アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(450)川島武宜「日本人の法意識」

1945年8月15日の日本の敗戦に伴う大日本帝国の崩壊に際して、これまでの狂信的な天皇制ファシズムの軍国主義を批判し、さらには明治維新にまでさかのぼり近代日本全体を反省的に総括して、その上で今後の日本社会の民主化を新たに進めようとした戦後日本の知識人たちの中心に、一時期「戦後民主主義」の人々がいた。彼らは、「戦後」の日本国憲法の「民主主義」を支持して日本国家の戦争責任を糾弾する左派的心情の持ち主ではあったが、日本共産党らマルクス主義の、思想的上の硬直した公式主義や運動組織の凝固した全体主義の問題に対し十分すぎるほどに警戒して懐疑的であったし、同様に日本国の戦争責任議論を回避して戦後に再び天皇制護持を叫び出したり、国家主義に回帰しようとする日本の右派保守に対しても当然のごとく批判的であった。

「戦後民主主義」は、敗戦後に国民への啓蒙主義的姿勢を有して主に東京大学の若い研究者らにより、その発言・執筆は担われた。戦後の彼らは、西洋の理念的「近代」から、現実日本の近代化の不足を指摘して「前近代」な日本の遅れの問題を人々に広く啓蒙的に説いた。そうした「前近代」的な日本社会の遅れこそが、今般の軍国主義の日本の無謀な戦争を構造的に招いたと否定的に分析したからであった。

同じ旧帝国大学で東京大学と対抗する京都大学は、戦時に哲学者の西田幾多郎ら、いわゆる「京都学派」が主流で、総力戦体制下の時の政府と結びつき「戦時動員の哲学」を供給していたが、敗戦を迎えて京都学派の哲学者ら「知識人の戦争責任」追及により、かつてあれほどまでに社会を席巻し隆盛を極めて東京大学を圧倒していた京都大学の面々が失脚してしまい、戦後に東大所属の若い社会学者らが新たな戦後世論のオピニオンリーダとして注目され一躍、戦後社会に躍り出たのであった。また「戦後民主主義」は発言・執筆は東京大学の若手の研究者を中心になされたが、それら言説は朝日新聞と岩波書店のマスメディアと出版社を主に経由して発表されたので「戦後民主主義」は「朝日岩波文化」とも時に呼ばれる。

「戦後民主主義」の当時の若い担い手であった東大所属の社会学者として、政治学の丸山眞男(1914─96年)、経済学の大塚久雄(1907─96年)、法律学の川島武宜(1909─92年)の三人はその中心にいて外せない。日本の敗戦時の1945年に彼らがいずれも30代の壮年期であったことに留意してもらいたい。終戦のこの時期、30代の中堅で研究者としてある程度の実績もあり、しかし学界の重鎮の大家にはまだなっておらず、戦時の若い頃には「敵国の」西洋の学問をやろうとして指導教授や大学当局に暗に咎(とが)められたり、戦争遂行の国策に反する国家批判の研究学問が時局の統制のせいで出来なかったりで、丸山と大塚と川島のいずれもが少なからずの「苦い青春」の持ち主であったのだ。

なるほど、「戦後民主主義」は「朝日岩波文化」と言われるだけあって、戦後は特に岩波書店と東京大学は関係が深い。そうして彼ら東大の社会学者の著作は後の岩波新書にもれなくあるのであった。すなわち、岩波新書の丸山眞男「日本の思想」(1961年)、大塚久雄「社会科学の方法」(1966年)、川島武宜「日本人の法意識」(1967年)である。

以下では「戦後民主主義」の東大出身の主な三人の担い手の中で、法律学の川島武宜について書いてみる。

川島武宜(かわしま・たけよし)は、東京帝国大学法学部出身。専攻は民法、法社会学である。川島法学の良さは、法の実在(法の制定・改正・廃止)や法の運用解釈(過去の判例)など即物的な法律そのものだけでなく、法律を取り扱う人間の法意識の側にまで踏み込んで考察する点にあった。川島武宜において、法学は対象即物的な法律そのものだけでなく、その法律を実際に取り扱い運用する人間主体の法意識までがあって初めて一つの完成した法律学となるのであった。

川島法学には、(1)法律を制定し運用する人間主体の法意識についての問題指摘と、(2)近代日本に根強くある家族主義的国家観への批判の2つの柱があった。

(1)に関しては、川島による以下のような伝統的な日本人の法意識についての問題指摘である。これまでの近代日本の社会において、法律は常に国家による上からの強制であって、必ず従わねばならず、「法を守らなければ人々は厳しく罰せられる」と馴致されていた。厳格に遵守すべき規範としてのみの法律であって、国民の服従義務ではなく逆に国家の政治権力を国民の側から制限したり、個人の権利を保障するような法律の制定と運用の法意識が日本人は希薄である。また、こうした人間の権利保障のために法を用いる意識が乏しいため、かつ正当厳密な「法の支配」ではなく、非合理で馴れ合いによる「人による支配」が実際の社会場面で多くを占めるために、伝統的な日本社会では個人の権利を主張すると、単なる「わがまま」とか「逆張りの天の邪鬼」などと不特定多数の周囲から集団的に攻撃される。法に基づいて訴訟を起こした場合でも、「変わり者」「喧嘩好き」「集団の和を乱すエゴ」などと否定的に目され、イジメや仲間はずれの報復攻撃を受けることが多々ある、とする。これらの問題指摘については、例えば川島武宜「日本人の法意識」(1967年)に詳しい。

(2)については、川島による日本に伝統的な家族主義的国家観に対する批判である。「家族主義的国家観」とは、明治以来の日本の近代天皇制国家において、天皇を絶対的に君臨する家長の「父」とし、国民一般を天皇の「赤子」の子と見なして、国家を一つの情緒的て有機的な家族に見立てるような国家観のことである。各々の国民は、子が父に従うように、家長の天皇に絶対的に服従しなければならない。国民は臣下(家来、下僕)の「臣民」であるから常に恭順を貫き、主君の天皇に謀反があってはならないのである。家族主義的国家は公的な国家への忠誠支持を、「家族」という極めて私的な最小集団単位の人間の根源的心情より調達してくるものであるから、このことは逆に言えば、公的な政治権力の近代国家が各国民の心の内面の私的領域にどこまでも侵入して結果、個人をコントロールする人間の内面収奪に他ならない。そうして下部にて擬似家族主義的な天皇制国家を支え、公的国家への忠誠支持を情緒的に下から提供し続ける実際の私的家族も、戦前の民法らを参照すれば明白であるが、父たる家長の強権の下で家族構成員には恭順な上下支配の封建的人間関係が貫徹され、家族主義的国家観は公私に渡り一貫して強力に存在したのだった。

ここでは、各人が独立してあって内面の自由の権利が保障された近代的な個人主義的人間成立の余地はない。事実、明治維新から1945年の敗戦に伴う大日本帝国の崩壊に至るまで、いつの時代でも日本の近代天皇制国家下では、集団主義の家族主義的国家の思想が強固にあって、近代日本には各人の権利が保障された近代的な個人主義的主体は、ほとんど成立の余地はなかった。そのため、昔から日本人には人権や私的所有などの人間個人の権利に関する法意識は希薄であり続けたのだった。これらの問題指摘については、川島武宜の「日本社会の家族的構成」(1948年)や「イデオロギーとしての家族制度」(1957年)にて主に述べられている。

最後に、岩波新書の川島武宜の書籍として青版の「日本人の法意識」は、上記の(1)の「伝統的な日本人の法意識についての問題指摘」と、(2)の「日本に伝統的な家族主義的国家観に対する批判」を一冊の中で共に概論的に述べているので川島の数ある著作の中で非常にお勧めである。本書は川島武宜の代表作と言ってよく、世間的にもよく読まれている。あと川島武宜の弟子に渡辺洋三がいる。渡辺は川島の「日本人の法意識」に関する批判的考察を継承する法学者であり、川島法学の正統な後継者といえる。渡辺洋三も岩波新書から多くの自著を出している。「法とは何か」(1979年)、「日本社会はどこへ行く」(1990年)辺りが渡辺洋三の岩波新書の秀作であり、お勧めである。

岩波新書の書評(449)江川紹子「『カルト』はすぐ隣に」

過去に私自身や私の家族や親族や知り合いで、いわゆる「カルト」の新興宗教や詐欺的グループや過激派政治団体に入信したり加入した人はいない。これは自分にとって誠に幸運なことであって、逆にそういった「カルト」に身近な人が入信・加入した人はとても気の毒に思う。私としては自分が直接に「カルト」に入信・加入することはほとんどありえないから、仮に私の周囲の人(家族や親族ら)が「カルト」に入信・加入したとして、その人に脱退を勧めたり、相手組織との交渉を通して結果として間接的にそうした「カルト」と関わりをもつことは、自分の人生にとって相当な無駄であり、心身の消耗と時間の損失以外の何物でもないと思えるからだ。

試しに、現代日本の「カルト」の典型たる「オウム真理教」による一連の社会事件を振り返ってみると、オウムにより殺害されたり傷害を受けた直接の被害者は、入信した当人であるよりは、彼らを教団から脱退させようとした家族・親族やオウム教団の社会的問題を追及したマスコミ、法曹(弁護士や検事)の関係者の方が圧倒的に多いのである。このことは例えぱ、

坂本弁護士一家殺害事件(1989年11月、信者の親の依頼で教団と交渉していた坂本堤弁護士の家に押し入り、妻と長男を共に殺害した)

松本サリン事件(1994年6月、当時オウム真理教に対する訴訟を担当していた長野地方裁判所松本支部の裁判所宿舎を狙って住宅街にサリンを噴霧。8人が死亡、約600人が重軽傷を負った)

