリ」の番組を地で行くような歴史地理学の新書であり、内容もかの「ブラタモリ」の歴史地理に特化した街歩き散策のそれにどことなく似ている。近年、東京大学の二次試験の日本史論述でも鎌倉時代の古地図の図版史料を示し、そこから当時の荘園制と地頭支配や産業の発展を答えさせる論述問題があった(2001年度)。もしかしたら今、着実に来ているのか!?歴史地理学の人気で流行の波が。

「私たちが日ごろ何気なく目にする景観には、幾層にも歴史が積み重なっている。『景観史』を提唱してきた歴史地理学者が、写真や古地図を手がかりに、景観のなかに人々の営みの軌跡を探る。古都京都の変遷、古代の地域開発、中世の荘園支配、近世の城下町形成など各地の事例をよみとくその手法は、町歩きや旅の散策にも最適」(表紙カバー裏解説)

岩波新書「景観からよむ日本の歴史」は読んでそれなりに面白いが、あえて本書の難点を言わせてもらえるなら、まず取り上げる話題が古代の土地区画から中世の境界認識、近世の町村区画、近代の地籍図の話に至るまで、新書一冊の比較的制限された少ない紙数の内に多くトピックを詰め込み過ぎて歴史地理学の各話題にそこまで多くの字数を割(さ)いて深く論じていないため、読んで話が淡白で案外とりとめもない。読了しても、そこまで本新書中の各話題が強く印象に残らない。著者は新書一冊で、もう少し取り上げる話題を厳選吟味し少なくして掘り下げ、より深い所まで詳細な考察を披露してもよかったのではないか。

また本書を読んでいると、「景観史」という言葉は著者が造語して1998年に初めて自著タイトルに使ったとか、「景観史」における「景観」には、自然の営力でできた「自然景観」と、人の営力が加わった「文化景観」があり、さらに、それらとは別に「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」(文化財保護法による規定)という「文化的景観」もあるという。こうした「景観」をめぐる著者による非常に細かな、私には比較的どうでもよい(笑)、割合に些末(さまつ)な定義解説や、自分が「景観史」の用語を造語し最初に書名に使用して、やがてその定着普及に至ったとする「景観史」提唱に関する著者による「妙な実績自慢」「手柄の取りたがり」記述が正直、読んで鼻につくといったところか。

岩波新書「景観からよむ日本の歴史」の著者である金田章裕が「景観史」を提唱する前から、地理学の知見を利用して歴史を明らかにする、ないしは歴史学の知識から地理への理解を深める「歴史地理学」はあった。歴史地理学の学問は昔からあったのだ。以前に京都大学に歴史地理学専攻の藤岡謙二郎(1914─85年)という人がいた。私は大学時代、藤岡先生の直接の弟子筋に当たる人が担当した「歴史地理学」の講義を一年間、聴講したことがある。邪馬台国(所在地)論争や平城京の条坊制の古代土地区画の話、平安時代の京都の鴨川(賀茂川)の水量(水位)の話など今でも記憶に残っている。その時に「歴史地理学は面白い」の感慨を私は持ったのだった。

岩波新書の書評(437)広岡達朗「意識改革のすすめ」 野村克也「野村ノート」

(今回は岩波新書ではない、広岡達朗「意識改革のすすめ」、野村克也「野村ノート」についての文章を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、広岡「意識改革のすすめ」と野村「野村ノート」は岩波新書ではありません。)

「名将」といわれるプロ野球監督の書籍は、野球の事柄にとどまらす、一般的な上達法や指導法や組織論として学生の勉強法や社会人の仕事術にも幅広く適用でき、その種の野球書籍は読んで、なかなか刺激的で大変に参考になる。

今回は、現役時代は巨人でプレーし、引退後はヤクルトと西武の監督を務め両チームをリーグ優勝と日本シリーズ制覇の日本一に導いた広岡達朗、そして現役時代は南海と西武でプレーし、現役の時から南海にて選手兼任監督(プレイングマネージャー)を務め、引退後はヤクルトと阪神と楽天の監督をやりチームをリーグ優勝ならびに日本一に何度も導いた野村克也、彼らの野球論の書籍から野球以外でも私達の日常の勉強や仕事にも当てはまる教訓、いうなれば「人が正しく賢明に生き抜くための人生のコツ」の人生訓のようなものを抽出して、以下に明らかにしたい。私は日本のプロ野球や高校野球やメジャーリーグの野球観戦全般が好きなのだが、これらは私が広岡達朗や野村克也の野球論の書籍を読んで昔から「なるほど」と痛く納得し感心して自身の人生訓にして日々思い返し、出来る限り実践してみたいといつも考えていることなのである。

広岡達朗の野球書籍には「意識改革のすすめ」(1983年)や「勝者の方程式」(1988年)がある。広岡達朗は広島県呉市出身で、呉は昔は帝国海軍の軍事施設がある軍港であり、広島呉出身の広岡が指導する厳格規律の組織的野球は厳しい規律の軍隊組織を彷彿(ほうふつ)させ、「海軍野球」とも評されて一時期、話題となった(広岡の著書に「私の海軍式野球」1979年というのがある)。だからというわけでもないだろうが、広岡達朗の野球論の著書を読んでいると、帝国海軍大将で連合艦隊司令長官であった山本五十六の以下の言葉をよく引用し、それを選手を育てる指導者や組織を統率するリーダーのあるべき姿の心得として広岡は頻繁に語っている。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」

私は、広岡達朗の書籍を介して山本五十六のこの言葉を目にし、自分の中で反復する度に「なるほど」と思い知らされる。まず「やってみせ」である。最初に自分が「やってみせ」るのである。人に教えたり指示を出したりする場合、ただこちらから高圧的に「やれ」と命令するだけでは駄目なのである。それでは相手の心に届かず響かない。第一に自分が「やってみせ」て、模範の手本を相手に示さなければならない。また実際に「やってみせ」ることで、「この人は自身でも出来る実力ある優れた人なのだ。この人に是非とも教えてもらいたい、この人の命令指示なら何でも一生懸命に聞いて積極的にやろう」の、他者との間での信頼感の醸成、信頼関係の構築にもつながる。事実、広岡達朗は現役時代から遊撃手の守備が非常に上手い選手であって、広岡の守備指導は広岡自身が選手の前で実際に捕球の一連動作を「やってみせ」の指導であったという。何となれば「指導者は自身の身体で見本を示さなければならない」が広岡達朗の野球指導での持論であったのだ。

そうして実際に「やってみせ」選手に手本を示した後、今度は「言って聞かせて」である。ただのヤマ勘や感性の感覚や不毛な根性論ではなくて、しっかりとした筋道の通った合理的な理論の理屈の言葉で説明して、つまりは「言って聞かせて」指導や指示の道筋を出さなくてはいけない。それからやっと初めて相手に「させてみ」る。その上でさらに今度は「ほめてや」る。相手の努力や成果を肯定し認めるようにする。この場合、あからさまに、わざとらしく賞賛したり賛美する褒(ほ)めちぎりでなくてもよい。他者との比較ではなく、過去の自身と比べての上達具合の進歩を認めて「ほめて」あげる。また人によっては、ほめるよりも、あえて厳しく接して当人の反骨心を刺激し相手をノセる指導者としての機転の工夫も時にあるようである。この辺りの事も広岡達朗の書籍を連続して読んでいると頻繁に語られている(例えば西武の監督就任後、ベテランの田淵幸一や若手の石毛宏典に対し、広岡は罵倒し挑発し故意に厳しくして奮起を促し、他方で新人の工藤公康には優しく指導して伸ばす方針をとるなど、選手に応じ臨機応変に指導態度を変えていたという)。

以上のように、最初に「やってみせ」て、次に「言って聞かせて」、それから「させてみせ」、さらに最後に「ほめてや」る(ないしは故意に厳しくする)の順序を経て、初めて「人は動く」のであった。これは特に野球指導に限ったことではない。仕事遂行の上でも組織やグループをまわす際にも広く適用できる原理、人間社会での真理のようなものであると私は思う‥

野村克也の野球書籍には「一流の条件」(1986年)や「野村ノート」(2005年)がある。野村克也が志向する野球は「ID野球」と称され一時期、話題となった。野球の動作の際に常に考える、作戦を立てる、過去のデータを活用する、相手の裏をかいて駆け引きで勝つなど。それは従来ともすれば、全力で投げて打って走るだけの思考理論不在の力任せの野球(パワーベースボール)に対する「反」(アンチ)としてあった。また野村克也のID野球は、体力や技術で劣る弱いチームが強いチームに勝つための、いわば「弱者の兵法」としてもあった。

