アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(413)小林秀雄「無常という事」(その3)

前回で要約の要旨をまとめ、一応終わった感のある小林秀雄「無常という事」について、今回は前回に出した「無常という事」の要旨を踏まえ、小林秀雄の「無常という事」が発表された当時の時代状況にて果たしたであろう、あの作品の政治的役割について考えてみたい。

では、まず前回まとめた「無常という事」の要約・要旨の確認から。

「私たちは、歴史に対し、現代の立場から新しい見方や解釈を加えず、当時の人々が生きていた証拠、充ち足りた時間を過ごした生の充満という人間の美しさを心虚しくして無心になって歴史の中から感じとるべきだ。そこに後の時代の人からの解釈を拒絶して、動じない歴史の美しさがある。しかしながら、現代人は一種の動物的な生きている人間として、充ち足りた生の時間を過ごしていない。そのように自分が生きている証拠を充満させるような、人間の美学の萌芽を享受する生き方をしていないので、現代の私たちが歴史に対し、新しい見方や解釈を加えるばかりで、歴史の中の人間が実際に生きていた証拠となる彼らの生の充満の美を感じとることができず、そのために解釈を拒絶して動じない歴史の美しさを見失ってしまった。だから現代の私たちが、歴史の中の人間が実際に生きていた証拠となる、彼らの生の充満の美を感じとって、解釈を拒絶して動じない歴史の美しさを見失わないためには、現代人は、一種の動物的な生きている人間として充ち足りた生の時間を過ごすような、自分が生きている証拠を充満させるような、人間の美学の萌芽を享受する生き方をするべきである」

「無常という事」は一読、文章は抽象思弁的で難しいように思えるが、内容を分かりやすく平たく言えば、「現代人のお前らは、新しい歴史の解釈やら理論にばかり夢中になって、かつて懸命に生きて自らの生を充実させてた歴史の中の人間の美しさを何ら分かってやしない。それは、お前たちが今、充実した人生の時間を過ごし懸命に生きていないからだ。美の萌芽を自身の中に育てていない証拠だ。無心に懸命に生きず、自分の内に美の萌芽を育てていないからだ。美しくない現代のお前らに歴史の中の人間の美しさや歴史そのものの美なんて、分かってたまるか!解釈や理論を捨てて、もっと虚心に歴史の魂の美に向き合えよ」といった当時の日本人に対する小林秀雄の嘆きに他ならない。歴史認識の歴史観と人としての生き方の人生観についての。

実は小林秀雄は、このようなことを至る所で何度も言い、繰り返し書いている。例えば「文化や歴史は断続的に反省され、計画的に設計されるものではない。まずは私達に持続的に生きられるものだ」、つまりは文化や歴史は人間の一回切りの生の持続的な積み重ねであって、理論や計画や後の時代の人からの反省解釈を簡単に受け付けるようなものではないというようなことを。

小林秀雄は十五年戦争の時、知識人の立場から時事的な文章も書いて国家の国策の戦争遂行に協力した。そして日本の敗戦となり、戦後に「文学者の戦争責任」が追及され、かつての自身の戦争協力の姿勢が非難されたとき、そのまま「歴史は後の時代の人から断続的に反省されたり、解釈されたりするものではない。とにかく戦時中の自分は無知な日本の一国民として懸命に生きた。ただそれだけ」の理屈を用いて「文学者の戦争責任」追及を見事に回避した。

さらに「無常という事」の文中の次の点に着目するべきだ。そうした「無常という事」にて小林が否定し逃れたいと思っている思想、「歴史の新しい見方とか新しい解釈とか(を加える)という思想」や「過去から未来に向かって飴の様に延びた蒼ざめた思想」について、小林は本文中で具体的に明らかにしていないが、これがマルクス主義の弁証法的発展の唯物史観や西洋学問の歴史学の理論化の社会科学であることは明白である。

「歴史は計画的に設計されるものではない」とする小林秀雄は事実、弁証法的発展論や革命理論など歴史に理論の解釈を持ち込むマルクス主義に対し、生涯一貫して強く否定的であった。そして「無常という事」にて、「僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思われる」マルクスの唯物史観や欧米の解釈理論の歴史学とは対極にある、まさに自分が好ましいと考えている「まったく歴史を解釈しない歴史の美しさを感受する姿勢」の具体例として小林秀雄は本文中で本居宣長の国学を挙げている。

