アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(480)武内義雄「儒教の精神」(儒教を考える その1)

1938年に創刊され、その初期配本として戦前に刊行された旧赤版の岩波新書の中で、すでに80年近く経た今日の2020年代以降でもいまだ増刷され続け、多くの読者に広く長く読まれている新書がある。例えば、旧赤版の斎藤茂吉「万葉秀歌」上下(1938年)や、同じく旧赤版の鈴木大拙「禅と日本文化」(1940年)などだ。

今回の「岩波新書の書評」で取り上げるのも、同じく戦前発行の岩波新書の旧赤版で、こちらの新書はあまり世間的に有名ではないかもしれないが、私は日々愛読し、昔から良書であり名著だと強く思えるのである。岩波新書の赤、武内義雄「儒教の精神」(1939年)である。

本書は「儒教の精神」を明らかにするに当たり、周到な二部構成になっている。前半は、孔子が創始の儒教について、成立時の古代中国の春秋時代から宋代の朱子学と陽明学の展開に至るまでの中国の儒教の歴史を概観している。後半は、中国で成立した儒教が後に日本に伝わり、特に近世の江戸時代に幅広く展開した「日本の儒教」の各学派(朱子学、陽明学、古学)の歴史を概説する内容となっている。いうまでもなく「儒教」は古代中国の思想家である孔子の教えを継承し、発展させた思想学派の総称である。この儒教が後に学問的に体系化されて、儒教は「儒学」にもなった。

岩波新書「儒教の精神」は戦時の1939年に発行され当時、日本は中国と日中戦争(1937─45年)の最中であったから交戦国たる中国由来の思想である儒教に対し、「憎むべき敵国・中国の伝統思想」とか「近代化がいまだ果たされざるアジア諸国が停滞の主な要因」などと、戦時の日本人である著者の武内義雄から否定的に論じられているのかと思いきや、本新書を一読して誠に公平で、「儒教概論」のテキストとして今日でも十分に通用するであろう極めて適切な学術的記述だったので以前に初読の際、私は非常に驚いて痛く感動した思い出がある。この点は武内義雄と同時代人、例えば津田左右吉の、儒教を始めとした中国思想全般に対し戦時に痛烈な全面否定を展開させていた、かの「明治人に特有な脱亜的ナショナリズム」といわれるような当時の日本の知識人の一般的態度と比べて、武内義雄の中国の儒教思想に対する正当評価の公平な姿勢に大いに感心してもらいたい。

岩波新書「儒教の精神」の前半部分に当たる「支那(中国)儒教を論じた部分」は、本書内での著者の言によれば、以前に「岩波講座世界思潮」(1928年)のために「儒教思潮」と題して寄稿したものであった。ゆえに岩波新書「儒教の精神」は現在読み返しても、その考察内容は学術的に信頼できて有用である。だからこそ、武内義雄「儒教の精神」は、今の人にはあまり広く知られてはいない戦時の昔の岩波新書であるけれど、今日でも読まれるべき揺るぎない良書の名著と私には強く思えるのだ。

以下では、武内義雄「儒教の精神」にも一通り書かれてはいるが、本書を読む際の儒教に関する初歩の基本的な事柄を取り急ぎ簡略に示すことで、岩波新書「儒教の精神」への導入、ないしは儒教思想一般への紹介(イントロ)としたい。未読な方には、岩波新書の赤、武内義雄「儒教の精神」を実際に手に取り、是非とも読んで頂きたい。

「儒教の精神」における「儒教」とは、古代中国の「孔子」を祖とし、その孔子の教えを継承し発展させた思想・学派の総称である。

儒教─孔子を祖として、「徳治主義」(為政者みずからが道徳の修養を積んで徳を身につけ、それを周りに及ぼして人民を道徳的に感化することで国家を統治する考え。徳を身につけ道徳的な人格を完成させた、人民を治めるにふさわしい者を「君子」、また目先の利益のみを求める者は「小人」とされる)の立場をとる。孔子は人と人とを結ぶ親愛の情を「仁」と呼び、人が他人を尊重する態度や行動となってあらわれたものが「礼」(礼儀作法や社会規範)であると考えた。そして、権力による強制・抑圧に基づく政治の法治主義を否定し、「仁」の徳によって人民の心を感化し、「礼」によって人々の行動を整える「徳治主義」を説いた。

孔子の死後、その教えは孟子や荀子らによって継承された。特に孟子は儒教において、開祖の孔子に次いで重要な人物とされる。そのため儒教は別名で「孔孟の教え」ともいわれる。孟子はさらに「五倫」を説いた。五倫は儒教における五つの道徳法則である。「親・義・別・序・信」の五つの徳を指し、それぞれの徳目に対応した五つの具体的人間関係(人倫)が社会の基礎を形成するとされる。すなわち、「父子の親(親愛の情)、君臣の義(主君と臣下の礼儀)、夫婦の別(男女のけじめ)、兄弟の序(長幼の順序)、朋友の信(友の信頼)」の五つの人倫である。

