アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(407)三浦俊彦「ラッセルのパラドクス」

岩波新書の赤、三浦俊彦「ラッセルのパラドクス」(2005年)のタイトルになっている「ラッセルのパラドクス」とは、素朴集合論において矛盾を導くパラドックスであり、「自分自身を含まない集合全体を考えると矛盾が生じる」というものだ。これは、ラッセルからフレーゲへの1902年6月16日付の書簡にて、フレーゲの「算術の基本法則」における矛盾を指摘する記述に現れる。ラッセルのパラドクスは数学理論上の話であるが、数式ではなく一般の例え話として、「嘘つきのパラドクス」や「床屋のパラドクス」がよく挙げられる。以下、本新書の記述に従い引用すると、

「嘘つきのパラドクス─『私はいま嘘をついている』という発言は、嘘を言っているのか、真実を述べているのか。嘘だとすると、発言内容がその通りのことを述べているから、真実を述べたことになる。真実だとすると、発言内容通りのことが成り立っているはずだから、嘘ということのなる」

「床屋のパラドクス─ある村の床屋は、自分で髭(ひげ)を剃らない村人全員の髭だけを剃る。さて、村人の一人であるこの床屋自身は、自分の髭を剃るのか、剃らないのか」

上記のパラドクスの例は、いずれも命題、集合といった何かを外から特徴づけるラベルに対して、その同じラベル(自分自身)を貼ることができるかどうか、を問題にしており、そこから矛盾が導き出されている。すなわち「嘘つきのパラドクス」では「私はいま嘘をついている」→「命題」、「そのように発言する」→「自分自身が命題を出している」であり、「床屋のパラドクス」では「村人」→「集合」、「自分の髭を剃る」→「自分自身の要素である」と読み換えることが出来る。

ここから「自己言及の禁止・悪循環原理」の解説に移り、本新書にて著者による、それらいわゆる「ラッセルのパラドクス」に関する解説が進んでいくわけである。ラッセルは、上述のような数学の集合理論のパラドクスを見つけ、その都度パラドクスの回避方法の議論を重ねて考察を深めていった。これは今日でいう分析哲学の典型的な手法だ。「分析哲学」については、取り急ぎ次のようにまとめることが出来る。

「分析哲学とは、論理的⾔語分析の哲学で、神学や形⽽学的な倫理学的⾔明の真理性に頼らずに論理経験主義の意味による検証可能性より思考の明晰化をはかる実証主義伝統の哲学である。分析哲学の特徴としては、まず何よりも⼤論理の形⽽上哲学の否定があり、神学を絡めた伝統哲学への批判で論理的⾔語や⾃然科学の⽅法に依拠した⽇常⾔語の哲学を志向する。そのため、こういった性質をもつ分析哲学が隆盛するのは、先天的な理のイデアを想定するギリシア哲学やヨーロッパの⼤陸合理論やドイツ観念論と対⽴するイギリス経験論とアメリカのプラグマティズムが主流である。一般に分析哲学が盛んなのは、神学の形⽽上学とは疎遠な英⽶の哲学⾵⼟においてであり、事実、分析哲学は現代ではイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアの主に英語圏にて研究される傾向にある。分析哲学の⽅法論的特徴は⾔語分析や概念提⽰を主な道具とする。分析哲学とは、その呼び名の通り、⾔語の論理分析こそが哲学の仕事だとする考え⽅である。ゆえに分析哲学は言語学や数学の学問と非常に親和性がある。反対に宗教学や心理学との折り合いは、分析哲学は相当によくない。分析哲学の⻑所といえば、従来哲学のように伝統哲学の権威や神学的な直観啓⽰の先天的な形⽽上学に⼀切頼らず、経験的事実をひたすら積み重ねて、明晰な論理的分析によって厳密に哲学議論を進めることである。この点において分析哲学は、無駄に深遠で時に神秘主義でもある形⽽上学的な難解イメージや実質を持つ従来哲学への対抗批判となりうる。分析哲学は論理的で有⽤、⽇常に近い哲学を志向する」

ラッセルが18歳にしてケンブリッジ大学に入学し、数学と哲学を専攻し学び始めた1890年、ヨーロッパの哲学界はドイツ観念論が主流で、当初ラッセルはドイツ哲学のヘーゲルに傾倒した相当なヘーゲリアンであったが、後に「転向」して、いかにもなイギリス経験論の分析哲学に転じたのであった。

