アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(524)富岡儀八「塩の道を探る」

岩波新書の黄、富岡儀八「塩の道を探る」(1983年)のタイトルにある「塩の道」の概要はこうだ。

「塩の道とは、塩を内陸に運ぶのに使われた道のこと。また反対に内陸からは、山の幸(山の食料や木材や鉱物)が運ばれた道でもある。製塩が化学製法に代わり専売法による規制がかけられる以前は、海辺の塩田に頼っていたことから日本の各地で海と山を結ぶ形で塩の道は数多くあった。塩の道は日本全国にいくつもあり、内陸地へは場所によって様々なルートで運ばれてきた。特に雪深い内陸地域に住む住人にとって冬場は漬物や味噌を作って保存するなど、塩は生活に欠かすことのできないものであることから重要な生活路であった。また近世に入ると宿場町やその周辺は藩によって重点的な開発が行われた。これら塩の道の街道沿いには宿場町、城下町、神社・寺院がある場合が多い。日本各地で盛んだった塩の道での往来は、後の鉄道建設に反映され、1960年代以降に道路が整備されて現在も物流の主要なルートとして残っている。

塩の道は各地に存在しているが、日本の塩街道は特に中部地方(北陸道─東山道─東海道)の連絡線に多く、日本海側からは、例えば姫川沿いの千国街道が代表的な塩の道である。日本海側の越後国と信濃国を結ぶ千国街道(糸魚川 ─塩尻)は塩の運搬に関する遺構も比較的残されていて、よく知られている。地名になっている『塩尻』とは『塩の道の尻』で、海で採れた塩運搬路の終着点の意味である」

もともと遠隔地の街と街とを結ぶ街道は、目的用途のはっきりした合理的なものである。そうした合理的な目的用途の確固としたものがなければ道は新たに切り拓(ひら)かれないし、後々まで長く存続しない。また街道があるためには、常に人や馬や車の往来の一定の交通量があって道の整備保全が定期的になされなければならない。そうでなければ、やがて街道は廃れてしまう。それゆえ、街道(整備の行き届いた交通路)とは目的用途が明確にあって継続的に整備保全がなされる極めて合理的で人為的なものである。

日本の街道といえば、古代の律令国家体制、近世の江戸幕府下における各地の伝令統治や租税徴収や参勤交代らを円滑に行うための政権所在地につながる政治的道路や、軍事の兵站(へいたん・兵の移動や物資の輸送)のための軍用路、参拝・参詣のために寺社に連なる宗教的な道(熊野古道や伊勢街道が有名)など、様々な街道がある。それらの中で「塩の道」は各地域同士の物資の交易のためにある産業幹線道路の典型であった。

さて一般に塩に関して、普段から自身で調理したり、家人や外食先で出される食事を無自覚に食べている限りではあまり気づかないけれど、塩というのは人間の生存にとって極めて大切で必要不可欠なものである。例えば「敵に塩を送る」という故事成語がある。この語は「敵の弱みにつけこまずに、逆にその苦境から相手を救う」、さらには「争いの本質ではない所で、相手に援助を与える公正(フェアプレイ)精神の発露」といった意味である。これは戦国時代の武将同士の戦いで、武田信玄が敵側から塩の供給経路を断たれ、塩が入手できない兵糧攻めの塩不足で苦しんでいた時に、別の敵方の上杉謙信が「武士道に反する」として敵対する武田側にあえて塩を送ったという逸話が元になっている。

このように塩の供給を一時的に断たれただけで、人は生きていけない。それほどまでに塩とは人間の生存にとって欠くことのできない重要なものであるのだ。そして日本では、塩は海辺の塩田にて主に生産されていたため、海から遠い内陸地へ生活に必要不可欠な塩を供給し運ぶために全国各地で海と山を結ぶ形での、いわゆる「塩の道」が様々なルートにて昔から数多くあったのである。

ところで、「塩の道」といえば今や有名で定番の話題(トピック)であり、日本経済史や産業交通史や特定地域の郷土史にて頻繁に言及される人気のテーマである。今日のように「塩の道」の話題がここまで注目され、人々の耳目を広く集めて知られるようになった契機は一体何であったか、以前に私は調べてみたことがあった。「塩の道」という語やそれについての歴史研究は昔からあったが、それが人々に一気に拡散したのは、どうやら民俗学者の宮本常一が晩年にやった「塩の道」の講演(宮本「塩の道」の初出は「日本の海洋民」1974年)が書籍となり、これが広く読まれての影響であるらしい。「なるほど宮本常一の影響か!」と私はその時に痛く納得した次第である。宮本常一という人は地道で膨大な現地調査(フィールドワーク)に裏打ちさせて、学術的で本格的な民俗学をやる人であったけれど、他方でこの人は大学や専門学会の「象牙の塔」にこもらず、なぜか不思議と専門の学者・研究者以外の一般の人に人気のある民俗学者であった。宮本常一の著作は一般読者に支えられた人気の裾野が幅広くあって、宮本民俗学のファンは昔から多くいたのだった。

岩波新書の富岡儀八「塩の道を探る」も、「塩の道」の定番人気のテーマに即した一冊である。本書は古代よりあった「塩の道」に関して、あえて近世江戸の日本各地の塩街道に内容を絞り論じている。すなわち近世江戸以降、「日本の塩」は以下の七つの変革期を経て今日に至ったとされるのであった。

「(1)塩業地の基礎作り(第一変革期、正保三─五年)。(2)商品経済への発展(第二変革期、寛文年間─元禄年間)。(3)生産の合理化(第三変革期、文政六年ごろ)。(4)国家専売制の実施(第四変革期、明治三八年)。(5)工場生産の開始(第五・六変革期、昭和一三年─二八年)。(6)化学製塩への大転換と塩田の廃田化(第七変革期、昭和四二年─四七年)」

本書で扱われているのは、(1)(2)(3)の三つの変革期の「日本の塩」および「塩の道」である。この時期の「塩の道」について、地図や図表や写真を掲載して北は北海道・東北から南は四国・九州までの日本各地の塩街道の詳細をそれぞれ具体的に、非常に細かく記述している。

私が「塩の道」関連の書籍を重ねて読んで昔から強く思うのは、塩は実は人々の日々の生活に欠かせないものであって、沿岸部の塩田生産に主に依拠していた日本の製塩事情から特に内陸山間部に暮らす人々に塩は大変に貴重なもので、その流通経路として日本には昔から「塩の道」が数多く存在した、と単にするような表面的な常識的理解にとどまってはいけないということである。海と山とを結ぶ形での生活基幹物資である塩の輸送路たる「塩の道」を介して、沿岸部からの行商人による塩の振り売り、ないしは山間部住民の塩の買い出しの双方向からの交易にて、沿岸から内陸に塩が運ばれた「塩の道」は、同時に内陸から沿岸に山の食料や木材や鉱物が運ばれた「山の道」でもあった。また「塩の道」にて人や牛や馬の背に乗せて塩が日常的に運ばれ人々が頻繁に往来することで人と物が自然に集まり、その街道沿いには市場や商店、宿場町や城下町、神社・寺院ができて地域として栄えた事例も多い。

この道を往来した人々は塩を主とする物資の交易を媒介に、単なる物の売買交換の商売だけでなく、食べ物の味つけの食文化に関しての生活嗜好や地域特有の伝統習俗や特徴的な物の考え方らが共通の一大地域文化圏に属し、そうした地域文化圏形成に、かの「塩の道」は強く影響を及ぼしていた。こういった点にまで留意して深く丁寧に、「塩の道」関連の書籍は読まれるべきであると思う。

最後に、岩波新書の富岡儀八「塩の道を探る」の概要を記しておく。

「塩は、日々の生活に欠かせない必需品であり、むかしから、どんな山奥へも万難を排して運びこまれた。そのルートは、同時に、さまざまな生活物資を運ぶ道となり、人と人とをつなぐ道ともなった。日本列島全域におよぶ調査研究をもとに、塩の生産と流通がどのようにおこなわれ、それが地域の生活や文化とどうかかわってきたかを探る」(表紙カバー裏解説)

岩波新書の書評(523)北山茂夫「藤原道長」

近年、放映のNHK大河ドラマに「光る君へ」(2024年)があった。本作は、平安時代の摂関政治期が舞台であり、紫式部が主役、藤原道長が相手役の準主役となっている。紫式部、藤原道長ともにこの時代の代表的人物として有名だが、実のところその全貌にはいまだ不明なことが多い。残された同時代の本人自筆(とされる)史料(「紫式部日記」「御堂関白記」)を最大限駆使しても、紫式部と藤原道長のことははっきりしないのである。また彼らの没後に記されたもの(「栄華物語」「大鏡」など)には、人々の耳目を無駄に引こうとする歴史物語的な面白さの語り記述に流されやすい脚色・虚構があって、史料批判を介して慎重に読まれなければならず、書かれてある事をそのまま素朴に信じるわけにはいかない。

NHK大河ドラマ「光る君へ」の脚本担当である大石静は、制作発表会見で次のような旨を述べたという。「藤原氏が摂関家として権力を誇った平安王朝というのは、山崎豊子『華麗なる一族』と映画『ゴッドファーザー』を足して3倍したような権力闘争の面白い話がいっぱいある。…平安王朝の権力闘争といった『セックス・アンド・バイオレンス』を描きたい」と。

言い得て妙である。確かに、平安王朝の摂関政治全盛期は「性と暴力」が満載だ(笑)。自身の娘を天皇に入内(皇后・中宮になる人が宮中に入ること)させ皇子の誕生を望み、外祖父(母方の祖父)の立場から天皇の外戚として摂政・関白の高位高官を独占し国政を左右した藤原氏の摂関政治には、藤原一族による他氏排斥に加えて、藤原氏内部における「氏の長者」をめぐる一族内での熾烈(しれつ)な争いがあった。父子、兄弟、伯父・叔父と甥らの間での過酷な権力闘争である。藤原氏の摂関政治での藤原北家(「一の家」)の官位独占下にて、さらに一族の首長である「氏の長者」が摂関を兼ねる慣例になっていた。そのため摂政・関白に補任される(「一の人」になる)には、何よりも藤原氏の中で他の兄弟や伯父・叔父や甥ら肉親を抑えて自身が「氏の長者」の頂点に立つ必要があったのである。

藤原道長が藤原家の中で甥の藤原伊周(道長の兄・道隆の子)と争い伊周を失脚させ、やがて一族の長となり、さらには娘を天皇の后妃に入れて自らは外祖父となる、いわゆる「血縁の正統性」に依拠する形で天皇の後見役として君臨する生涯出世の過程は、なるほど、山崎豊子「華麗なる一族」(1970年)での血のつながりがある親密であるはずの家族なのに、万俵(まんぴょう)家という銀行頭取一族内での父子間の憎悪の誤解や、正妻と愛人執事との対決での、「跡継ぎの子の有無」をめぐっての権力の正統性誇示の一連のやりとり(「あなたも子供を作っておけばよかったのに」のセリフなど)を思い起こさせる。また道長の上には父・兼家の後継と目され摂政・関白を歴任した長兄・道隆と三兄・道兼の有力な兄が二人いた。ところが二人の兄は相次いで突然早くに亡くなってしまう。それで最後は道長が父の藤原兼家の跡を継いて「氏の長者」となるわけだが、この話の筋は映画「ゴッドファーザー」(1972年)とほぼ同じである。あの映画でも劇中、長兄や次兄ではなく三男のアル・パチーノが、最初はコルレオーネ家のイタリア系マフィア一家を継ぐつもりなど全くなかったのに、抗争の過程で一族内での愛憎を経て最後は父のマーロン・ブランドの後継者としてファミリーのドン(首領)になり、一家を束ねていた。

