アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(474)田中美知太郎「古典への案内」

他社の新興新書と比べ、日本で最初の新書形態をとった古参の岩波新書に古代ギリシアの哲学や文学や美術の、いわゆる「古典」に関する新書が多いのは、昔は一般に「古典」と言えば主に古代ギリシア時代のそれであり、「プラトン全集」や「アリストテレス全集」の刊行など、日本での古代ギリシアに関する書籍の版権を昔から持ち、出版に際して翻訳・監修の古代ギリシアの研究者とそもそものつながりが岩波書店は特に深かったからに違いない。

最近は「古典」と言えば、その分野で長く好評で定番な書籍や以前に売れたベストセラーなどを幅広く指すが、昔は「古典」と言ったら、人間社会の文明のほぼ最初の開化の時代である古代ギリシアの哲学・文学・美術の一択であり、古代ギリシアに関するものが必読の「古典」として若者によく勧められ、また若者を中心に熱心に読まれている時代が確かにあった。なるほど、岩波新書のバックナンバーを見ても、ソクラテス、プラトン、アリストテレスら古代ギリシア哲学についての書籍は実に多彩であり、そして田中美知太郎、藤沢令夫、山本光雄ら古代ギリシア哲学専攻の優れた書き手が昔の岩波新書には多数いたのだった。

岩波新書の青、田中美知太郎「古典への案内」(1967年)は、サブタイトルが「ギリシア天才の創造を通して」であり、本新書は古代ギリシアの「叙事詩と歴史と悲劇」の哲学・文学に関する紹介であって、主に初学者へ向けてのタイトル通りの「古典への案内」である。著者の田中美知太郎は、ソクラテスとプラトンを専門とする西洋哲学専攻の学者であり、古代ギリシア哲学の碩学である。氏のギリシア哲学についての著作は確かに素晴らしいものがある。例えば、田中美知太郎「哲学初歩」(1950年)や田中「ソクラテス」(1957年)は、いずれも相当な名著であり、(少なくとも私は)繰り返し何度読んでも読み飽きないのである。

ただし田中美知太郎は、専攻の西洋哲学以外の分野はほとんど無知で全く駄目で、案外デタラメな人だった。田中美知太郎は、戦前の大日本帝国(近代天皇制国家)の国策遂行の戦争に理論的正当化をなし、戦後に「知識人の戦争責任」の追及を受けて追放された、かつての西田幾多郎や田辺元ら京都学派の後を受けて戦後の京都大学文学部哲学科を引き継いだ哲学者の一人であった。

そうした「哲学と国家の癒着(ゆちゃく)」の政治的責任の問題を抱えた戦後の京大哲学科の関係者であるにもかかわらず、田中美知太郎は「哲学(学問)と国家」の近すぎる共犯の問題を何ら考慮せず主体的には引き受けず、逆に戦後に京大哲学科の教官の立場から自民党保守政府の憲法改正に賛同し、積極的にこれを応援して、「現存憲法の戦争放棄の平和主義など、単なる綺麗ごとの理想論のお題目でしかない。非武装で丸腰の国家など他国にすぐに攻撃され滅ぼされる。今こそ憲法改正して再軍備を!」の旨の、戦後日本の右派保守論者にありがちな極めて荒い議論の「真空理論」(真空の空白があれば、たちまちそこに空気が入り込んで充満するように、非武装で軍事的空白がある地域や国家はたちまち周辺他国から軍事的に攻められ占領されるという理論)や、「戸締まり再軍備論」(戸締まりしていない無防備でお人好しな家がすぐに泥棒に入られるように、軍事的に無力で非武装な国家もすぐに他国から攻撃・占領されてしまう。そうならないよう常日頃から軍備増強して備えておくべきとする考え)を主張して、自身が専攻の古代ギリシアの西洋哲学の著作以外にも、現代政治に関する時事論の書籍も何冊も出してしまう。

その上、当時保守論壇を牽引し経済的に支えていた「文藝春秋」の援助の下で、田中美知太郎は保守系知識人団体「日本文化会議」(1968年結成)の発起人と初代理事長にまでなり、戦後日本の自民党保守政権下にて、憲法改正論議らを通して現政府の国家に積極的に協力し勢力的に応援してしまうのであった。

例えば以下のような、田中美知太郎による現行の日本国憲法の平和主義(「いわゆる平和憲法」)に対する、「台風を放棄すると憲法に明記すれば、台風は来なくなるのか。平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方がよい」の皮肉の口吻(こうふん)である。

「平和というものは、われわれが平和の歌を歌っていればそれで守られるというものではない。いわゆる平和憲法だけで平和が保証されるなら、ついでに台風の襲来も憲法で禁止しておいた方がよかったかも知れない」(田中美知太郎「敢えて言う」1958年)

私は、田中の古代ギリシア哲学の論考の精密で硬質な学術的文筆の素晴らしさに感心する度に、それとは対照的に極めて荒く俗っぽい田中美知太郎の日本の現代政治の時事論も同時に読んで失笑を禁じ得ない。田中美知太郎には、氏の稚拙な床屋政談レベルの現代政治への提言を読む限り、氏の中には人間が思索することを通しての規範や理念の普遍性の契機が全くないのであった。田中において、反戦平和の主張や戦争責任追及の反省議論や協調(平和)外交への働きかけは、現実的に力が劣る弱者の理屈で「単なる綺麗ごとの理想論のお題目」でしかなく、現実世界は「力こそ正義」の弱肉強食で「力のあるものが勝って生き残る」の路線の下に、言語による観念的理念や規範とそれへの実践努力は一刀両断、即に全面否定されてしまう。

ここにおいて、普段から本業の西洋哲学の古代ギリシア哲学にて「ロゴスとイデア」などと言っている田中美知太郎の古代ギリシア哲学における、人間が言葉を用いて思索することの意味の内実を改めて批判的に再検討する必要に私達は迫られるだろう。しかし、この話を続けると相当に長くなるので、ここでは詳しく述べないのだが。また別の機会があれば、田中美知太郎における現代日本の現実政治への提言から遡及(そきゅう)して明らかにされるべき、氏の古代ギリシア哲学認識におけるソクラテスとプラトンの「ロゴス」ないしは「イデア」(真理、規範、理性法則)の理解内実の問題について詳述してみたい。

さて岩波新書の青、田中美知太郎「古典への案内」である。ここまで書いてきて、もはや誰にも信じてもらえないかもしれないが(笑)、こうみえても私は西洋哲学、なかでも古代ギリシア哲学専攻の田中美知太郎その人を氏の哲学仕事に関してのみ、日頃から読み重ねてかなり尊敬しているのである。実のところ、私は相当な「田中美知太郎ファン」なのである。岩波新書の田中美知太郎といえば、青版の「ソクラテス」と同じく青版の「古典への案内」は共に良書といってよく、田中の数ある著作のなかでも必ず読まれるべきものであると思う。田中美知太郎は論述内容もさることながら、何よりも記述の文章が毎回、適切で硬質で良い。

岩波新書の田中美知太郎「古典への案内」は「まえがき」を冒頭に置き、全3章よりなる。以下、本書の目次を書き出してみると、

「まえがき。ホメロス─叙事詩の世界。ヘロドトス─歴史の成立。悲劇─アリストテレス理論を手がかりに」

ここで直截(ちょくせつ)に言おう。岩波新書「古典への案内」の最大の読み所は、西洋哲学が専門である田中美知太郎が古代ギリシアの哲学者、アリストテレス「詩学」の「創作論」を手がかりにして読み解く「悲劇とは何か」の定義解説の157ページからの一連の記述である(と私は思う)。この箇所には「アリストテレスの悲劇概念にとって、『いたましさ』と『おそろしさ』が大切な規定であることは明らかである。このことはわれわれをアリストテレスの有名な定義へと導くことになる。『トラゴーディアー(悲劇)とは…』」と続く、古代ギリシア人にとっての詩学上の悲劇の定義内容が田中美知太郎により簡潔にまとめられ、理論的に考察されている。特に古代ギリシアの文学や演劇を読み、かつ演ずる者は、アリストテレスを通しての「悲劇とは何か」の定義考察を理解しておく必要がある。

なるほど本論記述によれば、ギリシア悲劇において「悲劇」とは人間についての「いたましさ」(他者の苦難に対する同情・共感)と「おそろしさ」(自身にとっての恐怖、未知や自己の限界の認知)、その他「二重正義の矛盾の複合性」(複雑な正義の要求。すなわち、法的な正しさ・厳正さ・必罰と人間倫理の正しさとの二律背反)の描写なのであった。これら「いたましさ」や「おそろしさ」や「矛盾の複合性」は、動物にはない、人間のみが持ちうる感情認知の能力である。ここから岩波新書「古典への案内」の中で著者の田中美知太郎は必ずしも明確に書いてはいないが、「古典」とは人間だけが持ちうる輝かしい人間中心主義の理路を記したもの、と取り急ぎ私は結論しておきたい。

「『叙事詩』といえばホメロス、『悲劇』といえばアイスキュロスやエウリピデスの名前があげられるように、西洋文化を知るには、これら天才たちの作品に触れ、味読する必要があるだろう。わが国ではとかく縁遠いと思われる古代ギリシアの作品が、実は誰が読んでも面白く、いかにすぐれたものであるのかを懇切に案内する」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(473)川崎庸之「天武天皇」

「天武天皇(?─686年)。生年は不明、在位は673年から686年。舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。両親を同じくする中大兄皇子の弟にあたる。皇后は後に持統天皇となった。天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子を倒し、その翌年に即位した。飛鳥浄御原宮を造営し、その治世は続く持統天皇の時代とあわせて『天武・持統朝』の言葉で一括されることが多い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継いで完成させたもので、その発意は多く天武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。

天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘(せいちゅう)されず専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編するとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい都の藤原京の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂(へんさん)は、天武天皇が始めて死後に完成した事業とされる。道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本土着の伝統文化の形成に力があった。『天皇』を称号とし、『日本』を国号とした最初の天皇ともいわれる」

天武天皇の生涯をして、その一大転機は天智天皇の死去後、天武が大海人皇子の時代に大友皇子と皇位をめぐって争った古代日本最大の内乱である壬申の乱(672年)であったことは、おおよその人が同意する所であろう。壬申の乱に勝利の後、大海人皇子は天武天皇に即位し、天智天皇の後を継いで古代律令国家の建設に着手し、歴史に深く名を刻むこととなる。

日本古代史にて、四世紀の日本国土統一のヤマト王権から、七、八世紀の律令国家への移行は、大王を頂点として有力豪族による家産的特権の持ち回りによる私的な連合国家(王権国家)から、律令という法令により公的に運営される天皇を中心とする中央集権的な公的国家(律令国家)へのそれであった。何よりも従来のヤマト王権では、後の天皇となる大王は「私地私民」の慣例にて、豪族の家産である私地(田荘)や私有民(部曲)を直接支配できず、また中央政治も氏姓制度という、有力豪族による氏の既得特権的な家産持ち回りの私的政治であった(例えば、財政は大臣の蘇我氏、軍事は大連の物部氏が伝統的に担当するなど)。そのため、当時の先進国であった中国の隋や唐の律令制度に倣(なら)って、日本でも律令の法令に基づき、天皇が中間の豪族を排して全国の土地と人民とを直接に支配する「公地公民」の原則にて、中央政治も有力豪族の家産的特権の持ち回りではなくて個人の能力位階に依拠した厳格な官僚登用制度に基づく公的な律令国家の構築を志向したのである。

そのような律令の法令にて「公地公民」の原則や厳格な官僚登用制度の理念に基づく天皇中心の中央集権国家たる公的な律令国家は、大化改新(別名・乙巳の変、645年)を起点にそれへ向けての政治改革が本格的に始まる。蘇我蝦夷・入鹿父子排斥のクーデターである乙巳の変を中臣鎌足と共に断行して、大化改新の一連の改革を進めた中大兄皇子は、後に天智天皇に即位した。この後を天智の弟の天武天皇が引き継ぎ、さらにその後を天武の皇后である持統天皇が受け持ち、天武と持統の孫である文武天皇の時代の大宝律令の成立(701年)をもって、天皇を中心とする中央集権的な律令国家は一応完成したとされる。中大兄皇子と中臣鎌足らにより蘇我蝦夷・入鹿風父子が滅ぼされた乙巳の変(645年)の翌年に出された(と言われている)「改新の詔」(646年)から始まって文武天皇時の大宝律令の成立(701年)にて一応の完成を見るまで、古代日本の律令国家の形成は「天智─天武─持統─文武」の四代の天皇の治世に渡り、およそ五十年の期間を要したわけである。