目黒公証役場事務長拉致監禁致死事件(1995年2月、在家信者の資産家女性が連絡を断ったため、居所を聞き出そうと兄を拉致し、薬物を使って監禁中に死亡させた)

ら実際の事件を参照するとよく分かる。オウムに入信した当人は自身の意思で入って主観的に「幸せ」で良いかもしれないが、それをいさめた信者以外の全くの第三者の方が、オウム教団の加害の標的となって殺害されたり暴力の直接被害を受けたりするのは、非常に馬鹿らしい思いがする。

このことからして、オウム真理教など、いわゆる「カルト」に私は一貫して関わり合いになりたくないのである。残念なことに「カルト」の集団組織は昔から今日に至るまで、いつの時代でも存在する。「カルト」は人間社会から容易になくなることはない。そして確かに「カルト」に入って、結果的にだまされていたり、現に苦しんだりしている当人は気の毒に思うけれど、とにかく私は「カルト」とは一切関わりを持ちたくないので、自分の身の回りの人々が「カルト」に入信・加入したりしないことを切に祈るのみである。家族や親族の脱退の説得や交渉などを通してさえ、「カルト」には一切関わりたくないのだ。

岩波ジュニア新書の江川紹子「『カルト』はすぐ隣に」(2019年)は、「とりあえず如何なる形であれカルトとは一切、関わりを持ちたくない」と常日頃から切に願っている私のような読者には、極めて実用的な書籍である。本書はジュヴナイル(10代の少年少女向けの読み物)の岩波ジュニア新書であるから、岩波ジュニアの読者層として想定されている若い人達がオウム真理教など「カルト」に安易に入信・加入しないよう注意を促したり説き伏せたりする、若者に向けて「カルト」を予防する内容に結果的になっている。本新書のサブタイトルは「オウムに引き寄せられた若者たち」である。本書は、オウム真理教の社会犯罪の実態から教団幹部らの逮捕と裁判を受けて彼らの死刑執行までの帰結、その他、裁判での教団幹部らの発言や獄中からの手紙、かつてオウムに入信していた元信者の手記などで構成される。

岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」を通して私達は、「カルト」は遠い世界にあり自分とは関係がないと一見思いがちであるが、オウム真理教のような「カルト」がまさに「(あなたの)すぐ隣に」もある注意の意識を持って、学校や地域やネットなどを介して勧誘され結果、安易に入信・加入してしまわないよう学ぶべきであろう。繰り返し何度も言うが、「カルト」と関わりをもつことは自分の人生にとって相当な無駄であり、心身の消耗と時間の損失以外の何物でもないからだ。

本新書の著者は、オウム真理教関連で一時期、メディアに頻繁に露出していた江川紹子である。江川は本書以外にもオウム関連の書籍を多数執筆している。彼女はもともと新宗教や災害や冤罪や若者の問題などを幅広く扱うフリーのジャーナリストであったが、ある時期からオウム真理教の問題を集中して追及するようになり、オウム教団を追跡して教団の実態に詳しかったことから、「オウム・ウオッチャー」として後に広く世に知られたのであった。

その江川紹子が岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」の中で、「カルト」の定義をしている。本新書にてまず読むべき所、決して読み逃してはいけない所は著者の江川による「カルトとは何か」の定義であろう。その概要は以下である。

「オウム真理教のような団体を、しばしば『カルト』と呼ぶ。『カルト』の語源は儀式、儀礼、崇拝などを意味するラテン語で、そこから派生して宗教に限らず、何らかの強固な信念(教義、思想、価値観)を共有し、それを熱烈に支持し行動する集団を『カルト』と総称する。中でも自分たちの目的のために手段を選ばず、社会のルールや人間関係、人の命や人権などを破壊したり損なうことも厭(いと)わない集団を特に『破壊的カルト』と呼ぶ」

その上で江川紹子は次のように続ける、

「(『カルト』の)問題は、その信念を絶対視し、他人の心を支配したり、他の考えを敵視したりして、人権を害する行為があるかどうかです。一人静かに、時折鰯(いわし)の頭を拝んでいるだけなら、『カルト』とされるいわれはないでしょう。けれども、勉強や仕事をしなくなって四六時中拝み続け、他人の悩みや弱味につけ込んで仲間に引き入れたり、『これを拝まないと地獄に墜(お)ちるぞ』などと脅してお金をとったりすれば、これは『カルト』と批判されても仕方がありません」(「カルトとは何か」192ページ)

岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」の中での、著者の江川紹子による「カルトに人生を奪われない生き方」という言葉が印象的だ。「カルトに自分の人生を奪われない」ために、自身や周囲の親しい大切な人達が熱狂的で反社会的な「カルト」に安易に入信・加入してしまわないような防御を私達は講じる必要があるだろう。オウムの教団幹部に医師や弁護士や特に理系大学・大学院の出身者が多くいたことから、知識があって勉強ができて学歴がある、世間で俗にいう「頭がよい」ことはカルトにだまされないことの要素にはならない。知識があって勉強ができて学歴がある世間で俗にいう「頭がよい」人でも、オウム教団のカルトに引っかかり時に入信してしまう。

知識の総量や学歴云々以外のところで、本新書にあるオウム真理教の教団幹部らの裁判での発言や獄中よりの手紙、オウムに実際に入信していた元信者の手記から、本文に直接的には書かれざる、しかし一般化して読み取ることが出来る教訓になりうる「オウム真理教のような『カルト』にはまりやすい人の性格資質や精神傾向」について、最後に私なりにまとめておく。これらは、岩波ジュニア新書「『カルト』はすぐ隣に」を読んで私が気付いた、オウム真理教の「カルト」にハマりやすい人達の共通傾向であり、以下のような性格資質や精神傾向を有する人は、特に「カルト」に警戒した方がよい。こういう人は「カルト」に引き込まれる危険性が相当に高い。また、このような性格資質や精神傾向のある人が自分の家族や親族や知り合いにいる場合、その人が「カルト」に引き込まれないよう周囲の者は警戒し、前もって充分に関心を払っておくべきだ。自分の大切な人が「カルトに人生を奪われない」ために。

☆両親や家族との不和、学校や職場での孤立やイジメで「自分の居場所がない」疎外感・孤独感を持っている(そのため「カルト」への勧誘の際には、この疎外感・孤独感の弱味につけ込まれてしまう)。☆自身の容姿や能力や出自や社会的地位に不満や劣等感(コンプレックス)が強烈にある。もっとも多くの人が、この手の不満・劣等感は少なからず持ち合わせているものだが、「カルト」にハマりやすい人は、それら負の感情を自分の中で納得して合理化の処理ができていない。結果、無気力、投げやり、他者と社会に対する否定憎悪の攻撃に安易に走る衝動傾向がある。

☆断食不眠や回峰など、極端苛烈な苦行へのあこがれがあり、苦行の達成を通して自分自身が向上すると素朴に信じている(ないしは信じたがる)。自己への厳しい修行が自分に何らかの見返りをもたらすと信じる応報主義(「これほどの厳しい修行をしたのだから、その修行の見返りとして自己の魂が必ず向上する」などの根拠のない激しい思い込み)にとらわれている。☆真理を享受して自分のものにしたり、絶対的正義を求める求道心が強すぎる。ゆえに真面目、努力家、完璧主義者である。何事にも集中しすぎて視野狭窄(しやきょうさく)でハマりやすい性格資質であり、良い意味での融通の効く「いい加減さ」がない。

☆虚(むな)しさを感じないで済むような完全で万能な、人間にとっての「絶対的真理」や「生きる意味」や「完全幸福」を安易に欲したがる。☆「死後の世界」や「人間の前世の因縁」や「将来的な人類の滅亡」など、万人が知り得ない平等に不可知な事柄に対し、なぜか明確に断定して、やたらと語りたがる。もしくは皆が分からない不可知なことを自信を持って、あたかも自分だけが「真理」を手にしているかのように特権的に語る人物(教祖や指導者ら)に容易にあこがれてしまう。ある種の不可知(人間には誰もが知り得ないことがあること)に耐えられない。

☆現代社会に対する批判意識が強く、ある程度の知識があり、その批判的言説は一見、正しく思えるが、あまりにも過剰過ぎる批判意識から、不特定の他者や社会全体を傷つけたり現国家を転覆させても「やむを得ないし、場合によっては構わないし許される」といった反社会的で破壊的な行動を最終的に肯定する極端な思考を持つ。正当な目的の達成のためには、非人道的な非道な手段をあえて取ることも時に許されるとする「目的のためには手段を選ばず」の精神傾向がある。

岩波新書の書評(448)多木浩二「戦争論」

今にして思えば、岩波新書の多木浩二「天皇の肖像」(1988年)は、さすがに名著であった。

視覚上位の近代の時代において「見る・見られる」の人的関係に「支配・被支配」の権力支配の構造を見切って、しかもその視覚にまつわる権力現象を、近代日本の天皇制国家成立期での明治天皇の肖像写真たる「御真影」(ごしんえい)の各学校への下付という具体的歴史事実に落とし込み、「御真影」に託された政治的意味を「権力の視覚化」という観点から実に見事に読み解いてみせたのだった。明治天皇の肖像写真たる「御真影」の各学校への下付や、明治天皇の各地への行幸にて天皇を国民に広く、しかも荘厳や神聖さを演出しあえて見せるといった「権力の視覚化」というテーマは、近代日本史研究や通常の政治学にて現在でこそ一般的なものとなり誰もが思い至ることであるが、当時1980年代には、それなりに新たな視点というか、「天皇の肖像」たる「御真影」から「権力の視覚化」という近代の政治権力の問題を見事に摘出してみせた多木浩二の着眼と力量に、少なくとも私は非常に驚き感心したのだった。