確かに大河ドラマ「光る君へ」は、「小説『華麗なる一族』と映画『ゴッドファーザー』を足して3倍したような」見心地がする。本ドラマでは、他氏排斥ならびに一族内での対立の藤原氏の権力闘争で歴史的に明らかになっている事柄はよく描かれている(例えば、花山天皇が兼家の藤原一家にだまされて出家し退位する「寛和の変」の顛末など)。だが、紫式部と藤原道長の私的なことは文献史料が少なく不明であるため、かなり大胆な脚色がなされている。下級貴族の紫式部は摂関家の藤原道長に召出され、中宮である道長の娘・彰子に仕える以前に、実は幼少の頃から道長と知り合いで二人は以前に恋仲であったとか(笑)。比較的信頼できる史料、紫式部自筆の「紫式部日記」を読んでも幼少時から紫式部と藤原道長が知り合いであったとか、二人が密かに相思相愛であった可能性は低い。しかも紫式部の早世した母親が道長の、冷酷な兄・道兼に通りすがりの辻斬りで無残に殺されて、紫式部にとって愛する藤原道長は母の敵(かたき)の憎むべき因縁人物の弟だったなど、どう考えても史実として到底ありえない現代的な相当に俗っぽい話になっている。ただ軽い気持ちで日曜の夜にツッコミを入れながら冷やかし半分で視聴して、それなりに面白いけれど。

さて、大河ドラマ「光る君へ」で主役の紫式部と共に主要人物になっている藤原道長に関しては、昔の岩波新書に青版の北山茂夫「藤原道長」(1970年)があった。本書はフィクションの歴史小説ではなく、学術的な人物評伝であるため、道長について歴史的に明らかになっている確定的なことしか書かれていない。不明なことは、はっきりその旨を記しており、著者による推測や仮説の記述はほとんどない。書き出しから結語まで「藤原道長には不明なところが多い」「道長という政治家の正体は茫漠(ぼうばく)としてとらえにくい」など、結局のところ藤原道長その人に関してはよくわからないとする一貫した立場からの慎重な書きぶりである。そのため、(かの大河ドラマとは異なり)内容は地味で一読して即座に面白みを感じる要素に乏しいが、その反面、慎重で堅実な評伝記述にて、序章に「ある日の道長」の人生の一場面を置き、その上で誕生から死去までを時系列で読んで藤原道長という人が、それなりにジワジワと分かってくるといった所である。

藤原道長には国政や外交における公的な改革政治よりも、手近な私的権力闘争の政争の方がよく似合う。道長と伊周の抗争、道長と三条天皇の確執など。よく指摘されるように、藤原道長の存命時(966─1027年)は律令国家のいよいよの崩壊時期であるにもかわらず、以前の平将門と藤原純友による東西での地方反乱(承平・天慶の乱、939年)や道長没直後の東国での平忠常の乱(1028年)などの目立った地方反乱は不思議と起こらなかった。政権担当時に、こうした大きな内乱勃発に遭遇しなかった点でも藤原道長の生涯は誠に運が良かったといえる。

藤原道長が晩年、莫大な財と多数の人手の手間をかけて造宮したのが法成寺であった。晩年には浄土信仰に傾倒し、つらい病に長く苦しんだことから出家した道長が阿弥陀堂を建立し、無量寿院と名付けたのが始まりとされる。後に法成寺に改名された。法成寺は「御堂」とも呼ばれ、法成寺は藤原道長のニックネーム「御堂関白」の由来になった。法成寺は道長の子・頼道が後に開いた平等院の範となった寺院で一望の様子は平等院に似ており、造宮規模は平安当時の寺院としては最大級、内部の伽藍は壮麗を極めたという。しかし、法成寺は後の時代の度重なる出火により焼失し現存していない。藤原道長に関する事柄で法成寺が現代に残っていないのを、いつも私は残念に思う。

岩波新書「藤原道長」には「道長の生き方は、白河・後白河らの法皇たちの原型である」(216ページ)とあって、著者の北山茂夫が、摂関政治全盛の藤原道長の政治を後の時代の「院政の原型」と見ている点が興味深い。だが、本書を通じての著者による道長評価は、「マナリズム(マンネリズム。慣例の形式的踏襲に終始して新鮮味がないこと)の政治家」と厳しく断じて全体に低調である。例えば以下のように。

「藤原道長は、古代史のどこにいかなる位置を占めたのか。その家系からいえば、鎌足の後裔の一人である。かれは、古代国家がいちじるしく衰頽(すいたい)した一0世紀の終末に権力の座につき、以後三0年にわたって、政界を支配した政治家である。衰頽期もこの時代までさがると、中央政府による政治指導は活気を失ってマナリズムにおちいりがちで、政治家のタイプも、がらりと変わってくる。道長は、そうした時代の大権勢家であった。道長は、そのマナリズムに抵抗することなく生きた政治家である。かれには、これといった国策上の事績はみられない。積極的な政策をもたぬ大権勢家とは、まことに奇妙な存在である」(2ページ)

(※岩波新書の青、北山茂夫「藤原道長」は近年、岩波新書評伝選から改訂版(1995年)が復刻・復刊されています。)

岩波新書の書評(522)岡本隆司「李鴻章」

近年、岩波新書の新赤版にて、中国近代史専攻の岡本隆司による「評伝三部作」とでもいうべき近代中国の人物に関する新書が出ている。「李鴻章・東アジアの近代」(2011年)と「袁世凱・現代中国の出発」(2015年)と「曾国藩・『英雄』と中国史」(2022年)である。扱われる人物評価を含めて中国近代史に関する書籍は、だいたい誰の何を読んでも面白いというのが私の率直な感想だ。

以下では、李鴻章について書いてみたい。

「李鴻章(1823─1901年)は中国清代の官僚・政治家。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)として調印を行った」

岩波新書「李鴻章」を始めとして、李鴻章に関するものを読んだり彼のことを考えると、いつも私は大変に気の毒な思いになる。李鴻章については「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」といった感慨である。

「老舗企業(清朝中国)に厳しい入社試験(科挙)を経て成績優秀で入り、実績を積んで昇進を重ねるが、創業者一族(清朝)の正統家系ではないため(漢族出身)、雇われ幹部(漢人官僚)として期待混じりの重用で社長(西太后)から直々にこき使われることとなる。本社勤務の楽な『名ばかり』名誉職の閑職ではなくて、本社から出向派遣の現場周りで、会社からすれば実に『使い勝手のよい』役回りである。社内では社員による労働運動の嵐(太平天国の乱、義和団事件)が各部署にて吹き荒れ、その都度、問題発生の現場に自身が直接に出向いて過激労組への対応に日々追われる。その労働運動抑え込み功績(太平天国の乱平定、捻軍鎮圧)の社内貢献により、後に晴れて大幹部(直隷総督・北洋大臣)への出世となるが。また社内改革(中国近代化)推進のメンバーに選ばれ、改革プロジェクト(洋務運動)に積極的に携わり責任重大であるが、創業者一族(清朝守旧派)の妨害もあって改革は順調というわけでもない。特に悩ましいのは自身が専門担当の社外交渉(国防外交)で、同業他社(日本)よりの、昔からの子会社(朝鮮)横取りの圧力の嫌がらせが相次ぎ、険悪な敵対関係(日清戦争)で負けが重なり会社はボロボロ。老舗の看板名声は一気に急落。しかし、それでも最前線の現場に立って会社建て直しのための実務を続けなければならない。退職の引退はなく、亡くなる直前まで会社(清朝中国)に奉職の激務である」

私から見て、そんな「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」といった感がある、いかにも気の毒な李鴻章の生涯である。

李鴻章、この人は元々かなり優秀な人である。幼少時から勉学に励み見事、科挙に合格。同時期の官僚・政治家である曾国藩に師事して師弟関係を結び、科挙エリートとして実績を積んで昇進を重ねる。そして李鴻章が29歳の時に太平天国の乱が勃発。清朝政府の命令を受け、師である曾国藩が湘軍を組織し太平天国の制圧に主力として当たり、曾国藩の湘軍に倣(なら)って、後に李鴻章も淮軍を創設する。この淮軍を率いて太平天国滅亡に大きく貢献し、続く捻軍鎮圧でも功績を上げた李鴻章は、師の曾国藩の後を継いで後に直隷総督(地方長官の最高位)に就任し、北洋通商大臣(外交・海防を担当)も兼任した。ここに至って李鴻章は、清朝の重臣筆頭として西太后(清末期の権力者。清の咸豊帝の側室で、同治帝の母)の厚い信任を得る。

太平天国の乱(1951─64年)は、人々が「太平天国」という理想国家の樹立をめざして清朝に抗した、清末期に起こった中国近代史上最大の民衆の乱である。捻軍の乱(1953─68年)は、太平天国に呼応して挙兵した「捻軍」(「捻」は「一本一本の糸をひねり、よりあげる」で人々の集まり・仲間の意味)という農民軍の蜂起である。これら地方での中央政府に対する相次ぐ乱に対し、清朝皇帝の正規軍である八旗・綠営では鎮圧できないほどに清の正式軍隊は弱体化していた。そこで正規軍たる八旗・綠営の戦力低下を補う目的で「郷勇」(地方の漢人官僚らが組織した義勇軍)が組織され、この郷勇が太平天国の乱ら後の内乱制圧の主力となっていくのである。そのいくつかある地方で組織された郷勇の内、曾国藩が創設したのが湘軍であり、李鴻章が創設したのが淮軍である。特に李鴻章の淮軍は太平天国と捻軍の制圧にて活躍めざましく戦果を上げて、淮軍はその後も李鴻章の権力基盤となった。

(※中央政府の正規軍である八旗・綠営の弱体化で太平天国の乱を鎮圧できず、そのために各地方で組織された義勇軍である郷勇の相次ぐ創設は、やがて中央政府による公的政治の制御(コントロール)が効(き)かない、地方分権の独自の私的裁量統治の軍閥の乱立を招いて、複数の地方権力が各地に並立して国内で対立し合う群雄割拠の不安定な情勢を引き起こした。こうした太平天国の乱勃発由来の、地方での軍閥乱立という国内分裂の混迷は、第二次世界大戦終結時まで続き、例えば「北伐(1920年代、中国国民党が北方の諸軍閥を打倒し、中国統一のために行った戦い)」や「国共内戦(1920年代から1945年まで何度も繰り返された中国国民党と中国共産党の戦い)」など、中国中央の支配者と中国の民衆を後々まで長く悩ませることになる)

