アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(435)廣瀬健二「少年法入門」

私は法学部出身ではないし、法律をそこまで専門的に学んだことはないので、日本における主要な6つの法律である「六法」のうちの刑法(犯罪に対する刑罰を定めた法律)と刑事訴訟法(刑事手続について定めた法律)に対し、それほど詳しく知っているわけではない。しかし社会人として刑法や刑事裁判について、さらにはそれら法律の背後に通底し法律を支えている近代的な「法の精神」とでもいうべきものに関して、それなりの常識的な知識と理解は有している。

そんな法律全般に専門外な私でも、テレビや雑誌などで流れる刑罰と刑事裁判についてのメディアの意見や世論の動きに驚き、思わず眉をひそめてしまう事がある。以前に私が相当に驚いたのは、光市母子殺害事件(1999年)をめぐり、当時よりタレント活動していた弁護士、後にある地方行政の長の政治家にもなったその弁護士がとあるテレビ番組で、被告を弁護する弁護団の弁論内容を批判し、被告弁護団の懲戒請求を一斉に弁護士会に出すよう視聴者に広く呼びかけ結果、多くの懲戒請求が殺到した事件(光市母子殺害事件弁護団懲戒請求事件・2007年)であった。

これは法を学び法律や裁判に関する知識を持ち、それら法を解釈し法を運用して主に法廷にて活動している弁護士ら、法曹関係者(裁判官、検察官および弁護士)として到底あり得ない許しがたい言動だ。このタレント弁護士は公的裁判制度や法律全般について何ら本質的なことを知らないのでは、の背筋が凍(こお)るような恐怖の思いが私はした。

裁判にて、どれほど重大犯罪を犯し逮捕・起訴されている被告でも必ず弁護団は付くし、その弁護団は被告を弁護し、無罪や減刑や情状酌量を法廷にて主張する弁護活動が認められる。そういった被告への弁護活動は裁判にて被告の権利として明確に保障されている。たとえ弁護団の弁論が法廷戦術としてあり、荒唐無稽で辻褄(つじつま)の合わない非合理なものであっても、被害者遺族を激怒させ遺族感情を逆なでするようなものであったとしても。そうでなければ、弁護がない被告となれば、検察と傍聴遺族と出廷参考人と法廷外の世論から一方的な袋叩きにあう集団リンチの吊(つる)し上げ裁判になってしまうからだ。

ゆえに弁護団は、時に精神鑑定を要求して被告の責任能力の有無を問うたり、犯行時の心神耗弱状態を主張したり、犯罪に至るまでの被告の不幸な生い立ちや厳しい生活環境を指摘して減刑や情状酌量を求めたりする。仮に地裁で死刑の極刑判決が出れば、死刑が回避されるよう高裁に控訴、さらには最高裁に上告するよう弁護団は被告に勧める。犯罪捜査や逮捕や刑事事件起訴の全ての過程で、被疑者には黙秘権(自分が供述したくない自身にとって不利益となる事柄は沈黙できる権利。および、その沈黙を理由に不利益を受けない権利)が保障されている。刑事裁判の被告にも尊重され認められるべき権利は当然あって、それらは被告に法的に保障されてあるのだ。

被告人の弁護という弁護団の職責を強制排除し、法廷における被告の弁護される権利を侵害することは絶対に許されない。たとえ被告の弁護団の弁論が法廷戦術としてあり、荒唐無稽で辻褄の合わない非合理なもので、かつ被害者遺族を激怒させ遺族感情を逆なでするようなものであったとしても、その弁論内容によって被告弁護団を無理矢理に黙らせたり、法廷から強制的に排除したりすることは出来ないし、そうしたことは許されない(絶対にやってはいけない)。弁護団の弁論内容が妥当かどうかの判断は、法廷外からの一般市民の弁護団に対する懲戒請求によるのではなく、法廷の中で最後に裁判官により結審時に判決と共に判断されるべきものである。

刑事裁判は、被害者当人や被害者遺族の無念を晴らすための単なる復讐の敵討(かたきう)ちではない。また明白に犯罪を犯した被告に対し、一般社会の人々が憎悪し他罰感情を爆発させ処罰して結果、「正義」の遂行に満足するものでもない。そうした被告に対する激しい怒りや他罰感情を爆発させ上からガツンとやって被告を叩いて厳しく罰すれば、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)で溜飲(りゅういん)が下がり良いかもしれないが、本来の刑事裁判とはそのような単純なものではない。犯罪被害者や被害者遺族の怒り、復讐で敵討ちしたい気持ちはもっともであるけれども、それは裁判にて最終的に判決の判断を出すための多くある内の、全体の中でのあくまでも一つの要素でしかない。様々にある内の犯罪被害者や被害者遺族の怒りの復讐感情だけで全て判断処理されてしまえば、「目には目を、歯には歯を」の敵討ちが内実の「報復裁判」になってしまう。そうした被害者遺族の感情立場も踏まえながら、同時に他方で犯罪を犯してしまった加害者当人の精神状態や性格資質や生い立ち事情らを考慮しなければならないし、また犯行の背景にある現代社会の問題など総合的に勘案して司法判決は法廷にて厳粛(げんしゅく)に下されなければならない。