より具体的に言って野村のID野球は、例えば投手と捕手のバッテリーで打者を抑える際、また逆に打者がバッテリーを攻略する際に球種や球筋のコースを考え常に先をよみ予測して相手に勝つ、データや理論重視の頭脳野球である。野村克也の愛弟子にヤクルトで長年、正捕手を務めた古田敦也がいる。野村の著書を読んでいると古田の話はよく出てくる。野村らヤクルト首脳陣は当初「古田は守備の選手であり、打者として全く期待していなかった」という。その古田が打者としても開眼し、下位打線ではなく三番四番のクリーンナップを打ち、ついにはシーズンを通して首位打者にもなった。古田敦也はバッティング技術そのものが他選手よりも突出して優れていたわけではなく、彼は野村の指導の下で捕手の視点から配球で先を読んでヤマをはったり、相手バッテリーとの駆け引きで事前に勝っていた(例えばツーアウトでランナー不在の打席にて、明らかにヒット性の当たりを確実に打ち返せる自身の得意な球種・コースであるのにわざと大袈裟に空振りして「苦手な球筋、明らかにタイミングが合っていない」と思わせる「捨て打席」を事前に作り相手バッテリーをだましておいて、次にランナーがたまったチャンスの打席で、その球種・コースを再度、投げさせ今度はタイムリーを打って手堅く得点するなど、相手を欺(あざむ)く演技の高度な駆け引きのバッティングを古田敦也はよくやっていたという)。

野村克也の野球論の著書を読んでいて、野球人としてあるべき姿として、野村によればそれは「もとはインドのヒンズー教の教えからの引用で、東北のある住職が一部アレンジした」ということだが、次のような格言がよく語られる。私は、野村克也の書籍を介してこの言葉を目にし自分の中で反復する度に、これまた「なるほど」と思い知らされ毎度、感心させられるのであった。

「心が変われば意識が変わる。意識が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる」

これは儒教の朱子学における「修身、斉家、治国、平天下」(身を修め、家を斉(ととの)え、国を治め、天下を平(たい)らかにする)の言葉を思い起こさせる。国家を治めたり天下を平定する大事に臨み、いきなり「国」や「天下」のそこから始めず、まずは自身に関する「自己修養」の身の回りの小さなことから着実に成して、次に自分の「家」を整え、次第に「国」や「天下」の政治に及んで広く人々を救済する徳治の段階的発展を示すものだ。なるほど、徳治の政治過程が「一身─ 家─ 国─ 天下」と身近な小事から天下の大事へと徐々に段階的に移行している。儒教において、そもそも自己への「修身」をも満足になし得ない徳のない人が、他者を含む「家」や「国」や「天下」を治めることは不可能とされる。まさに「修己治人」(しゅうこちじん・「己を修めることによって人を治める」という儒教における道徳政治の理念)なのであった。

先に引用した野村克也の言葉もそれに似ている。いきなり自己の「運命」や「人生」を変えたりせずに、まずは自身の中にある自己の「心」や「意識」を見つめ直して変える小さなことから着実に始めて、次第にその「心」や「意識」の自己の内面の変化が「行動」や「習慣」となり定着し外部に自然と滲(にじ)み出て、その人の風格の「人格」を形成していき、そうすると形成確立された当人の揺るぎない「人格」が他の人や社会から認められて、遂にはその人の「運命」が変わり「人生」そのものまでもが変わるという趣旨である。ここにおいても自己の気付きの変化の成長の過程が「心─意識 ─行動─習慣─ 人格─運命─人生」と、即で瞬時に変更できる日常的な身近な「心」や「意識」の小事から、なかなか修正が困難な「運命」や「人生」の大事へと徐々に段階的に移行しているのだ。自身の普段よりの「心」や「意識」の根源から変えていかなければ、自己の「運命」や「人生」など到底、変わるべくもないのである。

これは「名将」といわれた野球監督、野村克也の金言として読んで私はいつも感心する他ない。とりあえず毎回、「心が変われば意識が変わる」から始めて「行動」と「習慣」を改め、せめて自身の「人格」を変え整える所まで何とか到達したいと常々、私は思っている次第である。

岩波新書の書評(436)細谷史代「シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり」

私は前からずっとやってみたくて昔、一回だけやったことがある。寿司屋に入り大トロを食べビールを飲みながら、詩人でありシベリア抑留帰還者であった石原吉郎の「望郷と海」(1972年)を読み返してみたかったのだ。誠に不遜(ふそん)で、亡くなった石原本人や石原吉郎の関係者からお叱(しか)りを受けるかもしれないが、一度はやってみたかった。そして、それをやった時のあの奇妙で複雑な心持ちの感触を一生涯、私は忘れることはないだろう。

石原吉郎は詩人であり、シベリア抑留帰還者であった。「シベリア抑留」に関しては、以下のように簡略にまとめることができる。第二次世界大戦の敗戦時、満州ら主に中国東北地域にて武装解除し投降した多くの日本軍捕虜は、ソビエト連邦からシベリアなどへ移送隔離され長期に渡る抑留生活と奴隷的強制労働を強いられた。このシベリア抑留により、多くの日本人がロシアの地で命を落とした。投降した日本人兵士は強制収容所(スターリン体制下にて、ソ連国内の政治犯や敵国の捕虜を囚人として収容し思想矯正を行う施設)に隔離収容され、満足な食事や休養も与えられず、極寒ロシアの極限の環境下にて材木伐採や鉄道敷設の苛酷労働を長期間に渡り強要されたのであった。

こうした強制収容所(ラーゲリ)での自身の苛酷体験を告白した「収容所文学(ラーゲリ文学)」とでもいうべきものが、かつてナチスのドイツ支配下にて弾圧を受けたユダヤ人や、旧ソ連のスターリン体制下にて「反革命分子」の政治犯として粛清(しゅくせい)された旧ソ連の人々らにより一時期、多く書かれ、非人道的な20世紀の人類の苛酷体験を記録した文学の一分野として後に確立した。詩人でシベリア抑留帰還者であった石原吉郎が復員後に書いた「望郷と海」も、日本人の手によるそのような収容所文学の代表的な名作であると言ってよい。

石原吉郎(1915─77年)は静岡県伊豆の生まれ。東京外国語大学ドイツ部に進学し、在学中はエスペラント語も学び、また詩作や批評の文芸にも励んだ。大学卒業後は民間企業に就職し、後に洗礼を受けキリスト者になっている。そして1939年に応召され帝国陸軍に入隊。石原は外国語大学卒業の経歴から語学優秀であり、ロシア語が出来たため対ソ諜報でハルピンの関東軍情報部に配属される。その後、1945年8月、石原吉郎は29歳の時にハルピンにて日本の敗戦を迎え、同年に石原はソ連軍により逮捕。日本への帰国は許されず、そのままロシアに移送され、多くの日本人捕虜と同様、石原もシベリア抑留にて収容所に拘束され強制労働を余儀なくされる。ただ石原吉郎はロシア語通訳として関東軍情報部に所属していたことから、スパイ罪の戦犯として「有罪」宣告の上での懲役刑の強制労働であった。ゆえに一般の日本人抑留者は戦争捕虜に準じる扱いを受けていたが、スパイ罪の戦犯で懲役刑に処されていた石原の待遇は、通常のシベリア抑留者よりも厳しかったようである。だが、他方で石原はロシア語が出来たため、日本人グループの代表となって監視のソ連兵と交渉の末、収容所内での句会の文化活動なども率先し行った。