そうした名著の「天皇の肖像」を以前に岩波新書から出していた多木浩二による、同じく岩波新書から出された今般の「戦争論」(1999年)である。本書の概要は以下だ。

「すさまじい暴力と破壊の爪痕を人類の歴史にのこした2つの世界大戦。そして今なおつづく内戦、民族紛争…。二0世紀とはまさに戦争の世紀だった。世界はなぜ戦争になるのか?われわれは戦争という暴力をどのように認識し、いかなる言葉で語るべきなのか?新たな思想的枠組みを探り、二0世紀をとらえかえす歴史哲学の探究」(表紙カバー裏解説)

本新書は「戦争論」の大雑把なタイトルではあるが、帯を見ると「暴力と破壊の20世紀をいかにとらえかえすか」とあり、本書は「戦争論」とは言っても20世紀の「近代の戦争」に限定集中した、特に本書の刊行が1999年という世紀末の節目に当たることから1901年から2000年までの100年の間に起こった20世紀の戦争(「第一次世界大戦からユーゴ空爆まで」)に関する論考である。しかも、各戦争についての個別具体的な詳細記述ではなく、それら20世紀の戦争群から「近代の戦争」の新たな傾向や戦争の本質問題を考えるような政治哲学的考察になっている。

私が読む限り、本新書は「近代の戦争」における、例えば総力戦体制や全体主義や排他的な自民族中心主義(「民族浄化」の思想)の問題、兵士や軍事的対象のみならず、非戦闘員である都市の一般市民らに空爆ら無差別攻撃を加え一掃殲滅(いっそう・せんめつ)しようとする「あらたなタイプの戦争」だとか、生物化学兵器と核兵器ら非人道的な大量殺戮兵器使用へのエスカレートや、帝国主義的覇権をめぐって大国が進出の各地域で現地の小国に暗に仕向ける「代理戦争」や、自国民への愛国心の喚起と国民徴兵、と同時に敵対国に向けての憎悪の形成といった近代国家による政治的扇動らの各話題に本論にて幅広く触れている。

かつての近代以前の戦争では、どこか遠方にて勝手に軍隊同士の軍事衝突が始まり、やがては終結して一般の人々は戦争に対し無関心でいられたが、「近代の戦争」において人々は、もはや戦争に無関心であることは許されない。空爆ら非戦闘員をも巻き込む無差別的な都市爆撃、生物化学兵器と核兵器の使用、「民族浄化」などの名のもとに地域住民に直接に加えられる戦時暴力、国民徴兵の実施やメディア・公的教育を介し、人々は自国の戦争経過に一喜一憂して、自分の国が戦勝した際にはまるで「自分自身が勝った」かのように喜ばなければいけないのであった。戦争の暴力が一般の人々にまで広く深く露出し、人々は決して戦争から逃れることは出来ない。そういった「20世紀の戦争の世紀」に私達は生きているのだ。

岩波新書の赤、多木浩二「戦争論」は、考察内容は「それなり」の妥当なものだが、以前の「天皇の肖像」とは異なり、読んで私が多少不満に思うのは、著者の書きぶりが私的なエッセイ風文章であり、厳密な政治哲学的考察や筋道立てた概論的な硬派な学術的文章とはなっておらず、ゆえに真っ当な論述考察から逸脱した、「反戦平和への思い」や「アメリカ帝国主義批判」や「先のアジア・太平洋戦争での日本の戦争責任」に関する書き手の多木浩二の過剰な思い込みと主観的希望を時に読まされる箇所も多い。これも、そもそもの著者の多木浩二その人が東京大学文学部美学美術史学科出身の美術史専攻の人であって、美術評論や写真論を主に手掛け、政治学そのものや国際政治や世界史を専門にやってきた人ではない問題に由来しているように私には思えた。

なるほど、以前に多木浩二が「天皇の肖像」を執筆し、天皇の肖像写真たる「御真影」の政治的道具の即物や、全国各地を天皇が視察してまわる「行幸」という政治行為のイベントに「権力の視覚化」の近代政治の問題を鋭く見出せたのは、写真論ら人間の視覚や現象学の哲学についての問題意識と美術史の前仕事の蓄積が氏の中にあったからであった。多木浩二は必ずしも政治学そのものや国際政治や世界史を専門に本格的に学んだ人ではない。その辺りの欠落が、岩波新書「戦争論」での、私的エッセイ風で取りとめのない、ややもすれば漠然とした著者の書きぶりとなって出ており、そこが以前の多木浩二の岩波新書「天皇の肖像」と比べ、本作「戦争論」が一読して「あまり出来が良くない」と私には感じられてしまう理由である気もする。

岩波新書の書評(447)安岡章太郎「アメリカ感情旅行」

岩波新書の青、安岡章太郎「アメリカ感情旅行」(1962年)の書き出しはこうだ。

「私は一昨年(一九六0年)ロックフェラー財団の留学生として十一月二十六日に羽田をたち、翌年五月十七日にかえってきた。その間ほとんどテネシー州のナッシュヴィルにおり、ニューヨーク、メンフィス、ニューオリヤンズ、アイオワ・シティー、サンフランシスコ、ハワイ等に二、三日から十日間程度の滞在をしただけで、他の場所をみる機会はまったくなかった。だから本当はこれはナッシュヴィルとその周辺の半年間の見聞記であるにすぎない。一枚の朝鮮アザミの葉を食うことは朝鮮アザミを食うことになるとしても、私のアメリカでの体験がいかに幅が狭く、浅薄なものかは、明白なことであって、私自身この旅行でアメリカを理解したとは万々もおもってはいない」(「はしがき」)

本書は、作家である安岡章太郎による1960年11月から翌61年5月にかけての約半年間(六ヶ月)に渡るアメリカ旅行の滞在記である。その間、著者の安岡は「ほとんどテネシー州のナッシュヴィルにおり、…他の場所をみる機会はまったくなかった」という。そうして「私のアメリカでの体験がいかに幅が狭く、浅薄なものかは、明白なことであって、私自身この旅行でアメリカを理解したとは万々もおもってはいない」と書いて、つまりは「アメリカ旅行の滞在記とはいっても私の場合、ほとんどナッシュヴィルにいて動かず、アメリカの他地域は見聞してはいないので、この旅行記を介しての私のアメリカ理解は相当に幅が狭く深さも浅薄なものだから、本書を読む読者はそのことを認識しておいてもらいたい」旨の弁明を最初にするのであった。つまるところ、岩波新書「アメリカ感情旅行」を読んで、「安岡のアメリカ理解は偏(かたよ)りがあって一面的すぎる。アメリカの負の陰のマイナスの部分、犯罪多発の治安の悪さや人種差別や貧困格差の悲壮な問題ばかりを恣意的に取り上げて強調している」などの感想や書評はするな、「読者よ、絶対にそれはするなよ!」の予防線を書き出しの冒頭からあらかじめ周到に張っているわけである。私は本新書を初読の時から、安岡「アメリカ感情旅行」の冒頭の書き出し文を読んだだけで以後も再読の度に毎回、爆笑してしまう。いかにも書き手の安岡章太郎の気弱な性格が現れた書き出しではないか。これは、ある意味「名文の名書き出し」ではある(苦笑)。

岩波新書「アメリカ感情旅行」における「感情」とは、楽しみや喜びや希望の陽の明るいプラスの感情ではない。むしろ悲しみや怒りや絶望の陰に満ちた暗い憂鬱(ゆううつ)なマイナス感情よりなる「アメリカ感情旅行」の記録である。このことは、例えば今回のアメリカへの旅についての著者による総括のまとめに当たる最終章「旅行者の見たハエについて」のタイトル付けからして明白だ。著者の安岡章太郎は「旅行者の見たハエについて」いう、

「私自身は、こんどのアメリカ旅行で何びきかのハエを発見した。真冬のニューヨークのカフェテリアのテーブルの上をあえぎ這(は)いまわっているハエを発見したし、ナッシュヴィルのアパートのうらのゴミ鑵(かん)のまわりをウナリながら飛びまわっている胴の太いガッシリとした体つきのハエを見た。そうした何びきかのハエを、私は『アメリカのハエ』として記憶した部分がないとは言えない。…むしろ私はハエの性質を、それを自分自身のこととして考えたい。私が、たとい何処ですごそうと結局、私は私なのだから…」(「ⅩⅣ・旅行者の見たハエについて」)

この人はわざわざアメリカまで行って、なにゆえに「ニューヨークのカフェテリアのテーブルの上をあえぎ這(は)いまわっているハエ」や「ナッシュヴィルのアパートのうらのゴミ鑵(かん)のまわりをウナリながら飛びまわっている胴の太いガッシリとした体つきのハエ」など、アメリカのハエの話ばかり、今回の旅の最後の締めくくりにてするのか。

思えば、著者の安岡が主に行って滞在していたのは、黒人に対する人種差別と貧困格差が厳しい過酷なアメリカ南部のナッシュヴィルなのであった。そして、そこからほとんど移動していない。ずっと動かずにアメリカ南部のナッシュヴィルに安岡章太郎はいる。ニューヨークとかサンフランシスコとかハワイなど、当時のアメリカの最新都市や観光地のリゾートに行けば、裏通りや場末のアメリカのハエなど目にせず、それなりに楽しく喜びや希望に満ちた「アメリカ感情旅行」にもなったであろうに。そして、著者がアメリカ南部のナッシュヴィルに滞在した1960年から翌年61年は公民権法制定(1964年)の直前に当たり、この時期はアメリカ各地にて公民権運動(アメリカの黒人に参政権や市民権ら公民権の適用と、人種差別の解消を求める大衆運動)が最も激しい時代なのであった。