李鴻章の生涯を後に振り返ると、やはり李鴻章が科挙エリートとして勤めていた若き日の20代に、中国近代史上最大の民衆の乱である太平天国の乱という同時代の一大事件に出くわしたことの意味は極めて大きい。李鴻章は、師事していた曾国藩の湘軍と一時期、行動を共にしていたため、後にみずからも淮軍を組織し率いて太平天国の乱への鎮圧対処で頭角を現し、清朝の信任を得てやがては最高実力者の地位にまで上り詰める。この太平天国の乱に処するの時点で、李鴻章の将来の進む道はほぼ決まったといえる。李鴻章は科挙を優秀な成績で合格しエリート官僚の道を進んだが、彼はいわゆる「文民(軍人でない者)」ではない。清朝に仕える官僚とはいっても、中央で詔勅起草の政策立案をしたり、中央から地方へ文書で命令を出すような文事に携わる文臣の役職ではなかった。太平天国の乱の制圧に大きく貢献して功績を上げた李鴻章は、後に直隷総督(地方長官の最高位)に就任し、北洋通商大臣(外交・海防を担当)も兼務したというように、地方の現場にその都度出向いては内乱を鎮める実務の地方官筆頭だった。彼は血統・出自に由来する中央にての「権力の源泉」ではなく、地方の現場への奔走実務で有能であったがゆえに後に権力を付与されて、その「後付けの権力」の行使をして、さらに自身に荷重に課せられた職責に邁進する役人であった。 

事実、太平天国の乱鎮圧の後、李鴻章は直隷総督(地方長官の最高位)、北洋通商大臣(外交・海防)として外国人とのトラブルまがいの外交交渉や諸外国との戦争、そしてその戦争事後の後始末ら相当に困難な重大職務を一手に任され、それら重責を背負わせられることとなる。また洋務運動にて、北洋艦隊の設立(1988年に李鴻章が創設した清国海軍の艦隊。1988年の設立で比較的早く、創設当初は日本の帝国海軍を凌ぐ「東洋一の艦隊」と称された)に加えて、科挙の改革を李鴻章は進言するも(新たな人材育成のために科挙の科目に西洋の科学・工学ら実学を盛り込むことを提言。だが儒教を重んじる守旧派の抵抗で却下されている)、清朝政府はそれら西洋化には内心乗り気でなく、洋務運動の近代化改革は「中体西用」(伝統中国の文化・制度を本体として、西洋の機械文明の利用を目指す)といった外面的なものに終始し、改革は困難を極めた。

李鴻章、晩年最大の仕事は、朝鮮に対する宗主権をめぐり関係悪化した日本との間での日清戦争(1894年)、そして日本への敗戦を受けての講和条約である下関条約(1895年)に清側の欽差大臣(全権大使)として臨んだ批准(ひじゅん)にあるといえよう。日清戦争にて、清側の主要戦力である自身が作り上げた淮軍と北洋艦隊の練度ならびに清軍兵士の士気は低く、敗戦必至で当初より開戦反対の立場である李鴻章であったが、西太后の甥・光緒帝ら主戦派に押し切られる形で戦端は開かれ、日清戦争の開戦となってしまう。そうして黄海海戦、旅順口の戦いにて清国海軍は連戦連敗を重ね、李鴻章の淮軍と北洋艦隊は壊滅。日清戦争にて清は日本に敗北した。日清戦争敗北の後、講和交渉で全権委任された李鴻章は日本の下関に赴き、下関条約に調印する。この時の日本側全権は日清戦争開戦時の総理大臣である伊藤博文と、外務大臣で伊藤の腹心だった陸奥宗光である。戦争講和の下関条約は、(1)朝鮮の完全「独立」(清の干渉権放棄)、(2)遼東半島・台湾・澎湖諸島の日本への割譲、(3)日本に対する賠償金2億両(テール)の支払など、戦勝の日本にはかなり有利で敗戦の清には相当に不利な、当時の戦争講和の相場からしても破格の内容であった。

李鴻章という人は非常に優秀な人で、日清戦争後の下関講和以前に諸外国との交渉実務にて豊富な外交経験があった。そのため下関条約調印に際しても、水面下で日本への対抗として欧米列強の内の主にロシアに働きかけ、いわゆる「三国干渉」(ロシアら欧州三国の圧力にて、日本に対する遼東半島の清への返還要求)を画策しながら、同時に日本との宥和(ゆうわ)である、日清間のアジアの連帯共闘で共に結んで欧米列強の侵略に対抗する道も模索していた。そのため中国側が日本に事前に配慮し、戦勝の日本にかなり有利で、逆に敗戦の清には相当に不利な下関条約での破格の合意形成であったともいわれている。事実、日清戦争以前の日本の台湾出兵(1874年)時から李鴻章は大久保利通に、欧米列強に抗するための「アジアの団結」メッセージを送り続けていた。

しかしながら、戦争講和で清の全権大使・李鴻章に接した日本の全権大使・伊藤博文と陸奥宗光、並びに当時の明治国家の指導者たちには、そうした「日清間でのアジアの連帯共闘で共に結んで欧米列強の侵略に対抗する」発想は微塵(みじん)もなかった。ほぼ皆無であった。下関条約締結の講和時、李鴻章は73歳でかなりの高齢である。そのように老齢な李鴻章を全権大使にして派遣してくる清国に対し、日本側全権の伊藤と陸奥は終戦直後の自国の戦勝の高揚もあって、やがては没落する老大国・中国の姿を李鴻章その人に暗に重ねて見ていたのである。さらには李鴻章が下関に滞在時、「李鴻章狙撃事件」(1895年、日清戦争の講和交渉のため来日中の李鴻章が、終戦講和を不服とする日本人の右翼青年に狙撃され重傷を負った暗殺未遂事件)まで起こってしまう。

日清戦争時を後に回顧する伊藤博文も陸奥宗光も、彼らの回想語りの中での李鴻章への印象・評価は軽蔑混じりで極めて厳しい。後の近代の日本人の基調となった中国や朝鮮を始めとする近隣東アジア蔑視の様子が、この日清戦争の時代より早くも見て取れるのであった。

日清戦争の後、李鴻章は清に敗戦をもたらした「敗軍の将」として詰腹を切らされ、直隷総督・北洋通商大臣を罷免されるも、なぜかこの人は西太后の個人的信任が厚く、すぐに外交と国防の前線現場にまたしても復帰させられてしまう(1896年)。このとき李鴻章は74歳。その後、太平天国の乱以来の大規模な民衆の乱である義和団事件(1900年。欧米ら帝国主義諸国の中国侵出により困窮した民衆の不満を背景に、宗教結社「義和団」による排外運動)などに処し、死のニカ月前まで奔走して、1901年に78歳で死去。李鴻章に引退の隠居なく、亡くなる直前まで清朝中国に尽くした激務の生涯であった。

岩波新書「李鴻章」を始めとして、李鴻章に関するものを読んだり彼のことを考える度に、私は大変に気の毒な思いを禁じ得ない。やはり、李鴻章の生涯は「企業の現場派遣の責任者たる雇われ幹部の悲哀」に似た感慨を引き起こさせる。

李鴻章が逝去してまもなく、辛亥革命(1911年)時のジャーナリスト・政治家であった梁啓超(1873─1929年)は李鴻章の評伝を執筆・出版した。その中で彼はいう、

「李鴻章は洋務の存在を知るだけで、国務の存在を知らない。兵事があるのは知りながら、民政があるのを知らない。外交は知っていても、内治を知らない。朝廷の存在は知るが、国民がいるのを知らない」

李鴻章は「洋務」「兵事」「外交」「朝廷」の一方向を知るのみと断じて一刀両断に斬(き)り捨てる、後の時代の梁啓超による李鴻章への誠に手厳しい評伝評価である。私からすれば李鴻章の生涯を振り返れば、科挙エリートとしてあった若年の時代に、太平天国の乱がたまたま勃発したため、それへの制圧の流れで彼は「兵事」専門の軍務に傾注し後に一貫して携わることとなり、その過程で北洋艦隊の創設ら、軍隊の近代化などの「洋務」に着手し有能な官僚となって、さらにはそれら功績により、特に「朝廷」内で西太后からの厚い信任を得て重臣筆頭として「外交」職務に死の直前まで生涯現役で邁進した李鴻章であったのだ。

他方で、中国由来の伝統的な「国務」は西洋近代の「洋務」に当時は圧倒され、相次ぐ民衆反乱の鎮圧のための「兵事」に追われて、民権伸長の「民政」どころではなく、さらには諸外国との「外交」交渉と対外戦争にて、国内の安定平和の「内治」はおざなりにされて中国全土は荒廃し、辛亥革命以前の中国には清朝皇帝の「朝廷」が厳然としてあったため、未だ革命に至らず、中華民国の「国民」は存在していなかった。「民政」の追求や「国民」の創出に必要な外部条件の客観状況が、李鴻章が存命の時代にはまだ整えられていなかっただけのことである。

岩波新書の書評(521)中野敏男「ヴェーバー入門」

(今回は、ちくま新書の中野敏男「ヴェーバー入門」についての書評を「岩波新書の書評」ブログですが、例外的に載せます。念のため、中野敏男「ヴェーバー入門」は岩波新書ではありません。)

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。中野敏男「ヴェーバー入門」(2020年)は、そのうちの一冊である。

中野敏男「ヴェーバー入門」は、直裁(ちょくさい)に言ってマックス・ヴェーバー研究ではない。本書はヴェーバーに関連した現代評論の思想的読み物である。ヴェーバーの思想内実を明らかにした厳密な学術研究ではなくて、「私ならヴェーバーをこのように読む。こう読み解いてヴェーバーを現代思想に活かす」程度の話の「ヴェーバー入門」なのであった。

つまりは、著者である中野敏男が「実はヴェーバー社会学には、このような深い考察の広い問題射程まで有するものであるから、そこを押さえてマックス・ヴェーバーは正統には読まれるべき」旨の、没後百年の節目に当たり、2020年の現代に生きる中野自身による個人的な独我的読みの解釈披露たる「ヴェーバー入門」なのであって、マックス・ヴェーバー当人の本意を汲(く)んだ、20世紀初頭のドイツに生きた実際のヴェーバーその人についての厳密なヴェーバー研究ではない。しかも「ヴェーバー入門」といいながら内容はそこそこに複雑高度であり、今回初めてヴェーバーに接する初学者に向けての分かりやすい解説記述に必ずしもなってもいない。そのため、著者の中野敏男をあまり知らない人、これまでの彼の社会学研究の問題関心や政治的立場を共有できていない者、全くのマックス・ヴェーバー初心者には、中野「ヴェーバー入門」は訳が分からず、本新書に関し酷評の低評価も十分にあり得る。

ここで本書の目次を見よう。中野敏男「ヴェーバー入門」は「はじめに」「おわりに」を巻頭巻末に置いて全四章よりなる。

「はじめに・ヴェーバー理解社会学を再発見する、第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生、第2章・理解社会学の最初の実践例・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読む、第3章・理解社会学の仕組み・『経済と社会』(『宗教ゲマインシャフト』)を読む、第4章・理解社会学の展開・『世界宗教の経済倫理』を読む、おわりに・理解社会学における『近代』の問題」 