そうして1953年12月、石原吉郎はついに復員した。日本の敗戦の1945年からロシアに強制移送され抑留で留め置かれ強制労働に従事させられて、すでに八年の年月が経っていた。今日「詩人・石原吉郎」の名は私達に広く知られているが、日本に帰国当初の石原は当時、大勢いたシベリア抑留帰還者の内の無名の一人でしかないのであって、他の抑留帰還者同様、石原も職を探せど敗戦後の混乱の中で見つからず。ロシア語を始め語学が出来たことから、通訳・翻訳の職種での事務職を見つけるも、当の石原吉郎からすれば「自分が就職し、自分が職場で頭角を現した代わりに同僚が馘首(かくしゅ)され失職する。そのように他人を押しのけてまで自身の職を得たくはない」旨から自主的に退職してしまう。肉体労働に関しては「身体的に働けはするが、かつてのシベリア抑留時の苛酷な屋外労働の記憶が思い起こされ精神的に苦痛で肉体労働そのものに激しい嫌悪を抱く」旨の理由から長期に渡り就労できず。もうこれは、かつてベトナム戦争や湾岸戦争に従軍した米国兵士の間で近年、大きな社会的問題になっている戦争帰還兵に特有の精神的外傷(ストレス)による社会復帰が困難な社会不適応病例の典型症状である。専門の医療従事者による投薬治療やカウンセリング、ならびに国による経済面での公的援助の物心両面からの支援を要する深刻な事態に他ならない。ところが、戦後日本の多くのシベリア抑留帰還者と同様、石原吉郎も戦争の後遺症に人知れず苦しみ、日本の戦後社会の中で新たな時代の流れに乗れず、疎外され孤立していた。

そこで生活のために詩作を始めて懸賞投稿し、またシベリア抑留の自身の苛酷体験も文筆して、それが戦後の日本文学文壇や出版編集者や一般読者に注目され認められる。詩人であり、シベリア抑留帰還者であった石原吉郎の文学的名声は日に日に高まっていった。しかし当の石原本人は、かつてのロシアでの抑留体験を書くことが苦痛で仕方がない。執筆の度に石原は足裏に血豆ができ、それがつぶれて足が血だらけになるまで歩き続けたり、日々飲酒していないと自身の精神を保つことが出来ないような、ほぼアルコール中毒に近い状態になっていた。食事も取らず深酒し、体調を崩して入退院を繰り返す石原へ、知人からの「とにかく酒を断って生きなくちゃいけない」の説得に対し、「生きて、どうすればいいの」と晩年の石原吉郎は答えたという。もう肉体的にも精神的にも相当に疲弊して、追い詰められたギリギリの状態にまで石原は来ていた。

1977年11月、石原は自宅の浴槽で亡くなっているのを、電話に出ないことを心配した知人の訪問により発見される。発見された時、石原は死後一日以上経過していた。飲酒した上で風呂に入ったことが原因の急性心不全とみられている。62歳没。石原吉郎には最期まで苦しい苛酷な人生であった。

以前に石原吉郎「望郷と海」を初めて読んだ時の、生と死の人間実存を考えさせられ心をわし掴(づか)みにされて震撼するような、あの衝撃を私は忘れることができない。石原「望郷と海」は、昔は高校の現代文教科書に教材として載っていた。高校の国語教科書に掲載されていたのは、石原「望郷と海」の「確認されない死のなかで」の部分であったと記憶している。なるほど、石原吉郎「望郷と海」の中でも最良の本当に最高な読み所の箇所を抜粋し掲載している。教科書編集者の抜粋選択眼は非常に確かで優れている。「確認されない死のなかで」の、あの「胴がねじ切れたまま営倉に無造作に放置されている一人のルーマニア人の死体」の衝撃光景の描写はとても印象深く、石原「望郷と海」の幾つかあるクライマックスの読み所のヤマの内の一つではある。

石原吉郎「望郷と海」に関しては、極寒ロシアの強制収容所内での寒さ、飢え、極度の疲労、それに糞尿と嘔吐物にまみれた、人間の尊厳など微塵(みじん)も認められない苛酷な生活環境と強制労働のシベリア抑留体験に加えて、石原がシベリア抑留の厳しい強制労働環境の中で生き延び、ロシアから日本へつながる「海」を日々眺めては日本への引き揚げの「望郷」の思いを重ね、ついに念願かなって日本へ帰国した後、日本の親族たちから彼はどのような仕打ちを受けたのか。旧ソ連共産党の「アカの手先」と疑われ、親族から絶縁を突き付けられる石原吉郎「望郷と海」における苛烈な「望郷」の結末を、私は多くの戦後の日本人に知ってもらいたい。石原にとって誠に辛(つら)かったであろう「望郷」の結末に、「望郷と海」を読み返し石原吉郎のことを思うとき、いつも私は心痛むのである。

岩波新書の書評(435)廣瀬健二「少年法入門」

私は法学部出身ではないし、法律をそこまで専門的に学んだことはないので、日本における主要な6つの法律である「六法」のうちの刑法(犯罪に対する刑罰を定めた法律)と刑事訴訟法(刑事手続について定めた法律)に対し、それほど詳しく知っているわけではない。しかし社会人として刑法や刑事裁判について、さらにはそれら法律の背後に通底し法律を支えている近代的な「法の精神」とでもいうべきものに関して、それなりの常識的な知識と理解は有している。

そんな法律全般に専門外な私でも、テレビや雑誌などで流れる刑罰と刑事裁判についてのメディアの意見や世論の動きに驚き、思わず眉をひそめてしまう事がある。以前に私が相当に驚いたのは、光市母子殺害事件(1999年)をめぐり、当時よりタレント活動していた弁護士、後にある地方行政の長の政治家にもなったその弁護士がとあるテレビ番組で、被告を弁護する弁護団の弁論内容を批判し、被告弁護団の懲戒請求を一斉に弁護士会に出すよう視聴者に広く呼びかけ結果、多くの懲戒請求が殺到した事件(光市母子殺害事件弁護団懲戒請求事件・2007年)であった。

これは法を学び法律や裁判に関する知識を持ち、それら法を解釈し法を運用して主に法廷にて活動している弁護士ら、法曹関係者(裁判官、検察官および弁護士)として到底あり得ない許しがたい言動だ。このタレント弁護士は公的裁判制度や法律全般について何ら本質的なことを知らないのでは、の背筋が凍(こお)るような恐怖の思いが私はした。

裁判にて、どれほど重大犯罪を犯し逮捕・起訴されている被告でも必ず弁護団は付くし、その弁護団は被告を弁護し、無罪や減刑や情状酌量を法廷にて主張する弁護活動が認められる。そういった被告への弁護活動は裁判にて被告の権利として明確に保障されている。たとえ弁護団の弁論が法廷戦術としてあり、荒唐無稽で辻褄(つじつま)の合わない非合理なものであっても、被害者遺族を激怒させ遺族感情を逆なでするようなものであったとしても。そうでなければ、弁護がない被告となれば、検察と傍聴遺族と出廷参考人と法廷外の世論から一方的な袋叩きにあう集団リンチの吊(つる)し上げ裁判になってしまうからだ。

ゆえに弁護団は、時に精神鑑定を要求して被告の責任能力の有無を問うたり、犯行時の心神耗弱状態を主張したり、犯罪に至るまでの被告の不幸な生い立ちや厳しい生活環境を指摘して減刑や情状酌量を求めたりする。仮に地裁で死刑の極刑判決が出れば、死刑が回避されるよう高裁に控訴、さらには最高裁に上告するよう弁護団は被告に勧める。犯罪捜査や逮捕や刑事事件起訴の全ての過程で、被疑者には黙秘権(自分が供述したくない自身にとって不利益となる事柄は沈黙できる権利。および、その沈黙を理由に不利益を受けない権利)が保障されている。刑事裁判の被告にも尊重され認められるべき権利は当然あって、それらは被告に法的に保障されてあるのだ。

被告人の弁護という弁護団の職責を強制排除し、法廷における被告の弁護される権利を侵害することは絶対に許されない。たとえ被告の弁護団の弁論が法廷戦術としてあり、荒唐無稽で辻褄の合わない非合理なもので、かつ被害者遺族を激怒させ遺族感情を逆なでするようなものであったとしても、その弁論内容によって被告弁護団を無理矢理に黙らせたり、法廷から強制的に排除したりすることは出来ないし、そうしたことは許されない(絶対にやってはいけない)。弁護団の弁論内容が妥当かどうかの判断は、法廷外からの一般市民の弁護団に対する懲戒請求によるのではなく、法廷の中で最後に裁判官により結審時に判決と共に判断されるべきものである。