最終章での「旅行者のみたハエ」における「アメリカのハエ」とは、著者が実際にアメリカ滞在中に目にした実物のハエのことでもあるが、同時にこの「ハエ」は「アメリカ感情旅行」に際して著者が見つめて感じた現実の病(や)めるアメリカ社会の暗部の比喩(ひゆ)にもなっている。その上で著者の安岡章太郎は、「むしろ私はハエの性質を、それを自分自身のこととして考えたい。私が、たとい何処ですごそうと結局、私は私なのだから…」とさえ述べて、「アメリカのハエ」に例えられるアメリカ社会の暗部の差別や貧困の問題を自分自身のこととして自身の身に引き付けて、より深く考えようとするのであった。

また、この「アメリカで見たハエ」の記述の前には、「中共にはハエが一ぴきもいない。旅行中に中国でハエを一ぴきも見なかった」という中国旅行者の話がある。その中国旅行と今回の自身のアメリカ旅行とを暗に対比して、かの中国への旅では中国共産党により外国の旅行者に自国の不名誉になるような不潔な所や現実の中国社会の暗部(「中国のハエ」)は前もって見せないよう隠され、常に監視され管理されて「中国の旅」演出が巧妙になされているが、今回の自身の「アメリカ感情旅行」には、外国の旅行者があまり精力的に見ることのない現実のアメリカ社会の暗部(つまりは「アメリカのハエ」)まで、自分はごまかすことなく自由に真実をしっかり見てきた、の著者・安岡章太郎の「アメリカ感情旅行」の旅への並々ならぬ自信の自負も、確かに感じられるのである。

岩波新書の書評(446)田中克彦「ことばと国家」

岩波新書の黄、田中克彦「ことばと国家」(1981年)は、歴代の岩波新書の中での名著としてよく推薦され、学生が読むべき必須の課題図書に定番で指定されるような昔から有名な書籍である。本書の概要は以下だ。

「だれしも母を選ぶことができないように、生まれてくる子どもにはことばを選ぶ権利はない。その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかにし、ユダヤ人や植民地住民など、無国籍の雑種言語を母語とする人びとのたたかいを描き出す」(表紙カバー裏解説)

本書には言語学に関する原理的考察や言語の生成発展に関する概説などなく、「ことばと国家」という言語の時代的あり様と国家の政治権力との関係を比較的独立したいくつかのエッセイ的文章にて記し、それらを各章にして一冊の新書にまとめている。よって、文献資料(史料)や言語理論に基づく厳密な学術考証は本新書にはない。まさに「ことばと国家」の関係に関するエッセイとして、いくぶん楽に、しかし「ことばと国家」の問題の本質論点を押さえながら読み進めることが出来る。そこが本書の良さだと思える。

岩波新書「ことばと国家」には一つの太い幹(みき)となる基調の読み味がある。

近代の国民国家の国内での成立と、続く海外覇権の帝国主義支配の植民地化に当たり、中央集権的な公的国家がそれまで各地域の地方にそれぞれに多様にあった言語(違った言語、同じ言語であっても方言の相違、話し言葉と書き言葉との言文のズレ、各種様々な記述言葉の文字・凡例の表記表現など)を排斥し、一つの公的言語(国語、母国語、公用語、標準語、常用文字などとして)を掲げて強引に単一化してしまう文化統制的暴力とでもいうものに対する著者の強い批判意識である。著者により一貫してなされる「ことばと国家」に関するこの問題指摘は、先の表紙カバー裏解説の文章でいえば「その母語が、あるものは野卑な方言とされ、あるいは権威ある国家語とされるのはなぜか。国家語成立の過程で作り出されることばの差別の諸相を明らかに(する)」の部分に当たる。この点は岩波新書「ことばと国家」の全編を貫く強い論調として決して読み逃していけない、本書の基調をなす中心の読み味だ。

近代世界以降の海外覇権にて、帝国主義支配の植民地化や民俗浄化の強国の抑圧により、支配地域の人々が制圧され「文化保護政策」の名のもとに従来使ってきた伝統的な言語を禁止され剥奪(はくだつ)されて、代わりに別の特定言語の使用を強要されてしまう「ことばと国家」の問題が昔からあった。

また近代の市民革命を経ての国民国家成立は旧来の絶対王政の封建的支配体制を打破する革命であり、一般に市民革命は近代化の指標として安易に賞賛されがちである。確かに、ある種の市民革命を経た近代の国民国家は多くの封建的特権の身分制度を「前近代なもの」として否定し、おおよそ排除して人民の権利の不平等を改善するけれども、他方で公的政府の中央集権化とその強権政府による国民の平準化にて、国内の人民は等しく一律に支配され、国民国家における均一な「国民」創出に伴い、かつて前近代の封建的割拠下で各地域に様々に多様に存在し継承されてきた言語文化が、近代国家の中央政府により規制され中絶破棄されて、代わりに「母国語」や「国語」や「標準語」が押し付けられ正統な「国民文化」として統一的に不自然なまでに強引に鋳直(いなお)されてしまうことはよくある。そうして、この正統な「国民文化」とは異なる、これまであった多様な言語文化は国家により後々まで抑圧や差別の危害を被(こうむ)り続ける。

前述のように、本新書は「ことばと国家」という言語の時代的あり様と国家の政治権力との関係を、比較的独立したいくつかのエッセイ的文章にて記し、それらを各章にして一冊の新書にまとめている。よって文献資料(史料)や言語理論に基づく厳密な学術考証は本書にはないけれど、これら近代の国民国家の成立に当たり、中央集権的な公的国家がそれまで各地域の地方にそれぞれに多様にあった言語を排斥し、一つの公的言語を掲げて強引に単一化してしまう文化統制的暴力について、本書では第4章に当たる「四・フランス革命と言語」と第5章に当たる「五・母語から国家語へ」の章にて、フランス革命に象徴される近代ヨーロッパでの公的国民国家形成に伴う事例と、近代日本における明治維新を経ての明治政府による事例とで「ことばと国家」をめぐる文化的統制暴力の概要を大まかではあるが素描している。本新書は全八つの章よりなるが、特に注目の読み所は「四・フランス革命と言語」と「五・母語から国家語へ」の二つの章だと私には思えた。これら二つの章は、言語文化のあり方の問題を介しての広い意味での近代批判(ポストモダン論議)にも実はなっているのだ。それほどの広い問題射程を有する本質議論の問題提起である。

本書の奥付(おくづけ)を見ると、著者の田中克彦は「1963年・一橋大学大学院社会学研究科修了、専攻・言語学、モンゴル学、現在・一橋大学教授」とある。著者は一橋大学社会学部出身であり、本新書執筆時には一橋大学教授の役職にある人であった。なるほど、一橋大学社会学部は、戦時のファシズム下で治安維持法で検挙されて当時の日本の国家に弾圧され、大学追放された経済学者の大塚金之助、そしてその大塚の弟子に当たる経済学者の高島善哉が戦後に尽力し創設設置した学部であった。ゆえに本学部出身者には「一橋社会学派」として、政治権力(国家)の介入統制を危険視して問題視する反権力で反国家主義を信条とする学問姿勢が昔から伝統的にあった。そのため政治権力たる国家が各地域に多様にあった言語を排斥し、一つの公的言語に強引に単一化してしまう文化抑圧統制という「ことばと国家」の問題について、「一橋社会学派」に属する著者の田中克彦が本新書のような書籍を上梓するのに私は非常に納得の思いがする。

また本書を読んで「ことばと国家」をめぐる政治権力による言語文化統制の暴力に対して、著者同様に相当に強い危機感を私は持つのである。

岩波新書の書評(445)梅本克己「唯物史観と現代」

ある人の生涯最後の上梓や絶筆は、それがどのようなものであっても無心に読まれるべきものがある。その書物には著者の生の存在の全てが、最期に渾身(こんしん)の力の重みをもって賭けられているような気がするからだ。

岩波新書の青、梅本克己「唯物史観と現代」(1974年)は梅本の絶筆である。本新書の末尾には岩波新書編集部による以下のような「編集部あとがき」の文章が掲載されている。

「本書の著者梅本克己先生は、本年一月十四日朝永眠された。突然のことであった。本書の御原稿は御逝去の前々日に完成されたものである。本書の作製に際しては、千代子夫人はもちろんのこと、実に多くの方々のご協力を得た。とくに武井邦夫・丈子氏ご夫妻と田辺典信氏にはやっかいな校正の労をとっていただいた。衷心からお礼申し上げたい。本書を梅本先生のご霊前にささげ、ご冥福をお祈り申し上げる。一九七四年六月・岩波新書編集部」

著者の梅本克己は前々日に原稿を完成した後に急逝したのである。1974年1月に亡くなり、本書が出版されたのは同年6月であった。岩波新書「唯物史観と現代」は、主にマルクス主義の哲学・社会思想史専攻であった梅本克己の生涯最後の上梓であり絶筆であった。ゆえに軽く読み流せない重みが本新書にはある。少なくとも私は、そうした梅本克己の人間存在の重みを感得して本書を決して軽く読み流せないのであった。事あるごとに頻繁に何度も読み返してしまう。

梅本克己「唯物史観と現代」ではなくても、唯物史観解説の類書はいくつもある。梅本以外にも向坂逸郎、大内兵衛、芝田進午、平田清明ら優秀な同時代の唯物論解説の書き手が私には思い浮かぶ。彼らの著作もよいのだけれど、梅本克己の絶筆の岩波新書「唯物史観と現代」を私はよく読み返してしまう。本書は特別で、やはり重いのだ。

