アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(420)吉田裕「アジア・太平洋戦争」(その2)

(前回からの続き)まずは太平洋戦争の日米開戦に至るまでの過程を以下の簡略な年表にて確認しておこう。

1931年9月・柳条湖事件、満州事変(1931─33年)
1932年3月・満州国建国宣言
1933年3月・日本が国際連盟脱退を通告(※ドイツの国連脱退は1933年10月、イタリアの国連脱退は1937年12月)
1934年12月・日本からのワシントン海軍軍縮条約廃棄通告(失効は36年12月)
1937年7月・盧溝橋事件、日中戦争(1937─45年)
1939年7月・アメリカからの日米通商航海条約廃棄通告(失効は40年1月)
1940年9月・日本軍の北部仏印進駐
1940年9月・日独伊三国軍事同盟(※これに対しアメリカは航空機用ガソリンの対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止の措置)
1941年2月・ABCDライン(包囲網)の強化
1941年4月・日米交渉の開始(41年11月まで)
1941年7月・日本軍の南部仏印進駐(※これに対しアメリカは在留日本人の資産凍結、石油対日輸出禁止の措置)
1941年10月・東条内閣組閣
1941年11月・アメリカの「ハル・ノート」提示
1941年12月・日本軍のアメリカのハワイ・真珠湾攻撃により日米開戦、太平洋戦争(1941─45年)

太平洋戦争の日米開戦の原因は、開戦同年で直近のABCDライン(包囲網)の強化(1941年)や、日米交渉における「ハル・ノート」の提示(1941年)によるのではない。それは柳条湖事件(1931年)を経ての満州事変(1931─33年)、そのうえでの満州国建国宣言(1932年)に絡(から)む日本の国際連盟脱退(1933年)に実のところ端を発している。対米戦の太平洋戦争に至る日本とアメリカの関係悪化は、日本の国連脱退が対立の岐路として決定的であった。

1933年の日本の国連脱退に続き、翌1934年に日本はワシントン海軍軍縮条約の廃棄通告をして、同様にアメリカ主導のワシントン会議におけるワシントン体制の集団安全保障体制も、みずから率先して崩壊させてしまう。ここに至って日米間の関係悪化は決定的となった。この日本の国際連盟脱退とワシントン海軍軍縮条約の廃棄通告を通しての、日本による度重なる集団安全保障体制のぶち壊しに端を発する日本とアメリカの関係悪化が、太平洋戦争の日米開戦に至る過程の第一ラウンドである。

こうした第一ラウンドでの日米間の関係悪化を経て、日本とアメリカの関係は次の第二ラウンドに移る。盧溝橋事件(1937年)を発端とした日中戦争(1937─45年)の勃発にて、戦禍は中国北部から上海へ飛び火し、日本軍は上海、南京、広東、武漢三鎮を占領して宣戦布告をしないまま「事変」という形で中国との全面戦争に突入した。この事態に対し、アメリカは日本に日米通商航海条約の廃棄を通告(1939年)。日米通商航海条約の廃棄により以後、日本は戦略物資の禁輸・資産凍結などアメリカによる対日経済圧迫にさらされることになる。日中戦争勃発に際してのアメリカによる日本への非難は「日本の中国侵略に抗議する」旨のものであった。このアメリカの抗議は、実のところ不戦条約(1928年)に法的根拠を持っていた。

不戦条約とは、第一次世界大戦後に締結された多国間条約であり、国際紛争を解決する手段として戦争放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定したものである。別名でパリ条約、ケロッグ・ブリアン条約ともいう。不戦条約は、第一次世界大戦への反省から次に起こりうる世界大戦規模の戦争防止のために定められたものであった。不戦条約にて侵略戦争は明確に違法とされ否定されている。他方、自衛戦争は国家の正当な権利として合法とされ認められていた。ここでいう「侵略戦争」とは、他国の主権・領土や政治的独立を奪う、いわゆる「侵略」の目的で武力を行使して争う戦争のこと。「自衛戦争」とは、他国よりの不当な攻撃・侵略に抗し自国の主権を維持・防衛するために自衛権の行使として行う戦争のことである。また、こういった「侵略戦争は国際法上明白に非難され違法であるが、自衛戦争は自国存続のため国家にとっての正当な権利として認められ、ゆえに合法である」とする戦争の違法化に間する国際政治の認識は、1928年の不戦条約から百年近く経過した今日の2010年代以降の世界にても大して変わっていない。国際世論上、現在でも侵略戦争は明確に違法とされ禁止されている。