刑事裁判は、被害者当人や被害者遺族の無念を晴らすための単なる復讐の敵討(かたきう)ちではない。また明白に犯罪を犯した被告に対し、一般社会の人々が憎悪し他罰感情を爆発させ処罰して結果、「正義」の遂行に満足するものでもない。そうした被告に対する激しい怒りや他罰感情を爆発させ上からガツンとやって被告を叩いて厳しく罰すれば、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)で溜飲(りゅういん)が下がり良いかもしれないが、本来の刑事裁判とはそのような単純なものではない。犯罪被害者や被害者遺族の怒り、復讐で敵討ちしたい気持ちはもっともであるけれども、それは裁判にて最終的に判決の判断を出すための多くある内の、全体の中でのあくまでも一つの要素でしかない。様々にある内の犯罪被害者や被害者遺族の怒りの復讐感情だけで全て判断処理されてしまえば、「目には目を、歯には歯を」の敵討ちが内実の「報復裁判」になってしまう。そうした被害者遺族の感情立場も踏まえながら、同時に他方で犯罪を犯してしまった加害者当人の精神状態や性格資質や生い立ち事情らを考慮しなければならないし、また犯行の背景にある現代社会の問題など総合的に勘案して司法判決は法廷にて厳粛(げんしゅく)に下されなければならない。

最近では起訴する側の検察が法廷にて、「被害者本人と残された遺族の無念は計り知れない」などの文言を付して一律に厳罰を求めたりするが、あれは検察の思い上がりでしかなく、裁判における司法判断は被害者遺族の無念を晴らすためだけにあるのではない。他にも様々に総合的に考慮するべき要素が存在する。

このことでいえば、前述の光市母子殺害事件にて、被害者遺族が法廷外で連日マスコミ取材を受け、母子の遺影を携(たずさ)え涙ながらに死刑の極刑を執拗に訴えたりするのは、明らかにおかしい。特に陪審員や裁判員制度(民間から無作為で選ばれた陪審員や裁判員が合議体の評議により司法判断を出す制度)がある場合、大量にマスコミ露出した被害者遺族の復讐世論形成に扇動(せんどう)される形で、裁判での司法判断が暗に左右されてしまう可能性があるからだ。近年でいえば東池袋自動車暴走死傷事故(2019年)にて、母子を亡くした被害者遺族が連日メデイアに頻繁に登場し、母子の遺影を携え生前の母子の動画を公開して被告への厳罰を執拗に訴えるその姿に、かつての光市母子殺害事件にての法廷外でのマスコミを利用した被害者遺族による復讐世論扇動の危うさと同様のものを私は感じ、憂慮せずにはいられなかった。

先に述べた、「犯罪被害者や被害者遺族の怒り、復讐で敵討ちしたい気持ちはもっともであるけれども、それは裁判にて最終的に判決の判断を出すための多々ある内の、全体の中でのあくまでも一つの要素でしかない。そうした被害者遺族の感情立場も踏まえながら、同時に他方で犯罪を犯してしまった加害者当人の精神資質や生い立ち環境らを考慮しなければならないし、また犯行の背景にある現代社会の問題など総合的に勘案して司法判決は法廷にて厳粛に下されなければならない」旨で、特に被告が犯行当時20歳未満の未成年であった場合、その裁判判決に際しては格別の配慮を要する。被告がまだ10代の未成年であれば、当人の精神疾患の履歴や責任能力の有無、社会経験が少なく人格的に未熟である事情、直近の家庭での生育環境などが特に考慮され、総合的に司法判断されなければいけない。

少年法とは、未成年の者に関する刑事訴訟法の特則を規定した法律である。少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、未成年であることを踏まえて保護更生のための処置を下すことを規定している。その際には不定期刑や量刑緩和などの一定の配慮が求められている。未成年は年令若くまだ発育途上で人格的に未熟であり、成人同様に罰するのは不合理だからである。しかし、近年では犯罪の低年齢化と凶悪化という傾向を受けて、刑事処分の可能年齢の引き下げという厳罰化の方向での少年法改正や、遂には少年法そのものの廃止(「未成年だからといって少年法により刑罰に手心を加え制裁を軽くすると、該当の青少年が増長する」)という相当に雑な議論まで時に出ている。

「少年法があるため、これくらいの犯罪を犯しても死刑の極刑にはならない。不定期刑ですぐに社会復帰できる」と見越して、犯罪に手を染める不遜(ふそん)な未成年者も一部いる。これは成人への刑事裁判判決で過去判例に基づく永山基準(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を知って、「最悪、逮捕されても死刑判決は出ない」と前もって踏んで犯行に及ぶ成人の事例と同じだ。だが、日本の裁判制度は昔から判例主義の前例主義であって、過去の判例との整合性も考慮されなければならないので、そういった輩(やから)に過剰反応し、「刑罰が軽いと犯罪者にナメられて増長される」云々で少年法を始めとして果てしなくあらゆる法の厳罰化を進めていくというのは、「相手にナメられたら終わり」のチンピラ思考に他ならないのであるから今日、少年法を含め刑事処分の厳罰化に安易に乗り出すことに私は反対である。刑法の厳罰化が、そのまま犯罪抑止につながるかの議論は昔からされているが、法の厳罰化が犯罪抑止には必ずしもつながらないの見解指摘は法律の専門家にて事実、多くある。

岩波新書の書評(434)今野真二「『広辞苑』をよむ」

「広辞苑(こうじえん)」は、日本語国語辞典である。もともとは戦前昭和より言語学者の新村出(しんむら・いずる)が国語辞典の執筆をやっていて、当初は博文館という出版社から「辞苑(じえん)」という書名の辞書を出していたが、戦後に今後の日本語文化を担う重要な一大出版事業と国語辞典編纂(へんさん)が目され、敗戦当時、比較的大手出版社であった岩波書店に従前の新村出の辞書作成の改訂作業が引き継がれた。その際、より幅広く多くの日本語を収録した新編集版の意味を込め、かつての「辞苑」に「広」の文字を頭に加えて「広辞苑」となったのであった。

「広辞苑」の初版は1955年、収録内容の改訂を後に重ね、現時点(2021年)での最新版は2018年発行の第七版となる。「広辞苑」は、基本の日用使いから高等な学術にも耐えうる硬派で真面目な日本語国語辞典であるが、時に時代の流行語や新造語や乱れた日本語の若者言葉も改訂の度に新たに収録したりするので、そうした時代の流行語や若者言葉が辞書に載り人々に驚かれてニュースとなったり、新語として「広辞苑」に掲載されると、その言葉の関係者や業界団体が喜んだりする社会現象も巻き起こした。

岩波新書の赤、今野真二「『広辞苑』をよむ」(2019年)は、そういった「広辞苑」の国語辞典をタイトル通り「よむ」という内容の新書である。著者は国語辞典の「広辞苑」は「バランスのとれた小宇宙」であるという。本書では、「広辞苑」の凡例(書物のはじめに掲げる、その書物の編集方針や利用のしかたなどに関する箇条書。例言)をじっくり読む、語源に遡(さかのぼ)って読む、同じ「広辞苑」でも旧版と新版における語釈の相違を読む、中型辞書である小学館「大辞泉」(1995年初版)と三省堂「大辞林」(1988年初版)と岩波書店「広辞苑」との読み比べ、さらには大型辞書の小学館「日本国語大辞典」全二十巻(1972年初版)と「広辞苑」の対照などが行われている。

通常、国語辞典は、ある文章を読んでいて自分が分からない言葉に出くわした際に辞書を開いて意味を調べる「困った時に辞書を引く」用途がほとんどだ。少なくとも私はそうである。書籍を読んでいて分からない言葉が出てきたら国語辞典を開いて意味を調べる。ところが本書は、最初から「広辞苑」の国語辞典を読んで、そこで様々な日本語の意味や用法に触れ、新たな発見をして日本語と共に「広辞苑」という国語辞典そのものを積極的に楽しむという趣向が新しく、そういった「国語辞典活用の新たな楽しみ方のすすめ」とでもいうべき所が本新書の目玉であり、ウリである。

「広辞苑」の活用や楽しみ方に関しては、例えばクロスワードパズルの問題作成者が本辞書を参考にしてクイズ作成したり、逆にクロスワードパズルを解く人が「広辞苑」を利用し解答を探したり、また「広辞苑」に掲載の、ある言葉の語釈本文をヒントで出して、何の語か見出し言葉を当てる「広辞苑クイズ」なる遊びも昨今ではあるらしい。