まず「はじめに」にて、これまでの「ヴェーバー入門」と称する先行書籍がことごとくヴェーバーの理解社会学にほとんど触れていない「無理解」を批判し、そうして「第1章・ヴェーバー理解社会学の誕生」でヴェーバーにおける理解社会学の原理的概要を解説し、次の「第2章・理解社会学の最初の実践例」で、先の理解社会学の手法に基づいてヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)を実際に読んでみせる。さらに「第3章・理解社会学の仕組み」で、「経済と社会」(1921年)の中の「宗教ゲマインシャフト」の項を読み、そこから社会を「行為と秩序」の二元論的構成でとらえて、それまで社会を漠然とした一元論で単純認識していた、いわゆる「二つの流出論」「自然主義的一元論」に対する批判をヴェーバーの著述から読み取る。また「第4章・理解社会学の展開」では、同様に「世界宗教の経済倫理」(1915年)を読んで、そこからピューリタンを始めとする各種宗教の倫理から「合理主義の系譜」=宗教的担い手における意味への問いの否認(反知性主義)を読み取る。その上で、これまでの本論を踏まえ「おわりに」でヴェーバーの理解社会学により、

(1)社会を「行為と秩序」の、行為者とシステムの二元論の概念構成にて相対的かつ相補的な関係性で理解することを通して、文化領域の社会システムに人間主体が容易に囲い込まれ硬直する(「精神なき専門人、心情なき享楽人」の人間疎外の深刻状況になる)ことを批判的にとらえ、そうした事態にならないよう「人間と社会の脱一体的理解」へと導く。

(2)ある種の宗教倫理から来る、宗教的担い手における意味への問いの否認を、物象化した合理化・専門化である所の反知性主義と否定的に措定して、それへの対抗たる、世界を分裂・矛盾の連続過程として問題的にとらえ人間主体の世界認識である知性の更新を絶えずはかるような「知性主義」を、この反知性主義に対置させる。

こうして(1)(2)により、人間社会への静的理解である「物象化」の弊害を回避し、動態的理解の更新を絶えず重ね続ける脱近代(ポストモダン)な理解社会学を基礎としたヴェーバーの読み解きを行うことこそが、例えば本書にて著者の言う「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」ことの意味であるとする。

しかし、それにしてもヴェーバーの理解社会学から社会の物象化批判とか、宗教倫理を通しての反知性主義への対抗まで勝手に読み込む、中野「ヴェーバー入門」でのポストモダンなヴェーバー像の提示に、さすがに私は度肝を抜かれる。20世紀初頭に生きた社会科学者のマックス・ヴェーバーに、近代社会の物象化批判や脱近代の知性主義を過剰に万能に読み込み過ぎである(笑)。ここまで超人的な洞察でヴェーバーが現代社会の物象化や反知性主義の問題にまで論及できていたとは、にわかに私には信じられない程である。もはや、ここにあるのは現実に生きた歴史上のヴェーバーではない。

私はヴェーバー全集での主要著作もヴェーバー研究も、それなりに読んでいる。私の知る限り、マックス・ヴェーバーという人は、若い頃からドイツの軍隊に何度か志願し入隊して、50歳を過ぎた晩年にも健康が優れない中で第一次世界大戦に従軍し母国ドイツの戦勝を心から願って、だが第一次大戦にてドイツは敗北し、しかも戦時のドイツ革命を経てドイツ帝国の崩壊からドイツ共和国への移行に伴い、合理性の観点から新生ドイツ再建のために政治論文を意欲的に執筆した、彼はせいぜいよく言って近代の健全な国家主義者(ナショナリスト)といった程度である。ヴェーバーは決してポストモダン論者などではなかった。

本書を未読の人は、以下のような妙に力の入った(笑)、著者による並々ならぬヴェーバー読み込みの決意が表れた表紙カバー裏解説文を踏まえた上で実際に本書に当たるとよい。また本書を既読の方には本論内容に照らして以下の、著者のかなり熱い思いが込められた表紙カバー裏解説文を今一度、確認し味わって頂きたい。

「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える。これが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった。だが、奇妙なことに従来の議論では、彼自身のこの問題意識が見落とされている。本書では、ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす。主要著作を丹念に読み込み、それらを貫く論理を解き明かす画期的入門書」(表紙カバー裏解説)

何しろ「理解社会学こそが、近代社会学の祖とされ、社会科学全般に決定的影響を与えたマックス・ヴェーバーの学問の核心にあった」の強い断定の上で、かのマックス・ヴェーバーに関し「ヴェーバー思想の根幹に 『理解』を位置づけ、その業績全体を、理解社会学の確立に向かう壮大なプロジェクトとしてとらえなおす」の壮大で過剰な読み込みの中野敏男「ヴェーバー入門」であるのだ。ゆえに本書を読んで現実のマックス・ヴェーバー、社会科学者のヴェーバーの実像とは異なるなどと激怒して、安易に批判してはいけない。

私も中野と同様、理解社会学がヴェーバーの社会科学の思想的営みの中心の根底にあったと考える。ただ「社会的行為の動機を理解し、その内面から人間と社会のあり方を考える」理解社会学は何もヴェーバーのみが突出して唱えた彼の専売特許であったわけではない。ヴェーバーが生きた20世紀初頭のドイツでは、ディルタイ(1833─1911年)やジンメル(1858─1918年)ら同時代の他の社会学者にも「生の哲学」として一般的に広く見られた研究手法であり、理解社会学の方法は当時の社会科学での時代の流行(トレンド)だった。ヴェーバーの時代には、社会事象を考察する際に、個人と事柄の外面的な因果関係の説明で無難に済ませることでは不十分で、もはや許されず、社会行為をなす行為者当人にとっての主観的な意味・動機の了解(理解)機成にまで踏み込み、掘り下げなければならない近代社会学の学問になっていたのである。

ヴェーバー読解のヴェーバー把握にて、ヴェーバーの理解社会学の試みを不当に軽く見て看過することは出来ないが、また他方で本書「ヴェーバー入門」での中野敏男のようにヴェーバーの理解社会学の要素を余りにも前のめりで過剰に多く見積もり、そこまで高く持ち上げる必要もないというのが、本書読後の何よりの私の率直な感想である。

最後に。ここまで散々に書いてきて、もう誰からも信じてもらえないかもしれないが(笑)、こう見えて私は昔から中野敏男のファンである。中野の論文や著作や座談など今まで公的に刊行されたものは全てだいたい読んでいる。中野敏男の仕事にはヴェーバー、丸山眞男、大塚久雄、北原白秋、高村光太郎、近代法システム、戦時動員と戦後啓蒙、日本の戦争責任、沖縄基地問題ら多岐に渡って優れたものが多くある。

なかでもマックス・ヴェーバー関連でいえば、日本人にヴェーバーを大々的に紹介した日本でのヴェーバー研究の第一人者である大塚久雄(1907─96年)に関する中野の研究は特に優れている。中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」(1997年、中野「大塚久雄と丸山眞男」2001年に所収)は、十五年戦争時の戦中の戦時動員から、1945年の敗戦後の戦後啓蒙へと大塚がみずからの思想的立ち位置を大きく変える際に、戦前初出のヴェーバーに関する研究である大塚「マックス・ウェーバーにおける資本主義の『精神』」(初出1943年、改訂1946年)の結語を戦後の改訂版では都合よく、こっそり大塚が書き換えて改変しているという大塚久雄のヴェーバー研究における巧妙な書き換え策術を指摘し明らかにしており、読んで非常に面白い。中野「ヴェーバー入門」に続いて、中野敏男「最高度自発性の生産力・大塚久雄におけるヴェーバー研究の意味」をまだ未読な方には是非、本論文まで手に取り読んで頂きたい。

岩波新書の書評(520)今野元「マックス・ヴェーバー」

2020年は社会科学者であるマックス・ヴェーバー(1864─1920年)の没後百年の節目に当たり、ヴェーバー関連の書籍が数多く刊行された。今回の「岩波新書の書評」で取り上げる新赤版の今野元「マックス・ヴェーバー」(2020年)も、そのうちの一冊である。

「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』をはじめ、今も読み継がれる名著を数多く残した知の巨人マックス・ヴェーバー(一八六四─一九二0)。その作品たちはどのようにして生み出されてきたのか。百花繚乱たるヴェーバー研究に新たな地平を拓く『伝記論的転回』をふまえた、決定版となる評伝がここに誕生」(表紙カバー裏解説)

これまでのマックス・ヴェーバー研究では、彼の主要著作を任意に挙げその都度、読み方解釈の解説がなされてきた。例えばヴェーバーの代表作「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1904年)、「職業としての学問」(1917年)、「経済と社会」(1921年)らに関し、その言わんとする内容を適切に読み取り、それをマックス・ヴェーバーの業績の高評価につなげ、さらにこのヴェーバー著作から読み取れる所を現代社会や特に近代日本の歴史に落とし込んで、現代社会の問題指摘や日本の近代化批判に活かすような研究操作が一般的であった。そして、このような手法を取る従前のマックス・ヴェーバー研究の蓄積は膨大な数に上(のぼ)る。まさに「百花繚乱たるヴェーバー研究」の様相であるのだ。

今般の今野元「マックス・ヴェーバー」は、それら先行研究とはヴェーバーへの近接方法が少し異なっている。つまりは従来のようにヴェーバーの著作を任意に挙げて、読み方の解釈を自由に論じるのではなく、彼の生誕から逝去まで、同時代のドイツの歴史を随時参照しながら時系列の年単位で厳密に人生の行く筋を追跡することにより、マックス・ヴェーバーの生涯とその思想的営みの内実を見極めようとする「評伝」記述の手法を一貫して取っているのである。著者は本新書冒頭にていう、

「本書は、マックス・ヴェーバーの『人格形成物語』を描く試みである。その狙いは、個別作品の鑑賞ではなく、それを生み出した文脈、つまりヴェーバーの生涯およびそれを取り巻く歴史的文脈の解明にある。こうした手法的転換を、本書では『伝記論的転回』と読んでいる」(「はじめに」)

また本書巻末にても、

「私はヴェーバー研究の『伝記論的展開』を提唱している。…作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いて作品の背後にあるヴェーバーの生涯を整理することにした。というのも、思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである。それはちょうど、映画をそのメイキング映像と合わせて鑑賞するようなものである。思想研究と歴史研究との融合と言ってもよい」(「おわりに」)

なるほど、マックス・ヴェーバーにおける個別作品の解釈ではなく、「伝記」を押さえ理解することの「手法的転換」を通してなされる、本書はヴェーバーその人についての「人格形成物語」である。確かに、本書は著者みずからが言う通り「伝記研究」なのである。没後百年の節目で手に取り読んだ幾つかのヴェーバー関連書籍のうち、岩波新書の今野元「マックス・ヴェーバー」は、私には強く印象に残った。読んで新鮮に感じた。というのも、これまで主に私か読んできたマックス・ヴェーバー研究は、任意の著作を主に挙げて読みの解釈を自由に論じる方法、著者がいう所の「作品解釈に没頭する従来の研究手法」に依拠するものがほとんどで、そこまで時系列の評伝記述にこだわったヴェーバー研究を意識的に読んだことがなかったので。

私は、これまでマックス・ヴェーバーについては経済史学者の大塚久雄(1907─96年)のものを中心に愛読してきた。2000年代以降の現在ではそうでもないが、日本の戦後(1945年)から大塚が存命中の1990年代くらいまでは、大塚久雄は日本におけるマックス・ヴェーバー研究の第一人者であり大家であって、ゆえに影響力があった。何よりもヴェーバーの代表作である「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を本格的に日本語全訳(1955年、岩波文庫)したのは大塚久雄であったし、大塚は十五年戦争時の戦中から1945年の敗戦を経ての戦後民主主義の時代に至るまで、いつの時でもヴェーバーに言及し続けた人だった。