もちろんアメリカを始め、欧米各国が当時の日本と同様、東アジアの中国の領土分割の実質的な植民地支配に着手し邁進していた。ただ第一次世界大戦への反省から次に起こりうる世界大戦規模の戦争防止のために定められた「侵略戦争は違法」とする不戦条約があったため、日本を含む欧米列強は、例えば以前のアヘン戦争(1840─42年)のような、あからさまな侵略戦争を介しての中国の分割支配は今やできなくなっていた。各国共に戦争に依(よ)らない、非軍事的な協調外交によるアジア侵出の支配を余儀なくされていたのである。第一次大戦後の世界にて、アジアの諸地域・諸民族の「自由独立」「民族自決」の概念はすでにあったが、それは完全に言葉の上での名目だけのものでしかなかった。今にして思えば当時の中国や朝鮮や台湾ら東アジア地域の人々には誠に気の毒ではあるけれども、日本を除いた東アジアの人々に対する欧米列強と日本による植民地化の帝国主義的支配は自明のものとして正当化され事実上、是認されていたのである。

つまりは、第一次世界大戦を経ての「侵略戦争は違法」の不戦条約の縛(しば)りがあるために、当時のアメリカを始め欧米各国は中国分割の利権獲得に際して目に見えた戦禍を伴わない、直接的な軍事行動以外での協調外交による侵出外交、いわば「穏健な帝国主義」のルール策定を模索していたのである。そのアメリカの立場からして、日中戦争の勃発にて「穏健な帝国主義」の支配ルールから明らかに逸脱した日本に対し、「日本軍の上海や南京への軍事的侵攻は到底、自衛的行為とは認め難い」のアメリカの言い分であり、それが不戦条約にての「侵略戦争の違法化」に根拠を有する「日本の中国侵略に抗議する」旨のアメリカの立場であった。アメリカが不戦条約での戦争放棄という良心的・人道的な理想の立場から東アジア地域の人々の「独立自由」のことを考え、アジアの人々の「民族自決」の権利を尊重して、日中戦争を始めた日本を非難していたわけでは決してない。当時のアメリカは中国における日本の特殊権益、帝国主義的分割支配の分け前を他の欧米各国と同様、日本に対しても認めていた。要は中国への帝国主義的支配に関する、やり方のルールをめぐる日米間での対立摩擦の問題なのである。

当時の日本もアメリカも不戦条約に批准しており、その法的拘束を受けていた。ゆえに日中戦争に際し、この不戦条約にての「侵略戦争の違法性」に関する法規に基づいた「日本の中国侵略に抗議する」経済制裁的な日米通商航海条約の廃棄というアメリカの対日圧力である。こうした中国への侵略支配上でのルール策定とその帝国主義的利権獲得のための方法をめぐる日米間の対立のさらなる関係悪化が、太平洋戦争の日米開戦に至る過程の第二ラウンドである。

このような第二ラウンドでの日米間の関係悪化を経て、日本とアメリカの関係は、いよいよ第三ラウンドの最終局面に移行する。第二次世界大戦(1939─45年)のヨーロッパ戦線にて、ドイツ軍のフランス侵攻がドイツの圧倒的勝利に終わり、ドイツとフランスの間で独仏休戦協定(1940年)が結ばれた。このフランスのドイツへの敗北を好機と見て、同年の1940年9月に日本は北部仏印進駐(援蒋ルート遮断と南進を目的に北部フランス領インドシナ半島のハノイへ進駐)を果たし、その4日後、日本は日独伊三国軍事同盟の締結(1940年9月)に至る。日独伊三国軍事同盟により、日本は東アジアにいながらヨーロッパ戦線のドイツ、イタリアの枢軸国側に付くこととなり、それはヨーロッパ戦線にてドイツと対立していた連合国側のイギリス・フランスと、アジア・太平洋地域にて敵対関係になることを意味した。だから日独伊三国軍事同盟を結んで枢軸国側に付いた敵国の日本に対し、すでに孤立主義から脱し「反ファシズム=民主主義の擁護」を標榜して、もともと英仏の連合国側にあった、後に武器貸与法(1941年3月)にて対ドイツで第二次世界大戦に実質的参戦を果たすアメリカは、航空機用ガソリンの対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止の対抗措置に出たのである(1940年9月)。加えて、アメリカは後にABCDライン(包囲網)の強化(1941年2月)を行い、日本の南進政策に対抗してアメリカとイギリスと中国とオランダの4か国による対日包囲網を形成した、

その後、日本軍の南部仏印進駐(石油やアルミ資源ら戦略物資の調達のために南部仏印のベトナム南部に進駐)があって(1941年7月)、日本による米英の連合国側へのこの敵対行動に対してもアメリカは在留日本人の資産凍結(1941年7月)と、石油対日輸出禁止(1941年8月)のさらなる対抗措置を講じる。ここに至って日米間の関係悪化の対立の激化は最高潮に達した。1941年12月、日本軍のアメリカ・ハワイの真珠湾への攻撃により日米開戦、第二次世界大戦の東アジア戦線たる日本とアメリカの太平洋戦争(1941─45年)が始まった。

以上のように太平洋戦争の日米開戦に至るまでの概略を簡略な年表に沿って時系列で確認しただけでも、日本とアメリカとの間には3つのラウンドの段階の異なる関係悪化の対立過程があったことが分かる。すなわち、