岩波新書の赤、今野真二「『広辞苑』をよむ」を一読して、私は「なるほど、こういう国語辞典の読み方、楽しみ方もあるな」の無難な軽い感想である。それよりも本新書に関しては、すでに同じ趣向の書籍が他社新書から以前に出されている。文藝春秋の文春新書、柳瀬尚紀「広辞苑を読む」(1999年)である。こちらの方が後出の岩波新書の今野真二「『広辞苑』をよむ」よりも数十年早く、しかも書籍タイトルが全く同じである(ただ題名表記が微妙に異なるのみだ)。「広辞苑」は岩波書店から出されているのに、自社出版の「広辞苑」に関する読み物企画の新書を他社新書に先に出されての後追いとは、「岩波新書編集部も下手(へた)を打ったな」の思いが本新書に対し正直、私はした。

「使いながら必要以上にいろいろなことを考える。しょっちゅう脱線。それが辞書を『よむ』ということだ。ことばを愛してやまない日本語学者が、真剣に、マニアックに、ときに遊び心たっぷりに、『広辞苑』をすみずみまでよむ!こんな辞書なのか。こんな使い方があるのか。え、辞書で遊ぶ? ようこそ、ことばの小宇宙へ」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(433)兼子仁「国民の教育権」

岩波新書の青、兼子仁「国民の教育権」(1971年)は、日本国憲法や教育基本法ら法的理念から、現実の教育をめぐる理念浸透具合の不足ならびに明らかに間違った方向への反動誘導の弊害を、実際の学校現場の問題や教育「改革」の政治の誤りとして指摘していく、いわゆる「教育時事」の新書だ。

本書で主に問題にされているのは、教員の勤務評定、全国学力テストの実施、学校行事における「君が代」斉唱「日の丸」掲揚の義務(強制)化、国による教科書検定制度、私立学校における教育の自由と公的補助のあり方、在日外国人学校に対する教育の自由の保障、大学における教育自治、教育委員会の公選から任命制への移行問題、教育基本法改正の問題などである。1971年初版の本新書は1970年代の教育時事をほぼ網羅しており、私はまだ生まれておらず当時のことをリアルタイムで知らないが、後に読んでこの時代の教育をめぐる社会世相の雰囲気を如実に感じることができる。

岩波新書「国民の教育権」の読み味は、同じ岩波新書でいえば、後の「教育とは何かを問い続けて」のそれに似ている。岩波新書の大田堯(おおた・たかし)「教育とは何かを問い続けて」(1983年)は1983年初版であり、本書は80年代の教育時事をこれまたほぼ網羅していて、本書を読んで1980年代の日本の教育をめぐる社会的世相の雰囲気を感得できる。1980年代の大田「教育とは何かを問い続けて」では、1970年代の兼子「国民の教育権」にはない教育行政以外での児童・青年側からの問題、例えば学校内でのいじめや青少年の不良化(シンナー、万引、暴走族など)や校内暴力らが1980年代には深刻に教育現場の学校に露出していることも示しており、そこが同じ教育時事を扱った新書であっても前の時代の兼子の著書とは異なる注目の点だ。

日本国憲法や教育基本法ら法的理念から見た、現実の教育をめぐる理念浸透具合の不足や明らかに間違った方向への反動誘導の弊害を、実際の学校現場の問題や教育「改革」の誤りとして指摘していく「教育時事」は、それら問題がただ漠然とどこからともなく自然に生じてくるのではない。そうした不足の教育行政や明らかに誤った反動的な教育「改革」は、時の内閣や政権与党から強制的になされるのが常であるから、教育時事を論ずる場合、特に戦後日本の教育問題を述べるに際しては、当時の歴代の自民党保守内閣と政権与党であった自民党の教育政策に対する批判や苦言や修正要求の提言となる。事実、岩波新書「国民の教育権」も、以前の自民党保守政権たる岸信介内閣における「教員の勤務評定」への痛烈批判から筆を起こし冒頭に書いている。「教員の勤務評定」(1958年)は、岸内閣にて「警察官職務執行法」(1958年)と共に出された二大国民統制法案であり、「教員の勤務評定」は学校現場での教職員の組合運動活動の抑え込みを「教員に対する勤務評定」の無言の圧力にてはかる、時の政府が日教組(日本教職員組)を標的にした、あからさまな組合潰(つぶ)しの政策であった。そうして岸内閣での「教員の勤務評定」は教育現場での激しい反対闘争にあい、「警察官職務執行法」と共に当時、廃案となったのであった。

1971年初版の岩波新書「国民の教育権」を今日改めて読み返してみると、本書にて問題とされ批判・反対されていた歴代の自民党内閣が推し進める教育政策が、たとえ廃案となっても、後に継続して国会に法案提出され、ちょうど世論が当法案に無理解であったり国民全体の無関心が広がった隙(すき)を突いて、大きな世論形成や国民的議論の背景なく、どさくさにまぎれ誠に絶妙な時宜(タイミング)で教育をめぐる明らかに誤った反動復古的な数々の教育政策が特に2000年代以降の自民党政権下にて連続して成立していることに私は驚く。本新書を1970年代に執筆した著書も、2000年代以降の教育行政をめぐるこの深刻な反動復古の事態は予測できなかったに違いない。そのことを思うと1970年代に出された岩波新書「国民の教育権」を2000年代以降に読んで、私は考えさせられて非常に暗くて重い悲観的な憂鬱(ゆううつ)な気分になるのであった。

以下では、本新書にて様々に取り上げられている数々の教育問題の中で教育基本法改正の教育時事について、本書には書かれざる2000年代以降のこの問題帰結にまで触れ、私なりに述べてみたい。教育基本法改正の問題は、本書では「Ⅴ・教師の教育権の独立」の中の「1・教育基本法一0条が禁ずる教育への 『不当な支配』」にて論述されている。

教育基本法は戦後の1947年3月に制定され、その法制定の趣旨は1946年11月に公布されて翌47年5月に施行された日本国憲法に合致し、教育基本法は日本国憲法に従いその法的根拠の下にあるものである。教育基本法の前文には「ここに、日本国憲法の精神に則(のっと)り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」とあり、その制定の趣旨は日本国憲法と一致し、確かに教育基本法は日本国憲法の法的根拠の下にあった。

それは当たり前で、近代国家における立憲主義では憲法が最高法規であるから、あらゆる各種法律は憲法の法的趣旨に従い、その法的根拠の下にあるのであって、各種の法は法制定の趣旨や法解釈や法の運用において憲法と矛盾や乖離(かいり)があってはならない。

1947年3月制定の教育基本法・第10条の「教育行政」の条文は以下である。

教育行政(第10条)「教育は、不当な支配に服することなく国民全体に直接責任をもって行われることを規定し、教育行政の目標は、教育に必要な諸条件の整備確立とされている」

この教育基本法の第10条の法規的読み方はこうだ。教育法学界の通説によれば、当第10条にて「教育への不当な支配」が禁じられるのは教育活動の自主性を保障するためである。したがって政治勢力が教育を支配することは全てよろしくないが、なかでも国による教育行政が法的拘束力をもって教育活動を統制することは明らかに「教育への不当な支配」に当たる、とする。何だか遠回しな回りくどい言い方だが、より分かりやすく平たく言えば、教育基本法(1947年3月制定)は直近の日本国憲法(1946年11月公布、1947年5月施行)における個人の基本的人権の尊重原則を踏まえ、それに準ずるものであり、教育基本法制定の直後に戦前よりあった「教育勅語の失効」(1948年6月)の議決が国会でなされていることから、本法第10条にての「教育への不当な支配」というのは、戦前日本での教育勅語の発布(1890年)に見られるような、国家による個人への国家主義的ないしは軍国主義教育の強制の政治的圧力を意味すると解釈するのだ妥当だ。

事実、戦後の教育基本法制定時、教育行政の長であった文部大臣の田中耕太郎は次のように述べて、本法第10条に関し、戦前の国による「軍国主義及び極端な国家主義的教育の跳梁(ちょうりょう)」に対する批判と反省とを踏まえ、条文中にある「教育への不当な支配」とは、時の政府の国家による行政的権力支配の行使と地方行政による官僚的支配の不当な政治的干渉であると明確に断定していた。また国会答弁で後の歴代文部大臣も複数人が、これと同様な法的解釈を政府の公的立場として明言している。