大塚はマックス・ヴェーバーを通して、戦時の天皇制ファシズムの神権性・非合理への傾斜の前近代的なものを合理的な近代主義の立場から後に明確に批判できたし(「魔術からの解放」1946年)、他方で「精神なき専門人、心情なき享楽人」といった近代人の疎外状況や近代社会における画一的個の強制、官僚主義のセクショナリズムの問題指摘(「生活の貧しさと心の貧しさ」1978年)の反近代主義の論説も同時に展開できた。大塚久雄はヴェーバーに絡(から)めていつの時代でも近代化論の是非議論にて自在であった。そうした大塚久雄から主にマックス・ヴェーバーを学び知った私には、その都度、大塚が提示するヴェーバー像の読み解きに夢中で各論の断片がバラバラにあった。そのため今回、改めて今野元「マックス・ヴェーバー」を手に取り、ヴェーバーの生涯を時系列で評伝的に追跡し読めて、それが新鮮で新たな感慨であったのだった。

本新書を読んで、ヴェーバーが学問を志(こころざ)す学生時代から論文・著作執筆にて世に知られ大成する成年期、さらには精神的不調に悩まされる壮年期、晩年とその生涯の評伝記述を読むにつけ、マックス・ヴェーバーその人への理解が深まる。本書巻末の「マックス・ヴェーバー略年譜」を見るにつけても、ヴェーバーの学歴と職歴、公演録と論文・著作の発表、病歴や海外渡航の履歴まで西暦年だけでなく詳細な日付まで記述してあるのは、本文ともどもに読んで大変に参考になる。この点で本書は有益である。本新書を一読して「人に歴史あり」の率直な感慨を私は持つ。

1860年代から1920年までのヴェーバーが存命した時代の母国ドイツは、普仏戦争(1871年)でのフランスに対する勝利を経て、宰相のビスマルク、そして皇帝のヴィルヘルム2世の親政により大きく発展しドイツ帝国は世界各地に覇権を広げ英仏と激しく対立する帝国主義的世界政策を推進して、しかし第一次世界大戦の勃発(1914年)にてドイツは敗北を喫し、ついで戦時の国内反乱にてのドイツ革命でドイツ帝国が崩壊し皇帝は亡命してドイツ共和国の成立(1918年)を見るというドイツ国民にとっては激動の時代であった。そのような時代に生きて、マックス・ヴェーバーが若い時代に当時の「最新」流行であった社会ダーウイニズムへの傾倒にて優勝劣敗で自然淘汰の社会思想に基づき、自身のドイツ国民でゲルマン民族である強者の立場から社会的弱者であるポーランド労働者排斥を唱えた。また第一次世界大戦の開戦時、ヴェーバーはすでに50歳で健康に優れなかったが、予備役招集に応じ自ら戦地に行っている。戦時の彼はドイツ人同胞の精神的高揚に感激し、まさに愛国的であった。ヴェーバーが第一次大戦時にドイツの参戦に高揚しドイツの勝利を心底願って、ある種の排外的民族主義やナショナリズムにのめり込んでしまうのも致し方ないことであった。

かのマックス・ヴェーバーといえども学問的真理や正しい倫理思想に常にたどり着けた誤謬(ごびゅう)なき超人などでは決してなく、彼も時代と共に生きてその時々の歴史の風潮や社会の大勢に影響を受け左右される「時代の子」であったのだ。

今野元「マックス・ヴェーバー」では、ヴェーバー評伝の最後に「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」の終章を置き、ヴェーバーとヒトラーの共通部分を挙げて本論記述を結んでいる。

「二人(註─ヴェーバーとヒトラー)の共通部分の背景にある共通基盤とは何なのか─それはやはり主体性の希求を通じた『闘争』の志向だろう。従来は、主体性(近代的自我)とは抑圧と侵略とに抗する砦(とりで)であり、その涵養(かんよう)が戦後(=第二次世界大戦後)日独の政治課題である。…主体的な人間は他者との対決を厭(いと)わず、また自分が帰属意識を有する集団にも主体性を求めることがあって、それが行き着けば排除にも戦争にもなる」(「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」)

ヴェーバーが没した1920年にヒトラーはドイツの政治の表舞台にまだ登場していない。1920年のヒトラーといえば、第一次世界大戦でドイツ帝国の義勇兵として戦場に赴くも、マスタードガスによる一時失明とヒステリーにより病院に収監。入院中に第一次大戦が終結して、この後、ドイツ労働者党の活動に入り軍を除隊。ヴェーバーが56歳で没した1920年にヒトラーは31歳で、ヒトラーがナチ党で最初の国政選挙に臨み国会議席獲得を果たして、いよいよ政治の表舞台に大々的に登場し人々に注目されるのは、この8年後のヒトラーが39歳の1928年であり、時間的に大きな隔(へだ)たりがある。ヴェーバー評伝の最後にヒトラーを連結するのは、いかにも唐突である。

当然、ヴェーバーとヒトラーとの間に直接の交流はない。にもかかわらず、「二人の共通部分の背景にある共通基盤とは何なのか─それはやはり主体性の希求を通じた『闘争』の志向だろう。…主体的な人間は他者との対決を厭わず、また自分が帰属意識を有する集団にも主体性を求めることがあって、それが行き着けば排除にも戦争にもなる」とまで述べて、ヴェーバーにおける近代人の主体性の強調が、そのまま後の時代のドイツのヒトラーにおける排他的民族意識や軍事的侵略主義の社会国家主義のファシズムに直結して、あたかもヴェーバーが後のヒトラーの思想的階梯(かいてい)の前段階をあらかじめ用意したような書きぶりになっている。その上でヴェーバーにもヒトラーにも両者に共通するのは「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」の「悲劇」であり、それゆえマックス・ヴェーバーの生涯の評伝記述の見出しのラベルは「主体的人間の悲劇」になるのである。確かに、岩波新書の今野元「マックス・ヴェーバー」のサブタイトルは「主体的人間の悲喜劇」なのであった。

この辺り、マックス・ヴェーバーも時代と共に生きてその時々の歴史の風潮や社会の大勢に影響を受け左右される「時代の子」であったので、第一次世界大戦前後のドイツの民族主義やナショナリズムに傾倒するのも仕方のない気がする。たとえヴェーバーが一時的に当時の「最新」流行であった社会ダーウイニズムへの傾倒にて優勝劣敗の自然淘汰の社会思想に基づき、(後のヒトラーによるナチス・ドイツのユダヤ人排斥やファシズムの侵略主義を連想させるような)自身のドイツ国民でゲルマン民族である強者の立場から社会的弱者であるポーランド労働者排斥を唱えたり、第一次大戦時にドイツの参戦に高揚しドイツの勝利を心より願って自国の勝利に熱心であったとしても、それら評伝記述の状況歴史的な言動以外の所で、ヴェーバーの学問的業績の価値や意義が損なわれることなない。思えば、ヘーゲルは同時代のフランス革命時のナポレオンに一時は心酔していたし、ハイデッガーも第二次世界大戦時の母国ドイツのヒトラーに共感を寄せ支持していた。だが、それら状況歴史的な実際の言動と彼らの哲学思想の業績はやはり別物である。

またマックス・ヴェーバーの生涯をして、「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」=「主体的人間の悲喜劇」などと後の時代のヒトラーと同一視して論じまとめているが、そもそも近代という時代は、状況や対象に対し人間個人の自我が積極主体的に働きかけて認識し思考し発言して行動する「主体性の希求」発露の時代なのであって、その人間個の主体性の発露をヒトラーの自伝「わが闘争」(1926年)に暗に引きつけて「人間の主体性の希求」=「闘争の志向」などと大げさに言う必要もない。確かにマックス・ヴェーバーは近代ドイツに生きた人なので、彼に「近代的自我による主体性の希求」はあったが、それはヴェーバーのみならず、同様に近代の時代に生きたヒトラーにも、また現在この文章を書いている私にも、そしてこの文章を読んでいるあなたにも、つまりは近代の時代に生きる人には誰でも普通にあるものだ。近代の時代に生きる人には誰にでも、おおよそ「近代的自我による主体性の希求」といったものはある。

マックス・ヴェーバー評伝にて、「近代的自我による主体性の希求を通じた『闘争』の志向」、それはすなわち「主体的人間の悲喜劇」などと大げさに呼び、ヴェーバーを後の時代のヒトラーと一括し同一視して乱暴にまとめてしまうのは、本書を最後まで読んで正直、馬鹿らしい思いがする。岩波新書の赤、今野元「マックス・ヴェーバー」を手に取り、ヴェーバーの生涯を時系列で評伝的に追跡し読んで、それが従来のヴェーバー研究の近接方法とは異なり新鮮で新たな感慨を引き起こす良評価の側面があったとはいえ、少し残念な結語の読み味である。

岩波新書の書評(519)川名壮志「記者がひもとく『少年』事件史」

岩波新書の赤、川名壮志「記者がひもとく『少年』事件史」(2022年)の表紙カバー裏解説文は次のようになっている。

「白昼テロ犯・山口二矢、永山則夫、サカキバラ、…。殺人犯が少年だとわかるたびに、報道と世間は、実名か匿名か、社会の責任か個人の責任か、加害・被害の立場の間で揺れ、戦後から現在まで少年像は大きく変わった。二0歳から一八歳へ成人年齢が引き下げられる中、大人と少年の境の揺らぎが示す社会のひずみを見つめる」

「記者がひもとく『少年』事件史」の著者・川名壮志は本書執筆時、毎日新聞社の「記者」である。そのため、本書のタイトルは「記者がひもとく『少年』事件史」となっているわけである。現役の新聞記者が概説する戦後日本社会の少年事件史であり、全8章に渡り、戦後復興期から本書執筆時の2020年代までの、当時より社会的に注目を集め人々を騒がせた主要な「少年事件」(20歳未満の未成年者が主犯の殺人事件)を取り上げている。 

本新書の読み所のウリは、いわゆる「少年事件」の概要(犯行状況、刑事裁判の結果、事件発生の社会背景・時代傾向)に加えて、事件発生直後の第一報から後日の続報に至るまで、朝日、読売、毎日新聞の全国紙3社の見出しを必ず挙げている点である。その上で当時の日本社会で未成年者による殺人事件がどのように人々に報じられ、共有されていたかを分析している。この新聞報道に依拠している点において、本書はまさに「(新聞)記者がひもとく『少年』事件史」であるのだ。また本書のサブタイトルは「少年がナイフを握るたび大人たちは理由を探す」であった。

なるほど、戦後から今日までの主要な「少年事件」を新聞というメディアを通し概観することの利点は確かにある。著者は本論にて以下のように述べている。

「『少年』像が時代によって変容することを示す格好の資料、それが新聞紙面だ。デジタル時代とは違い、アナログな新聞紙は、紙幅に限りがある。政治や経済、社会で起きたニュースと比較しながら、必然的に少年事件の記事の扱いが決まる。特に記事の扱いをめぐっては、大人の事件よりも、少年事件の方が、より世相と結びついている。掲載されたページ、見出しの取り方、記事のボリューム。紙面でどう扱われたかをみることで、当時の世相の関心や、時代の息づかいをたどることができる。速報性のメディアである新聞も、長い歳月でたどると、鮮(あざ)やかに『歴史』を浮き彫りにすることができるのである。そして、こうして事件をたどってみると、朝日、読売、毎日とも、紙面での扱いには、大きな違いがないことがわかる」(「なぜ新聞?時代が変える少年事件」)

