アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(352)姜尚中「姜尚中と読む夏目漱石」(その2)(夏目漱石「こころ」を読み解く1)

前回、岩波ジュニア新書の姜尚中「姜尚中と読む夏目漱石」(2016年)についての書評を書いた。今回と次回と次々回の三回連続で姜尚中の新書から離れて、しかし同じテーマの夏目漱石について「岩波新書の書評」タイトルではあるけれども、例外的に岩波新書云々とは関係ない所で余興の遊びのつもりで軽く書いてみたい。

私はあまり人の来ない、つまらない書評ブログを今では細々とやっているが(笑)、漱石の「こころ」の読み解き解説に特化した、ついつい読んでしまう気になるブログが前からあった。「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」である。

ここで夏目漱石「こころ」(1914年)のあらすじを確認しておくと、

「私が鎌倉の海岸で出会ったその人は、いつもどこか寂しげであった。やがて私は、その人のことを『先生』と呼ぶようになる。私は先生と交流を始め、東京に帰ったあとも先生の家に出入りするようになる。先生は奥さんと静かに暮らしていた。郷里の父の病気の経過がよくないことから学生である私は帰省する。腎臓病が重かった父親はますます健康を損ない、私は東京へ帰る日を延ばした。実家に親族が集まり、父の容態がいよいよ危なくなってきたところへ、私の元に東京の先生から分厚い手紙が届く。手紙が先生の遺書だと気づいた私は東京行きの汽車に飛び乗った。その手紙には先生の悲しい過去の告白が綴(つづ)られていた。信頼していた人間に裏切られたことで体験した地獄。そして自分も親友を裏切ってしまったこと。先生は学生時代、下宿の主である未亡人のお嬢さん(後の先生の奥さん)と懇意であった。しかしある日、先生の親友であり同居人のKが先生に『お嬢さんに恋をしている』と告白する。先生はそんな純粋無垢なKに対して『精神的に向上心のない者は馬鹿だ』という一言を浴びせ、裏で未亡人にお嬢さんとの結婚を請い許諾される。気まずさを覚え先生はKに、このことを言えないでいた。そして先生より先に未亡人の口から先生とお嬢さんの結婚を知らされたKは自殺してしまう。Kを裏切り失望させ自殺へ導いたという自責の念は、最終的に先生本人を自死へと誘う」

(以下、「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」ブログでのブログ主様の読み方解釈を明かした「ネタばれ」を含みます。かのブログを未読の方は、これから新たに読む楽しみがなくなりますので、ご注意下さい。)

夏目漱石「こころ」は昔から学校教科書によく掲載されており、本作は「日本で一番読まれている小説」ともいわれる。そして結末の先生の自死について、「親友Kのお嬢さんを思う気持ちを知りながら、先生はKを出し抜いてお嬢さんとの結婚を取りつけ、結果Kを裏切り失望させ自殺へ導いたという自責の念により、最終的に先生もみずから死を決断する」とする解釈が一般的であり、またそれが正当な「先生が自殺した理由」とされている。

ところが、「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」のブログ主の方は次のようにいう。「夏目漱石『こころ』の主題は先生のエゴイズムや罪悪感ではなく、人間心理の二面性です」「『こころ』を巡る最大級の不思議は、『先生は自分のエゴイスティックな言動がKを自殺に追い込んだことに罪の意識を抱いて自分も自殺してしまう』という明らかな誤読が、百年以上も定説とされていることです」。そうして「先生が自殺した本当の理由」について、以下の主旨の解釈を力説するのであった。「先生の自殺の原因は、当時は異常心理・精神病理とされていた先生自身の生まれつきの資質であり、それは女性に性的欲求を感じないこと、つまりは先生は同性愛者(ホモセクシュアル)であり、先生は異性で女性の、かつての下宿先のお嬢さんで現在の妻である静ではなく、親友で同性の男性であるKの方を激しく愛しておりKの死にずっと苦しんでいたから」。