「従来の我が国における教育は或いは政治的に或いは行政的に不当な干渉の下に呻吟(しんぎん)し、教育者はその結果卑屈になり、教育全体が萎縮し歪曲せられ、その結果軍国主義及び極端な国家主義的の跳梁(ちょうりょう)を招来するに至ったのである。…教育は政治的干渉より守られなければならぬとともに、官僚的支配に対しても保護せられなければならない。…教育者の使命たるや本来宗教家、学者、芸術家等のそれと性質を同じうして居り、従って官公吏たる教員と雖(いえど)も、上級下級の行政官庁の命令系統の中に編入せらるべきものではない。かような趣旨からして、教育基本法第十条は、教育行政の根本方針を規定している。教育は不当な行政的権力的支配に服せしめられるべきではない」(田中耕太郎「新憲法と文化」1948年)

ところが、本法第10条の「教育への不当な支配」をめぐる法解釈は、後に文部省により「国や地方公共団体による行政的権力支配ではなくて、政党・組合などによる独善的な支配」とその解釈内容が全く別のものに言い換えられてしまう。例えば以下のように。

「国民に主権を与え、国民全体に責任を負う民主主義の政治体制をとる限り、国会に置いて立法上認められた範囲内における行政上の支配は第十条が不当な支配であると否定しているものではないであろう。むしろ、教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような、政党・組合などによる独善的な支配であると考えられる」(文部省地方課法令研究会「新学校管理読本」)

教育基本法第10条での「教育への不当な支配」というのは、戦前日本の教育勅語体制に見られるような、時の政府の国家による個人への国家主義的ないしは軍国主義教育の強制の政治的圧力を意味し、そうした国家による行政的権力支配の行使と地方行政による官僚的支配の不当な政治的干渉を「教育への不当な支配」の禁止として、多分に警戒し弊害視するものであった。だが、後の文部省当局の行政解釈によると、「むしろ、教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような、政党・組合などによる独善的な支配であると考えられる」と全く別の意味に言い換えられてしまっている。

ここでは「教育への不当な支配」をなす主体は、国家とその中央の国から命令を受けた各地方官庁ではなくて、ゆえにかつての文部大臣が公式に国会答弁にて示した戦前の国家主義や軍国主義への反省に基づく、国家と官僚が主体の「教育への不当な支配」からの教育行政の保護ではなく、国家と地方行政以外の政党と組合なのである。国と地方官庁は「教育への不当な支配」をなす者から明白に外され、その主体と全く見なされていない。文部省当局による「教育基本法が否定しようとする不当な支配とは、国民全体に対し責任を負えないような政党・組合などによる独善的な支配」とされる場合の「政党と組合」は、文部省の法解釈では国と地方官庁は「教育への不当な支配」をなす者からすでに明確に外されているのであるから、より厳密に言って国(内閣と政権与党)以外の、野党と教育現場の教職員組合(日教組ら)になってしまう。

こういった教育基本法第10条「教育行政」の「教育への不当な支配」の主体は誰かをめぐる法解釈での意味ズラしの言い換えは、内閣政府や地方官庁による立法の政治的権限や行政の上からの命令に対し、異議を唱えたり反対したりする、国民世論に支えられた野党政党の民意や学校現場での教職員組合の運動の方を「教育への不当な支配」と見なして排除し、他方「教育への不当な支配」をなす者からあらかじめ周到に外されている国と地方官庁は、まさに戦前のようにそのまま教育行政への政治的干渉や介入指導の命令を強権的に発動し遂行できてしまう。戦前の国家主義や軍国主義への反省に基づいた、国家と官僚が主体の「教育への不当な支配」からの教育行政の保護という本来の戦後の教育基本法の理念の全くの逆を行く、むしろそのまま国家が教育行政に万能自由に独善的に政治的干渉にて振るまうことができる戦前回帰の、戦後の教育基本法における制定当初の教育行政理念を完全に捻(ね)じ曲げた法解釈と法律運用の理解である。

そうして教育基本法第10条の「教育への不当な支配」の法的解釈をめぐる相違の問題は続き、2006年自民党と公明党の保守連立政権である安倍晋三内閣下にて、教育基本法は遂に改正される。改正後の新たな教育基本法の「教育行政」の条文は以下である。

教育行政(第16条)「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」

改正後の教育基本法「教育行政」の条文を読めば、「教育は、不当な支配に服することなく」となっているが、続いて「教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」とあることから、「適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行」う行政推進の主体と定められている国と地方公共団体は、「教育への不当な支配」をなす者から最初から周到に外されている。むしろ「教育への不当な支配」をなす者として暗に想定されているのは、本条文には必ずしも直接に明記されていないが、「国と地方公共団体とによる適切な役割分担」から外部に押しやられて疎外された、国である内閣と政権与党以外の野党政党と教育現場の教職員組合である。改正後の教育基本法の「教育行政」条文は、前述のかつての文部省地方課法令研究会「新学校管理読本」における「教育行政」にての「教育への不当な支配」に関する法解釈を、そのまま踏襲している。

そして、この教育基本法改正が巧妙で相当に悪質だと思えるのは、旧教育基本法の第10条での「教育への不当な支配」についての法的解釈をめぐる前史を知らない国民には、「教育への不当な支配」とは誰であるのか必ずしも明記していないため分からず、「教育への不当な支配」を暗に野党政党と現場の教職員組合と想定し彼らを排除して、かつ国家が教育行政を独占し独善的に進めることを是とする、その法改正の真意が教育時事への問題意識や知識がない人々に対し見事に隠されていることだ。加えて、改正後の教育基本法には「国を愛する心」や「伝統の尊重」の条項があり、本法を通してかつての戦前の教育勅語のような国家による国家主義的教育の上からの注入の行政的権力支配の行使と地方官庁による官僚的支配の政治的干渉たる「教育への不当な支配」が、そのまま本法制にて自足して能天気に実現されてしまっているという皮肉なのであった。

岩波新書の青、兼子仁「国民の教育権」にて取り上げられている本書執筆時の1970年代の様々な教育時事の問題は、その後の展開も含めて追跡して見守り真摯(しんし)に考えられるべき教育問題である。そのことは、ここで取り上げた教育基本法第10条における「教育への不当な支配」をめぐる法的解釈と後の教育基本法改正の一連の過程を注視しただけでも、その問題の大きさが理解できる。本新書を足がかりとして本書には書かれざる後にまで至る教育時事の各トピックを追跡し、日本の教育問題について今日、各自が深く考えていくことが切に求められている。

岩波新書の書評(432)田中美知太郎「ソクラテス」

前から私は岩波新書の田中美知太郎「ソクラテス」(1957年)、同岩波新書の斎藤忍随「プラトン」(1972年)、同岩波新書の山本光雄「アリストテレス」(1977年)の三冊を自室の書棚に並べ折に触れて眺めたり、各新書を日々読み返しては悦(えつ)に入り、満足していたことがあった。

言うまでもなく、これら岩波新書の各書タイトルとなっているのは古代ギリシアの哲学者たちである。ソクラテスはプラトンの師でプラトンはソクラテスの弟子であり、ソクラテスの弟子であったプラトンはアリストテレスの師でアリストテレスはプラトンの弟子であり、またアリストテレスはソクラテスの孫弟子にあたるのだった。「ソクラテス─プラトン─アリストテレス」の三人の古代ギリシアの哲学者らの連続した並びが、昔から私には相当に魅力的で眩(まぶ)しく輝いて見えるのだ。

今回は岩波新書の青、田中美知太郎「ソクラテス」について書いてみる。ソクラテスは自身の著作を残さなかった。だから後にソクラテスについて知れるのは、弟子のプラトンの対話篇か、あるいはクセノフォンの「回想録」の史料しかない。岩波新書「ソクラテス」は、そのように実証史料が極めて少ない制約ある中で、序章で「何をどこまで知ることができるか」にてソクラテス記述の現代における困難さの不利を著者の田中美知太郎は冷静に認めた上で、しかしソクラテスの生まれ育ちの「生活事実」の章から始めて最終章の「死まで」、出来る限り厳密に実証的にソクラテスの生涯と哲学思想を硬質な文体で果敢に書き抜いている。

そもそものソクラテスその人の概要は以下だ。

「ソクラテス(前469頃─399年)は古代ギリシアの哲学者。ペロポネソス戦争とその後のアテネの衰退期にあって、ソフィスト(アテネで活躍した弁論・修辞の職業教師)を批判し普遍的・客観的真理の存在、知徳合一を主張した。問答法という、対話を通じて『無知の知』(自らが無知であることを知ること)を自覚させる方法を実践し、アテネの人々に普遍的真理があることを説いた。その後、民事裁判で死刑の判決を受けて、『悪法も法なり』と述べ刑死した。彼は著作を残さなかった」