天武天皇の生涯の一大転機となった、かの壬申の乱は、天智天皇の子の大友皇子に対し、天智の弟である大海人皇子が挙兵し勃発した天智以後の皇位をめぐる争いである。天智天皇死去(崩御)の時、天智の弟であった大海人皇子は壮年の40代、天智の子であった大友皇子はまだ青年の20代であった。白村江の戦い(663年)での大敗北を受けて、667年に都を内陸の近江大津宮へ移した天智天皇は、自身の子である大友皇子を太政大臣に据え自分の後継にする意思を示した。これを受け天智の弟である大海人皇子は皇子の地位を辞し、自ら出家を申し出て一度は吉野に下る。しかし天智死去(672年)の後、大海人は吉野を出立して挙兵。伊賀・伊勢から尾張・美濃を経て近江に入り、近江大津宮で迎え討った大友の軍を破って、大友皇子を自害させ乱は終結した。

(※吉野に下り出家して一度は皇位継承の道を断念した大海人皇子が、後に翻意(ほんい)し、挙兵して自らの天皇即位への執念を強く見せたのは、古人大兄皇子の事例があったからだといわれている。古人大兄皇子は、母が蘇我馬子の娘であり、入鹿とは従兄弟に当たる、舒明天皇の第一皇子であった。乙巳の変により蘇我蝦夷・入鹿父子が排斥され蘇我氏の有力な後ろ盾を失った古人大兄皇子は、皇極天皇の退位を受け皇位に即くことを進められるも、乙巳の変で蘇我蝦夷・入鹿父子を排斥した異母弟の中大兄皇子の動きを警戒し、出家して吉野に隠棲した。しかし、後に「古人大兄皇子が謀反の企て」の密告があり、中大兄皇子によって攻め滅ぼされたとされる。こうした以前の古人大兄皇子の事例が、後の大海人皇子には強く意識されたと考えられる。例えば、岩波新書の川崎庸之「天武天皇」(1952年)の中で、吉野に下り出家して一度は皇位継承を断念した大海人皇子が、後に翻意し挙兵を決意する際の記述に「古人大兄の先蹤(せんしょう・「前例」の意味)」なる言葉がよく出てくる。これは、たとえ皇位継承を辞退し出家したとしても、いずれは後に攻め滅ぼされた古人大兄皇子の事例の「先蹤」が、当時の大海人皇子に強く重くあったであろうことの推察による)

挙兵に際し、大海人皇子は近習の下級官人である舎人(とねり)や地方豪族の協力を得て、特に東国(尾張・美濃以東の東海道・東山道一帯を指す)の兵の動員に成功したため、乱にて勝利を収めたとされる。壬申の乱で、大海人側に下級官人である舎人や東国の地方豪族が付いたのは、それまでの天智の治世下にて、白村江の戦いの対外遠征や朝廷による畿内以東の東国経営に際しての度重なる重い軍役負担と租税収奪に対する直接的な不満が彼らにあったためといわれている。他方、大友皇子の近江朝廷側に付いたのは、天智の政治路線の継承を支持して、私有地・私有民に関する既得特権を保持したい畿内中央の有力氏族たちであった。そのため、中小の地方豪族を結集した大海人皇子が、既得特権の保持を求めて大友皇子側に付いた近江朝廷を打ち負かしたことにより、旧来の天智天皇と結びつきが強かった旧勢力が一掃されて、壬申の乱後の天武即位後の治世にて、天皇と中小の地方豪族らとの隔絶が明確となり、天皇の権力はより突出し一層の高まりを見せることとなる。壬申の乱で中小の地方豪族を結集した吉野の大海人皇子側の勝利にて、大友皇子に付いた天智朝からの旧来の近江朝廷側の中央の有力氏族が上手い具合に一斉排除される形になったのだった。

このことが、壬申の乱後の天武天皇の政治における、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におき、自らが専制君主として君臨した皇親政治と、この時代に特に進んだ天皇の神格化を可能にした。「現人神(あらひとがみ)」とは、人の姿となってこの世に現れた神の意である。「現人神」は天武朝で神格化が進んだ天皇を主に指す言葉であった。例えば、「大君(おおきみ)は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかずち)の上にいほりせるかも」の、天武天皇を称えた柿本人麻呂の歌など、天皇の神格化の典型事例といえる。

従来の「大王」から「天皇」の称号に改められたのも、天武天皇の時代からとされる。いわゆる「天武・持統朝」に、このように天皇と皇族を中心とした政治形態である皇親政治と天皇個人の神格化が急激に進行したのは、大海人皇子が壬申の乱の勝利を経て天武天皇として即位したため、大友皇子に付いた天智朝からの旧来の近江朝廷側の中央の有力氏族が上手い具合に一斉排除されて、勝ち残った天武個人の権力はより突出し一層の高まりを見せることになったという、前述のような公的な政治的背景も確かにあった。しかし、それ以外にも天武自身の個人的な天皇即位の経緯の事情という私的側面も大きくあった。

思えば壬申の乱とは、天智天皇が自身の子である大友皇子を後継とする意思を見せ、天智の弟である大海人皇子は皇子の地位を辞し、自ら出家を申し出て一度は吉野に下るのだが、後に翻意して挙兵し近江朝廷を攻めて大友皇子を自害に追い込んだ上で天武天皇として即位する、日本史上稀(まれ)に見る異例の「反乱」の内乱であった。いわば「反乱者」である大海人皇子、後の天武天皇となる彼の皇位継承の正統性への疑義は明白であった。こうした自らの皇位継承の正統性を明らかに欠いた、天皇即位の事情の経緯を隠蔽(いんぺい)し正当化するためにも、「天武・持統朝での天皇の神格化」という事績は天武天皇当人にとって極めて私的な喫緊の重要施策であったのだ。壬申の乱にて「反乱者」であった、かつての大海人皇子は、後に天武天皇に即位して早急に自らを「現人神」にする必要に迫られていた。

天智の弟である天武天皇が即位して(673年)、皇統は天武の子による天武系統がしばらく続く。後に天智天皇の孫である光仁天皇が即位し(770年)、天智系統が復活するが、天智の子の大友皇子の自害で天智系が途絶えて以来、天武系から天智系への移動は実に百年ぶりであった。

「日本書紀」と「古事記」という神話の時代から日本の歴史を説き出す国書の編纂は、日本古代を通じて万世一系の天皇統治の現今の正当化と共に、後の時代にも皇統連綿として天皇の治世が永続化することを狙ったイデオロギー的策術の一大文化事業であった。そうした「日本書紀」と「古事記」という国書編纂の文化事業開始の起点は、壬申の乱を経て後に即位した天武朝であったといわれている。これら「日本書紀」の成立に、古代の天皇中心の律令国家成立と永続の正当化という公的操作の側面を見ると同時に、実のところ先帝である天智天皇の意思に背き、壬申の乱という反乱を経て、半ば無理矢理に天智の後に即位した天武個人の私的事情も考慮されて然(しか)るべきであろう。天武朝での天皇神格化並びに「日本書紀」ら国史編纂事業の着手に際しての、自身の皇位継承の正当化を強引になす天武個人の私的事情も見逃してはならない。

一般に政治学にて、「王は神聖なるが故に最高権力を持つのではなく、逆に最高権力を持つが故に神聖となった」とはよく言われる。日本史において、日本史上稀に見る反乱の内乱であった古代の壬申の乱を経て、その皇位継承の正統性への疑義は明白であって、いわば「反乱者」であるにもかかわらず、当の大海人皇子、後の天武天皇をして「王は神聖なるが故に最高権力を持つのではなく、逆に最高権力を持つが故に神聖となった」を実に見事に、ここまで強烈に体現してみせた歴史上の人物を天武天皇以上に私は知らない。

加えて、天武天皇ならびに壬申の乱に関連し必ず押さえておくべきは、壬申の乱の当時、中臣鎌足の子の藤原不比等はまだ13歳だったことである。古代日本史を概観するたびに、壬申の乱勃発時、後の奈良・平安の時代に隆盛を極める藤原氏の嫡流である不比等がまだ13歳であったことに「歴史における天の配剤」の妙を感じて私はいつも感嘆せずにはいられない。

藤原氏は古代豪族の中臣氏から分岐した名族であって、蘇我蝦夷・入鹿父子排斥のクーデターである乙巳の変を断行し、大化改新の一連の改革を中大兄皇子(後の天智天皇)と共に進めた中臣鎌足に端を発する。中臣鎌足は臨終の間際、生前の功績により天智天皇から「大織冠(たいしょくかん)」の冠位を授与され、「藤原」の姓を賜(たまわ)った。これが後々まで続く藤原氏の始まりである。不比等が11歳の時に父の鎌足が亡くなり、「中臣」から「藤原」に改姓した藤原不比等は、父・鎌足の生前の関係で大友皇子側の近江朝廷に近い立場にいたが、壬申の乱当時、弱冠13歳であったため乱には何ら主体的に関与せず、乱終結後の天武側からの近江朝廷に対する処罰の対象にも、また天武側での功績の対象にも入らなかった。こうした壬申の乱後の、特に戦犯にはならないが、同様に積極的な功労者にも入らない、割合公平で絶妙な立ち位置にいて、藤原不比等は下級官吏の立身から始めて法律と文筆の才により次第に頭角を現していった。

確かに、大化改新で天智天皇(中大兄皇子)は中臣鎌足の助けを借りて改革断行しており、殊に大化改新での最大の「功臣」であった中臣氏、つまりは後の藤原氏は、当初より有力氏族の一角ではあった。しかし、天武・持統朝での藤原氏は、古くからのヤマト王権下での畿内の有力豪族を出自とする伝統的な軍事氏族であるよりは、新たな時代の公的官僚政治の律令国家体制下にて、法令制定の文筆の才である行政司書能力を自在に発揮できる有能な新興官僚の貴族政治家として台頭してきたのであった。後の奈良・平安時代での天皇家との外戚関係の構築と派手な他氏排斥の政争の常習にて藤原氏は、従来型の激しい軍事貴族のように一般には誤解されがちであるけれども、元は藤原氏といえば、公的官僚組織の律令組織下にて法令制定に関する行政能力の卓越さで着実に実績を積み重ね台頭してきた新しいタイプの新興貴族であったのだ。だから、藤原不比等個人の業績を見ても、大宝律令の制定に参画し養老律令編纂の中心となり、その卓越した政務能力を十二分に発揮したのだった。

この藤原不比等を経て、のちの奈良時代には不比等の子らの藤原四家が興(おこ)り、さらに続く平安時代には藤原四家のうちの北家が栄えて藤原道長・頼通父子による摂関政治の時代となり、ここに藤原氏は最大の繁栄の栄華を極めることとなる。

してみると翻(ひるがえ)って考えて、藤原氏の嫡流であるそもそもの藤原不比等が壬申の乱の当時まだ13歳であり、乱に何ら主体的に関与せず、壬申の乱後に特に戦犯にはならないが、また同様に積極的な功労者にも入らない、割合公平で絶妙な立ち位置にいて、そこから法律と文筆の才で有力貴族への階梯を徐々に登り始めることができたのは、まさに「歴史における天の配剤」であり、後の藤原氏にとって幸運この上ないことであった。壬申の乱や天武天皇に関連して、「藤原氏嫡流の藤原不比等が壬申の乱当時、まだ13歳であった」点に私はいつも感嘆の思いを禁じ得ない。

岩波新書の書評(472)桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」

(今回は、講談社現代新書の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」は岩波新書ではありません。)

先日、講談社現代新書の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」(1998年)を久しぶりに読んだ。本新書を私は大学時代の1990年代に繰り返しよく読んでいたのだった。本書の著者であり、現代思想のフーコに関する解説書などをよく出していた社会学者の桜井哲夫も、2000年代以降の現在ではあまり名を聞かなくなったが、昔はそれなりに有名で人気があった。ゆえに90年代に発行の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」は当時、私の周りではよく読まれていた。

本新書では「自己責任」や「無責任の体系」や「公と私」や「公共性」についての考察が主になされている。私が大学生であった1990年代、20代の頃は、日々の生活、例えば、毎日の食事で何を食べるか・どの飲食店に行くかや、いつも聴くべき・観るべき音楽と映画の選択や、よく乗っているお気に入りのバイクのことや、シーズン毎の新たな洋服の買い物や、知人との交際の成り行きや、時折の遠方へ旅に出る楽しみと同じくらいの割合の重みで、「自己責任論における『責任』とは何か」や「公と私の相違、つまりは『公』という公共性の本来的な意味は何か」などの、現代評論の話題(トピック)が自分の中では常に中心にあったのだった。誠に不思議で奇妙なことに、日々の生活費の金銭のことや、自分が病気になる心配とか己の体力が云々の健康問題については全く何にも考えなかった。そもそも考える必要がなかったし、それら事柄には思考ゼロの皆無であった。これが自分のことながら、人間にとっての輝ける青春の若さの時代の青年期というものか(爆笑)。とにかく、当時20代の私には「自己責任論における『責任』とは何か」とか、「公と私の相違とは何か」といったことが日々の生活の中で、また自身の実人生においても、自分の頭の中で相当な関心・注意を集めるかなりの重要事項であったのである。今にして思えば実に信じられないことであるが(笑)。だから、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」やその周辺の書籍を当時、私はよく読んだ。

桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」の表紙には、「国を挙げての無責任システム、横行する自己責任論。日本社会の病根を根源から問い直す」とある。本新書は以下の2つの議論により構成されている。

(1)「〈自己責任〉とは何か」(昨今の社会的弱者の切り捨てや貧困格差を放置し正当化しようとする「自己責任」という言葉の安易な使われ方の問題。そもそも「責任」とは何か。近代社会組織に横行する個人の「無責任」について)

(2)「『公』と『私』について」(公私の区分とその境界。「公」「公共性」とは何か。中国と日本における『公』、日本における『公』の重層性)

これらのことが、山一証券の廃業問題、住専問題(住宅金融専門会社の損出処理問題)、昨今の恋愛事情、日本の戦争責任、日本の戦後政治体制(「アメリカの影」)、新自由主義改革(規制緩和と行政改革)、ソ連の社会主義、戦時日本の計画経済、阪神・淡路大震災などの時事問題と、林真理子、川島武宜、奥村宏、丸山眞男、岸田秀、溝口雄三、田原嗣郎、柄谷行人、加藤典洋、フーコ、カント、アーレント、ハーバーマス、アダム・スミス、トレルチ、ロールズらの言説の引用紹介を交えて様々に述べられている。その詳細と本書での著者の主張については、実際に各自で本新書を手に取り読んで確認して頂きたい。

ところで、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」は、「アマゾン(Amazon)」のブックレビューを参照すると全体に評価はあまり高くない。むしろ、各人ともに評価は低い。昔から私も思っていたが、実は桜井「〈自己責任〉とは何か」には「そこまでよく出来た本ではない」の微妙な評価を抱いていた。考察・論考の内容はそこそこ良いのだが、各文章の書き方や全体的な論述構成や記述の際の段取りが良くない。率直に「著者は本の書き方が下手」と残念に思えるのだった。

後に桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」を読み返す度に、私には、本新書は反面教師な「文章読本」の認識であった。自然と、そのように本書を読んでいたのである。私も当ブログを始めとして日々文章を書くが、私は文章を書くのが下手なので、それなりに上手い文章、読む人の心に残る意味が伝わりやすい簡潔で明解(明快)な文筆とは何か、その方法に思い巡(めぐ)らしていた。自分なりに文筆上達したいと強く思っていたのである。

以下では、桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」にて、考察の内容の中身はそこそこ良いのだが、文章記述や論述展開が今ひとつと昔から私には思える本書の残念な点を取り急ぎ5つ挙げてみる。著者の桜井哲夫には誠に失礼で申し訳ないけれども、この逆をやり、それら問題点の失敗を反面教師として各人が生かすことができれば、自然と文筆上達するのでは、また桜井「〈自己責任〉とは何か」の書籍も読み手にとって、もう少し読み味が爽快(そうかい)な評価の高い良著になるのでは、の思いがするからである。

(1)本論が「です・ます」調で書かれているため、幼稚な悪印象を受ける。また「です・ます」調は無駄に字数を使うので文章が長くページ数も多く読ませる割には、中身が薄くなってしまう。一般に評論やレポートら公的な硬い内容の書物では話し言葉の「です・ます」調は避けるべきだ。

(2)「山一証券の廃業問題」や「住専問題(住宅金融専門会社の損出処理問題)」ら執筆当時の1990年代の社会を騒がせた時事問題が本書には、かなりの数、奔放自由に書き込まれている。そのため、後に時間が経って2020年代に読むと、いかにも古く色褪(あ)せた「今さらな感じ」が、そこはかとなく漂う。その書籍が後々まで長く読まれることを望むなら、書き手は執筆の際には時事的な最新のニュースや昨今の流行風俗の事柄は、なるべく制限し厳選し少なくして最低限の書き入れで済ます工夫をしたほうがよい。

(3)著者の見解・主張を傍証する際での、他の人の主張や理論を本論に引き込む際に、そのまま他者の発言や文章を直接引用せず、「私なりに内容を噛み砕いて要約した」式の間接的な引用が本書には多々見られる。このため、どこか著者の主観の独自の解釈が混ざったような不正確な引用にも思えて、本論記述に不審を抱く。引用に際しての著者の文筆に対する信頼度が下がる。他者の発言や文章の引用の際には、「私なりに内容を噛み砕いて要約した」云々の間接引用ではなくて、誤解がないよう直にそのまま原典から引いた方がよい。

(4)多くの話題が盛り込まれており、一つの話題(トピック)から別の話題へと頻繁に話が飛んで次々に話題転換するため、読んで取りとめがなく無駄に議論が拡散し結果、考察が薄められて、読後にも「何となく分かったような、やはり分からないような」の、ごちゃごちゃした雑多な読み味が残る。多くの話題を盛り込み論述展開するのは構わないが、その際には話の変わり目の境(さかい)が読み手に分からないように自然な話の流れを作る工夫や、前に述べた話題や言葉を読み手が忘れた頃に再度出して新たな意味を加えたり、前述内容の意味をあえてズラしたりする「事前に伏線を張って後に回収する」といった、快適に読者に読ませる文筆の技術(テクニック)が本書には欠けている。

(5)いちいち「責任」や「公」の厳密で細かな辞書的意味の引用や、その他、特になくても構わない引用・指摘の解説が論述の中途で雑に多くあるため同様に、無駄に議論が拡散し本書を読んでいて取りとめがなく、「何となく分かったような、やはり分からないような」の、ごちゃごちゃした雑多な読み味が残る。引用や説明の内容を厳選して、より少なく明解に記述する配慮が必要だ。少ない引用と解説の、より簡潔で本質的な本文記述で難なく話が読み手に通じるのであれば、それに越したことはなく、それが最良であり最善である。

そもそも文筆の際には、自分が考えていることを直接的に全て書いてはいけない。全部書かずに、あらかじめ抑(おさ)えて執筆しなければならない。高等余裕で文章を書くのが上手い人は、大概そうする。逆に、低俗で下品な人ほど、自分の考えていることを人前で紙面に全力で全て書きたがる。一般に自身の考えを相手に説得力を持って伝えたい場合、自分が思っていることを全部言葉にして出して言ってしまっては駄目だ。全部言ってしまうと、言外の深まりがなく余裕がなくなって説得力がなくなるから。適度に抑えて、いつも知っていること・考えていること・思っていることの6割くらいしか言わないし書かない、それくらいが説得力の出る、ちょうどよい加減である。しかしながら初心者や低俗・下品な輩(やから)は、クドく全部言って書いて詳しい説明を施さないと相手を説き伏せられない不安に常に苛(さいな)まれるから、全力で知っていること・考えていることを全部明かして自分の手の内を全てさらけ出して、逆に余裕がなく説得力が出ないマイナス印象を相手に与え、勝手に自滅する(笑)。そういう失態を書籍での文筆以外でも、日常的に私はよく目にする。               

講談社現代新書の桜井哲夫「〈自己責任〉とは何か」も、もう少し議論の話題を整理して、著者が書きたいことをそのまま全部書かずに内容を絞り込んで、より少ない引用と説明の簡潔で本質的な本文記述に徹すれば、読んで「何となく分かったような、やはり分からないような」の、ごちゃごちゃした雑多な読み味の難点は解消されるに違いない。

ただ最後に著者の名誉のために補足しておくと、「〈自己責任〉とは何か」の「あとがき」で著者の桜井哲夫は以下のように書いている。

「この本は、私のいわば義憤から生まれたような本です。言うなれば、現在の日本社会に対する抗議のためのパンフレットです。そのために、今までの私の著作とは異なった文体を用いました。できるだけ多くの人々に、高校生にも理解できるように書いたつもりです、時事的なパンフレットですから、事実関係に関しては、たくさんの研究者やジャーナリストの方々の仕事に多くを負いました」

なるほど、本書は「私のいわば義憤から生まれたような」「現在の日本社会に対する抗議のためのパンフレット」であるから、「高校生にも理解できるように」「今までの私の著作とは異なった文体を用い」て「時事的なパンフレットですから、事実関係に関しては、たくさんの研究者やジャーナリストの方々の仕事」を雑多に挙げたのであり、著者としては通常の著作よりも多少は手を抜いて軽い読み物のつもりで「現在の日本社会に対する抗議のためのパンフレット」程度に書いたという。ゆえに講談社現代新書「〈自己責任〉とは何か」に関し、そこまで真面目に読んで酷評するのは著者の桜井哲夫に対して大人気(おとなげ)ないかもしれない。だが、やはり考察内容の妥当性はともかく、文章記述や構成段取りの面で「もう少し工夫して上手に書けるのでは!? 」の不満の思いが、本新書に対し私は残る。

岩波新書の書評(471)メチニコフ「近代医学の建設者」

私が住んでいる街には、私が気に入った古書店が何件かある。私は定期的にそれら古書店をひやかし半分で覗(のぞ)き、時に古書を買い求めたりするのだが先日、その内の一軒(カモシカ書店!)を覗いたら店頭の特価本の棚に戦前の岩波新書の旧赤版、メチニコフ「近代医学の建設者」(1944年)があったので、つい購入してしまった。缶コーヒー二本分のツーコイン程度のかなりの安価であった。

日本で初めての新書形態をとった、日本で画期の新書創始である岩波新書の創刊は、戦前の1938年である。1938年の創刊から始まり今日までに至る長い「岩波新書の歴史」にて、その困難の苦境の時期は間違いなく1945年前後の日本の敗戦時にあった。岩波新書総目録にて1945年前後の出版状況を見ると、1943年で赤版の橘樸(たちばな・しらき)「中華民国三十年史」の1冊のみ。1944年には荒川秀俊「戦争と気象」とメチニコフ「近代医学の建設者」のたった2冊だけ。1945年の敗戦の年は刊行なし。敗戦翌年の1946年は、羽仁五郎「明治維新」と矢内原忠雄「日本精神と平和国家」と近藤宏二「青年と結核」のやっと3冊の刊行にこぎつけるも、翌年の1947年と翌々年の1948年はまたもや刊行なし。そうして1949年に赤版から青版に移行し年20冊以上の通常刊行ペースとなり、戦後に岩波新書はやっと本格的に復活を遂げるのであった。

戦中の岩波新書の赤、橘樸「中華民国三十年史」(1943年)は、当時の大日本帝国の中国大陸侵出の国策に沿った内容書籍であり、満州事変での関東軍の行動を支持して「王道論」を唱え、満州国樹立を理論面から支援し続けた橘による「いかにも」な日本人寄りの、中国人を軽視した完全に日本人本位で日本国にとってのみ都合のよい噴飯物の「中華民国史」であるし、翌年の敗戦前年に至っては、荒川秀俊「戦争と気象」(1944年)とかメチニコフ「近代医学の建設者」(1944年)の暗に戦争協力の「気象」か、もしくは戦局とは無関係の無難な「医学」の書籍しか岩波新書は、もはや出せなくなっていた。

いよいよ追い詰められた十五年戦争末期の連日の本土空襲により、国民一般は書店に行って書籍を購入し読書するような生活環境になく、この時期には国家当局による出版統制の思想検閲は、より狂信的に苛烈を極めていたであろうし、かつては戦時でも羽仁五郎「ミケルアンヂェロ」(1939年)やウェルズ「世界文化史概観」(1939年)など、芸術論や世界文化史の外面的体裁を借りながら実は中身が確固とした、戦争に邁進する現実日本の挙国一致内閣の近代天皇制国家に対する痛烈批判になっており、検閲の国家当局は気づかないけれど、読む人が読めば著者や訳者の執筆意図や岩波新書編集部の刊行本意が分かるような、戦時下抵抗の余力も1945年前後の岩波新書には残っていなかった。瀕死の状態であり、まさに「傷だらけの」戦時下日本の出版文化であって、「岩波新書の困難の苦境の時期は間違いなく1945年前後の日本の敗戦時にあった」といえるのである。

1938年の創刊から2000年代以降の現在に至るまでの長い「岩波新書の歴史」たる刊行新書の総目録を見るにつけ、敗戦前後の苦境の時代と今日の出版盛況のそれとの対比(コントラスト)が明確に意識され、私には感慨深い。

さてメチニコフ「近代医学の建設者」は、副題が「パストゥール、リスター、コッホ」である。著者のメチニコフはロシアの微生物学者および動物学者で、彼は白血球の食作用を提唱して免疫系における先駆的な研究を行った人である。本書にて「パストゥール、リスター、コッホ」の三人をして、「近代医学の(偉大な)建設者」とする旨である。医学関係者だけが分かるような、数式や化学式や難解な用語を使った医学的に専門な話ではなく、パスツール、リスター、コッホの各人による近代医学確立の功績を平易に述べている。前半はパスツール、リスター、コッホ各人の「近代医学の建設」への功績を明らかにした公的記述であり、後半はメチニコフが実際に彼らと交流した際の私的な思い出の回想で構成されている。