私は、この読解の読み込みは荒唐無稽で到底あり得ない「トンデモ解釈」だと思う。だいたい「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」の一連の解説記事を読んで、この方の夏目漱石「こころ」に対する読みの問題点として取り急ぎ次の二点を即座に指摘できる。

(1)「こころ」の書き手たる夏目漱石により設定された主題やあらかじめ決められてある小説結末ら、外部の作者・漱石から小説本体に及ぼされる作為を勘案しておらず、「こころ」という小説世界そのものを作者の漱石の創作作為から分離して一つの独立した、話の破綻や矛盾が全くない現実世界と同様な完全独立の世界と見なしている。そのため「こころ」作中の登場人物の各所での言動・心理の記述を論理的に精密に読み込んでさえいけば、全ての事柄を矛盾なく説明し尽くせるような正当な「真相」解釈にたどり着けると素朴に信じてしまっている。しかも、(2)その際の読み解き解釈の判断が、ことごとく強引に単純化された短絡的な二項対立の思考になってしまっている。夏目漱石「こころ」を読んでいて生ずる各種の疑問に対し、常に短絡的な二項対立思考で処する対立二項間での二者択一の連発にて安易に安直に解釈結論を導き出そうとする。

(1)に関連して、この方の「夏目漱石『こころ』パーフェクトガイド」の各解説記事を読んで私がいつも不思議に思うのは、この方は漱石の「こころ」は大変よく読んではいるけれども、「こころ」を読み解く際に必須と思われる、漱石の「こころ」以外の他作品についての言及考察がほとんどないということだ。「こころ」と同設定の男女の三角関係を描いた、前作の「それから」(1909年)や「門」(1910年)に関する言及指摘がない。さらには「こころ」(1914年)の次回作「道草」(1915年)についても触れていない。

というのも、夏目漱石は36歳で同人誌デビューという小説の書き始めが非常に遅い文学者であり、のちに朝日新聞専属の職業作家となったことから、新聞連載の「虞美人草」(1907年)より長期間のブランク(空白)なしに自身の小説家デビューの遅れを取り戻すかのように精力的に、ほほ休みなく毎年連続して作品を発表してきた。すなわち、夏目漱石の小説を連続で読んでいると漱石は前作で書けなかったことや前作を書いたことで新たに出てきた問題主題を次作に繰り込んで創作するような書き方を意識的に毎回していることに気付く。ゆえに夏目漱石に関しては前作と次作との関係性を見極めながら各小説を読む手続きは定石(じょうせき)であり、必須である。

(2)について。この方は自身の実人生の重大岐路の選択でも、日常生活の対人関係の各種場面での行動判断でも常日頃からそうなのか!?不思議なことに、ことごとく強引に単純化された短絡的な二項対立の思考にいつもなってしまう。夏目漱石「こころ」を読んで生ずる各種の疑問に対し、常に短絡的な二項対立で処する対立二項間での不自由な二者択一の連発で安直に解釈の結論を出そうとする。

例えば「こころ」作中にての、「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻以外の女はほとんど女として私に訴えないのです」という「女性にセックスアピールを感じない」旨の先生の告白をして、「先生は静も含めて女性に性的欲求を感じないと告白していますが、ならば一体誰に感じるのでしょうか?」と誘導する。そうして小説「こころ」の主題は人間心理の「表と裏」の二面性と断じた上で、「(表)─静、異性、心、神聖。(裏)─K、同性、肉、罪悪」の対照表を書いて、「先生が女性にセックスアピールを感じない理由は男性が好きな同性愛者だから」「先生は女性の異性で妻である静ではなくて、男性で同性である親友のKの方を愛していた」と後者の先生の「裏」の面を指摘し安易に即断してしまう。常識的に考えて「先生が女性に性的欲求を感じないならば、先生にとっての異性の女性の反対は同性の男性だから、よって先生は女性とは反対の男性が好きな同性愛者である」とするような機械的で単純な判断結論に普通はならない。人間の「こころ」は二項対立の対照表で単純処理して即断できる程、そこまで薄っぺらいものでは断じてないからだ。