私はそこまで殺人事件一般や20歳未満の未成年者による犯罪事件に日頃から関心を持ち、特に調べているわけではない。しかし、本書で扱われている「少年事件」のことは不思議とだいたい知っていた。戦後の早いの時代に私はまだ生まれていないが、「戦後復興期・揺籃(ようらん)期の少年事件・少年事件は、実名で報道されていた!」の章で扱われている、例えば連続ピストル射殺事件(1968年、19歳の少年、永山則夫による連続殺人事件。1990年に死刑判決が確定。1997年に死刑執行)は、戦後史の中の重大事件の歴史のひとコマとして知っている。永山則夫による一連のピストル射殺事件は、極刑の死刑を下す際の後の判例根拠となる「永山基準」(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を供する司法案件であり、「少年事件」であるか否かに関わりなく、戦後日本の司法の中で大変に大きな事件であった。

また光市母子殺人事件(1999年、18歳の少年による母子殺人事件。2012年に死刑判決が確定。現在は死刑囚として勾留中)は、被害者家族が実名・顔出しで会見を行い、その遺族の言動に対抗するかのように、加害側の少年も獄中からの手記や面会人との面談で自身の犯行を正当化したり、被害者遺族を挑発するような発言をなした極めて異様な事件だった。「遺族の絶望感情を回復させるために極刑の死刑を望む。被告が未成年であることで死刑が回避され、少年法による保護処分で後に加害少年が社会復帰を果たすなら、そのときは自分の手で殺す」旨の被害者遺族の過激発言で、本件を通し「社会経験少なく人格的に未熟な未成年者には刑罰と共に矯正更生も重視する少年法の精神の保持か、さもなくば遺族の無念と復讐感情に配慮し未成年者へ厳罰化の方向での少年法の改正(さらには未成年への配慮なしに成年と同様に責任を取らせるべく少年法の廃止)か!? 」の狭量な二者択一の、かなりいびつな社会議論がいつの間にか形成されていた。この頃から「少年事件」に対し、加害者である未成年者への酌量・矯正更生よりも、被害者と遺族の無念・復讐感情を満たす厳罰の方向へ大衆世論は大きく転回したのであった。この点を的確にとらえ表した、本書での光市母子殺人事件の「少年事件」を扱った章タイトル「少年事件史の転生・加害者の視点から被害者の視点へ」は秀逸である。

岩波新書「記者がひもとく『少年』事件史」の著者である川名壮志には、「謝るなら、いつでもおいで・佐世保小六女児同級生殺害事件」(2014年)という著作もある(2018年に新潮文庫に収録)。川名「謝るなら、いつでもおいで」は佐世保小6同級生殺人事件(2004年、11歳の少女が同級生少女を学校の教室で殺害。刑罰を科されない触法少年のため、児童自立支援施設に送致)を取材し、まとめたものである。被害女児の父親は新聞社支局長であり、新聞記者の著者・川名壮志の直属上司であるという。本書タイトルになっている「謝るなら、いつでもおいで」は事件を受けて後年、加害少女へ向けての被害者の兄の言葉である。佐世保小6同級生殺人事件は11歳の小学生女子が学校教室内で同級生女子を殺害するという、未成年の「少年」(20歳未満で14歳以上)ですらない、まだ「子供」(14歳未満)による殺害犯行であることに社会は衝撃を受けたのだった。少なくとも当時、リアルタイムで事件の全容を知って私は驚愕した。

川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は読んで相当につらい内容だが、やはり同時代の同じ社会に生きる人間として一度は読んでおくべきだろう。殺人事件に関するルポで事件被害者の思いを述べた名著に、以前に新宿西口バス放火事件(1980年)の被害者の手記、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」(1983年)があった。川名壮志「謝るなら、いつでもおいで」は、杉原美津子「生きてみたい、もう一度」を思い起こさせる力作である。両書ともに殺人事件に巻き込まれた被害者と遺族が加害者に対し、そのままの直情的な憎悪の復讐感情や仇討ちの心情で処するべきではない、凶悪犯罪への理性的で社会的な向き合い方を、他ならぬ一番つらいはずの被害者当人、被害者家族が直に読む者に教えてくれる。未読な方は是非。

岩波新書の書評(518)「シリーズ中国近現代史」全6巻

近年の岩波新書は中国史関連の書籍が充実している。19世紀の清朝から始まる現代までの中国史概説である「シリーズ中国近現代史」全6巻(2010─17年)を、それとなく手に取り、全巻読了して弾切れになった所で、今度は、黄河文明の古代から清朝の19世紀までを概説した「シリーズ中国の歴史」全5巻(2019─20年)があったので続けて全冊読んで、結局のところ数カ月のかなりの長い間、岩波新書の中国史書籍を私は読みふけっていたのだった。

こうした2010年代以降の、近年における岩波新書の中国史関連への力の入れ方は今日、中国が急速に大国化し政治的かつ経済的にグローバルな世界の中で大きな存在感の多大な影響力を有して、もはや世界の人々は中国の存在や振る舞い動向を注視せざるを得ず、そうした時流の中で今一度、現代の大国たる中国の成立から今日に至るまでの出自と展開の歴史を概観し総括しておくべきとする強い問題意識が、出版元の岩波書店にあるからだと思われる。

現代中国が強力に推し進める中国を起点として東南アジア、中東、ヨーロッパ、アフリカを連続で結ぶ広域経済圏構想である「一帯一路」や、近い将来に勃発が懸念されている台湾海峡有事、すなわち中国本土に台湾を回収する中国共産党指導部にとっての悲願の念願たる「一つの中国」ら、確かに今日の大国・中国の動向に世界の人々は注目せずにはいられないのである。

私は、NHK「映像の世紀・バタフライエフェクト」(2022年─)のテレビ番組を楽しみでほぼ毎週視聴しているが、当番組での「竹のカーテンの向こう側・外国人記者が見た激動中国」「ふたつの超大国・米中の百年」など、中国関連の特集回は強く印象に残る。

近年、急速な大国化の懸念から現代中国に対する発言・言及や報告・評論の文章は多い。もともとの反共論者で、いわゆる「共産主義者嫌い」から共産党指導体制の中国をあからさまに悪く非難したり、中国への敵意の当てつけから、中国と現在敵対関係にある台湾やチベットに異常に肩入れして親身に味方する人達も多い。それら現代中国に関する言及や記述で、それが真面目に傾聴したり熟読したりするべきものであるかの私なりの判断基準を最後に示しておこう。

現代中国に関して、19世紀のアヘン戦争から1945年の第二次世界大戦の東アジア戦線終結の間まで、欧米列強と日本に干渉され侵略され領土分割され、蹂躙(じゅうりん)され続けて散々な苦杯の屈辱をなめさせられてきた近代中国の歴史を全く踏まえることなく、現代中国の高圧的なナショナリズムの高揚、国際政治における大国主義的で覇権的な中国の振る舞いをそのまま無邪気に直接に痛烈非難するような、中国や中国の人々に対する感情的な批判言辞には、大して真面目に傾聴したり熟読したりする必要はない。それらは軽く聞き流し、読み流してよい。そこには現在の中国の過剰な愛国主義や大国ナショナリズムの台頭由来への内在的考察の配慮が欠けているからである。

今日の中国に大国主義や覇権主義の高圧的ナショナリズムを読み込んで中国を悪く言い募(つの)ることは比較的たやすい。むしろ安直すぎる。それ以前に中国近現代史を学んで、「なぜ中国が今のような頑(かたく)な帝国主義的国家になってしまったのか」を考えるべきだ。中国近代史において、あそこまで日本を加えた欧米列強に中国本土が支配され蹂躙されていなければ、かつて諸外国から領土分割され帝国主義支配を受けたという屈辱のルサンチマン(怨念)に満ちた、現在のような逆上した高圧的な覇権国家の中国は成立しなかったのでは、と私には思える。近代中国史を学び知るにつけ、中国の人たちは誠に気の毒である。

特に冷戦後の東アジア情勢は、欧米諸国と日本が中国に対する後先を考えずに奔放であった、かつての自分たちの中国に対する帝国主義的侵略行為の跳ね返り、過去よりの、いわば「世界史の負債」をいまだ各国ともに払わされ続けているのだ。

例えば、幼少期から青年期に肉体的ないしは心理的虐待やいじめや貧困の相当な困難があって現在、妙にひねくれていたり、時に暴言・暴力的であったりするような問題人物がいたとして、その人の過去の生い立ち事情を知っているなら、当人に対し頭ごなしに叱咤したり感情的に激怒したりの人格否定のようなことはしない。少なくとも私はそういう人に接した際には、短絡的で直情的な非難の攻撃は絶対にやらないのである。そうした問題人物の奔放な言動を全肯定で容認し放置することはないにしても、熟考してより慎重に宥和(ゆうわ)的に穏やかに対応するだろう。

岩波新書の書評(517)田中彰「小国主義」(その3 石橋湛山)

前々回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、前回と今回で中江と石橋について改めて個別に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は、大正・昭和の経済評論家であり政治家である石橋湛山についてである。

「石橋湛山(1884─1973年)は経済評論家、政治家。 『東洋経済新報』の記者。大正デモクラシーの風潮のもとで、小日本主義といわれる朝鮮・満州など植民地の放棄、平和的な経済発展などの政策を提唱。のちに東洋経済新報社社長。第二次世界大戦後、第1次吉田内閣の蔵相。1956年首相。日中・日ソ国交回復に尽力するも、病気のため2ヶ月で総理を辞任」

石橋湛山は大学卒業後、新聞社に就職しジャーナリストとして活動して、その都度、数回に渡りみずから志願し軍隊に入隊している。その後、経済専門誌出版事業の東洋経済新報社に入社する。「東洋経済新報」誌上で経済評論を発表し続け、やがて頭角を現し、東洋経済新報社の主幹(編集長)を経て代表取締役(社長)となる。石橋湛山は現場の叩き上げの経済記者から東洋経済新報社の社長にまで登り詰めたのであり、非常に優秀である。石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつも私はする。

石橋湛山は「小日本主義」を唱えた。小日本主義とは大正・昭和の時代、政府がとる軍事による大陸侵出の膨張路線である大日本主義に対し、平和的な貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州らの日本の植民地放棄を主張する立場である。特に満州事変後と韓国併合後の、満州と韓国の日本による植民地支配と外地への日本人移民の流出を強く批判したことから、小日本主義は「満韓放棄論」「移民不要論」と呼ばれることもある。石橋は小日本主義の論陣を張って、同時代の対華二十一カ条要求、シベリア出兵、満州事変ら大国主義の政治を厳しく批判した。 