以上のことはメチニコフ「近代医学の建設者」を翻訳した宮路重嗣による「序」の記述に拠(よ)れば、

「メチニコフは小露西亜のハリコフ州に生れ、ハリコフ大学を卒(お)へ、独逸および伊太利に学び、後オデッサ大学教授となり、またオデッサ細菌研究所長となつたが間もなく之を辞し、パストゥールの知遇を受け、パストゥール研究所の創立以来その逝去に至るまで、約三十年間同研究所に在つて幾多不朽の業績を公にした。氏は最初動物学者殊に発生学者として、次いでメッシナに於ける海星の幼虫に就ての実験的研究から食細胞説を発表し、爾来一躍病理学者殊に免疫学者として一世を指導した。本書に於いて記載せらるるパストゥール、リスター及びコッホに関する思ひ出は、著者が親しく三碩学に接して経験したる追憶談で、他の伝記類に見ざる興味深い読み物である」

ということになる。

近代医学が成立し発展する以前は、病原菌の存在そのものが知られておらず、またその概念もないから、昔は発病した患者や近親の者は「神罰」とか「悪魔の祟(たた)り」とか「劣性遺伝」といった非合理解釈によって、共同体から過酷に弾圧されたり、不当な差別を被(こうむ)ったりした。そうした病気をめぐる人間社会の負の歴史の前近代を経て、それから医学が少し進むと、医術とは症状の把握、診断の実施、臓器の病的変化の経過観察に没頭するものとなった。この後、疾病の本質は生体を構成する各細胞の異常な働きであるとする「細胞病理学」の成立・発展へと進む。

近代医学ではより合理的に、どこまでも最小の物質的な因果にて発病・罹患の原因を求めて、その物理的原因の発病システムの解明・理解と、この治験に基づく物理的原因の除去に努めることで病気の治癒と健康体への回復をなす。それこそが「近代医学」であった。そうした近代医学の最大の特徴は、細菌やウイルスのごく微小なものの定義付けとその発見ならびに操作処理という治療に際しての活用である。これには微小であるがため肉眼把握の目視が困難であった細菌の確認を可能にする、精密機器の顕微鏡の開発とともに各種の化学(反応)検査の確立普及があった。これこそが、それまでの非合理な遺伝とか、臓器の病的変化の静的な経過観察に終始していた前近代の医学とは異なる、「近代医学の建設」の画期の内実であった。

以上のような事柄が、だいたいの本書の話の骨子であり、中心の論述の流れである。このことを事前に頭に入れて岩波新書「近代医学の建設者」に当たれば、大した読み間違えもなく比較的スムーズに本論記述に入っていけると思う。

それにしても岩波新書のメチニコフ「近代医学の建設者」は、昔の古い書籍であるので本書の内容に関し、現代に読む者には明らかに不適切な医学的偏見、執筆時の時代に広く共有されていたであろう差別的な言説も時に見受けられる。例えば以下のような「最初に生まれた兄は弟妹たちより虚弱で、死亡率や犯罪率も多い」と断定する本文記述である。

「私が集めることの出来た資料によると、天才といふものは第一子には稀であるやうに思はれる。最初に生れた兄は一般にその弟妹たちより虚弱で、死亡率や犯罪率も多いが、第一子以下に屡々(しばしば)天才が生まれてゐる」(82・83ページ)

これが現代の書籍であれば、こういった差別的事柄を憚(はばか)ることなく書く人はいないだろうし、そうした差別的偏見にいまだ捕らわれいて、このようなことを自著に書き入れようとする人が仮にいたとすれば、編集部からの事前のチェックの指摘で修正・削除させられるか、もしそのまま出版されてしまった場合には後日に回収の即絶版で、著者と出版社は社会的に公的謝罪に追い込まれることになるだろう。 たとえ客観的な統計のデータで出たとしても、そういった「最初に生まれた兄は弟妹たちよりも犯罪率が高い」とするような差別的言辞を弄(ろう)してはいけない。

(※ 例えば「長男は犯罪率が確率的に見て高い」といった客観的には正しい統計データが出たとして、そのことを公に言い募(つの)ることは、結果として「長男への警戒や排除」を促す差別的で反倫理の言説に人々の間で自動的に変換されてしまう。つまりは「××は犯罪率が高い」とか、その他「××の地域は犯罪発生率が高い」「××の国籍・民族の人はトラブルを起こす事例が多い」などの型(フレーム)の言説そのものが、たとえ統計上、客観的な事実で「正しい」情報データであったとしても、それ自体が差別や偏見の問題をはらむものであり、問題なのである)

今日でもヘイトスピーチやいじめ発言に際して、「これは差別やいじめではない。単に客観的事実を述べただけ」と時に開き直る人がいる。しかし、言説の適切さは、客観事実に適合するか否かの正誤性の問題にのみあるのではない。たとえ客観事実で統計データに基づくような正確な事柄の指摘であっても、相手を不当に傷つける差別的で反倫理的な言動は社会的に常に慎まれなければならない。

以上のような点も加味して、あくまでも話半分で時に批判的に軽く流して読む機転も、戦前に発行のメチニコフ「近代医学の建設者」には必要であろう。

本書はメチニコフの著作の翻訳であるが、その原書を執筆したメチニコフ(1845─1916年)はロシアの微生物学者および動物学者であった。そして本書にてメチニコフにより述べられている「近代医学の建設者」の各人は、パスツール(1822─95年)がフランスの生化学者かつ細菌学者であり、リスター(1827─1912年)がイギリスの外科医であって、コッホ(1843─1910年)がドイツの医師であり細菌学者なのであった。このように各人が異なる出身母国の医学者でありながら、特にメチニコフはパスツール研究所に後に招かれ、各々の国籍を超えた所での、ある種のコスモポリタニズム(世界市民主義的)な、互いに自国に執着で排他・敵対的にならずに細菌学や免疫学確立の見地から近代医学の発展に共に邁進し尽力していた点は非常に興味深い。

またメチニコフ「近代医学の建設者」の原書は、第一次世界大戦の勃発にて、当時パスツール研究所の副所長であったメチニコフが戦時下の統制で研究機関の活動停止を余儀なくされた困難な状況を受けて、近代医学の発達の経緯とパスツールを始めとするリスターやコッホら各人との交流の思い出を戦時に、まとめたものだという。そうした第一次大戦の戦時下、国家の統制にて自由に医学の本格研究ができなかった不幸な時代に、国家を超越するコスモポリタニズム(世界市民的)な志向を有する医学者のメチニコフにより執筆された本書「近代医学の建設者」が、同様に十五年戦争末期の国家による厳しい日本の言論統制下にて、翻訳され戦時の日本で数少ない岩波新書として世に出されたという符号も今にして思えば、なかなか意義深いものがあるともいえる。

私が購入した、岩波新書のメチニコフ「近代医学の建設者」は(おそらく)1944年発行の初版である。表紙の肝心のタイトル文字印字は配列が左右逆であるし、戦時に発行のためか紙質がかなり悪く、総ページ数も174ページと新書としては200ページにも満たず紙数は少ない。本書には奥付(おくづけ)もない。戦時中で書籍用の紙を確保するには当時、非常な苦労があったと思われる。本書発行の1944年は日本の敗戦の一年前で戦況は日本には圧倒的不利の敗北間近であり、特に対米英の太平洋戦争下にて学徒出陣が開始され学生は本を読んで勉学に励むといった状況にはなく、国民の多くが生活困窮で疲弊する相当に困難な時代であった。当時の日本人は生きることに必死で、もはや読書どころではなかったのである。そうした文化的に極めて困難な危機の時代に出された書籍である、岩波新書の赤、メチニコフ「近代医学の建設者」は。

(※岩波新書の赤、メチニコフ「近代医学の建設者」は後に岩波文庫(1968年)から復刻・復刊されています。)

岩波新書の書評(470)高橋英夫「友情の文学誌」

岩波新書の赤、高橋英夫「友情の文学誌」(2001年)の概要は以下だ。

「文学者へ成長する漱石と子規。鴎外が遺書筆録を託した賀古鶴所。『近さ』からドラマを生んだ芥川たち。志賀直哉ら、師を持たない白樺派の世代。漢詩の世界、ギリシア・ローマ以来の言説にも目を配りながら、遭遇、切磋、別離など交流の綾を読み、日本近代文学の重要な局面をたどって、教養・信頼が育つ人間関係の空間をみつめる」(表紙カバー裏解説)

本書は主に近代日本文学史における文学者たちの、ないしは文学作品内の「友情」を記したものだ。確かに、解説文に「漢詩の世界、ギリシア・ローマ以来の言説にも目を配りながら」とあるように、近代日本以外の古今東西の友情にも幅広く触れてはいる。しかし、やはり話の中心は近代日本文学における「友情の文学誌」である。本書に登場の近代日本の文学者といえば夏目漱石、正岡子規、森鴎外、芥川龍之介、武者小路実篤、志賀直哉、小林秀雄、白洲正子、吉田健一らである。

人は読書に際して、自身が全く知らないことを新たに知ろうとし、一からすべて学ぶつもりで初学の未知のものに対し無心に本を読んだり、はたまたあえて自身が知っていること、もしくは自分が常々強く思っていることを他人が書いた書籍の中に確認したいがために、既知を探し既知に向かって一心に本を読む場合もある。今回の岩波新書「友情の文学誌」に関し、私は明らかに後者の「あえて自身が知っていること、もしくは自分が常々強く思っていることを他人が書いた書籍の中に確認したいがために、既知を探し既知に向かって」読んでいたのだった。

そのことでいえば、本書では様々な文学者の「友情」が出でくるが、私の心に読後も強く残っていたり、読んでいる中途で私が膝(ひざ)を叩いて喜び面白がったりしたのは、例えば私が常日頃より繰り返し何度も「漱石全集」を愛読している、その夏目漱石のくだり、特に漱石作品の中に現れる「友情」について語った「作品の中の友情・漱石・鴎外ふたたび」の章であったり、同様に白樺派の人たちの高等余裕と理想主義かつ人道主義的な所に好感を抱いて、ゆえにこれまた好きで彼らの作品をよく読んでいた志賀直哉と武者小路実篤に見られる「友情」について記した「白樺派の人々」の章だったり。また昭和の時代の鋭い硬派な文芸批評の最たる人であり、氏の文章を読むたび私は感嘆せざるをえない小林秀雄の「友情」を扱った「小林秀雄の世代」の章であったりするのだった。これら本書にて触れられている夏目漱石「こころ」(1914年)を始めとする漱石作品内でのそれぞれの、一人の女性をめぐっての二人の男性間の「友情」に関する記述や、白樺派同人らが「森鴎外に対しては比較的冷淡であったが、それとは相違して夏目漱石に関し相当に好意的で同じ文学者としてある種の尊敬の念を漱石に抱いていたこと」、小林秀雄は女性をめぐる三角関係で友人の中原中也と一時期、複雑さの困難を抱えていたことなど、私は本新書を読む前からすでに知っていて既知であった。そういった事柄を今更ながら岩波新書「友情の文学誌」にて、そうした既知に向かって読み、本論の中でそれら既知の内容に出くわし再確認して、それで再び納得したり面白がったりしていたのである。 

これとは対照的に、私がこれまであまり作品を読んでいない、よって実のところよく知らない森鴎外や白洲正子や吉田健一に関する「友情」の本論記述は読んで正直よく分からなかった。これは文芸批評に際しての読みの成否と似ている。もともと作品を読み込んでいない文学者の作品論や作家論の文章は読んでもあまり意味が分からないし、大して面白くもない。このことは作品を読み込んでいない文学者に関する作品論や作家論の文芸批評を行う書き手は、そもそも書けないという極めて素朴で単純な事実に裏打ちされている。何ら作品を繰り返し熱心に読み込んでおらず、その人物と作品にのめり込んでいない書き手はその人と作品についての正統な文芸批評は書けない。同様にこれを裏から言って、何ら作品を繰り返し熱心に読み込んでおらず、その人物と作品にのめり込んでいない読み手は、その人と作品についての正統な文芸批評は大して読めないという至極当たり前の原理である。事前に常日頃から対象文学作品を読み込んでおかないと、その作品や作家に関する文芸批評は読めないし、読んでも自分の中に入って実のある血肉にはならないのである。

そもそも「友情」とは損得・打算の計算や、礼儀・責任遂行の緊張や、虚栄・見栄の不自然さなどとは全く無縁で、それらの対極にあるものだ。そうした「友情」の心地よさが、そのまま「友情」がテーマの岩波新書「友情の文学誌」の読み味の良さに連なっている。また著者の高橋英夫の本新書での書きぶりが良い。「友情とは何か」「友情とはどのようにして成立するのか」「友情にはどのようなものがあるか」の友情の定義や成立原理や種別分類の理論的で説教くさい解説が高橋英夫「友情の文学誌」には皆無なのである。このように「友情」に関して、あえて一歩引いた決して野暮(やぼ)にならない気の利いた洗練された抑揚ある書きぶりも、本書の読み味の良さの醸成(じょうせい)に一役買っている。