ソクラテスの哲学には、まず何よりも「言葉に対する正しさ」とでもいうべきものがあって、言葉をいい加減に用いることをやめなければ、真理の認識はできず、したがって人は正しい行動はとれないのであった。このことから単に主観的に自分が「正しい」と言葉で言い募(つの)って、言葉で相手を言い負かして論破する当節、人気を集める世俗的なソフィストら(アテネで活躍した弁論・修辞の職業教師たち)に対するソクラテスの痛烈な批判があった。またソクラテスは、自身が発した言葉が混沌となり、他人から都合の良いように恣意的に理解され引用されることを最も恐れた。ゆえに彼は相手を前にした直接対話以外での、書き言葉の伝達たる文字による著作を残さなかった。

ソクラテスは、言葉が混乱して人々が迷うポリスの現状を憂慮し、常に正確な定義・概念を見出し、正しい言葉による新たなポリスの基礎を得ようとした。「徳」という「よく生きること」が、かのソフィストにとって人々から富や名声を得る世渡りの技能を意味したのに対し、ソクラテスは「富を求めるな。名誉を求めるな。ただ魂をできるだけ優れたものにすることに意を用いよ」として魂への配慮を訴えた。ソクラテスの哲学が主知主義と呼ばれるのは、何が正しいかの認識が正しい行為の保障となるという意味で人間の知性の優位を求めるからである。そして、その人間に知性は、もはや言うまでもなくソクラテスにおいて言葉の正しさに基づくものであった。

ソクラテスという人は現代風の俗な言い方をすれば、「相当に嫌味で皮肉屋の人」であって、非常に交際しづらい、人々から「悪意ある者」と見なされる、かなり誤解を受けやすい人であった。

彼は、対価をとって知識を授ける当時人気であったソフィストらに対し、問答法という対話(ダイアローグ)を仕掛けていく。「私は物事をよく知っている」と自負しているソフィストを前に、まずソクラテスは「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」として、ソフィストに謙虚に教えを乞(こ)う形で相手に次々に問いを発する。それらソクラテスの問いに繰り返し相手が答えているうちに答えに詰まったり前の答えと矛盾する答弁をしたことを指摘して、「私は物事を知っていると思っていたが、実は何も知っていなかった」ことを相手に自覚させる。これは普通に考えれば明らかにソクラテスからの皮肉(イロニー)である。なぜなら、ソクラテスは最初に自らの無知を告白し、自分の無知の劣勢を示して謙虚にソフィストに教えを乞う形で相手と問答を始めているのに、「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」の教えを乞うソクラテスの方が、「私は物事をよく知っている」と自負していたソフィストよりも優れてしまう逆の結果に、いつの間にか問答の過程で毎回なってしまうからだ。

「自分は無知である」と自認するソクラテスから謙虚に問答を挑まれた、かつて「私は物事をよく知っている」と自負していたソフィストは自身の面目をつぶされ、「お前は俺にケンカを売ってるのか(怒)」ということに普通はなる。しかし、ソクラテスは最初に「自分は無知であり、ただ自身が無知であることを知っている者」とあえて謙虚に劣勢の格下に出て、最後に「私は物事をよく知っている」ソフィストよりも「無知である」私(ソクラテス)の方が、実は智者であり優れていることを勝ち誇って相手に知らしめたいわけでは決してない。全くそのような相手を論破したり無駄にヘコませたりする気はなく、当のソクラテスからすれば、これは言葉を正しく使った問答法によって導き出された極めて正当な帰結なのであって、冗談や悪ふざけでなく、彼はどこまでも大真面目(おおまじめ)の大本気(だいほんき)なのである(笑)。

またソクラテスはデルフォイの神殿で下された、「ソクラテス以上の賢者ありや」の問いに対する「ソクラテス以上の賢者なし」の神託を受けて、それは「自分は皆と同じく全くの無知に他ならないが、ただ自分は自己の無知を知っているから他の人よりも智者であり賢者であるのだ」という自分の神託解釈を、自身の身を以て愚直なまでの彼自身の主観的な「使命感」から単に他のソフィストに教え広く伝えたかっただけなのである。

おそらくソクラテス本人には相手に嫌味や皮肉をいう悪意の本意など微塵(みじん)もなく、皆無である。後世からのソクラテス評価にて哲学者として彼は確かに優れた古代ギリシアの哲学者であったかもしれないが、私から見れば、この人は絶望的なまでに他者に対する世俗的な配慮や礼儀ら、そうしたことの対人の機微(きび)に全く気付かない、多少の与太が入った与太郎的な実生活者のポリス市民として破綻した単に駄目な人であっただけだ。ただ自身の言葉の厳格さの哲学を実践し哲学的真理を日々追求しているソクラテス当人は、いつでも大真面目の大本気なのである(爆笑)。

現代の私達の社会でも、「私は無知」と言い張るソクラテスから、あのような問答を仕掛けられて、いつの間にか自称「私は無知」なソクラテスから逆に自分の方の無知を心底思い知らされ、しかも神殿にて「ソクラテスは自分が無知であることを知っているので誰よりも智者であり賢者」という神による智者の保障神託の賞賛を頂いて、本当は「私は無知であるが、結局の所、周りに回って最終的に自分は智者であり賢者」と内心思っているソクラテスに対しては、どんなに知識や教養がある人格者であっても、誰でも「お前は俺にケンカを売ってるのか(怒)」の不穏な空気に普通なるわな(笑)。

ソクラテスという人は、他者に気を使い相手のメンツやプライドに配慮して時にその場限りの思いやりのある嘘を述べたり、巧妙に黙り込んだり、あえて真実を語らずにそれとなく誤魔化したり、言葉の裏の意味や二重の意味を用いてその場の人間関係を修辞(レトリック)により良好に保ち上手に切り抜けるような処世の機転の効く人では全くなかった。何となればソクラテスの哲学には、まず何よりも「言葉に対する正しさ」とでもいうべきものがあって、言葉をいい加減に用いることをやめなければ、真理の認識はできず、したがって人は正しい行動はとれないのである。

だから、ソクラテスは言葉の正しさや厳密さに異常なこだわりを愚直なまでに見せて、処世における時に相手に対する思いやりの言葉の配慮や、最低限の対人の礼儀を無視し続けた結果、ソクラテス本人の言葉による主知主義の哲学の意図の主観的「誠実さ」とは裏腹に、確かに一部の青年らを引きつけソクラテスは若者人気であったが、他方でソクラテスから無知を指摘されたソフィストら同時代の周りの多くの人々から不興の反感を余計に激しく買い終始、彼は果てしなく誤解され続けた。紀元前399年にソクラテスは、「国の認める神々を認めず、別の新奇なダイモンの祀りを導入」し、「青年たちに害悪を与え」たという罪でアテネの法廷に告発され死刑を宣告される。そうして、ソクラテスは「悪法もまた法である」と言って法の決まりの言葉の厳格さを、これまた最期まで愚直なまでに丁寧に重んじて自ら毒杯を仰いで死んだのである。

ソクラテスの生涯と哲学にあるのは確かに、ある種の喜劇的な悲劇であった。

岩波新書の書評(431)藤谷俊雄「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」

岩波新書の青、藤谷俊雄「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」(1968年)は、そのタイトルからして「おかげまいり」と「ええじゃないか」が等価の同量で等しく論じられているように思えるけれど、実はそうでない。本書では主に「おかげまいり」について述べられており、「ええじゃないか」に関しては、ほんのわずかしか触れられていない。

本新書は七つの章からなっているが、「ええじゃないか」に詳しく触れた章はわずか一章のみである。残りの六章は全て「おかげまいり」の紹介と考察の章になっている。それには本書記述での著者によれば、本書を執筆時には「ええじゃないか」に関する各人よりの言及や見解の解釈が様々にあって研究蓄積も多くあったが、他方「おかげまいり」については研究が少なくその実態の解明や歴史的考察が比較的なされていない事情があったため、本新書では「おかげまいり」についての叙述にあえて傾注したという。そうしたことが本書の「まえがき」に記されている。