最近では起訴する側の検察が法廷にて、「被害者本人と残された遺族の無念は計り知れない」などの文言を付して一律に厳罰を求めたりするが、あれは検察の思い上がりでしかなく、裁判における司法判断は被害者遺族の無念を晴らすためだけにあるのではない。他にも様々に総合的に考慮するべき要素が存在する。

このことでいえば、前述の光市母子殺害事件にて、被害者遺族が法廷外で連日マスコミ取材を受け、母子の遺影を携(たずさ)え涙ながらに死刑の極刑を執拗に訴えたりするのは、明らかにおかしい。特に陪審員や裁判員制度(民間から無作為で選ばれた陪審員や裁判員が合議体の評議により司法判断を出す制度)がある場合、大量にマスコミ露出した被害者遺族の復讐世論形成に扇動(せんどう)される形で、裁判での司法判断が暗に左右されてしまう可能性があるからだ。近年でいえば東池袋自動車暴走死傷事故(2019年)にて、母子を亡くした被害者遺族が連日メデイアに頻繁に登場し、母子の遺影を携え生前の母子の動画を公開して被告への厳罰を執拗に訴えるその姿に、かつての光市母子殺害事件にての法廷外でのマスコミを利用した被害者遺族による復讐世論扇動の危うさと同様のものを私は感じ、憂慮せずにはいられなかった。

先に述べた、「犯罪被害者や被害者遺族の怒り、復讐で敵討ちしたい気持ちはもっともであるけれども、それは裁判にて最終的に判決の判断を出すための多々ある内の、全体の中でのあくまでも一つの要素でしかない。そうした被害者遺族の感情立場も踏まえながら、同時に他方で犯罪を犯してしまった加害者当人の精神資質や生い立ち環境らを考慮しなければならないし、また犯行の背景にある現代社会の問題など総合的に勘案して司法判決は法廷にて厳粛に下されなければならない」旨で、特に被告が犯行当時20歳未満の未成年であった場合、その裁判判決に際しては格別の配慮を要する。被告がまだ10代の未成年であれば、当人の精神疾患の履歴や責任能力の有無、社会経験が少なく人格的に未熟である事情、直近の家庭での生育環境などが特に考慮され、総合的に司法判断されなければいけない。

少年法とは、未成年の者に関する刑事訴訟法の特則を規定した法律である。少年法では未成年者には成人同様の刑事処分を下すのではなく、未成年であることを踏まえて保護更生のための処置を下すことを規定している。その際には不定期刑や量刑緩和などの一定の配慮が求められている。未成年は年令若くまだ発育途上で人格的に未熟であり、成人同様に罰するのは不合理だからである。しかし、近年では犯罪の低年齢化と凶悪化という傾向を受けて、刑事処分の可能年齢の引き下げという厳罰化の方向での少年法改正や、遂には少年法そのものの廃止(「未成年だからといって少年法により刑罰に手心を加え制裁を軽くすると、該当の青少年が増長する」)という相当に雑な議論まで時に出ている。

「少年法があるため、これくらいの犯罪を犯しても死刑の極刑にはならない。不定期刑ですぐに社会復帰できる」と見越して、犯罪に手を染める不遜(ふそん)な未成年者も一部いる。これは成人への刑事裁判判決で過去判例に基づく永山基準(日本の刑事裁判にて死刑を選択する際の量刑判断基準のこと。一般に殺人事件にて、被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑、2人ではボーダーラインとされる)を知って、「最悪、逮捕されても死刑判決は出ない」と前もって踏んで犯行に及ぶ成人の事例と同じだ。だが、日本の裁判制度は昔から判例主義の前例主義であって、過去の判例との整合性も考慮されなければならないので、そういった輩(やから)に過剰反応し、「刑罰が軽いと犯罪者にナメられて増長される」云々で少年法を始めとして果てしなくあらゆる法の厳罰化を進めていくというのは、「相手にナメられたら終わり」のチンピラ思考に他ならないのであるから今日、少年法を含め刑事処分の厳罰化に安易に乗り出すことに私は反対である。刑法の厳罰化が、そのまま犯罪抑止につながるかの議論は昔からされているが、法の厳罰化が犯罪抑止には必ずしもつながらないの見解指摘は法律の専門家にて事実、多くある。