必ずしも「友情とは何か、友情とはどうあるべきか」を著者の高橋英夫は本文中にて明確にし強弁してはいない。しかし、著者が本新書を通じて読者に伝えたい「友情の文学誌」における「友情」の好ましい形態、その一面がうかがい知れる本文箇所を以下に引いてみる。

「森田草平は漱石と寅彦の『友情』を実にこまかく観察した。千駄木町の家に草平が遊びに行っていると、遅れて吉村冬彦(寺田寅彦)が来た。その様子から、寅彦は漱石のみか家族の人々とも懇意らしいと羨望しながら、少し年上の寅彦に譲るような形で、草平は二人の話をきいていた。『話しの内容はすつかり忘れたが、別に大した話題でもなかつたらしい。そして、話しが途切れると、二人とも黙つてゐても、別段窮屈ではないらしい。私がそばにゐることなど、二人とも忘れたやうだ。私はもぢもぢしながら、先生と吉村さんの顔を等分に見較べてゐた』。これはなかなか意味深い場面である。会話がふと途切れてもそのままゆったりとしていられる仲、沈黙の持続が二人の絆となってゆくような仲、これが深い友人関係でしか起こりえない間合い(パウゼ)ではなくて何だろうか。漱石と寺田寅彦は師弟であってすでに友だった。師弟よりも友の方に近かった。こういう関係こそ漱石が心から求めていたものに他ならなかった」(「『師弟』と『友情』の織物」141・142ページ)

「若き日、小林は中原中也と一緒になっていた長谷川泰子を、中也から奪って同棲した。…泰子は時々心理的錯乱をおこしたので、その圧迫から脱出するために、煙草を買いにゆくと称して小林はよく河上徹太郎の家にやってきた。『私の詩と真実』のなかの『友情と人嫌ひ』にはこうある。『私の前へ座ると、彼の脳髄は猛烈なスピードで自転を始めるらしかつた。しかも彼は黙って煙草を吹かして新聞を読んだり、或はボードレールなどに関して思ひついたアフォリスムを一つボソッといつたりする。時には芝生へ降りてうつむいて何か考へながらブラブラ歩いてゐる。さうかと思ふと、ピアノを弾いてくれといつて、自分が譜を見ながら熱心に聞いてゐる。そんな風なつき合ひであつた』。ここからは論理や批評以前の、いわば剥き出しの小林秀雄の魂が見えている。魂は孤独だが若々しい。少年的もしくは青年的にやわらかな一面さえのぞけるようだ。小林はまた河上に、『君は煙突みたいな奴だ。傍らに置いとくと、俺の頭の中がよく燃えるよ』とも語った。人間関係で息がつまっていた小林は『風』がほしかったわけで、河上がその『風の友』だった」(「小林秀雄の世代」202・203ページ)

本書で紹介されている「夏目漱石と寺田寅彦」「小林秀雄と河上徹太郎」の上記の二つの「友情」の事例は、いずれも「会話がふと途切れてもそのままゆったりとしていられる仲、沈黙の持続が二人の絆となってゆくような仲、深い友人関係でしか起こりえない間合い」や、「人間関係で息がつまっていた時の『風』のようなものの、いわば『風の友』」といった、殊更(ことさら)に用事や会話がなくてもその場で即に和(なご)んでリラックスして互いに通じ合える阿吽(あうん)の呼吸であった。それを著者の高橋英夫は「友情の文学誌」として本書の中で主に述べている。

私は岩波新書「友情の文学誌」を読んでいて、本文中での近代日本文学者たちの「友情」記述を通して、特に自分自身の過去の交友の友情遍歴を振り返り、自分の友人たちのことを主に思い出したりしていた。先の「友情とは、殊更に用事や会話がなくてもその場で即に和んでリラックスして互いに通じ会える阿吽の呼吸」とするような本書での「友情」に対する見解は、私自身の実際の経験からして大変よく理解できる。まさに私にとっての友人もそうであったからだ。

私は幸運なことに、特に大学時代に大変にお世話になった友人や師(先生)の人的財産の宝に恵まれた。その時に交友の友人や師には、いずれも「会話がふと途切れてもそのままゆったりとしていられる仲、沈黙の持続が二人の絆となってゆくような仲、深い友人関係でしか起こりえない間合い」のようなものが確かにあった。だから大して気を使わず共に長くいられたし、同伴してよく出掛けたりもした。一緒にいて大して疲れず、単純に楽で楽しかったのだ。こればかりは理屈以外の言外のものの微妙さで単に互いに人間的に波長が合った、とにかく「たまたまウマが合った」としかいえない。「友情」とはそうした、かなり漠然とした大まかで不思議なものである。それゆえ「友情」は時に一時的なもので、いつまで持続するか分からないし、いつ終わりを迎えるか、それはゆるやかな自然消滅であるのか、ないしは突然の壮絶な喧嘩別れの絶交であるのかも分からない。また、どのようなきっかけで別の新たな「友情」が芽生えるかも予測や操作が出来ない極めて扱いの難しいものといえる。

最後に岩波新書の赤、高橋英夫「友情の文学誌」の方法を真似して、近代日本文学に見られる「これこそが私の考える友情の最たるものだ」と昔から強く思えて感心しきりな文学作品内での「友情」記述を引いておこう。岩波新書「友情の文学誌」では太宰治について、あまり触れられていない。だが、私が昔から好きな太宰治の、中でも「富嶽百景」(1939年)での以下の文章はまさに「友情」の本質を突いた最良記述であると私には思える。

「人は完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他愛なくゆるんで、之はおかしな言いかたであるが、帯紐(おびひも)といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と逢(あ)って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑いだしたら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢って、君の完全のたのもしさを、全身に浴びているのだ」(太宰治「富嶽百景」)

ここでは太宰は「恋人のたのもしさ」として書いているけれど、これは特に異性の恋人間の「恋愛」に限定しなくてよい。同性の友人との間の「友情」や、師弟間での年齢が離れた師との「友情」であってもよい。先日会ったばかりなのに、なぜか理由は分からないけれども「逢ったとたんに、まず、だらしなくげらげら笑い出す。全身のネジが他愛なくゆるんで、互いに笑顔になって笑い出す」。これはまさに友情の証(あかし)の「慶祝」の僥倖(ぎょうこう)である。私には滅多にないが、友人や師と会った瞬間、理由もないのに途端にずっと笑顔で互いにげらげら笑い出し、しばらくの間、二人とも笑い続けていたような、そうした「友情」の幸福に恵まれた瞬間が確かにあった。

岩波新書の書評(469)大島藤太郎「国鉄」

一般に「国鉄」とは、国が保有し、または経営する鉄道事業のことをいうが、日本においては特に「日本国有鉄道」の略称として用いられる。

最近の若い人は、もしかしたら知らないかもしれないが、現在各地域(北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州)にある6つの旅客鉄道のJR各社と1つの貨物鉄道会社(JR貨物)と、その他の鉄道関連事業は、元は国鉄(日本国有鉄道)による全国一元経営であり、国による国営事業の公共事業(政府が全額出資し、予算に関し国会の議決を要する特殊法人の一形態たる公社)だった。だから、昔は国鉄の最高責任者である国鉄「総裁」は、国の行政機関である内閣により任命されていたし、国鉄「副総裁」らの人事も国鉄の管轄行政に当たる運輸大臣の認可を必要としていた。その後、このように全国一元化の鉄道事業経営をなした国鉄は1987年の国鉄分割民営化に伴い、各地域ごとのJR各社とJR貨物と、その他、鉄道関連事業会社に分割され民間会社への移行(民営化)がなされたのであった。

そうして最近の若い人はさらに知らないかもしれないが、全国一元経営であり、国による国営事業の公社であった国鉄もまた最初から国営事業の公社であったわけではない。

日本での鉄道開業の歴史は古く、明治維新(1868年)から早くも数年後の1872年、新橋・横浜間の開業に始まる。以後、明治期に一部の官設官営鉄道(国営鉄道)と多くの私設民営鉄道(私鉄)が開業し、官民共に並立して独自に経営していた。明治の時代、政府の上からの「殖産興業」の産業振興政策にて時は「鉄道ブーム」であった。線路敷設のための広大な土地買収や、橋梁(きょうりょう)・トンネル・駅舎・車両らの建設・購入・整備のための莫大な初期投資を要する鉄道事業は、景気変動に左右されやすい先の読めない事業であった。また旧来の海運業との貨物業務の競合があったし、人口の多い都市部では私鉄各社による乗客奪い合いの過酷な経営競争もあった。総じて当時の鉄道事業は、「殖産興業」政策の政府の手厚い保護のもと好調な決算を記録したが、他方で無謀な計画や投資を誘発するもの、特に都市部では並走する別鉄道会社との無用の経営競争を強いられ疲弊する事例も当時の鉄道会社には多くあって、各事業主は経営悪化の不安定に時にさらされる弊害に見舞われた。

このような近代日本の鉄道経営の従来的な困難を背景に明治末期になされたのが、鉄道国有法(1906年)にての日本全国の鉄道の国有化である。本法律により、各地域の鉄道網を官営鉄道に一元化する方針が取られ、全国各地の多くの私鉄は国家に買収され国有となった(同時に、これ以降の私鉄開業は国からの認可が非常に厳しくなった)。この明治末の鉄道国有法による戦前からの全国一律の官営鉄道事業を引き継いで、戦後の1949年に国の外郭団体として新たに発足したのが国鉄(日本国有鉄道)であった。

よって近代日本の鉄道事業は、明治初期の開業以降、鉄道各社の私鉄参入の隆盛を極めたが、後に明治末の1906年、鉄道国有法にて官による公的な国営事業が主流となり、戦後もそれは国鉄という国を主体とする公社に引き継がれ、しかし1987年の国鉄分割民営化により、およそ81年間の長きに渡り国有化されていた日本全国の主な鉄道網は再び民営に戻ることになるのである。

国鉄の前身をなした、近代日本における官による公的な国営事業たる国有鉄道の成立は、日露戦争がその契機であったといわれている。日露戦争が1904年(終戦は1905年)、鉄道国有法の発布が日露戦争終戦の翌年1906年である。この二つの歴史事項の近接を確認して頂きたい。日露戦争を経て、日本人の鉄道への認識は日露戦争以前のそれより大きく変わっていた。鉄道国有化論の議論は前からあったが、日露戦争を経ると全国的な鉄道国有化への現実的な動きは、より加速した。当時の帝国議会にてなされた鉄道国有法に関する議論や関係者の話を後に読むと、外国人による株券取得ないしは外国人の経営参加により日本の鉄道の事業内容が海外に漏(も)れることに対する相当な危機意識があったようである。私鉄の場合、株式会社であるため経営状態を株主に報告しなければならない。その株主に外国人がいれば、軍事輸送用の特別列車を走らせる詳細の公開まで迫られる可能性もあって、そうなれば国内の軍事機密が海外に漏洩(ろうえい)してしまう。また外国人投資家に株を買い占められた場合、それが敵国の資本家なら鉄道軍事輸送を拒否される恐れもあった。

日露戦争以前の近代日本の鉄道事業は、明治初期の鉄道開業以来、私鉄会社の経営者と株主である新興の資本家や華族や地主らにより「殖産興業」のための一大産業として理解され経営されてきたのであるが、日露戦争での日本の戦勝を経てこれ以降になると、さらに「富国強兵」のための重要施設として、軍部と政府、そして軍官と密接な結びつきを有する独占資本の財閥が、軍事産業的な大量物資輸送の面から鉄道を高く評価し重きを置くようになる。ここに至って鉄道事業は軍部と政府と財閥の三者により支えられ以降、近代日本の鉄道事業は彼ら三者に国有化のもと管轄され、より積極的に推進されることになった。その鉄道振興の推進主体の大きな変わり目が、まさに日露戦争直後に発布された鉄道国有法であったといえるのである。

さらに日露戦争での日本の戦勝を契機として特に軍部と政府が鉄道事業の重要性を再認識した事例に、南満州鉄道株式会社の発足(1906年)があった。南満州鉄道株式会社は略称「満鉄」、日露戦争終結後の日本にとっての戦勝講和であるポーツマス条約(1905年)にて、ロシアから日本に割譲された東清鉄道南満州支線(長春・旅順間鉄道)を経営した半官半民の国策会社である。満鉄は満州経路における日本の重要拠点であり、大日本帝国の大陸北方侵出拠点の最前線となった。