岩波新書「唯物史観と現代」は、まずマルクス主義哲学に対する通俗イメージの偏見を取り除き、次に「唯物史観」の哲学内容を概説し、そして最後に「現代」の時代状況、本書執筆時の1970年代のベトナム戦争の時事問題に引き付けて、東西冷戦下の米ソ両大国の「代理戦争」たる、かの戦争に関し、西側の資本国陣営のアメリカ・日本のみならず、東側の共産国陣営のソ連・中国に対しても何ら不当に肩入れ応援することなく、マルクスの唯物史観を支持する著者の梅本はそれら当時の共産国の国際政治の振る舞いに疑問を呈している。

ここでは、「旧ソ連や中国の現実の政治体制に見られるように、マルクス主義は一党独裁体制の政治を信奉するもの」とか、「唯物史観の唯物論は、物質以外の観念的なものを一切認めずに観念論を排する思想」とか即断してマルクスの思想を安易に全否定してしまうような日本の保守論壇や反共論者など、無視して放っておいてよい。こういう人達は(おそらくは)そもそもマルクスら唯物論の基本の文献すら真面目に読んだことがないだろうから。ないしは読んでも内容を理解できなかっただけの人達であるから、相手にする必要はない。

岩波新書「唯物史観と現代」に極めて簡潔に解説されているが、唯物論ないしは唯物史観を本当に学び知るには、

「存在、運動、矛盾、実践、労働、生産、欲望、意識(イデオロギー)、物象・疎外、連帯、革命」

最低限これら各項目について、有機的に系統建てて唯物論の観点立場から知らなければならない。もちろん、それら唯物論的思想を無批判に肯定して受け入れなくてもよい。これら各項目に対する解釈の相違の理解の幅は、実のところ各人にある。マルクス主義を正当に批判するには、こうした各項目認識へのまっとうな批判が必要であろう。それをできた人だけが、同様にまっとうな反共論者やマルクス主義への批判者になれる。マルクスないしは共産主義に対し、一党独裁とか観念論の排斥など、妙な偏見イメージのみで空想批判する人達は(そういう人々は昔から保守論壇にて多数いる)全く相手にならない。

梅本克己は、以前に戦後の思想論壇でいわゆる「主体性論争」をやって注目された人であり、この論争は日本共産党の共産主義者同士の内輪のセクト闘争にならずに、非マルクス主義の社会学者や文学者ら多数を巻き込んで、戦後日本思想の大きな争点になった。それは戦前戦中の近代日本にて、「人間が、ある思想を有するとはどういうことなのか」思想生成の仕組みや原理が個人の主体性に絡(から)めて、かつて一度も合理的な理論的視点から検討吟味されたことがないという日本社会の伝統的思想風土の根本欠落の深刻な問題に由来していた。人間の「主体性」といったものについて、これまで深く考えた経験が、戦前の一部の共産主義者を除いて多くの日本人にはほぼ皆無であったのだ。

梅本克己の著作は現在では絶版品切が多く今日、梅本の仕事を読み返して再評価するには、なかなか厳しい環境下にある。梅本克己その人が今では一般の人々にあまり知られていないのでは、の危惧すらある。しかし、そうした状況の中で梅本に関係する書籍が近年、例外的に復刻再刊される事例があった。梅本克己・佐藤昇・丸山眞男「現代日本の革新思想」(1966年、2002年に岩波現代文庫より上下二冊で復刊)である。本書は座談のメンバーに政治学者の丸山眞男がいたため、昨今の丸山ブームの丸山眞男の人気を当て込んでの復刊と思われる。マルクス主義と日本共産党への批判の丸山眞男から座談にて終始攻められ、マルクス主義擁護で割と防戦一方な梅本克己が本書にて読める。「公式主義」とか「理論信仰」とか「ミニチュアール天皇制の温存」などと、マルクス主義批判の丸山から厳しく攻め込まれても、逃げることなく応戦し苦戦するマルクス主義擁護の梅本克己の誠実な人柄が「現代日本の革新思想」を読んで偲(しの)ばれる。

岩波新書の書評(444)池上彰「先生!」

岩波新書の赤、池上彰「先生!」(2013年)の概要は以下だ。

「『先生!』─この言葉から喚起されるエピソードは何ですか?池上彰さんの呼びかけに、現場で実際に教えている人のほか、作家、医師、職人、タレントなど各界で活躍の二十七名が答えた。いじめや暴力問題にゆれ、教育制度改革が繰り返されているけれど、子どもと先生との関係は、かくも多様でおもしろい!希望のヒント満載のエッセイ集」(表紙カバー裏解説)

本書は池上彰の編であり、ジャーナリストの池上彰が各人に呼びかけて集めた「先生!」に関するエッセイを掲載したものである。「池上彰さんの呼びかけに、現場で実際に教えている人のほか、作家、医師、職人、タレントなど各界で活躍の二十七名が答えた」とあるが、エッセイを本新書に寄せた二十七名は、例えば太田光、押切もえ、しりあがり寿、乙武洋匡、天野篤、平田オリザ、山口香、パックン、武田美穂、武富健治、鈴木邦男、山口絵理子、関口光太郎、鈴木翔ほかである。

私は本書を手に取り実際に読み出して初めて気付いたのだが、これは将来学校教員になりたい、教員志望の大学生に教員免許取得の教職課程で読ませて、本書に関してのレポートを書いてこいと指示するような「学校教員志望の学生のための教材書籍」である。

岩波新書「先生!」に掲載の各人のエッセイは主に次の二つのタイプに分かれる。まず自身の主に小中高校時代に実際に接した教師の思い出のエピソード(いじめや不登校や自信喪失や習得困難の問題に対する先生の親身の指導、先生からの助言・気配り、先生から受けた自身への世界観や価値観の影響、後の自分の人生にもたらした転機、反面教師としたい駄目な先生から学んだことなど)を語ることを通して「先生という仕事とは何か」「先生は生徒に対しどうあるべきか」を読み手に知らしめるタイプのもの。もう一つは、今日の先生を取り巻く問題(過酷な労働環境、学級崩壊やいじめ・不登校の問題、進学主義、保護者からのクレームなど)への対処の仕方(子どもへの適切な接し方、いよいよの時の休職・離職のすすめなど)をあらかじめ教えようとするもの。前者のタイプは、例えば押切もえ、山口香、鈴木邦男ら、後者のそれには武富健治、石井志昴、鈴木翔らのものが該当する。

私は学校の先生にあまり興味も関心も持っていないので、そこまで本新書を真剣に読めなかった。自身の小中高校時代を振り返ってみても、私は幸運なことに学校生活にて、いじめや不登校や留年や退学などの過酷体験を持ったことはなかったし、特に学校の先生からお世話になったとか大変よく助言・指導をしてもらったといった、本新書コンセプトのような自分から「先生!」とハキハキと呼びかけることが出来る格別に思い入れのある「先生」体験を有していないのである。義務教育が終わって大学進学して、大学でたまたま相当に自分と気の合う指導教授に会って自分は幸運だったと思うけれど。私にとって思い出の深い「先生」といえば、その人だけである。

また私は教員の仕事をやったことがある。学校教員の仕事は確かに過酷である。とにかく長時間労働である。日々の教材研究や教材・試験作成と採点、通常の授業からイレギュラーな校務の雑務まで、やるべきことは実に多い。家に持ち帰っても仕事はなかなか終わらない。その他、教室の学生や職員室の同僚や上司(学年主任とか教科主任とか進学指導部の先生など)に気遣う日々の心労ストレスも大きかった。

岩波新書の赤、池上彰「先生!」を読んでいて、編者の池上彰による漫才師でタレントの太田光への巻末掲載のインタビュー(「学問を武器にして生徒とわかり合う」)の中での、「テレビの学園ドラマの熱血先生に憧れて、それを意識しているような先生はダメで…」云々の太田の話、児童・生徒の関心を無駄に引いたり、妙に生徒に取り入って親しく人気者になろうとしたり、親身になって熱血指導をやたらやりたがる教師が抱きがちな「教育の理想論」をバッサリ斬(き)って否定する彼の語りに私は共感した。

「いま、やけに学校に対して期待が大きすぎると思う」「やっぱり学校にそこまで期待しないほうが、正しいと俺は思うんですけどね」(インタビューでの太田光の発言)

もちろん、学校の先生は毎日の教務を手抜きでいい加減にやってよいわけではないし、生徒の方もそれなりに真剣に勉学に励み、真面目に学校生活を送らなければならないが、変に妙に学校の「先生!」に皆が期待し過ぎる社会は果たして健全なのか、常々私も疑問に思う。

岩波新書の書評(443)徳永恂「現代思想の断層」

私は一時期、大学進学後も遊びで大学入試問題を解いていたことがあった。そのとき、国立の大阪大学の二次試験問題の日本史や英語は年度によっては東京大学や京都大学のそれらよりもレベルの高い良問・難問で、「ここまでの大学入試問題を作成できるとは、大阪大学は相当に良い大学だ。大阪大学の教授陣は非常に優れている」の感慨を持った。

念のため、私は国立大阪大学のかつての卒業生でも現在の大阪大学関係者でもありません。私程度の低い学力と能力では大阪大学に入学できたり、大阪大学の教壇・キャンパスに立ち入ることなど到底あり得ないのである(苦笑)。

そんな国立大阪大学所属の優れた研究者の書き手といえば、例えば古くは日本中世史専攻の黒田俊雄、日本近世史専攻の脇田修、近年では日本思想史専攻の子安宣邦らがいる。アドルノに師事したドイツ哲学専攻の徳永恂も国立大阪大学で教鞭をとり今日、大阪大学名誉教授にある人であって、氏は私が昔から好きな「大阪学派」とも称すべき優秀な人達の内の一人なのであった。
 