また後に儒学者の董仲舒が、孟子の説いた「四徳」(仁・義・礼・智)に「信」の徳目を加えて、「五常」とした。五常とは「仁・義・礼・智・信」の五つの徳目であり、個人が修養を通じて備えるべき基本的な徳とされる。「五常」の徳性を拡充することによって、「父子・君臣・夫婦・兄弟・朋友」の人倫の道をまっとうすべきとされる。以後、「五倫五常」は儒教道徳の基本とされた。儒教は後の前漢時代に官学とされて以降、歴代王朝の専制体制を支える正統教義となった。

孔子─儒家の祖。春秋戦国時代末期の魯(ろ)の曲阜(きょくふ・山東省)の人(前551頃─479年)。周の政治を理想とし、魯の国政改革に参加したが失敗して諸国を巡歴した。後に帰郷して古典の整理や弟子の教育に専念。家族道徳の実践から「仁」の完成を目指す。「修身・斉家・治国・平天下」の道は、後に儒教の道徳政治の理念として定式化された。孔子の死後、弟子たちが編纂(へんさん)した孔子と弟子との言行録が「論語」である。「論語」は、儒教の四つの根本教典である「四書」(「論語」「孟子」「大学」「中庸」)の内の一つとされる。

さて、ここで儒教における「五倫五常」のそれぞれの五つの徳目から、実際に遵守することを厳しく要請される人間社会を規定する具体的人倫の五つを改めて確認してもらいたい。

「父子の親(親愛の情)、君臣の義(主君と臣下の礼儀)、夫婦の別(男女のけじめ)、兄弟の序(長幼の順序)、朋友の信(友の信頼)」

である。最後の「朋友」を除いて、その他の人倫が「父子・君臣・夫婦・兄弟」でことごとく先天的で固定的な人間の上下関係秩序の遵守を強いるものである。ここから「五倫五常」を人倫の基本道徳とする儒教の教義は、厳格な身分制度に基づく封建社会での上下貴賤の固定的人間関係を正当化し永続的に支える「封建制イデオロギー」となった。

孔子の創始で古代中国由来の儒教が後に日本に伝わり、近世江戸の幕藩体制下にて、「君臣の義」(主君に対する臣下の忠義)と「父子の親」(親の恩に対する子の孝行)を中心に説く儒教(朱子学)が、正統学問の「封建教学」として徳川幕府から重宝され儒教が時代の隆盛を極めるのは、このためである。林羅山ら江戸時代の儒学(朱子学)者により、君臣上下の関係は「上下定分の理」として封建社会下での固定的身分秩序の正当化がなされた。そうして儒教は徳川幕府の江戸時代を過ぎても明治期の近代天皇制国家にて、かの「五倫五常」の中の「君臣の義」「父子の親」は「忠」と「孝」の徳目に巧妙にそれぞれ言い換えられて、いわゆる「儒教主義」として、軍人勅諭と教育勅語の「絶対主義イデオロギー」の支柱ともなった。戦前の近代日本の軍人や日本の国民一般は、主君たる天皇に対し「忠」の徳目を尽くすべき「臣下」であり「臣民」の家臣なのであって、かつ家長である天皇を擬似的な親と見なして「孝」の徳目を以て天皇に報ずべき「赤子」の子であった。

しかしながら、孔子を祖とする儒教の成立から後の時代的展開を概観して、そもそもの開祖である孔子による儒教の本来性を見れば、孔子において儒教の基本徳目はどこまでも「仁」なのであって、孔子は人と人とを結ぶ親愛の情である「仁」の徳目を最重要視したのであった。この対等に人と人とを結ぶ親愛の情である「仁」が何よりも最初にあって、その「仁」の徳目から後発で自然ににじみ出るものが、人が他人を尊重する態度や行動となってあらわれた「礼」(礼儀作法や社会規範)である。この「礼」から、「君臣の義(主君と臣下の礼儀)や夫婦の別(男女のけじめ)や兄弟の序(長幼の順序)」らの人倫が副次的に自然と生じ成立するのであった。

儒教成立以前の中国の伝統思想にて、「仁」に該当するような何ら心からの親愛の気持ちもないのに、中身は空っぽで、しかし表面的にはあたかも手厚く礼を尽くし儀礼に即して恭(うやうや)しく応対したり、自身や祖先に対し、いかにもな恭順な態度で形式的な礼のみ尽くすのを他人に強要することの偽善の不毛を、孔子は身をもって知っていたのである。

今日まで一般に広く信じられており、また現実に深く機能していた、「仁」が看過され欠落して「忠」と「孝」の徳目が異常なまでに拡大解釈されている「封建制イデオロギー」として後に機能した儒教一般に対し、開祖である孔子の儒教の本来性に今一度立ち返って古代中国から近代日本に至るまでの儒教の歴史を批判的、問題史的に捉え直して頂きたい。このことを岩波新書の赤、武内義雄「儒教の精神」を始めとして、儒教に関する書籍を読む際には是非とも確認してもらいたい。 

そもそもの孔子が創始の儒教の基本徳目は「忠」や「孝」ではなくて、「仁」である。