岩波新書「ラッセルのパラドクス」は全9章からなり、前半の第5章あたりまで正直、私にはそこまで面白くない。本書で著者は冒頭から、「以下の二つの文はそれぞれ正しいだろうか、正しくないだろうか。(論理哲学の用語で言いなおすと)真だろうか、真でないだろうか。『この犬は、吠える』『犬は、吠える』」のクイズを読者に出す。そして、その答えをなかなか書かずに引っ張る。「はじめに」の冒頭にて出された論理クイズの答えが明かされるのは、やっと99ページである(笑)。「『この犬は、吠える』と『犬は、吠える』の二つの文は正しいか、正しくないか」のクイズもどきは、主語と述語の一文の中で命題間の包括関係や真偽・矛盾判定の価値判断をより厳密に考える「述語論理学」に依拠したものである。「ラッセルのパラドクス」ら分析哲学での議論が、数学や論理学にまつわる小話(トピック)として主に取り上げられ扱われることを私は好まない。その分、人間にとっての認識や存在を分析哲学を通じて突き詰めて考える第6章以降の「記述理論」の箇所が、読んで面白いと感ぜられた。哲学という学問は、人間にとっての認識や存在を突き詰めて考えることにその本領があると私は信じているから。

岩波新書の赤、三浦俊彦「ラッセルのパラドクス」には、抽象的な論理学の集合理論の数式を使わずに、具体的な文章分析に徹する著者の配慮が見られる。この人はラッセルがかなり好きなのか、本書で随所に見受けられる、ラッセルの分析哲学を称揚する著者によるかなり興奮した高揚した文章(6ページ、127ページなど)が面白い。なるほど、著者の三浦俊彦によるラッセル哲学の呼称、本新書の副題は「世界を読み換える哲学」であった。

私達はバートランド・ラッセル(1872─1970年)その人について、主に三つの側面を知っている。

まず、ラッセルは数学や厳密な論理学に依拠した分析哲学者であった。このことは岩波新書「ラッセルのパラドクス」を始めとして、彼に関する哲学書籍を読むとその概要を知ることができる。

次に、ラッセルは「西洋哲学史」(1945年)の著者であった。ラッセルの「西洋哲学史」は大ベストセラーとなり、今でも西洋哲学史の定番の書として広く読まれている。前述のように、ラッセルが18歳にしてケンブリッジ大学に入学し、数学と哲学を専攻し学び始めた頃、ヨーロッパの哲学界はドイツ観念論が主流で、当初ラッセルはドイツ哲学のヘーゲルに傾倒した相当なヘーゲリアンであったが、後に「転向」して、いかにもなイギリス経験論の分析哲学に転じたのであった。そのため、かつて心酔し傾倒していたヘーゲルの哲学に対し、ラッセルは「以前の愛(いと)しさ余って今では憎さ倍増」であるのか、自著の「西洋哲学史」近代編でのヘーゲルに関する項の記述が異常に少なく極めていい加減に書いている。このことはラッセル「西洋哲学史」の記述の難点として前から、よく指摘される所である。私は、ヘーゲルを筆頭にカントより始まるドイツ観念論のヨーロッパ哲学の系譜が好きなので、昔にラッセル「西洋哲学史」を初読の際には軽いショックを受けた(笑)。

そしてラッセルは第二次世界大戦後の反戦平和運動の旗手であり、世界を駆け巡った活動家でもあった。例えば、反核平和と科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル・アインシュタイン宣言」(1955年)をなし、ラッセルは「核兵器廃絶運動」(CND)の初代総裁となって、各種の反戦デモに積極的に参加した。第二次大戦後の世界にてヨーロッパではドイツとイタリアは敗戦国であり、フランスは一応は戦勝国の側に属してはいたけれど一度はドイツに降伏したため、第二次大戦後の国際状況下でドイツとイタリアとフランスには発言権はほとんどなかった。戦勝国であったアメリカとソ連が発言力の影響力を増して、やがて第二次大戦後の世界は米ソの二大国が台頭し覇権争いの冷戦体制に突入していく。そうした国際状況下で、かつて米国と同盟関係にあり連合国として共に戦った戦勝国のイギリスは、アメリカとソ連の軍事的暴走を牽制(けんせい)して抑えられる第三極として存在し行動できた。米国とソ連が双方で張り合って対立し、戦後の冷戦体制化にて軍事拡大に突っ走る状況の中で、その国際的立ち位置から英国は、ある種の反戦平和の理念を高らかに発言できたのだ。だから、第二次世界大戦直後のイギリスの知識人、哲学者のラッセルを始めとしてSF作家のウェルズや外交官のカーらの言説と行動は、当時のことを私はリアルタイムで知らないけれど、後に読んで非常に眩(まぶ)しく、今でも彼らは輝いて見える。

「『この犬は、吠える』『⽝は、吠える』、どちらかが間違っている? 簡単なクイズから『心と物が存在する』ことの謎へ、緻密(ちみつ)かつ壮麗に展開するラッセル・ワールド。『完全・究極・確実』に憑(つ)かれた過激な哲学者は、『論理』ひとつを武器に、矛盾に満ちた日常世界を徹底的に読み換えてゆく。論理学ファン必読、『新次元の知』への扉を開く一冊!」(表紙カバー裏解説)