岩波新書の赤、徳永恂(とくなが・まこと)「現代思想の断層」(2009年)の書籍タイトルになっている「断層」には、私が本書を読む限り以下の意味が込められている。

(1)本書にて取り上げられているヴェーバーからアドルノまでの「現代思想」と、キリスト教文化を基層としてきた従来の西洋思想との間に思想史上の裂け目や断裂の非連続が存在していることを指摘する文脈で、「断層」を「西洋の以前の近代主義と今日の現代思想との間に大きく横たわる断絶」という意味で用いている。

(2)本書にて取り上げられているヴェーバーからアドルノまでの四人の「現代思想」の思想家たちの思考を横断的に概観し、彼らの問題意識の共通を明らかにする過程で、「断層」を「西洋の以前の近代主義の上層に積み重なり位置する今日の現代思想とで、両者を共に貫ぬき連続してある断面図の縦の深さの共通項(「大きな物語」)」という意味でも用いている(これは著者の自身の入院体験での、循環器系統の断面写真による検査からヒントをもらったそうである。つまりは一定の視点から何枚かの断面図をとり、それらを重ね合わせることで断面の縦の流れの変異を察知するという医学的CT画像診断の病状把握の方法に、かの近代思想と現代思想とを共通して貫き走る「断層」あぶりだしの方法論は依拠しているという)

しかしながら岩波新書「現代思想の断層」を読み中途で、私はこれら2つの著者からする「断層」の意味に加え、さらに以下のものも早急に読み込みたい強い衝動に駆られていた。すなわち、

(3)本書にて取り上げられているヴェーバーからアドルノまでの四人の「現代思想」の思想家たちが以前に語った、しかし後に様々な新しい思想が現れ上積みされて、今となっては古層として地中深くに埋もれ一時的に忘れられている「現代思想」が、後の人々に新たに発掘され再発見され改めて読まれ驚かれて、後世の人々の価値意識を一挙に揺るがし強烈な影響を与える。そう、地中深くに眠っている「断層」が長い年月を経て、ある時に突如、大きくズレて揺れ動き地表にいる後の人々の価値意識や思想を一挙に破壊し再構築を激しく促す、「(活)断層」のような「現代思想」といった意味として。

思えば、「断層」という言葉が世間一般に広く知られるようになったのは1995年に発生した兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災によってであった。少なくとも私は「断層」という言葉を阪神・淡路大震災を契機にその時、初めて知った。阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震は、淡路島から大阪北部に位置する六甲・淡路島断層帯での断層のズレにより、あの激しい地表の揺れはもたらされた。特に活断層とは、あたかも以前に密(ひそ)かに知らず知らずのうちに地中深くにセットされた強力な破壊力を有する時限爆弾装置のようでもあり、それが人々が忘れた頃に装置が作動し断層がズレて大きく動き、地中深くから地表の人々に甚大な地震の被害をもたらす。こういった「(活)断層」の意味も、岩波新書「現代思想の断層」のうちに私としては読み込みたい心持ちなのである。

岩波新書、徳永恂「現代思想の断層」の概要は以下だ。

「神は死んだ─ニーチェの宣告は、ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い『断層』をもたらした。『神の力』から解き放たれ、戦争と暴力の絶えない二0世紀に、思想家たちは自らの思想をどのように模索したか。ウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノ、ハイデガーらの、未完に終った主著から読み解く」(表紙カバー裏解説)

さらに本書の目次も見よう。本新書は「はじめに」と「断層の断面図あるいは、『大きな物語』の発掘─あとがきに代えて」をそれぞれ冒頭と巻末に置き、本論は全四章よりなる。

「第1章・マックス・ウェーバーと『価値の多神教』、第2章・フロイトと『偶像禁止』、第3章・ベンヤミンと『歴史の天使』、第4章・アドルノと『故郷』の問題」

岩波新書「現代思想の断層」の副題は「『神なき時代』の模索」である。一般に「近代」は理性主義や科学主義の立場から宗教否定の脱宗教の時代と捉えられがちであるが、実はそうではない。このことは「西洋近代の思想家」といわれるデカルトからロック、カントやヘーゲルに至るまで西洋近代思想史を概観するだけですぐに分かる。デカルトから始まってヘーゲルに至る「近代」の思想家たちはいずれも熱烈なキリスト者であり、神の存在を認めていた。そうしてキリスト教の一神教的な神の存在を世俗的な文明社会の人間の主体性に落とし込む形で彼らは、ある種の普遍的原理の確立を目指したのであった。

ところが、そのようなかつての「近代」の思想を、(本書でもよく引用される)ニーチェによる「神は死んだ」の宣告後の近代以降のポストモダン(脱近代)の明確に宗教が否定される(もしくは多くの人々が宗教的価値意識により生きなくなってしまった)「神なき時代」の現代において、宗教的な一神教の神の措定には頼れない所で、神に代わる新たな普遍的原理の規範構築が必要とされてきた。そうした「神なき時代」の近代以降のポストモダンな状況下で、ヴェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノの「現代思想」の4人による宗教的神に代わる普遍的原理や規範の構築をめぐる格闘に関する考察(「神なき時代」の模索!)として、私は本書を「神なき時代」の現代に生きる一人の人間の立場から相当な共感を持って極めて好意的に読んだ。加えて本書にて、近代の普遍規範(理性や人権や民主主義など)を安易に全否定し、結果として眼前の細かな実証主義的禁欲主義に終始する昨今流行し流通している低俗な近代批判のポストモダン論が、著者により一貫して厳しく明白に批判されていることは、もはや言うまでもないであろう。

岩波新書の徳永恂「現代思想の断層」の「はじめに」にある、ハバーマス「未完のプロジェクトとしての近代」に引き付けて「未完」の言葉に「今後、なお継承発展させるべき」(ないしは「引き継ぐべきリレーのバトンを受け取る」)の肯定的意味を読み込み、理性や民主政など実はキリスト教の宗教的神の普遍性に由来している「近代」の諸価値を、宗教的な一神教の神の措定には頼れない「神なき時代」の現代における、神に代わる新たな普遍的原理の規範構築への模索という、その思想史的営為の意味の再確認を読者に促し、そして「近代」から続く普遍原理の規範構築への模索の重要性を引き続き説く、以下のような著者の言葉は至言という他ない。

「ハバーマスは先年、『未完のプロジェクトとしての近代』という表題を掲げて、先走ったポストモダン論者を批判し、未だ守るべきものとして─理性や民主制などの─近代の諸価値を擁護した。それは個人としての彼の信念であるとともに、ヨーロッパのオピニオンリーダーとしての彼の社会的責任の表白でもあろう。その場合の『未完の』とは、『今後、なお継承発展させるべき』という肯定的な意味で使われている。しかし、私がこの本で、二0世紀中葉までの思想家たちに見てとれる挫折と中段の跡を、『未完の断章』と言うとき、私はそこに挫折の必然性を見届け、中途で倒れた志の墓碑銘を刻み、鎮魂の花束を捧げようとしているだけではない。『歴史が未完であるかぎり、物語もまた未完でなければならない』という方法的配慮もそこに働いている」(「はじめに」)

岩波新書の書評(442)大竹文雄「行動経済学の使い方」

岩波新書の赤、大竹文雄「行動経済学の使い方」(2019年)の概要はこうだ。

「私たちの生活は起きてから寝るまで意思決定の連続である。しかし、そのほとんどは、習慣的になっていて無意識に行われている。…人間の意思決定には、どのような特徴があるのだろうか。行動経済学は、人間の意思決定のクセを、いくつかの観点で整理してきた。すなわち、確実性効果と損失回避からなりたつプロスペクト理論、時間割引率の特性である現在バイアス、他人の効用や行動に影響を受ける社会的選好、そして合理的推論とは異なる系統的な直感的意思決定であるヒューリスティックスの4つである。つまり、人間の意思決定は合理的なものから予測可能な形でずれる。逆にいえば、行動経済学的な特性を使って、私たちの意思決定をより合理的なものに近づけることができるかもしれない。金銭的なインセンティヴや罰則付きの規制を使わないで、行動経済学的特性を用いて人々の行動をよりよいものにすることをナッジと呼ぶ」(「はじめに」)

そうして本書の効用として、

「この本では、行動経済学の考え方をわかりやすく解説し、行動経済学を使ったナッジの作り方と、仕事、健康、公共政策における具体的な応用例を紹介する。読者は行動経済学の基礎力と応用力を身につけることができるだろう」(「はじめに」ⅰ─ⅳページ)

としている。

著者がいう行動経済学により解明される「人間の意思決定のクセ」の各項目を、あくまでも本新書にある解説に沿ってまとめるとすれば、およそ以下の通りとなる。行動経済学が解明し整理してきた人間の意思決定の型には主に次の4つがある。

(1)「確実性効果と損失回避からなりたつプロスペクト理論」とは、実際の数値確率によるリスクや効用ではなくて、人は選択時に当人にとって不確実性が伴う意思決定においては、明らかに確実なものと、わずかに不確実を含むものとでは、前者の確実なものを強く好む傾向にある(確実性効果)。同様に、人は利得と損失に対する感情(満足と不満)は必ずしも数値的な対照ではなくて、利得よりも損失の方を大きく嫌う。この結果、利得と損失とが同程度ある場合、人は最初から損失を回避するような意思決定をしやすい(損失回避)というものである。