石橋湛山の小日本主義の植民地政策批判に関しては、「どういった理由で石橋が、当時の政府にとっての最重要国策である東アジアへの大陸膨張路線の新たな植民地の獲得・経営たる大日本主義を批判し、台湾・朝鮮・満州の植民地放棄を説いていたか!?」その内容を見極める必要があるだろう。石橋湛山による小日本主義の主張は、「青島は断じて領有すべからず」(1914年)、「一切を棄(す)つるの覚悟」(1921年)、「大日本主義の幻影」(1921年)らの評論にてその都度、展開されているが、各論説ともに毎回連続し通底してある「日本が植民地放棄をすべき」主な論拠は以下の2点に集約される。

(1)日本が東アジアの大陸に侵出を重ね多数の植民地を獲得し植民地経営しても、何ら経済利益が見込めない。むしろ日本内地から台湾・朝鮮・満州の外地の植民地への資産持ち出しや現地支配の行政コストにより、日本の植民地経営は毎年、累積赤字が膨らむ一方であり、植民地の獲得・経営は経済的に無価値である。「日本の帝国主義的な覇権伸張」といった自国の領土拡大という目先の「小欲」の満足に溺(おぼ)れることなく、大局的見地から日本にとっての本当の意味での国益を考えるとき、一切の植民地を放棄をして、内地のみの小日本主義に徹するべきである。

(2)東アジアにて日本が奔放自由に軍事衝突の戦争を仕掛け戦勝にて多数の海外植民地を得ることは、中国分割など同じくアジア侵出を進める欧米列強の反感を買い、遂には日本が「極東の平和に対する最大の危険国」と見なされ警戒される。それで日本が国際的に孤立すれば諸外国との通商貿易にて大きな障壁となり、日本の国益を著(いちじる)しく損ねる。また軍事侵攻により露骨に中国侵略して現地の中国人に「不抜(ふばつ)の怨恨」を抱かせ結果、日本製品不買(ボイコット)運動ら海外市場からの締め出しを日本企業が喰らう懸念もあり、通商上、植民地獲得で大国化の膨張路線は日本にとって得策とは言い難い。ゆえに、わが国は植民地放棄の小日本主義に徹した方がよい。

これら石橋による、小日本主義における2つの「日本が植民地放棄をすべき」主要論拠が、いずれも日本にとっての経済的なコスト原則の損得勘定に依拠していることに留意されたい。思えば、石橋湛山は「東洋経済新報」の記者が出自の経済評論家なのであって、同時代の日本の海外政策を考える際にも最後はことごとく日本にとっての経済利益の話に収束させて、そうした経済的観点から思考判断するのが常であった。この意味で冒頭で述べた、石橋が執筆の評論や石橋湛山の評伝を読むと「この人は良くも悪くも経済が専攻の、経済の人なのだ」の思いがいつもするの、私の感慨理由も納得して頂けると思う。

石橋は台湾や朝鮮や中国の人達に対し、民族自決の原則を尊重し彼らのことを思って東アジアの人々の各国の独立を認めるような、他者の権利保障の規範原則の立場から、日本による海外の植民地支配批判の小日本主義を主張したのでは決してない。当面の日本にとって軍事侵略による植民地の獲得・経営が、日本の経済利益に全くなっていない(むしろ、逆に多大な経済損失を日本にもたらしている)という理由により、当時の日本の国策たる大国主義を批判し植民地放棄の小日本主義を彼は力説したのである。当の石橋湛山からすれば、日本の繁栄のために植民地は経済利益の点で全く必要でない。事実「朝鮮、台湾、樺太ないし満州は日本にとって経済利益に何らなっていない。だから、それら地域に対しては 『自由解放 』の政策で処するべき」旨の単純素朴な考えなのである。このように、民族自決の原則を尊重して東アジア地域の人々の解放と各国の独立を認める、他者の権利保障の規範原則の立場よりの日本の植民地放棄の主張では全くないことから、石橋は、例えばイギリスによるインドの植民地支配に関し「英国にとってインド支配は大いなる経済利益がある」ため肯定し、欧米列強によるアジアの植民地支配は積極的に認めて好意的であった。

日本にとっての経済利益の国益を考えた場合、軍事の戦争による大国化の膨張路線(大日本国主義)は得策でないので植民地の獲得・経営に依(よ)らない形で、つまりは日本は植民地放棄をして、直接の戦争による戦禍を出さない非軍事的な大陸アジアへの経済進出を果たすべき、の石橋の本意であるのだ。もともと日本が海外の東アジアへ侵出を果たすべきの日本国繁栄の念願はあるが、ただその実現のための現実的な方法として、軍事による戦争や植民地の獲得・経営のあまりに露骨な「力(暴力)の手段」に頼らないというだけなのであり、何も石橋湛山その人が戦前日本の軍国主義や日本による東アジアの植民地支配そのものを正面から問題視し、正当に批判していたわけでない。

台湾や朝鮮や中国ら東アジア領土分割の実質的な現地支配に、日本を加えた欧米各国が邁進していた当時の国際政治下にて、大陸アジアでの利権獲得に際し目に見えた戦禍を伴わない、直接の軍事行動(つまりは戦争)と植民地獲得以外での非軍事で経済的な日本によるアジア支配を石橋湛山は主張しているのであり、確かに戦争否定の日本の軍国主義批判で表層は「平和主義」的論調であるが、経済利益の点でイギリスによるインドの植民地支配を容認するなど、近隣アジアの人々の民族自決や独立解放を何ら強く訴えていないことから、石橋湛山は決して民主的な自由主義者、人道的な反戦平和主義者ではなかった。

ここに至って、石橋湛山が戦前の軍国日本の植民地政策を現象的に批判し、植民地放棄の「小日本主義」を主張したからといって、近代日本にて大勢を占めた当時の戦争翼賛の軍国主義に抵抗する、「例外的で貴重で希(まれ)な自由主義者であり反戦平和主義者」と即断して安易に石橋を称賛するような軽率は慎(つつし)まなければならないだろう。「真のリベラリスト」といった安直な石橋評価は、もともと経済評論家であり、そのため極めて「経済的な」石橋湛山その人に対する本質的理解を欠いている。

さて、石橋湛山の生涯には戦前・戦中の小日本主義の論説をめぐる経済評論家としての活動に加えて、戦後にもう一つの人生のクライマックスがあった。石橋は以前の小日本主義に基づく日本の植民地政策批判(植民地放棄の主張)の過去から、敗戦後は戦時から日本のアジア侵略の軍国主義を批判していた数少ない「正統な自由主義者」「筋金入りの反戦平和主義者」であると一部の人達に相当激しく誤解されていたのである(苦笑)。そのため敗戦時の石橋湛山は「リベラルで民主的な好人物」と見なされ、世間の評判はそこそこ良かった。そこで戦後日本の新しい平和憲法の国政下にて衆議院議員総選挙に出馬し(石橋は左派リベラルの日本社会党から誘いを受けるも、これを断わり、あえて保守政党の日本自由党公認で出馬している)、何度か選挙に挑戦の末、見事当選を果たし、石橋は東洋経済新報社の記者・経済評論家から転身し晴れて政治家になる。初めは日本自由党に所属し、1955年の自由党と日本民主党との保守合同を経て現在の自由民主党(自民党)に参画した。石橋は自身が専門の経済分野に精通し、数々の経済政策で着実に実績を積み重ねて、後に自民党総裁となり、当時自民党が政権与党であったため、遂には石橋湛山は第55代内閣総理大臣となって、1956年に石橋内閣の組閣に至る。

だが、ここが石橋湛山という人の全くのツキのなさと言うか、不運の極みの人生の酷薄さと言うか、石橋は総理就任直後、脳梗塞の発作に倒れ、2ヶ月で内閣総理大臣を辞任。石橋内閣は早々に退陣を余儀なくされてしまう。石橋の首相在任期間はわずか65日であった。幸いなことに病状は回復し、1957年の内閣退陣の後も長く生きて石橋は1973年まで存命であったが、肝心の首相就任の大切な時期に脳梗塞の病に襲われ、内閣総理大臣の重責をまっとうできずとは、何よりも石橋本人が無念であったに違いない。部外者の私からしても、戦後の石橋湛山はいかにも気の毒である。

岩波新書の書評(516)田中彰「小国主義」(その2 中江兆民)

前回、岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)の書評を書いた。本新書の中で「近代日本の小国主義の系譜」として中江兆民と石橋湛山が紹介されていたので、今回と次回で中江と石橋について、特に「小国主義」という観点にとらわれることなく自由に書いてみたい。

岩波文庫に「中江兆民評論集」(1993年)と「石橋湛山評論集」(1984年)がある。箱入りでセット購読が原則の高額な個人全集内のそれではなくて、比較的廉価(れんか)でコンパクトに持ち運べる形で兆民と湛山の評論集を編(あ)んで文庫収録していることに以前、私は感心した、岩波書店は親切で相当に良心的な出版社であるなと。

今回は明治の思想家、中江兆民についてである。

「中江兆民(1847─1901年)は高知出身の思想家。岩倉使節団と共にフランスに留学、74年帰国。東京に仏学塾を設けた。1881年以降、『東洋自由新聞』で自由民権論を説く。1890年、衆議院議員となったが、翌年自由党土佐派の妥協に憤慨して議員を辞職。『三酔人経綸問答』を著す」

中江兆民は自身のフランス留学の経験からフランス流の急進的自由民権論を唱えて、民権運動の理論的指導者となった。近代日本における自由民権運動の理論的指導者では中江兆民、植木枝盛あたりが一流の一級である。彼らは薩摩・長州の藩閥政府以外の出自のために自身が明治新政府の要職に就(つ)けない個人的不満とか、維新後の四民平等による旧士族が没落の私的怨念や、地方出身者で自由民権運動を足がかりに何とか立身出世を果たし世に出てやろうの下流の野心もなく、確かに西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景があって、理論的であり理性的であった。中江兆民なら人民主権に裏打ちされた社会契約論、植木枝盛ならば天賦人権論に裏打ちされた抵抗権・革命権の主張というように。

中江兆民は、もともと漢学の心得がある上にフランス語の外国語ができるので、思想内容以前に兆民による人々の耳目を強くひき付けるフレーズや彼独自の造語など文筆の才にあふれており、非常に優秀である。同時代の自由民権論者や啓蒙思想家の中で中江兆民は頭ひとつ抜けている。

例えば、「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」(「日本人は昔から自分で作った哲学を持たず、確固とした主義・主張がなく、目先のことにとらわれて議論に深みや継続性がない」の意)の兆民の指摘は有名である。また明治憲法発布の当日、弟子の幸徳秋水によれば「兆民先生、通読唯(ただ)苦笑する耳(のみ)」で、中江兆民による「恩賜的民権から恢(回)復的民権へ」(「為政者から人民に施しとして与えられた限定つきの民権ではなくて、人民がみずからの手で獲得した権利へ発展させなければならない」の意)での、「恩賜的民権」「恢(回)復的民権」といった兆民独自の造語センスが抜群である。その他、兆民が帝国議会の衆議院議員辞職時の「(議場は)無血虫の陳列場」(「無血虫(むけっちゅう)」とは「血のない虫」で「冷酷でむごい人」の意味)という最後の去り際の捨てぜりふなど、実に傑作であり最高だ。私は今でもテレビで国会中継を視聴するとつい中江兆民の「(議場は)無血虫の陳列場」の言葉を思い出し、それを言い換え「議場は虫けら共の陳列場」とつぶやいて独り勝手に苦笑してしまう。