事実、満鉄は鉄道会社であったが鉄道事業のみをやっていたわけではない。鉄道経営に加えて満州地域の農作物の物流を一手に支配し、鉄道沿線地の炭鉱開発、製鉄業、港湾事業、電力供給、ホテル業など多様な事業を担(にな)っていた。何よりも南満州鉄道株式会社発足の翌年(1907年)に設置された満鉄調査部は、設立当初は沿線地域の開発調査・研究を行っていたが、やがてはシンクタンク(政府や軍や財閥らに政策立案を行う研究機関)として、満鉄調査部の後継組織(経済調査会、大調査部)は、時に大陸前線での諜報(スパイ)活動や裏政治工作までやり暗躍するようになっていった。また後に満州事変(1931年)を画策して現地で軍事暴走をなす関東軍は、もともとは日露戦争後にロシアから獲得した関東州の租借地と満鉄発足時(1906年)の南満州鉄道の付属地の警備が任務の守備隊がその前身であって、後に関東軍として独立し(1919年)、対ソ連の大陸北方での国策重要度が増すにつれ前線の関東軍は漸次増強されて、遂には大日本帝国陸軍下にて支那派遣軍や南方軍と同列、もしくはそれ以上の一大総軍をなす(1942年)に至るのである。

一般に近代政治システムにおいて、国家(政府と軍と資本家)と鉄道との関係は密接である。他地域に侵出して帝国主義的覇権を張ろうとする近代の帝国主義的国家にて、鉄道の役割は極めて重要であった。鉄道敷設を通じて、それに付属する沿線地域の軍事的な実効面での実質支配をなし、さらに経済的に沿線地域に資本投下して海外の支配地域を自国の経済圏に強引に引き入れていく。特に近代日本の大陸侵出にて、日本が獲得した現地での大陸利権である租借権や鉱山採掘権らは鉄道敷設権とセットであった。かの地での敷設鉄道の警備ならびに沿線地域の治安維持を名目に、日本の軍隊の永続的な現地駐留は正当化されて、さらには鉄道沿線地域の産業振興名目の資本投下を経て大陸諸地域は次々に日本の支配圏に組み込まれていった。

満鉄の事例に見られるように、鉄道は大日本帝国の大陸侵出のための、いわば「斬(き)り込み隊長」的な最初の主要な動線として真っ先に敷設確保され、この鉄道敷設を足がかりにして、なし崩し的に沿線地域一帯の軍事的かつ経済的な包括支配を日本は貫徹していったのである。表向きは「鉄道」事業を手がける南満州鉄道株式会社には、それと共に活動する満鉄調査部や関東軍の存在が常にあった。ここにおいて近代の帝国主義にて鉄道が果たした大きな役割、帝国主義的国家の内実である政府・軍部・財閥と鉄道との癒着(ゆちゃく)の共犯はもはや明白であろう。

岩波新書の青、大島藤太郎「国鉄」(1956年)は全部で4つの章よりなる。特に第2章に当たる前半の「Ⅱ・国鉄の歩いてきた道」で多くの紙数を割(さ)いて、上述のような国鉄成立以前の近代日本の鉄道の国有化の議論と国営への移行経緯の事情を詳細に解説している。本書ではさらに詳しく明治前期の早くから鉄道国有化論を主張した井上勝や、満鉄の初代総裁であった後藤新平らの当時の発言を引用し子細に説明している。

本新書は、発刊時の1950年代の「国鉄」の組織的問題と、この国営鉄道事業が抱える課題解決の先行きを示す内容である。その際に、主に前半で「Ⅱ・国鉄の歩いてきた道」として、近代日本の帝国主義(近代天皇制国家)にて鉄道が果たした大きな役割、前述した大陸での南満州鉄道株式会社(満鉄)の発足と後の活動に集約象徴されるような、帝国主義的国家の内実である政府・軍部・財閥と鉄道との癒着・共犯を批判的に概観する歴史的かつ理論的考察を周到に置いていた。このため、その成果として、国鉄の前身である戦前日本の国有鉄道の天皇制的官僚の実態や組織運営の問題にまで遡(さかのぼ)るかたちで、著者が本書執筆時の戦後の「国鉄」の問題を本質的に抉出(けつしゅつ)できている。そこが近年の国鉄関連書籍にはない、本書の出色(しゅっしょく)であり、まさに読み所であるといえる。     

岩波新書「国鉄」は古い書籍ではあるが、単に走る電車が好きで鉄道写真をやたら撮りたがったり、時刻表を無闇に読み込んだり、廃線跡を熱心に探索する鉄道そのものへの即物的な愛好のみを示す幼稚な昨今の「鉄道マニア」「鉄道ファン」たちが執筆の「国鉄」本とは明らかに異なる。

本新書を実際に手に取り読む人は、特に「Ⅱ・国鉄の歩いてきた道」の章の第二節「ゆがめられた国鉄輸送」内での、国鉄の組織的性格を理解するために「天皇制的官僚」「非民主的」「半封建性」「絶対主義的」など、従来の歴史学にて理論的に戦前の近代天皇制国家への分析をなす際に用いられる術語がかなり効果的に使われ、戦後の「国鉄」の問題性指摘の分析に生かされている点に留意し、またこの考察に大いに感心して頂きたい。

より具体的には、岩波新書の青、大島藤太郎「国鉄」の中で挙げられている本書執筆時の1950年代の戦後の国鉄の問題には、例えば以下のようなものがあった。

☆遅延や運休ら日常的なダイヤの乱れ(それら遅延や運休を引き起こす、そもそもの過密ダイヤ作成の問題)。☆脱線や衝突や列車火災など、時に多くの死傷者を出す過酷な鉄道事故の発生。☆国鉄職員の労働条件の劣悪さ(賃金、労働時間、福利厚生制度の不備)。☆国鉄の経営管理、労働強化のあり方(上からの「無事故運動」の強力な働きかけが現場の各職員に与える心的圧力とその弊害。労働組合への不当な圧力)。☆国鉄の官僚的組織(中央のエリート主義や学閥の存在、都市部と地方とでの駅員待遇の格差・不公平など)。☆国鉄の経営改善のあり方(不採算部門の安易な切り捨て、無理な経費削減など強引な経営合理化の問題)。☆鉄道施設(線路、信号、トンネル、橋脚、駅舎、車両ら)の老朽化と日常的な保守不備。☆国営事業の職員であるがゆえの乗客に対する国鉄駅員の役人的横柄さ、サーヴィス不足(「国民のための国鉄」ではない問題)。☆(特に蒸気機関車における)列車運転や保線の技能継承、国鉄内での技術教育のあり方(研修の改善、社内での競技会や表彰制度の活用提言など)。

岩波新書の書評(468)岡本良一「大坂城」

大坂城は、戦国時代に上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれた。大坂城は上町台地の北端に位置する。別称は「錦城(きんじょう)」。現在の大阪城は1930年代に再築されものである。「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されている。また城址を含む一帯は大阪城公園として整備され今日、天守は博物館「大阪城天守閣」となっている。

1583(天正11)年から1598(慶長3)年にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没している。現在地表に見ることのできる大阪城の遺構は、1620(元和6)年から1629(寛永6)年にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構である。1959(昭和34)年の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓(やぐら)や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定している。現在は、江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門や蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されている。天守は1931(昭和6)年に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復元された創作物であるが、築90年近い現在はそれはそれとして登録有形文化財となっており、博物館「大阪城天守閣」として営業している。

なお「大坂」の地名表記は「坂」の字が「土(ち)に反(そむ)く」で縁起が悪いことから、明治維新を境に以後「坂」を「阪」に変えて「大阪」になったといわれている。よって明治以前の城塞・城郭は「大坂城」とし、明治以降のそれは「大阪城」と表記するのが適切である。

以下、岩波新書の青、岡本良一「大坂城」(1970年)の記述に依拠する形で、築城から現代に至るまでの「大坂(阪)城の歴史」を書き出してみる。

1496(明応5)年・本願寺第八世・蓮如、石山(大坂)に坊舎を営む
1568(永禄11)年・織田信長、足利義昭を奉じて入洛す。このころ信長、本願寺に矢銭五千貫を課す
1580(天正8)年・本願寺、信長と和し、顕如、紀州鶯森に退く(3月)。教如、石山を退去。その直後、火を発して本願寺灰燼(はいじん)に帰す(8月)
1582(天正10)年・本能寺の変。信長自害す。山崎合戦。清洲会議により池田恒興、大坂を領す
1583(天正11)年・豊臣秀吉、大坂入城(6月)。大坂築城工事はじまる(9月)。天守台成る(11月)
1586(天正14)年・徳川家康、大坂城にいたり秀吉に臣従す
1598(慶長3)年・秀吉、伏見城に死す。これよりさき、大坂城外郭普請あり
1599(慶長4)年・豊臣秀頼、伏見城より大坂城に移る
1614(慶長19)年・大坂冬の陣(11月)。和議により外濠を埋める(12月)
1615(元和1)年・大坂夏の陣(5月)。大坂城落城し豊臣氏滅ぶ。松平忠明、大坂城主となり、市街地の再建につとむ(6月)
1619(元和5)年・幕府、忠明を大和郡山に移し、大坂を直轄地とす
1665(寛文5)年・天守矢倉に落雷し、これを焼く。以後再建のことなし
1845(弘化2)年・大坂町人らの御用金により、大修理はじまる(48年、修理全てなり旧観を復す)
1865(慶応1)年・将軍、徳川家茂、征長のため大坂入城
1868(明治1)年・幕軍、鳥羽・伏見に敗れて大阪城に拠(よ)る。長州兵来攻中、火を発して全城ほとんど焼亡す
1871(明治4)年・鎮台本部となる
1888(明治21)年・第四師団司令部本部となる
1931(昭和6)年・天守閣復興、城内の一部公園となる
1945(昭和20)年・空襲により京橋門その他、焼失す(6─8月)
1953(昭和28)年・一・六番櫓修復工事にはじまり、以来各所の修復あいつぐ(5月)。大手門その他一三棟、重要文化財に指定さる(6月)
1955(昭和30)年・城地一体特別史跡に指定さる

もともと大阪城址は、寺社権勢の浄土真宗の蓮如が営む本山、本願寺の地であったが(1532年)、武家勢力の織田信長が石山合戦にて本願寺教団を立ち退かせた後、かの地を支配した(1580年)。しかし、信長は本能寺の変にて自害し(1582年)、信長の跡を継いだ豊臣秀吉が大坂に入り、旧石山本願寺の規模を踏襲するかたちで大坂築城工事が開始された(1583─98年)。これが大坂城のそもそもの始まりである。秀吉没後(1598年)、伏見城と大坂城を拠点とし西国に権力基盤を置く豊臣政権は、主に東国支配をなした徳川の江戸幕府と対立することとなり、大坂冬の陣・夏の陣を経て大坂城落城とともに豊臣氏は滅亡する(1615年)。その後、江戸時代の徳川政権下で大坂は幕府の直轄地となり以後、大規模な大坂城再建工事が繰り返された。やがて幕末にて、鳥羽・伏見の戦いに敗れ、敗走の幕府軍は大阪城を拠点に長州ら明治新政府と戦闘するも、旧幕軍は敗北(1968年)。後に大阪城は明治政府の公地となり、鎮台本部や帝国陸軍師団司令部本部が大阪城址に置かれた。さらに昭和に入ると、国により天守閣復興や城内の公園整備らがなされたが(1931年)、太平洋戦争時の空襲により、大阪城は多くが焼失(1945年)。戦後に修復工事がなされ、大阪城は重要文化財に指定された(1953年)。以後、城址周辺は大阪城公園として整備され、また博物館「大阪城天守閣」も開設されて今日に至る。

1583年から98年にかけて豊臣秀吉が最初に築いた大坂城の城塞ないしは城郭もしくは城址は以後、改築と復元とを繰り返し連続して途切れることなく今日までいつの時代にもあった。ただ大坂(阪)城をめぐる、時の政治権力者や城主や城跡管理者が時代とともに様々に目まぐるしく移り変わっていっただけである。築城と改築、そして老朽と焼失(合戦や落雷や空襲によるもの)、その後の補修と復元、さらには整備と展示といった築城から今日にまで至る「大坂(阪)城の歴史」を概観するだけで私は胸が熱くなる。特に大坂冬・夏の陣にて反・徳川の位城で豊臣政権の象徴であった大坂城が、その後、わずか250年後に今度は逆に徳川幕府側が明治新政府と戦う際の根城の拠点になるとは、「数奇なる歴史の運命の皮肉」といったものを私は感じずにはいられない。

岩波新書「大坂城」の著者である岡本良一は、1942年から大阪市職員で大阪城天守閣に勤めて、大阪城主任として1968年に退職するまで26年間の長きに渡り大坂(阪)城に関する文献研究や遺構発掘に尽力した。氏は大坂(阪)城の研究家として知られた人であった。後に大阪市史料調査会理事や堺市立博物館館長の職も歴任している。研究者向けの専門的な学術論文の執筆や大学での講義ではなくて、日頃から一般市民に向けて大坂(阪)城の歴史を説いていた著者は、本新書にても極めて簡潔で平易な解説をなしており、まさに「市井(しせい)の歴史学者」といえる。短くも的確でキレのある著者による本書での記述は、読んで相当に読み心地が良い。