「確実性効果と損失回避からなりたつプロスペクト理論」に関係する事柄として以下のものがある。「フレーミング効果」(損失回避や確実性効果を背景にして、同じ内容であっても表現方法が異なるだけで人々の意思決定が異なること。例えば、顧客を操作して任意の消費行動に誘導するには「損失回避」と「確実性」を強調するような説明や宣伝の「フレーミング」をやればよい)。「現状維持バイアス」(現状変更が望ましい場合でも、現状を参照点と見なしてそれからの変更を損失と感じてしまう損失回避が発生するため、常に現状維持を好む保守的傾向)。「保有効果」(すでに所有しているものの価値を高く見積もり、ものを所有する前と所有した後で、そのものに対する価値の見積もりを変えてしまう特性のこと。一度所有してしまうと保有効果により現状維持バイアスが働いて、その保有物に対する価値が高くなったり、そのものを手放したくない感情行動に襲われる)。

(2)「時間割引率の特性である現在バイアス」とは、現在時点での一時的な見通しや感情に錯覚依存して、人は遠い将来への行動は先延ばしにして選択行動せず、かつ近い将来の行動は積極的に選択し実践する傾向にある(「現在バイアスから生じる先延ばし行動」)というものである。

「時間割引率の特性である現在バイアス」に関しては、「コミットメント手段の利用」(「現在バイアスから生じる先延ばし行動」を回避するための有効手段利用のこと。例えば、あらかじめ計画して行動手順の段取りを備える、目標や締め切りやノルマを事前に細かく決めておく、ノルマや締め切りを達成したり守れなかったりした場合の賞与と罰則の設定など)がある。また「コミットメント手段」を利用して現在バイアスから生じる先延ばしを防いでいる人のことを、行動経済学では「賢明な人」と呼ぶ。これに対し、現在バイアスがあるにもかかわらず、自分には現在バイアスはないと思っている人のことを「単純な人」と呼ぶ。行動経済学において「単純な人」と呼ばれる人は、先延ばし行動をとってしまい、忍耐強い計画を立てることはできても、計画実行の時点になるとその計画を反故(ほご)にしたり先延ばししたりして、結果的に近視的な行動をとる。

(3)「他人の効用や行動に影響を受ける社会的選好」とは、人は自分自身の物的・金銭的選好に加えて、自分以外の社会的な他者の物的・金銭的利得へ関心を示す選好(「社会的選好」)により、当人の経済行動が規定されるというものである。

「社会的選好」には以下の3つがある。(a)「利他性」(他人の満足度が上がると自分も幸福になる利他の心情に基づき、そのように選択行動すること。これには、他人の幸福度が高まることが、そのまま自分の幸福度を高めると感じられる「純粋な利他性」と、他人のためになる行動や寄付等をする自身の利他行動自体に喜びを得て、そのように選択行動する「ウォーム・グロー(暖かな光)」がある)。(b)「互恵性」(他人が自分にしてくれた利得や恩恵行為に対し、それを返すという選好のこと。利得や恩恵を与えてくれた人に対し直接に返す場合は「直接互恵性」、別の人に利得や恩恵を返すことで間接的に返すことを「間接互恵性」と呼ぶ)。(c)「不平等回避」(他人よりも自分が高いことや低いことの、他者との不平等が自身の満足感を下げ、結果その不平等回避となるよう個人が行動すること。「優位の不平等回避」の場合には、自分が他者よりも恵まれている状況に悲しい気持ちになるので、恵まれない他者に再分配して自己の満足を得るような選択行動を取る。逆に「劣位の不平等回復」では、自分よりも恵まれている他者に不満を抱いて自身の劣位の不平等回復を他者や社会全体に求める行動をとる。いつの時代でも社会では、優位の不平等回避よりも劣位の不平等回避の方が強い人が多い傾向にある)

(4)「合理的推論とは異なる系統的な直感的意思決定であるヒューリスティックス」とは、合理的な推論に基づくそれではなくて、しばしば人は系統的に偏(かたよ)った非合理な直感的意思決定を行うというものである。従来の伝統的経済学では、人間は得られる情報を最大限に用いて合理的な推論に基づき意思決定すると考えられてきたが、実際には、そうした合理的意思決定に際し情報収集や想定計算ら、あらかじめ思考費用の負担がかかるため、人は「ヒューリスティックス」と呼ばれる時に安直とも思われる安易な直感的意思決定をよくしてしまう。「ヒューリスティックス」とは「近道による意思決定」という意味だ。

「合理的推論とは異なる系統的な直感的意思決定であるヒューリスティックス」には以下のものがある。「意思力」(精神的あるいは肉体的に疲労している時、人間の意思決定能力そのものが低下し、人は正常な合理的判断ができなくなる)。「選択過剰負荷と情報過剰負荷」(意思決定における選択肢が多い場合、どれを選ぶかが困難になり結局、意思決定そのものをしなくなる。同様に情報が多すぎると情報を正しく評価して良い意思決定ができなくなる)。「利用可能性ヒューリスティックス」(正確な情報を手に入れないか、そうした情報を利用しないで身近な情報や即座に思い浮かぶような知識をもとに意思決定をしてしまう)。「アンカリング効果」(全く無意味な数字であっても、最初に与えられた数字を参照点として無意識に用いてしまい、その数字に後の一連の意思決定が左右される)など。

以上、行動経済学が指摘する人間の意思決定の4つの指標に関する引用説明が長くなったが、岩波新書「行動経済学の使い方」を始めとして行動経済学に関する書籍を読んで私が知る限りでは、かの行動経済学の本領は従前の伝統的経済学への対抗批判にあり、行動経済学の本質をなす幾つかの柱の内で最重要な一番の読み所は、不確実性のもとでの人間の意思決定には無意識な習慣性や時に非合理な心理的なものが相当な割合を占めるので、非合理なそれら心理的要素を経済理論構築に繰り込まなければならないという主張の立場である。従来の経済学では、計算能力が高く情報を最大限に利用して自分の利益を最大にする合理的な行動計画を立て、それを実行できるような人間像を考えてきた。ところが、行動経済学によれば、個人の消費行動でも企業組織や国家法人の経済活動においても、そのような合理的意思決定ではなくて、その時々の人間心理(損実回避や確実性確保の衝動、現在バイアスによる錯覚、他者との間での社会的選好、ヒューリスティックスという直感的決定)に意思決定や経済行動は大きく左右される、とするのであった。

昨今、流行の行動経済学である。私は行動経済学にもともと懐疑的であり、かなり否定的であるので、岩波新書の大竹文雄「行動経済学の使い方」を含めて、行動経済学に関する書籍はそこまで真面目に読む気になれなかったし事実、これまで真面目に読んでいない。今の世の中には唾棄(だき)して回避すべき、興味を持って積極的に関わってはいけない恐るべき行動経済学(もどき)な知恵・知識の開陳や方法教授の罠があふれている。このことは、今日のインターネット上での情報商材や街の書店のビジネス書や自己啓蒙書籍に行動経済学理論がよく取り上げられていることからも明白だ。

従来の伝統的経済学への対抗批判として現れ、人間の意思決定や経済行動には、合理的で理性的な判断よりも、時に非合理な心理的要素に左右されるとする行動経済学の理論には、そうした非合理で不確かな人間の心理的錯覚を逆手に取り、顧客を消費選択行動に暗に誘導しようとする、霊感催眠商法の詐欺まがいや今日のネット上での怪しい販売サイトの手法にも通じる「他者の操作」という反倫理的な問題を少なからず含む。

よくよく考えてみれば行動経済学にて理論的に指摘されているものは、わざわざ「行動経済学」という学問として理論化させなくても、昔から路上のテキ屋の物売りや霊感催眠商法の詐欺まがいや今日のネット上での怪しい販売サイトにて、その手法は経験的に知られ、その筋の人達により伝統的に長く一部悪用され続けてきたものだ。

例えば、前述の「確実性効果と損失回避からなりたつプロスペクト理論」における「フレーミング効果」での、買い手の損実回避の嗜好を刺激して購買行動を相手に促すやり方は、映画「男はつらいよ」の主人公・車寅次郎が日常的に毎回やっているような、なめらかな口上の話術にて相手をその気させ、半額から始めて客とのやり取りで最後は7割や8割の異常な値引きをし、客に根負けしたふりをして「こうならヤケだ、持ってけ泥棒!」で買い手の名乗りを上げさせる伝統的なテキ屋の口上、はたまた割と高額な健康サプリメント商品をなぜか日割りに換算して「1日あたり、たったこれだけ」の割安感を無駄に強調しての商品販売など、その典型だ。特に行動経済学に熟知していなくても、正常な常識的判断ができる人なら「もともとの原価が安く、始めから定価を異常な高額に定めているため、最終的に7割や8割の大幅値引きをしても、それでも利益が出るような仕組みになっているのだろう」と醒(さ)めた目でテキ屋の叩き売り口上を軽くいなしたり、「なぜ商品価格をわざわざ日割り換算にするのか!?どんな高額商品でも日割りに変換すれば数字的に安くなり、割安感をアピールできてしまう 」と健康サプリの「フレーミング効果」を狙った大げさな宣伝広告に冷静なツッコミを入れたりする。その程度の、昔からあって伝統的に悪用され続けてきた「経済理論らしき」だましの手口でしかない。昨今、行動経済学の理論として持ち上げられ、もてはやされているものは。

その他、「合理的推論とは異なる系統的な直感的意思決定であるヒューリスティックス」における「選択過剰負荷と情報過剰負荷」に即し、契約書内容や販売目録にて、わざと選択肢を増やし情報を過剰に提供したり、逆に極度に選択肢を減らし、その中から「不自由な選択」を強制的にさせたりして結果、異常に偏り制約された選択肢と情報提供下にて顧客を購買行動に暗に、しかし強力に誘導する詐欺商法の事例も昔から今日に至るまで数多くある。