中江兆民はルソーの「社会契約論」を漢文調で抄訳した「民約訳解」(1882年)を出して日本に人民主権説を紹介したため、「東洋のルソー」と呼ばれることがある。「社会契約論」(1762年)を著した本家フランスのジャン・ジャック・ルソーは猜疑心が強く陰気で、いつも対人トラブルを起こし恋人や友人やパトロンらとの間で交際が長続きせず、自称「人間嫌い」の厭人病を発病して結果、すぐに孤立して孤独になってしまう、かなり気難しくて交際しにくい、周りの人達からして非常に扱いにくい困った人であった。他方「東洋のルソー」と呼ばれた中江兆民は無類の酒好きで、皆と酒を飲んででいきなり下半身を露出して往来に晒(さら)したり、宴会席で紙幣を100枚ほどばらまき芸者たちに拾わせては「ああ愉快、愉快」と大はしゃぎするような破天荒で人付き合いよく、友人らといつも楽しく過ごせる快活陽気な人だったのである。そのような豪快で好人物の兆民であってみれば、彼が「東洋のルソー」と呼ばれるのは何だか気の毒な思いがいつも私はする。中江兆民は日頃の深酒の痛飲がたたってか、喉頭がん(後に食道がんだったと判明)で54歳で亡くなってしまう。

中江兆民は生涯にわたり在野の人を貫いた。明治藩閥政府への激しい対抗批判をなす自由民権運動家に対し、明治政府は政府内での要職打診をしたり、費用を援助して海外留学させたりの懐柔策で民権論者を取り込み意のままに操ろうとした。自由民権運動下で板垣退助や徳富蘇峰らは、そうした懐柔策にはまり、やがて次々と藩閥政府に取り込まれていく。だが中江兆民だけは違った。兆民は一度も藩閥政府に日和(ひよ)って明治政府側に与(くみ)することはなかった。

しかし、その一方で兆民は、いつの時でも一つの仕事を我慢強く継続してやり遂げて自分のものにできなかったことも事実である。中江兆民はすぐに仕事を投げ出して次々と新しいことをやる相当に飽きっぽい性格であった。とにかく堪え性(こらえしょう)のない人だった。兆民は学校校長となったり新聞社主筆となっても、すぐに辞めてしまう。みずから立候補し見事当選して帝国議会で晴れて衆議院議員になるも、自由党土佐派の裏切りによる政府予算案成立に憤慨してわずか一年足らずで早くも議員辞職してしまう。その後、政治から離れて材木業や鉄道事業ら数々の事業に手を出すが長続きせず、ことごとく失敗している。

ところで、戦前昭和の日本に本格の探偵小説家で小栗虫太郎(1901─46年)という天才がいた。小栗の「黒死館殺人事件」(1934年)など日本の探偵推理において、突出した異才発揮の名作である。そうした天才の小栗虫太郎であるにもかかわらず、小栗は探偵小説を継続して書き続けることなく、戦時の生活苦から陸軍報道班員として突如、外地の南方に出向いたり、地方で果糖製造の事業を立ち上げたりで、本業の探偵小説業を中途放棄してあれこれやっているうちに過労が重なり、病に倒れ44歳の早さで亡くなってしまう。小栗虫太郎には、当時まだ探偵小説の読み手が少なく広く社会に探偵推理の文学が普及しておらず、探偵小説執筆の専業では食べていけない戦前日本の文学環境が未成熟の時代的不幸があった。

この小栗虫太郎の生涯にての探偵小説執筆での大成を果たせずに早世した事例を思い起こす度に、いつも私は明治の自由民権運動の思想家、中江兆民のことを思い出す。確かに兆民には辛抱せず長続きしない、すぐに仕事を投げ出してしまう飽きっぽい本人気質の問題もあったけれど、それ以前に兆民が生きた近代日本の明治期にて、自由民権論を唱え明治政府を批判しながら、そのことで自身の思いを遂げてつら抜く在野の思想家・ジャーナリストとして生きる世論や組織や制度の社会的基盤の成熟環境がなかった。中江兆民の著作「三酔人経綸問答」(1887年)と評論「国家の夢、個人の鐘」(1890年)は、西洋思想由来の正統な民権論(近代の政治・社会思想)の背景に支えられ理論的に特に優れている。これら論考は近代日本の民主的な思想潮流の中で時代的にかなり早く、完成度が高くて早熟である。

しかし、そうした民主的な民権思想家の中江兆民を許容して支える市民社会的基盤がまだ明治の日本にはなかった。結果、優れた自由民権思想家の中江兆民は学校校長や新聞社主筆や衆議院議員や実業家ら、さまざまな仕事を短期のうちに次々に転々として、必ずしも成功し大成したとは言い難い生涯を送り、最期は常日頃の深酒の痛飲がたたって喉頭がんで病に倒れ54歳で亡くなってしまう。非常に残念で、やるせない思いが兆民の著作および中江兆民研究を読むといつも私には去来する。

岩波新書の書評(515)田中彰「小国主義」(その1)

岩波新書の赤、田中彰「小国主義」(1999年)は、タイトルの「小国主義」の反対である「大国主義」を「国際関係において、大国が自国の強大な力を背景に小国を圧迫する態度」「経済力・軍事力にすぐれた国がその力を背景に小国に臨む高圧的な態度」という辞書的意味定義から、その大国主義をして「明治維新以後の日本近代史は、ひたすら大国への路線を歩み、戦争につぐ戦争をくり返した大国主義の歴史にほかならなかった」(ⅱページ)というように、かの大国主義的衝動に終始し翻弄され続けた近代日本の歩みを批判的に総括しようとするものだ。こうした内容に合致して、本書の副題は「日本の近代を読みなおす」になっている。

思えば明治維新以来、近代日本の大日本帝国は日清・日露戦争、第一次世界大戦の東アジア戦線、ロシア革命に伴う対ソ干渉戦争たるシベリア出兵、満州事変、対中国の日中戦争と対アメリカの太平洋戦争とを主な内実とする十五年戦争(アジア・太平洋戦争)ら、対外戦争を重ねに重ね、軍事的・経済的な覇権をもって海外の植民地獲得と現地支配に躍起し奔走する「大国主義」の典型であった。著書の田中彰は書籍タイトルである「小国主義」の立場から、近代日本のそうした大国主義の潮流を非常に厳しく徹底的に批判する。これには本書執筆時の1999年の90年代には自衛隊の海外派遣がなされ、専守防衛の平和主義を規定している第9条の書き換えを争点にした憲法改正論議がいよいよ盛況となったことについての「日本の軍事大国化路線への転換」といった右傾化・反動化の認識が強くあり、それら動きを戦前日本への回帰として再びの日本の大国主義化を憂慮する、著書の田中彰の現状に対するかなりの危機意識があることも押さえておくべきだろう。

本書の中で、著者は「大国主義か、さもなくば小国主義か!?」の非常に限定された二項対立思考にあえて固執し事実、近代日本の歴史は大国主義のそれに他ならなかった、近代日本は小国主義の姿勢・立場を貫徹できなかったの趣旨で、日本にとっての「未発の可能性」である「小国主義」への移行を暗に強烈に望み、それとは反対の近代日本の大国主義の歴史を極めて厳しく批判する。また「近代の時代は日本のみならず、欧米列強がアジア・アフリカ地域に侵出し、各地域を植民地支配しようと各国が覇権のしのぎを削る大国主義で領土拡張の帝国主義戦争の時代であったのだ。だから近代日本が維新の開国以来、明治と大正そして戦前昭和の各時代において朝鮮半島や台湾の実質現地支配に始まり、遂には北は華北と満州、南は東南アジアと太平洋各諸島に至るまで、大国主義の方針でアジアの各地域を広く占領支配したとしても、それは当時は当たり前の国際常識であり、何も近代日本の大日本帝国だけが集中的に非難される事柄ではない。そのような大国主義への衝動欲求は当時の国際政治にて当たり前で自然なことだった」とするような日本の大国主義擁護の意見に反論するかのように、近代日本でも当時から同時代にて大日本帝国の大国主義を批判し、日本は近隣アジアへの無理筋の大陸膨張路線はやめて、維新の開国当時の日本列島国内領土の保全に専念し、その分、海外進出の国外政治ではなく国内政治での民主化や近代化に注力するべきという近代日本における、大国主義批判の「小国主義」の水脈の伏流を本書にて明治・大正・昭和の時系列で順次紹介していく。すなわち、

「Ⅰ・近代日本の選択肢を求めて・岩倉使節団のめざしたもの。Ⅱ・自由民権期の高揚と伏流化・植木枝盛・中江兆民の位置。Ⅲ・『小日本主義』の登場・大正デモクラシーの中で・三浦銕太郎・石橋湛山。Ⅳ・日本国憲法をめぐって・小国主義の理念の結実」

以上の全4章にて、明治・大正・昭和の各時代の「小国主義」の事例を取り上げ、必ずしも対外膨張路線の大国主義は、当時から当たり前の国際常識であったわけではない、近代日本にて明治の岩倉使節団から自由民権運動、大正デモクラシー、昭和の敗戦後の日本国憲法制定ら、各時代にて各人や制度・事柄による大国主義批判の「小国主義」の主張・運動は確実にあった証左を順次、歴史的に示していくのである。

そもそも原理的に考えて、対外膨張して自国以外の所での他国の領土支配や他地域での覇権伸張をもくろむ大国主義は、相手国の国権や民族自決や地域の経済自立を軽視し、時に明確に否定した上でなされるものであり、大国主義は他国に戦争を仕掛けて軍事侵攻で戦勝の結果に多額の賠償を得たり、軍事的・経済的圧力でもって不平等条約の締結を相手国に強要したり、領土割譲したり自国の要人を送り込んで保護国化したり、遂には植民地化支配したりすることでなされるものである。他者尊重の健全な常識的振る舞いにて国家は滅多なことで、そう簡単に大国化したりしない。

ゆえに国際政治上での法的措置がなく違法規制がなくとも、大国主義には他国や他民族の他者に対する権利侵害の、人道的な悪の後ろめたさが常に伴う。近代日本の歴史を大国主義の見地から概観するとき、中国本土や朝鮮半島に対外侵出の、かの大日本帝国の大国主義に関し、中国・朝鮮の人達のことを考えて日本の大国路線を批判的に理解したり、今日でも「軍事大国アメリカの脅威」とか「現代中国の大国化の懸念」など、アメリカや中国の大国主義への志向を胡散(うさん)くさく怪しいものと感じてしまうのは、大国主義に他国の他者に対する権利侵害の反倫理の悪の要素があるからに他ならない。岩波新書の赤、田中彰「小国主義」は、そうした大国主義の倫理的悪の胡散くさい怪しさを読む者に教えてくれる。そこが本新書の最良さだと私には思えた。

最後に田中彰「小国主義」に関し、岩波新書編集部が出している公式の紹介文を載せておく。

「明治期に中江兆民が『小国主義』を唱え、大正期には三浦銕太郎や石橋湛山らが『小日本主義』を主張して、政府の『大国』路線を厳しく批判したことはよく知られている。日本近代史上、ときに浮上し、ときに伏流化した小国論とは何であったか。日本国憲法こそ小国主義の結実とする著者が示す、知的刺激に満ちた日本近現代史」