同様に「先生が『子供はいつまで経ったってできっこないよ』といって、『なぜです』と私が黙っている奥さんの代わりに聞いた時、先生は『天罰だからさ』といって高く笑った」という作中場面での先生の発言から「子供はいつまで経ったってできっこない」理由に関し、「先生は同性愛者であり、女相手では性的不能でセックスレスだから」と、かのブログ主の方は解説している。しかし私が読む限り、先生夫婦に子供ができない理由は「同性愛者であるために先生は女性に対し性的欲求がなく、性的不能でセックスレスだから」というような、そんな肉体的で即物的な俗っぽいものではない。夏目漱石「こころ」をより丁寧に精緻(せいち)に読んで以下のように導ける。「先生夫婦に子供ができない理由」は、かつての下宿先のお嬢さんであり、今は自分の妻である静と自分と親友Kとの男女の三角関係から先生がKを死に至らしめた経験事実によって、先生は人間そのものの存在を我(エゴ)の「罪悪」と感じるような、ある種の「人間悪」の自覚に達しており、そのため異性の女性であろうと、仮に女性とは反対の性の男性であっても、そもそもの人間に対して性的に交わったり、心の底から相手を信頼することが出来なくなってしまった。またお嬢さんと一緒になることと引き換えにKを死に至らしめた自責の念から、先生は、夫婦間での自分たちの子供という新たな人間の生の誕生に精神的にも肉体的にも踏み切れず独り苦しんでいた、の解釈がより妥当である。

Kを死に至らしめた自身のかつての悪行為よりの自責の念が、夫婦間での新たな人間の生の子供の誕生に歯止めをかけていた。それが至極理の通った因果応報で極めて残酷な、生きている限り自分に生涯付きまとい自身が終生引き受けるべき「天」からの自然の「罰」、まさに文字通りの「天罰」であった。先生にはそのように強く感じられた。だからこそ、先生が言うには「子供はいつまで経ったってできっこないよ…天罰だからさ」。

少なくとも「先生が女性に性的欲求を感じないならば、先生にとっての異性の女性の反対は同性の男性だから、よって先生は女性とは反対の男性が好きな同性愛者であり、先生は女性に対し肉体的に性的不能でセックスレスだから先生夫婦には子供はいつまで経ってもできない」とするような即物的な解釈よりは妥当である。だいいち、よくよくじっくり考えてもらいたい。そもそも「先生が単に女性に性的欲求を感じなくて妻とセックスレスだから子供ができない」とするならば、それは先生のただの性癖の性的嗜好(しこう)の帰結でしかなく、「夫婦間に子供がいつまで経ってもできっこないこと」が先生が自身の人生で辛くとも終生、甘んじて受け入れざるをえない天からの自然の罰の「天罰」にならないではないか。

例えば私達は、人間の存在そのものが悪であり、まだ現時点での人類は「存在の革命」からして遥(はる)かに原始的で愚劣な幼少期の段階でしかないのであるから、そうした人間が子供を産み育てること自体を罪悪として、生涯自分の子供を持たず、妻が「あなたの子供を産みたいのです」と泣いて懇願しても拒否し続け、妻が妊娠した際には非情を貫いて何度も堕胎させた、「近代文学」同人で未完の長編小説「死霊」(1946─97年)を著した文学者の埴谷雄高の事例を知っている。生涯に渡り夫婦に子供がいなかったからといって、もちろん埴谷は同性愛的性癖の持ち主ではなかった。ある夫婦に「子供はいつまで経ったってできっこない理由」は、単に夫が異性の女性に性的欲求を感じない、つまりは夫が男性が好きな同性愛者であったからというような「女性に対し性的欲求がないならば、すなわち男性が好き」とする二項対立の短絡判断だけでは到底ない。ある夫婦に「子供はいつまで経ったってできっこない理由」には、その他にも「人間そのものに対する人間悪の認識の高まり」だとか、「男女の性を超えた所での人間一般への厭人感情の持続」など実に多様にあり得るのであって、人間の「こころ」は二項対立の対照表で単純処理して即断できる程、そこまで軽く見積もられるような薄っぺらいものでは本来ない。

(この記事は次回へ続く)