そもそも宣長の国学というのは中国から日本に入ってきた儒学の外来思想を排し、日本古来の古典の伝統思想を重んじた学派の学問だ。宣長の国学や水戸学、神道など日本の伝統的な学問や思想や宗教は、近代日本の天皇制国家の諸々の国民統合の装置たる国体論や皇国史観や国家神道の基盤を成した。

国学の特徴は、従来の朱子学などの儒学と異なり、「理」の規範の理論が皆無で「もののあはれ」など、ひたすら人間の心情・感性に訴えかける没規範の没理論にある。この国学同様、戦時下の近代天皇制国家のにおける国体論や皇国史観も没規範の没理論の体系である。なぜなら国体論や皇国史観において、「どうして日本の国体や皇国の天皇の歴史が神聖不可侵で他国のそれよりも尊くて美しいなどといえるのか!?」それは理論による合理的な分析説明をどこまでも忌避回避して、ただただ「神聖で尊くて美しいからだ」の人間の感性的理解にのみに訴え、没理論で押し切るから。

だから国家や歴史に対して理論を否定し、ひたすら「尊い」「美しい」などの感性語を連発・強要する言説は天皇制イデオロギーのひとつの特徴といえる。話が思想史研究の内容に入ってしまうが、要するに「天皇制イデオロギー=理論排撃の没理論・感性的理解への訴え=国学=国体論・皇国史観」ということである。

加えて、この「無常という事」が発表されたのは1942年の昭和17年、もう対アメリカ戦も始まって日本国内では思想統制が激しく、マルクス主義者は逮捕・投獄で弾圧され、学問も欧米の最新の歴史学や社会理論は、政府当局の指導によってことごとく排除され、もはや「思想・学問の自由」はなく、天皇制イデオロギーの国体論や皇国史観が幅を利かせている時代だ。そんな時代に「無常という事」にて、小林秀雄は「解釈を排し、心虚しくして無心に歴史の美に向き合え」という。国体論やら皇国史観やらの基盤となる没理論の宣長の国学を称揚し、「美しさ」を虚心に感受する感性的な歴史理解を読者に強力に求める。かたや、新しい見方や解釈による歴史の理論化は「現代に於ける最大の妄想と思われる」で、マルクス主義や欧米の社会科学の理論の学問を否定・排除する。つまりは歴史から解釈の理論を外そうと小林は躍起になる。

そこで以下の結論だ。

「小林秀雄の『無常という事』は一読して、純文芸批評的な格調高い、政治色の皆無な随筆・雑感の作品に思えるが、戦時中の執筆・発表で、しかも歴史を理論的に解釈するマルクス主義や西洋社会科学の歴史の理論化を否定し、同時に本居宣長の国学の称揚など、歴史を解釈せず、歴史から『美』を感受する没理論の感性的な歴史理解を強力に勧める。まさに国体論や皇国史観に連なる内容である。これは実は、没理論で感性理解一辺倒の当時の国策たる国体論や皇国史観を暗に応援し推進する政治的役割を持った、かなり問題がある政治色強い時事的な文章ではないか」

小林による「歴史に解釈・理論を持ち込まず、ただひたすら歴史の美と向き合え」の主張は、理論排撃の審美的な歴史認識態度である。これを戦中にて国体論やら皇国史観やらが幅を利かせ、マルクス主義や欧米の理論化歴史学が、ことごとく弾圧・排除されている時代にこういった主張の「無常という事」を書く小林秀雄はどうなのか。果たして彼は自身の作品が一定の政治的役割を持ち、国体論、皇国史観もろもろの天皇制イデオロギー的なものに自分が結果的に加担している自覚があったかどうか。

以上に尽きる。そして、こんな戦時下の日本の国策遂行に応援加担の疑いが果てしなく強い文章が、そのまま戦後の国語教科書に教材として普通に載ってしまうわけである。小林秀雄「無常という事」は日本の戦後社会において案外、厳密に正確に読まれておらず、これを教科書に採用した人も、この作品の戦時下にて発表の事実に加え、その正確な要旨や時代の中での政治的役割を押さえた読みの読解が出来ていないのではないか。私は非常に憂慮する。