そうして岩波新書「行動経済学の使い方」の著者である大竹文雄は、そういった今日、行動経済学の理論とされるものが、本当は昔から路上のテキ屋の物売りや霊感催眠商法の詐欺まがいや今日のネット上での怪しい販売サイトにて、その手法は経験的に知られ、その筋の人達により伝統的に長く一部悪用され続けてきたものであることを実は知っているのである。何しろ、そうした行動経済学の理論に該当するものが昔からあって、霊感催眠商法や一部のネット上での販売サイトや情報商材の商売にて活用されてきた「行動経済学の(不適切で怪しい)使い方」の実態の現実をそもそも知らなければ、わざわざ自著に「行動経済学の使い方」というような、「行動経済学の正しい適切な使い方」を読者に指南するような書籍タイトルにしないだろう(笑)。しかも著者の大竹文雄は、本新書にて「行動経済学の使い方」を述べる際には「ナッジ」(行動経済学的手段を用いて選択の自由を確保しながら、金銭的なインセンティブや罰則規制を用いないで合理的な行動変容を引き起こすこと)という正当価値誘導への概念を噛(か)ませてた上での、本書にての行動経済学のより適切で正しい「使い方」のすすめなのであった。

以上のことを踏まえると、最終的には行動経済学を肯定し、これを経済学の一分野の学問として確立させたい著者の行動経済学振興の経済学者の立場からして、私のような行動経済学に対し否定的であり不遜(ふそん)な立場の、「よくよく考えてみれば行動経済学にて理論的に指摘されているものは、わざわざ『行動経済学』という学問として理論化させなくても、昔から路上のテキ屋の物売りや霊感催眠商法の詐欺まがいや今日のネット上での怪しい販売サイトにて、その手法は経験的に知られ、その筋の人達により伝統的に長く一部悪用され続けてきたもの」とするような理解に反論し、「確かに行動経済学には他者の意思決定や経済行動を操作し心理的に誘導する要素もあるが、それだけではない。行動経済学は大いに使えるべきものである」旨を著者が力説する、本新書にての「ナッジは危険なのか?」の節(74─77ページ)は、なかなかの読み所と言える。

岩波新書の赤、大竹文雄「行動経済学の使い方」を実際に手に取り読む人は、「ナッジは危険なのか?」の節での著者による行動経済学の擁護と持ち上げの一連の記述に注目していただきたい。この箇所が本新書の一つのヤマの読み所である。

岩波新書の書評(441)鬼頭昭雄「異常気象と地球温暖化」

岩波新書の赤、鬼頭昭雄「異常気象と地球温暖化」(2015年)の概要は以下だ。

「熱波や大雪、『経験したことがない大雨』など人々の意表をつく異常気象は、実は気象の自然な変動の現れである。しかし将来、温暖化の進行とともに極端な気象の頻度が増し、今日の『異常』が普通になる世界がやってくる。IPCC報告書の執筆者が、異常気象と温暖化の関係を解きほぐし、変動する気候の過去・現在・未来を語る」(表紙カバー裏解説)

確かに、私の日常生活の実感からしても近年は「異常気象」が多く「地球温暖化」が確実に年々進行しているように思える。まさに「経験したことがない大雨」で、まるで熱帯地方で降り注ぐような強烈なゲリラ豪雨、それに伴う深刻な浸水被害が近年ではほぼ毎年、日本各地で発生するようになった。また日本は四季を通じて、いつの季節でも全体として気温上昇の傾向にあり、着実に年々暑くなってきていると感じる。通常、8月が過ぎた9月や10月は秋の季節であり、徐々に涼しくなっていくはずだが、事実、私が子どもの頃はそうだったが、昨今では10月になっても、まだ残暑の延長のようで暑い。秋冬物への衣替えが9月に入っても必要にならない。今日、日本列島は一部、熱帯気候帯に属しているようでもある。

岩波新書「異常気象と地球温暖化」の内容は、そのタイトル通り、こうした今日の気象現象や環境問題の理論を取り上げて、気候学専攻である著者が気象学に専門外な一般読者へ向け易しく丁寧に解説している。本新書の著者の鬼頭昭雄は、本書執筆時には筑波大学生命環境系主観研究員の役職にあり、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第1作業部会の第2次から第5次報告書までの執筆を務めた人でもあった。

本書を読んでまず、私が「少しだけ良い」と好感を持てたのは、今日の「異常気象」の頻発は「地球温暖化」の影響によるものとした場合に、著者が「それは火力発電の排気や自動車の排出ガスなど二酸化炭素の温室効果ガスの大量排出によるものだ(怒)」と一面的に判断し、経済的で快適な日々の生活にて知らず知らずの内に、石炭を用いた火力発電や自動車の排出ガスや工場の排気など化石燃料の燃焼に伴う二酸化炭素を主とした温室効果ガス濃度の上昇を招いている現在の人々の生活習慣や消費行動を、有無も言わさず叱(しか)りつけたり、一部の文明批判な科学者や熱烈な環境問題活動家(エコロジスト)のように、いつの間にか自身が優越の高みから一方的に倫理的説教を打(ぶ)ったりしていない所だ。私が見るところ、現在進行中の「異常気象と地球温暖化」には、人々の生活や経済活動家よりなる温室効果ガス濃度の上昇を内実とする「人為の温暖化」以外にも、そもそもの地球の気候自体における寒冷化と温暖化の長期気候変動サイクルからの影響も確実にある。

事実、本書によれば、地球の長期的気候変動は最近は約10万年周期で氷期と間氷期が繰り返されており、直近の氷期は約1万年前に終了し、現在の地球気候は間氷期に当たる。千年単位の過去の世界の気温は、19世紀までは全地域で寒冷化していたが、20世紀には南極以外の全地域で温暖化に転換しているという。現在の2000年代以降、21世紀の地球は、これまでの寒冷化のサイクルから温暖化のそれに長く連続して移行しており、ゆえに今日、南極の氷が徐々に溶け出しているとかシベリアの永久凍土が地表露出しているとか、かつて寒冷気候であった地域が温帯化や熱帯化しているなどの地球温暖化現象は、人類による二酸化炭素ら温室効果ガス排出の蓄積云々に関係なく、いくらかは自然に進行する地球自体の温暖化現象というのが根底にある。だからといって、今日の「異常気象と地球温暖化」が地球の長期気候変動から、ある程度は説明され得るとしても、現在の地球温暖化の温度上昇ペースはかつての地球の歴史にはないほどに異常で速く、実に憂慮すべきものがあり、二酸化炭素ら温室効果ガス削減の取り組みへの努力を今の人類が開き直って完全放棄してよいことには全くならないが。

今日の「異常気象と地球温暖化」の原因の考察に当たり、そういった化石燃料の燃焼にての二酸化炭素排出による温室効果ガス濃度の上昇という「人為の温暖化」以外での、そもそもの地球の寒冷化から温暖化への傾向という、ある意味、極めて当たり前で自然な現象である長期気候変動サイクルも勘案して、それへの理解を促す記述が本書には控えめであるが見られる。その証左は先に引用した表紙カバー裏解説で言えば、「熱波や大雪、『経験したことがない大雨』など人々の意表をつく異常気象は、実は気象の自然な変動の現れである」とする書き出し文だ。ここに、「かつて『経験したことがない』異常気象や地球温暖化が今日生じたとしても、そうした気象変動は人為以外での地球そのものの本来的な自然現象からも想定され、ある程度は説明しうる」旨の、「異常気象と地球温暖化」の問題に処する際の著者の科学者としての冷静で公正な態度を、私達は確かに読み取るべきであろう。

鬼頭昭雄「異常気象と地球温暖化」の副題は「未来に何が待っているか」である。「異常気象と地球温暖化」の進行の未来がもたらすこと、自然科学的なこと(このまま地球温暖化が年々進むとして、将来的に例えば「永久凍土の融解による凍土中のメタンの大気放出で温暖化は加速されるか」「アマゾンの森林は枯渇するか」「北極の海氷は消滅するか」ら)について、著者は「定量的な予測は困難」「結果の予測は困難」「結論づけるのは困難」など、つまりは「現時点では予測できず、わからない」をやたら連発する(笑)。その分、「現時点では何も予測できないし何もわからない」地球温暖化がもたらす科学的な影響以外での、「異常気象と地球温暖化」がもたらす「未来の人類に待っている」社会的困難については、

「地球温暖化という長期的な気候変動は、水循環の変化、自然生態系の変化をもたらし、それは農作物や人間の健康への悪影響につながり、気象・気候の極端現象たる熱波、干ばつ、洪水、台風、山火事のハザードの頻度が高まる。より具体的には、食糧生産と水供給の断絶、インフラや住居の損害、羅病率や死亡の増大といった人間の精神的健康と人間の福祉に深刻な影響を及ぼす。そうして、ついには人間社会の不平等・貧困の拡大、暴力的紛争の発生を引き起こす。今、早急に対策を始めないと後で後悔することになる。『後』とは、子や孫の世代だけでなく、自分自身の世代でもあるのです」

の旨を述べて、地球温暖化という気候変動リスクが誘発する科学分野以外での人間社会の行く末には割と、はっきりと断定し未来予測して警鐘を鳴らしている。地球温暖化がもたらす科学的なことに関し「現時点では何も予測できないし何もわからない」を連発する著者の科学者としての慎重さとは対照的に、「地球温暖化という気候変動リスクがもたらす、科学分野以外での人間社会の行く末」について、「社会の不平等・貧困の拡大、暴力的紛争の発生を引き起こす。今対策を始めないと後で後悔することになる」とやたら危機感をもって前のめりで脅迫的に強く訴える著者の姿勢が岩波新書の赤、鬼頭昭雄「異常気象と地球温暖化」を一読して後々まで私の中で深く印象に残る。