岩波新書「大坂城」は全11章からなり、安土桃山時代の築城から戦後昭和の現代までの約400年間に渡る大坂(阪)城の歴史を時系列で一気に書き抜いている。その中でも中途の「労働力の組織化」の章では、改築時に徳川幕府が全国の大名に宛てた「割普請」(わりぶしん・「普請」とは「普(あまね)く請(こ)う」の意味で、為政者が各種の土木工事を人民に請け負わせること。分「割」して複数の集団に分担で請け負わせることを特に「割普請」という。近世江戸にて割普請の方式は、各大名の幕府への手柄実績の取り合い、忠誠競争を煽(あお)ることにつながり、効率的な労働力集約の方法として城普請(築城・改修)に際し、この割普請方式が一般的であった)の「労働力の組織化」の話や、当時の現場人夫の就労規則の詳細、武家の大名のみならず町人にも割り当てられた「町人請負」の実態などは誠に興味深い。同様に「築城の技術」の章においても、全国からの石の調達ならびに大坂への大石の運搬、そうして強固な石垣築造技術の話は読んで実に面白い。例えば「大坂城の石垣の堅固さ」についての、以下のような本文記述である。

「これだけ頑丈に造られていると、滅多なことでは崩れない。過般の戦争中、空襲による直撃弾をうけて、さすがに頑丈なこの城の石垣も数か所破壊されたのであるが、そのさいもけっして土崩瓦解というような無残な崩れ方ではなくて、石垣の姿を保ったままずり落ちるという崩れ方である。この城の石垣はたんに外観だけでなく、堅固さにおいてもおそらく他にその比を見ないものであろう」(「第10章・築城の技術・4・根石と鉛ちぎり」)

私も大阪城に関しては、以前に隣接の大阪城ホールにコンサートのためによく足を運んだし、その前後には敷地内の大阪城公園を散策したり、大阪城周辺の街で食事をして遊んだ懐かしい思い出が多くある。本新書を携帯して時折、読み返しながら大阪城公園を散歩し大阪城天守閣に登って観光してみたいと思わせる爽(さわ)やかな名著である、岩波新書の青、岡本良一「大坂城」は。

「いまもなお雄大な石垣を残して当時の規模をしのばせる大坂城─ここを舞台としていかなる戦乱の物語が展開され、民衆の血と汗が流されてきたのだろうか。著者は、大坂城に勤務した二十数年間の研究成果を集約して、本書をまとめた。秀吉の築城、豊臣・徳川の攻防、江戸時代の改築から今日までの歴史、さらにその築城技術まで語る」(表紙カバー裏解説)

(※岩波新書の青、岡本良一「大坂城」は近年、「岩波新書の江戸時代」として改訂版(1993年)が復刻・復刊されています。)

岩波新書の書評(467)千葉雅也「現代思想入門」

(今回は、講談社現代新書の千葉雅也「現代思想入門」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、千葉雅也「現代思想入門」は岩波新書ではありません。)

昨今、人気で売れているという講談社現代新書の千葉雅也「現代思想入門」(2022年)を先日、私も読んでみた。本新書の帯表面には「人生が変わる哲学。現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした『入門書』の決定版」とあって、また帯裏面には次のようにある。

「デリダ、ドゥルーズ、フーコ、ラカン、メイヤスー…複雑な世界の現実を高解像度で捉え、人生をハックする、『現代思想』のパースペクティブ ○物事を二項対立で捉えない○人生のリアリティはグレーゾーンに宿る○秩序の強化を警戒し、逸脱する人間の多様性を泳がせておく○権力は『下』からやってくる○搾取されている自分の力を、より自律的に用いる方法を考える○人間は過剰なエネルギーの解放と有限化の二重のドラマを生きている○無限の反省から抜け出し、個別の問題に有限に取り組む○大きな謎に悩むよりも、人生の世俗的な深さを生きる 『「現代思想」は、秩序を強化する動きへの警戒心を持ち、秩序からズレるもの、すなわち「差異」に注目する。それが今、人生の多様性を守るために必要だと思うのです。』─『はじめに 今なぜ現代思想か』より」

一般に「××入門」のタイトル書籍は評価が難しい。もともと「××入門」は、本当は個別の時代や人物や思想・理論や学派らに対する厳密で詳細な研究蓄積があるものを、あくまでも初学者に向けて便宜的に、本来の精密で難解な内容から詳細を外して単純化したり、あえて無理矢理に図示・公式化し易化して誰にでも「易しく分かりやすく」解説しているからだ。よって「××入門」書籍に関し、「内容が正確ではない。考察の中途が相当に省略されており簡略化され過ぎている。事の細かなニュアンスを伝えきれていない」などと本気で激怒して批評するのは、もともと初学者に向けて易しく、ある意味「手抜き」で書かれている入門書に対し「無粋で野暮で大人気(おとなげ)ない」と思えるし、逆に「誰にでも分かりやすい記述で素晴らしい。まさに名著だ」と初学者向けにわざとそのように易しく、ある意味「手抜き」して書かれてある「××入門」を安易に激賞したり、それに素朴に感動したりするのも、これまた「無邪気で能天気で幼稚」だと思えてしまう。だから「××入門」書籍はどこまでも入り口で、その一冊で絶対に終わらせず、読者はより専門的な概説書や個別研究に順次当たるべきだろう。「××入門」といった書籍は、あくまでも初学者に向けて便宜的に、本来は精密で難解な内容から詳細を外し単純化して、あえて無理矢理に図示・公式化し易化して誰にでも「易しく分かりやすく」解説している初歩の入り口でしかないのである。

さて講談社現代新書、千葉雅也「現代思想入門」である。一般に難解で取り組みにくく、専門家ではない素人の読者が手を出して読んでもワケが分からず、すぐに挫折してしまうとされる現代思想に関する「××入門」の書籍は前からあった。本書内で千葉雅也が触れていて、著者の千葉が昔に「拾い読みをして、…いつかここにあるようなカッコいい概念を使えるようになったらなあ…と憧れていた」という今村仁司「現代思想を読む辞典」(1988年)を始めとして、この手の「現代思想入門」の類書は昔からよく出ていた。私なども10代の高校生の頃の1980年代に、その手の「現代思想の本」はよく読んだ。今村仁司「現代思想のキイ・ワード」(1985年)や、小阪修平「わかりたいあなたのための現代思想・入門」(1984年)などである。1980年代には、いわゆる「ニュー・アカデミズム」のブームがあって、近代化論やマルクス主義ら従来の正統学問とされるものから少し外れた、記号論や構造主義や人類学やメデイア論やサブカルチャー批評などの新たな学問が「ニューアカ」と称され、80年代の日本では流行していた。その時代には、ポストモダンな現代思想を易しく解説する「現代思想入門」の書籍が多く出されていたのだった。

前述のように、「××入門」の書籍は初学者向けに分かりやすく手加減した内容のものであるから、千葉雅也「現代思想入門」に対しても、真面目に厳しく当たって酷評するのは野暮で「大人気ない」し、逆に無邪気に感動して高評価を下すのも、これまた幼稚で「子供っぽい」ということになってしまう。本書に対する評価は総じて難しいのである。だが、本新書は確かに「名著」ではないが、親切な「良書」であるとはいえる。本書を一読して、千葉「現代思想入門」が昨今、人気で売れている理由がよく分かる気が私はした。千葉雅也「現代思想入門」にて、今村仁司や小阪修平らが過去に執筆した「現代思想入門」のそれらとは異なる書き方の特徴は以下の2つだ。

(1)近代以降のポストモダンな現代思想を知ることで、そこから得られる新たな物の見方や社会への考え方、人生の生き方などに即活用できるような、現代思想への理解を通じての現代人の生き方指南をなす、功利的でカジュアル(簡略)な自己啓発的内容になっている。

(2)現代思想の各論の詳細や各人の思想の営みの細かさに拘泥(こうでい)せず踏み込まずに、あえてその思考の枠組みを抽出し極度に単純化して解説することで、近代以降のポストモダンな現代思想の理解に際して挫折者や脱落者を出さず、極めて平易な説明で読者へ一定の理解の満足を調達することに成功している。

(1)について先に引用した本書帯の文句で言えば、「人生が変わる哲学」のコピー部分がこれに当たる。本新書を読んでいて、純粋に現代思想の概要や本質が知りたい私には非常にうっとうしくて気になるのだが(笑)、本書にて著者は現代思想が「あなたの実生活に役立つこと」や「あなたの人生を変えること」をやたらと繰り返しクドいくらいに述べるのである。例えば「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より『高い解像度』で捉えられるようになるでしょう」(12ページ)、「このように、能動性と受動性が互いを押し合いへし合いしながら、絡み合いながら展開されるグレーゾーンがあって、そこにこそ人生のリアリティがある」(29ページ)というように。

歴代の現代思想には、それを知ることで「物事の見方の解像度が高まる」とか「人生のリアリティを感じられるようになる」など、そうした現実功利にのみ終始しない、人間の認識や世界観構築の次元の問題として、より誠実に突き詰められ各人により考え続けられてきた懐(ふところ)の深さの「現代思想の本領」は着実にあるはずだ。本書にて繰り返し強調される、「分かりやすい解説で実生活に使えて人生が変わる」の功利に常に安易に流れてしまうような、「自己啓発な現代思想啓蒙書籍」(?)とでもいうべきものの軽薄を実のところ私はどうかと思うが、この点こそ現代の時代の閉塞感を打破し、絶えず自己成長を遂げたいと暗に願っている今日の読者と共鳴して、本書が好評で幅広く読まれている人気の秘密か。

同様に(2)については、先に引用した本書帯の文句で言えば、「現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした」の部分がそれに当たる。従来の「現代思想入門」書籍では主要な人物について、各人の思想の中核概念のキイワードをそれぞれに挙げて順次解説していくのが常であった。例えば、デリダなら「パロールとエクリチュール」、ドゥルーズ+ガタリなら「リゾーム」、フーコなら「生政治(パノプティコン・モデル)」というように。これら主要概念の概略を理解できれば、「現代思想のことはだいたい分かった」ということに一応はなっていた。しかし、本書ではそうした細かな概念解説は回避して、わざと難解な思想解説の袋小路には踏み込まずに、それぞれの現代思想に通底する抽象の「思考の型」のようなものを一言で簡潔に説明することに著者が傾注している所が、現代思想の初学者にも分かりやすく好評人気な理由であると思う。その解説のあり方こそが、「現代思想の真髄をかつてない仕方で書き尽くした」と著者が自負する本新書独自の「かつてない仕方」の解説の方法であり、従来のこの手の「現代思想入門」の類書と本書とを分ける画期といえる。

それは例えば現代思想の主要なキイワード「脱構築」に関して、「脱構築とはどういうものか…ここで簡単に言っておくなら、物事を『二項対立』、つまり『二つの概念の対立』によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん保留するということです」(25ページ)というように、極めて平易な説明をなしている。

講談社現代新書、千葉雅也「現代思想入門」は著者が大学で開講している「ヨーロッパ現代思想」の授業をベースにしているという。なるほど、本新書ともども著者による大学での講義が、「現代思想への理解を通じての現代人の生き方指南をなす、功利的でカジュアル(簡略)な自己啓発的内容になっていること」と、「わざと難解な思想解説の袋小路には踏み込まずに、現代思想の思考の枠組みを抽出し極度に単純化して解説することで現代思想の理解に際して挫折者や脱落者を出さず、極めて平易な説明に徹していること」の2つの特徴にて、大学生や幅広い年齢層の読者に好評人気であるのに納得の思いが私はする。

また巻末にある「付録・現代思想の読み方」は、一般にはなかなか書籍では大ぴらには披露されないが、近代哲学以降のポストモダンな現代思想を、ある程度連続して時間をかけて読んでいれば誰もが経験的にやがては気づくであろう、まさに「現代思想の読み方」のコツのようなものを直接教授してくれるので、読んでなかなか有用である。「『カマし』のレトリックにツッコまない」などの、「現代思想の読み方」に関する著者による実践アドバイスに私は「なるほど」と思わずヒザを叩(たた)いて共感した。従来思想と差をつけるため、わざわざ高踏的に遠回しに書いてみたり、細かな概念区分の提示の考察にて回りくどくあえて難解に語るなど、書き手が読み手を圧倒するかのように「カマし」てくることは、「現代思想」書籍一般において実はよくある。

岩波新書の書評(466)五木寛之「日記」

以前に岩波新書に執筆し上梓して好評人気で跳(は)ねて、出版部数が伸びメディアにも頻繁に取り上げられ話題になったことを受けて、編集部依頼で岩波新書から連続して二冊目以降を出す運びになるも、前作が大ヒットの先例実績かあるため、「とりあえず今回も岩波新書から書いて出してもらう」の先行約束事項のみで、何を書くか・どのように書くかの企画の詰めがなされず、前作ヒットの功績もあり、編集部側が著者にあれこれ厳しい注文を出せなくて結果、執筆者へ企画進行がお任せの丸投げとなり、本作りに際していい加減な進行になってしまう。もしくは再度の岩波新書からの依頼に対し、執筆の当人にもう前回のようなやる気や執筆のネタがなくて明らかな消化試合的作業の手抜き仕事の新著を出してしまう事態となり、それを読者が手に取り読んでガッカリしてしまうことは実はよくある。