(1)満州事変に端を発する、アメリカ提案の国際連盟やワシントン体制の集団安全保障体制の度重なる日本のぶち壊しによる関係の悪化。(2)欧米各国の中国侵出のなか、日中戦争の勃発により日本が協調外交の「穏健な帝国主義」の全体ルールから逸脱し、それに対するアメリカの経済制裁による対立の深化。(3)日独伊三国軍事同盟の締結にて日本が連合国側のアメリカへの敵対姿勢を鮮明にし、三国軍事同盟に伴う日本の南進政策への対抗からアメリカが石油対日輸出禁止の措置等を行い、いよいよ日米開戦が不可避な程の対立の激化。

ここで日米間の関係悪化の対立の過程にて確認しておきたいのは、いつの段階のどのケースでも「最初に日本が何らかの外交上の主体的な意思行動を起こし、その日本の判断行動に対応する形で、後に経済制裁らアメリカの対日圧力が出されている」ということだ。この点について、先の太平洋戦争の日米開戦に至るまでの年表から該当事項を今一度書き出してみると、

☆盧溝橋事件(1937年7月)、日中戦争(1937─45年)←アメリカからの日米通商航海条約廃棄通告(1939年7月)
☆日独伊三国軍事同盟(1940年9月)←アメリカによる航空機用ガソリンの対日輸出禁止、くず鉄・鉄鋼の対日輸出禁止の措置(1940年9月)、ABCDライン(包囲網)の強化(1941年2月)
☆日本軍の南部仏印進駐(1941年7月)←アメリカによる在留日本人の資産凍結(1941年7月)、石油対日輸出禁止の措置(1941年8月)

「アメリカが畏怖した日本・真実の日米関係史」(2011年)を執筆の渡部昇一ら保守派の論客や愛国右派の、ひたすら日本人の自国の歴史をただただ賞賛するだけの「トンデモ歴史」語りの人達は、「なぜ当時の日本人は無謀な日米開戦に踏み切ったのか。それはアメリカによるABCD包囲網での石油の対日輸出禁止の高圧的で一方的な外交圧力により日本は、もはや自存できず国際的孤立に追い込まれ、いよいよ追い詰められてやむにやまれず日本人は到底勝ち目のない日米開戦を余儀なくされたから。元から日本に戦争を仕掛けたい当時のアメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトを始め米英の連合国側の軍事参謀や政治家らの戦争挑発の罠に日本は見事にはめられた」とする旨の歴史解釈をいつも力説する。「日本は何もしていないのに、ある日、突然アメリカからの脅迫的な外交圧力にさらされ、訳もわからず追い詰められて、日本の方には全く非がなく身に覚えのない、まるで不運な『もらい事故』のような不条理にて、当時の日本人はアメリカから戦争挑発されて日米開戦を余儀なくされた」主旨の非常にカマトトぶった被害者意識全開の、荒唐無稽な日本擁護論の炸裂である(笑)。

太平洋戦争開戦へ至る日米間の関係悪化の対立の過程においては、「いつも最初に日本が何らかの外交上の主体的な意思行動を起こし、その日本の判断行動に対応する形で、後に経済制裁らアメリカの対日圧力が出されている」ということをこれまでの記述から各自、改めて確認されたい。

例えば彼らが定番でいつも力説するような、「アメリカによるABCD包囲網での石油の対日輸出禁止の脅迫的で不条理な外交圧力により日本は、もはや自存できず、いよいよ追い詰められて、日本は日米開戦を余儀なくされた」のでは決してない。太平洋戦争開戦前夜の「アメリカによるABCD包囲網での石油の対日輸出禁止措置」という歴史の「点」だけを任意に取り出し、自国の日本にとってのみ都合の良いように勝手に解釈するのではなく、「アメリカによるABCD包囲網での石油の対日輸出禁止措置」の前後の歴史の「線」のつながりを総体的に把握し整合性の上で理解して、「もともと日本が日独伊三国軍事同盟を締結して、日本が連合国側のアメリカとの敵対姿勢を鮮明にし、三国軍事同盟に基づいての日本軍の南部仏印進駐があったため、それへの対抗から後日、アメリカがABCD包囲網での石油対日輸出禁止の措置を行い、いよいよ日本は困窮して後の日米開戦が不可避になった」の歴史認識をなすべきである。

加えて、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期における国際連盟とワシントン体制に見られる集団安全保障体制の意味や、不戦条約に見られる侵略戦争の違法化による「穏健な帝国主観」へのルール策定努力の当時の国際政治のあり様も知って学んでもらいたい。

ある歴史の事柄だけを任意に取り出し、自国の日本にとってのみ都合の良いように勝手に解釈するような、こういったタチの悪い悪質な「トンデモ歴史」にダマされないようにして頂きたい。特にあまり歴史を知らない若い人達の耳目にそれら「トンデモ歴史」が触れ伝播して、「これこそが本筋の正統な歴史」と安易に信じ込まれることがないよう私は切に願う次第である。