ここで、本新書のタイトルになっている「おかげまいり」と「ええじゃないか」の概要を確認しておこう。

「おかげまいり(御蔭参り・御影参り)─江戸時代に流行した伊勢神宮への集団参拝。多くは親や主人の許可を得ず、旅行手形も用意せずに家を出た抜参り(ぬけまいり)であった。大規模なものは1771年の200万人の参加。60年ごとに『おかげ年』が回ってくるという60年周期説が信じられ、1830年には500万人が熱狂的に参加した。その様子は、歌川広重の『伊勢参宮宮川渡しの図』などに描かれている」

「ええじゃないか─1867年秋から冬にかけ、東海道・近畿・四国地方に広がった民衆の狂乱。『ええじゃないか』と連呼・乱舞し、京坂一帯が無政府状態となり、その間に倒幕運動が進展した。その様子は、歌川国芳の門人・一恵斎芳幾(いつけいさい・よしいく)『豊饒御蔭参之図』などに描かれている」

本書の構成を改めて述べておくと、最初の三つの章は「おかげまいり」の起源と概要、近世の「おかげまいり」の実態が史料を介して詳しく紹介されている。それから次の一つの章で「ええじゃないか」についての同時代の先行研究や「ええじゃないか」に対する歴史的意義の各人評価を次々に紹介している。その上で最後の三つの章にて、前章での「ええじゃないか」に関する先行研究や評価を参考にしながら、「おかげまいり」に対しての著者の歴史的意義の考察をまとめる、の順序になっている。

これらの中で本新書の読み所は、第四章に当たる「四・慶応の『ええじゃないか』」で同時代の各人の「ええじゃないか」への歴史的評価を踏まえた上で、続く後の最後の三つの章「五・解放運動としての『おかげまいり』」「六・民族形成運動としての『おかげまいり』」「七・宗教と民衆運動」にて即(すぐ)にその手法を真似て、「おかげまいり」に対する総括の歴史的意義の評価を下す著者の論述の手際(てぎわ)にあると思える。

近世初期の「おかげまいり」は、当初は人々の娯楽として流行した伊勢神宮への集団参拝であったが、封建的拘束に反発する抜参り(ぬけまいり・「親や主人の許可を得ず、旅行手形も用意せずに参拝参加する違法行為のこと」)の常態化に加え、幕末には「おどり」の騒ぎも伴い、「おかげまいり」は「ええじゃないか」や百姓一揆と同様な大規模な民衆運動と目されるようになっていた。

「四・慶応の『ええじゃないか』」では、ノーマン、土屋喬雄、羽仁五郎、遠山茂樹、山口吉一ら先行研究にての各氏の「ええじゃないか」に関する見解や歴史的評価の各説を挙げている。それら各人による「ええじゃないか」への見解は様々であるが、「ええじゃないか」と類似する同時代の近世江戸の百姓一揆の民衆運動に対するそれも勘案すると、このことは本新書には書かれていないが、それら歴史的評価は次のようにまとめることができるように思う。

まず「作為的か自然発生的か」の評価軸があり、さらに「統制の取れた組織的政治運動か、無秩序なマス・ヒステリー的騒乱か」のもう一つの評価軸もあって、その2つの評価軸の4つの極限の組み合わせの四象限により、各人における「おかげまいり」や百姓一揆についての歴史的評価が決まると考えられる。すなわち、

☆作為的かつ統制の取れた組織的政治運動─幕藩体制の崩壊を目する尊王派や明治新政府側から画策された、極めて組織的な一種の倒幕運動説。☆作為的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱─幕藩体制の崩壊を目する尊王派や明治新政府側から画策された一種の倒幕運動であったが組織的統制が取れず挫折した、ただの一過性の民衆のお祭り騒ぎの狂乱説。☆自然発生的かつ統制の取れた組織的政治運動─民衆の間から自生した下からの運動で、それが自発的に高度に組織化された反封建闘争の民衆運動説。☆自然発生的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱─民衆の間にある反封建社会的な意識の自生的現れではあるが、それがただの一過性の民衆のお祭り騒ぎでしかなかった狂乱説。

従来、「ええじゃないか」や百姓一揆を民衆闘争史の文脈にて理解し、それらに近世江戸の民衆の下からの抵抗の政治的エネルギーを見出したい理念的思考な民衆思想史家は、これら四象限の評価の中で、3番目の「自然発生的かつ統制の取れた組織的政治運動─民衆の間から自生した下からの運動で、それが自発的に高度に組織化された反封建闘争の民衆運動説」の理想的な歴史意義的解釈を百姓一揆らの歴史現象の解釈・評価に積極的に取りたがる傾向にある。その反面、4番目のような「自然発生的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱─民衆の間にある反封建社会的な意識の自生的現れではあるが、それがただの一過性の民衆のお祭り騒ぎでしかなかった狂乱説」は、近世江戸の民衆の下からの政治的抵抗のエネルギーを皆無と見なすか、不当に軽く見積もるものとして、この見解を取らず、むしろ積極的に否定し排除したがる。

そうして、これら「「四・慶応の『ええじゃないか』」にての同時代の各研究者の見解総括を参考にして、著者の藤谷俊雄は「おかげまいり」に対する総括の歴史的意義の評価として、最終章に当たる「七・宗教と民衆運動」にて、およそ以下のような結論をまとめている。

「わたくしは前にもいった通り、『おかげまいり』と百姓一揆とを比較して、『おかげまいり』の歴史的意義をいちがいに低く評価することには賛成できない。百姓一揆はたしかにもっとも鋭い階級闘争の形態であるが、地方的な小規模の自然発生的な百姓一揆が、それだけでは封建支配にたいして、ただちに大きな革命的影響をもちえなかったことは明らかである。百姓一揆に爆発した農民の革命的なエネルギーが、政治的に結集され組織されなければ、真に革命的な人民運動とはなりえなかったという点では、『おかげまいり』のばあいも同様であったといいうるとおもう。…江戸時代の『おかげまいり』は、…神の信仰にもとづいた民衆の自主的な秩序がおこなわれており、けっしてマス・ヒステリーという言葉が印象づけるような無秩序な状態であったわけではない。…しかしながらそれは、後期になるほど乱れていったようである。とくに性的倒錯という点ではひどくなっていった。…そのことが、あの封建支配の空前の危機に当って、うっせきしたエネルギーを内部に包蔵しながら、日本の民衆が、幕藩支配から天皇制支配への移行を、まったく政治の局外で見送ってしまう結果となったのである」(「民衆闘争の分岐点」)

著者によるこの「おかげまいり」に対する総括の歴史的意義の評価は、幕末の民衆の革命的なエネルギーに突き動かされた階級闘争の一応の成果を「おかげまいり」に見るのであるが、同時に他方で政治的に結集されず組織化されず、真に革命的な人民運動とはなりえなかった限界を有していた事も明らかであって、さらに後期には以前の民衆の自主的な秩序が崩壊し、「おかげまいり」の集団内にて性的倒錯の横行など、マス・ヒステリーな無秩序な集団的堕落状態におちいっていった。結果「おかげまいり」は、うっせきした当時の人々のエネルギーを内部に包蔵しながらも、それを下からの民衆闘争の政治的運動として自らを昇華し得なかったとする結論である。

これは「ええじゃないか」や百姓一揆に対する、前述の4つの極限の組み合わせの四象限による歴史的評価の型で見れば、3番目の「自然発生的かつ統制の取れた組織的政治運動」の民衆の運動エネルギーを高く見積もる肯定的評価と、4番目の「自然発生的かつ無秩序なマス・ヒステリー的騒乱」の民衆の自主的な秩序形成の欠如を厳しく弾ずる否定的評価の混合(ミックス)の結論であるといえる。

その他「おかげまいり」は、元々は日本の伝統的な神道信仰に基づいた伊勢神宮への参詣の宗教行為であるから、「おかげまいり」は宗教的観点から一貫して考察される必要がある。この点で岩波新書の藤谷俊雄「『おかげまいり』と『ええじゃないか』」では、近世江戸の百姓一揆の研究を通して「世界史的に見れば近代社会成立期における民衆闘争は、一般に宗教的形態をとった。そしてそのことが、民衆闘争を『世直し』の論理として政治権力に向かわせた」ことを以前に指摘した安丸良夫の一連の民衆思想史研究に触れた記述もある(160─162ページ)。この箇所も、確かに本書の読み所である。