今回の「岩波新書の書評」で取り上げるのは、そうした明らかな消化試合的作業の手抜き仕事、いかにも著者の熱意もやる気も何にも感じられない凡作で駄作な岩波新書の一冊である。岩波新書の赤、五木寛之「日記」(1995年)だ。

このようなことを書くと営業妨害となり、五木寛之本人や五木の関係者や五木寛之ファンや当新書を担当した岩波新書編集者から、お叱(しか)りを受けてしまうかもしれないが、やはりこうした手抜き仕事の岩波新書をわざわざ購入して読んではいけない。そもそも五木寛之は、そうした明らかな手抜き仕事で自著を上梓の一冊カウントをいたずらに重ねるべきではないし、岩波新書編集部も、この手のやる気のない手抜きの新書で既刊カタログ一冊分を安易に埋めてはいけないのである。

「一九四八年(十五歳)『…今是非ほしいもの。一、白ズボン 二、ラケット 三、風呂しき 四、自転車 みんな夢である』。一九六七年(三十四歳)『…コラム執筆…魚屋に寄りサバ二本求む…百グラム二十円にて二百二十円也』。身辺の出来事、友人たちや家族とのかかわり、読書の随想から旅の記録まで、五十年にわたって折にふれ書き綴(つづ)られた作家の日記」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の五木寛之「日記」の副題は「十代から六十代までのメモリー」である。本新書は、そのまま五木の「十四歳の日記(一九四七年)から六十二歳の日記(一九九五年)まで」が時系列で抜粋され、掲載されているだけだ(苦笑)。冒頭に「まえがき」のたった4ページを五木は新たに書き下ろしただけで、後は以前に書き留めた私的な日記の蔵出し掲載で早くも本が完成してしまう。お気楽な手抜きで楽に一冊作ったな、五木寛之(笑)。

本論は、もともと私的につけていた個人の日記であるので、その日の天気、毎日の行動や支払い支出の細目(「電車賃十円。スケート代百二十円。映画代三十円」とか)、当日に食べたもの、購入し読んだ書籍、観た映画、その日に会った人などが、とりとめもなく記されている。巻末に何ら註釈も付されていないから「この日、五木の記述に出て来るこの人物が一体どういう人なのか!?」(「井上君等と運動に行く」の井上君とは誰?「国武から手紙が来た」の国武とはどういう人物?)など、特に五木寛之に詳しくない私のような読者は読んでも全く分からない。また日記なので練りに練った金言や深い人生訓なども、めったに出てこない。こういった個人のとりとめもない私的な日記を読んで楽しいのは、日記を日々つけていて折に触れ、自身の過去を読み返す五木寛之本人か、五木のことが大好きで五木のことなら作品以外のプライベートなことでも何でも知りたいと思っている熱烈な五木寛之ファンくらいである。後は五木寛之研究をなす研究者にとっての貴重資料になる程度か。

岩波新書の五木寛之「日記」(1995年)は、前年に五木が同岩波新書の「蓮如」(1994年)を出して、早くもそのわずか一年後に矢継ぎ早に連続して出されたものであった。確かに五木の岩波新書「蓮如」は.当時の「蓮如五百回遠忌法要」(1998年)の節目の一大イベント開催の時勢に乗り、売れに売れて話題の書となった。五木は前年に岩波新書「蓮如」を上梓して異常人気で跳ねたため、編集部依頼で岩波新書から連続して短期間で二冊目を出すこととなり、前作「蓮如」が大ヒットの先例功績があったため、「とりあえず今回も岩波新書から書いて出してもらう」の先行約束事項だけの見切り発車で、当の五木寛之も岩波新書に新作執筆の約束はしたものの、もう前回のようなやる気の熱意も執筆のネタもなくて、それで明らかな消化試合的作業な手抜き仕事の新作である今般の岩波新書の「日記」になった、そう私は推察する。

前に社会学者の富永茂樹が見事に指摘したように、毎日コツコツと日記を書き溜(た)めることは、毎回、内緒で密封された瓶詰めのジャムを少しずつ瓶容器に補充し続ける行為に似ている。日記を書き続けて、その都度、自身でこっそり読み返し、新たに書き加えたり記述修整したりするのは、密封された瓶詰めのジャムのフタを開け夜中に人知れず内緒で舐(な)めて、中身のジャムが減った分、これまた内緒でジャムを瓶容器に少しだけ補充しておく繰り返しの行為のようなものだ。自分で毎日、独り日記を付けて自身で日記を読み返し、こっそり時に書き加える。夜中に密封容器のジャムの瓶のフタを開け内緒でジャムを舐めて毎回、舐めて減った分のジャムをこれまた内緒で補充しておく「甘い」背徳の秘事のように。

日記をつけていること自体や日記の内容を決して誰にも知られてはならない。人知れず、こっそりやらなければいけない。自身の日記は他人にそう易々と見せてはいけない。ましてや日記を書籍にして個人的私的な日記を公的に堂々と公開してはいけない、五木寛之のように(笑)。

私も日記に類する物、自身の個人的なノート、 忘備録や毎日の反省、当面の計画と目標、自分の長所や短所や性格診断らの自己分析、楽しい旅の思い出、過去にお世話になった友人や知り合いの人たちこと、日頃の読書で気に入った他人の文章などを昔から一冊のノートに書き留め、日々繰り返し読み返しては後に新たに書き加えたり、記述修整したりして楽しんでいる。しかし、そうした日記代わりの個人的なノートは絶対に人には見せない。自分独りで書いて、繰り返し読んで何度も書き直しては読み返す。人知れず、こっそり味わう人生の甘美な楽しみである。

岩波新書の書評(465)小畠郁生「恐竜はなぜ滅んだか」

恐竜は、約二億五000万年前(中世代三畳紀中期)に出現したものがその起源とされている。その後、長きに渡り陸上脊椎(せきつい)動物の頂点に立ったが、約六五00万年前(中世代白亜紀末期)の大量死滅により、鳥類(恐竜の中で唯一の現存群である鳥類系統)を除き、恐竜すべての種が地球上から姿を消した。他方、人類は、約二00万年前に東アフリカで進化し(アフリカ単一起源説)、約一五0万年前にはユーラシア大陸各地に広がっていき現在の人類に至るとされる。

過去に地球上で、それまで一億数千年にも渡って進化し発展してきた陸上動物の頂点にあった恐竜が、ある時期に集中して死に瀕(ひん)し、突然に滅んでしまった歴史に私達が興味を惹(ひ)かれるのは、それは同様に現在地球上で生物連鎖の頂点にある人類の、かつての恐竜同様の絶滅を予感し、その恐竜絶滅の生物学的歴史を人類の絶滅のそれに暗に重ねているからに違いない。少なくとも私はそうだ。だから、私は「恐竜の絶滅」に関する書籍を昔からつい手に取り読んでしまう。

恐竜と同様、地球上の人類もゆくゆくは絶滅する。「人類の絶滅」を文字通り「人類が全て死に滅んでしまうこと」として、そうした生存者ゼロの完全な「絶滅」はないとしても、多くの人間が何らかの理由で特定の時期に集中して大量に死に全人類の総人口が大幅に激減して、結果ほぼ「人類の絶滅」に近い、ごくわずかの少人数の人間しか生存できない未来もありうる。現在の人間個体の寿命は百歳前後だから「個」としての人類はせいぜい生きて百年足らずだが、民族としての「種」、並びに人間全体の「類」としての人類は、この先、全面核戦争など余程の不測のアクシデントが発生しなければ、(おそらくは)数千年から数億年先まで地球上で生存できる。

その際の「人類の絶滅」の直接要因には、例えば「パンデミック」(新たなウイルスの発生による人類共通感染症の世界的流行)や、「気候変動」(急激な地球温暖化ないしは寒冷化、天然自然の放射能濃度の急激上昇などで地球が生命存続不能な惑星になる)や、「地球外生命体の侵攻」(SFめいた設定ではあるが、ある時期に未知の地球外生命体が来襲して人類を滅ぼすことも可能性としてなくはない)などが考えられる。

岩波ジュニア新書の小畠郁生「恐竜はなぜ滅んだか」(1984年)は、かつての地球上での恐竜絶滅の謎に迫ったものだ。本書の概要は以下である。

「今から約六五00万年前、それまで一億数千年にもわたって進化し、発展してきた中世代の陸の王者恐竜たちが、とつぜん滅んでしまったのです。何が起こったのでしょうか?原因を究明するには、地球に生命が誕生してからの生物の生成・発展・衰亡の歴史をたどり、また恐竜たちの生活や能力を知り、同じ時代の生物たちや地球の環境を調べる必要があります。化石が残した過去のデータを駆使して恐竜絶滅事件のなぞにせまってみましょう」(裏表紙解説)

また本新書の著者である小畠郁生(おばた・いくお)については、本書の奥付(おくづけ)に次のようにある。

「一九二九年、福岡に生まれる。九州大学理学部地質学科卒業後、一九五六年、同大学大学院理学研究科修士課程終了。九州大学地質学教室助手を経て一九六二年から国立科学博物館。後に同博物館地学研究部部長。古生物学、地質学を研究分野としている」

小畠郁生「恐竜はなぜ滅んだか」は、ジュヴナイル(10代の少年少女向けの読み物)の岩波ジュニア新書であるが、初学者が多いと推察される10代の読者に易しく分かりやすく「恐竜絶滅の謎」を説きながら、その内容に誤魔化しなく詳しく丁寧に解説されている。本書での著者の記述は学術的に裏打ちされたものであり、十分に信頼できる。そのことは著者の小畠郁生のプロフィール、「九州大学大学院理学研究科修士課程終了後、九州大学地質学教室助手を経て、後に国立科学博物館地学研究部部長」の、恐竜ら地球の古生物学と古代地質学の専門研究を重ねてきた氏の経歴からも納得できるのである。

岩波ジュニア新書「恐竜はなぜ滅んだか」は、恐竜発生以前の地球環境から恐竜への進化・出現と各恐竜の分類と生態などを順序立てて説明しているが、何よりも本書の最大の読み所は、書籍タイトルと同一の最終章「恐竜はなぜ滅んだか」であろう。この最終章には本書刊行時の1980年代時点での「恐竜絶滅の原因仮説」の最新主要なものが、ほぼ挙げられている。例えば以下のような仮説だ。

☆種としての寿命説(系統として老衰し、自然の進化発展の終末に到達した恐竜という生物自身の種としての寿命により絶滅した)☆有毒物説(有毒性の寄生虫の発生や伝染病の流行により絶滅した)☆天変地異説(太陽系に直近の所での超新星の爆発による放射能の地球上への降注によって絶滅した)☆隕石衝突説(地球への隕石衝突の衝撃によって水の蒸発、津波の発生、粉塵の舞い上がりで太陽光が遮断され、食料となる植物・動物の死滅と地球の寒冷化により絶滅した)

これら幾つかの「恐竜はなぜ滅んだか」の原因仮説が、各説の長所と難点とをそれぞれに指摘しながら本書では挙げられている。しかしながら、どれか一つの仮説が「恐竜絶滅の決定的要因」と性急には結論付けず断定で極端な決めつけは避け、「恐竜の絶滅原因」について以下のような「多角的な複合要因」の仮説立場を最後に著者は表明している。

「けっきょく、たとえば、いん石説がかりに正しいとしても、それは絶滅に拍車をかけたひき金となった事件にすぎず、動物の側にも絶滅の原因があったこと(恐竜の体のつくり)、また大海退というような地球的規模の変化で多種類の生物の生息に好適な環境が奪われる(アンモナイトの例)という素地があったうえに気候変化があり、温度差が大きくなって偏西風や貿易風が強くなったために翼竜などまで滅びてしまったというふうに、地球全体として多角的に総合して絶滅の原因を考えるのがよいでしょう」(205・206ページ)

「恐竜はなぜ滅んだか」という難題に対し、こうしたどのような仮説でも等しく当てはまるように読める穏健な、物事にあえて白黒は付けない中間複合の灰色(グレー)解釈(「多角的に総合して絶滅の原因を考えるのがよいでしょう」)でひとまず筆を擱(お)くあたり、著者もなかなかの人だと私は本新書を最後まで読んで感心する次第だ。とりあえずは上手い結論のまとめ方であるとは思う。

「恐竜はなぜ滅んだか」の恐竜絶滅の原因解明については、古代地球環境の不安定な酸素濃度の変化に左右されて「絶滅も進化も酸素濃度が決めた」とする生物の呼吸代謝のあり様に着目した、ピーター・D・ウォード「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」(日本語版、2008年)がなるほど説特力があり、現時点での有力仮説の筆頭であると私は思う。