アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(436)細谷史代「シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり」

私は前からずっとやってみたくて昔、一回だけやったことがある。寿司屋に入り大トロを食べビールを飲みながら、詩人でありシベリア抑留帰還者であった石原吉郎の「望郷と海」(1972年)を読み返してみたかったのだ。誠に不遜(ふそん)で、亡くなった石原本人や石原吉郎の関係者からお叱(しか)りを受けるかもしれないが、一度はやってみたかった。そして、それをやった時のあの奇妙で複雑な心持ちの感触を一生涯、私は忘れることはないだろう。

石原吉郎は詩人であり、シベリア抑留帰還者であった。「シベリア抑留」に関しては、以下のように簡略にまとめることができる。第二次世界大戦の敗戦時、満州ら主に中国東北地域にて武装解除し投降した多くの日本軍捕虜は、ソビエト連邦からシベリアなどへ移送隔離され長期に渡る抑留生活と奴隷的強制労働を強いられた。このシベリア抑留により、多くの日本人がロシアの地で命を落とした。投降した日本人兵士は強制収容所(スターリン体制下にて、ソ連国内の政治犯や敵国の捕虜を囚人として収容し思想矯正を行う施設)に隔離収容され、満足な食事や休養も与えられず、極寒ロシアの極限の環境下にて材木伐採や鉄道敷設の苛酷労働を長期間に渡り強要されたのであった。

こうした強制収容所(ラーゲリ)での自身の苛酷体験を告白した「収容所文学(ラーゲリ文学)」とでもいうべきものが、かつてナチスのドイツ支配下にて弾圧を受けたユダヤ人や、旧ソ連のスターリン体制下にて「反革命分子」の政治犯として粛清(しゅくせい)された旧ソ連の人々らにより一時期、多く書かれ、非人道的な20世紀の人類の苛酷体験を記録した文学の一分野として後に確立した。詩人でシベリア抑留帰還者であった石原吉郎が復員後に書いた「望郷と海」も、日本人の手によるそのような収容所文学の代表的な名作であると言ってよい。

石原吉郎(1915─77年)は静岡県伊豆の生まれ。東京外国語大学ドイツ部に進学し、在学中はエスペラント語も学び、また詩作や批評の文芸にも励んだ。大学卒業後は民間企業に就職し、後に洗礼を受けキリスト者になっている。そして1939年に応召され帝国陸軍に入隊。石原は外国語大学卒業の経歴から語学優秀であり、ロシア語が出来たため対ソ諜報でハルピンの関東軍情報部に配属される。その後、1945年8月、石原吉郎は29歳の時にハルピンにて日本の敗戦を迎え、同年に石原はソ連軍により逮捕。日本への帰国は許されず、そのままロシアに移送され、多くの日本人捕虜と同様、石原もシベリア抑留にて収容所に拘束され強制労働を余儀なくされる。ただ石原吉郎はロシア語通訳として関東軍情報部に所属していたことから、スパイ罪の戦犯として「有罪」宣告の上での懲役刑の強制労働であった。ゆえに一般の日本人抑留者は戦争捕虜に準じる扱いを受けていたが、スパイ罪の戦犯で懲役刑に処されていた石原の待遇は、通常のシベリア抑留者よりも厳しかったようである。だが、他方で石原はロシア語が出来たため、日本人グループの代表となって監視のソ連兵と交渉の末、収容所内での句会の文化活動なども率先し行った。

そうして1953年12月、石原吉郎はついに復員した。日本の敗戦の1945年からロシアに強制移送され抑留で留め置かれ強制労働に従事させられて、すでに八年の年月が経っていた。今日「詩人・石原吉郎」の名は私達に広く知られているが、日本に帰国当初の石原は当時、大勢いたシベリア抑留帰還者の内の無名の一人でしかないのであって、他の抑留帰還者同様、石原も職を探せど敗戦後の混乱の中で見つからず。ロシア語を始め語学が出来たことから、通訳・翻訳の職種での事務職を見つけるも、当の石原吉郎からすれば「自分が就職し、自分が職場で頭角を現した代わりに同僚が馘首(かくしゅ)され失職する。そのように他人を押しのけてまで自身の職を得たくはない」旨から自主的に退職してしまう。肉体労働に関しては「身体的に働けはするが、かつてのシベリア抑留時の苛酷な屋外労働の記憶が思い起こされ精神的に苦痛で肉体労働そのものに激しい嫌悪を抱く」旨の理由から長期に渡り就労できず。もうこれは、かつてベトナム戦争や湾岸戦争に従軍した米国兵士の間で近年、大きな社会的問題になっている戦争帰還兵に特有の精神的外傷(ストレス)による社会復帰が困難な社会不適応病例の典型症状である。専門の医療従事者による投薬治療やカウンセリング、ならびに国による経済面での公的援助の物心両面からの支援を要する深刻な事態に他ならない。ところが、戦後日本の多くのシベリア抑留帰還者と同様、石原吉郎も戦争の後遺症に人知れず苦しみ、日本の戦後社会の中で新たな時代の流れに乗れず、疎外され孤立していた。

そこで生活のために詩作を始めて懸賞投稿し、またシベリア抑留の自身の苛酷体験も文筆して、それが戦後の日本文学文壇や出版編集者や一般読者に注目され認められる。詩人であり、シベリア抑留帰還者であった石原吉郎の文学的名声は日に日に高まっていった。しかし当の石原本人は、かつてのロシアでの抑留体験を書くことが苦痛で仕方がない。執筆の度に石原は足裏に血豆ができ、それがつぶれて足が血だらけになるまで歩き続けたり、日々飲酒していないと自身の精神を保つことが出来ないような、ほぼアルコール中毒に近い状態になっていた。食事も取らず深酒し、体調を崩して入退院を繰り返す石原へ、知人からの「とにかく酒を断って生きなくちゃいけない」の説得に対し、「生きて、どうすればいいの」と晩年の石原吉郎は答えたという。もう肉体的にも精神的にも相当に疲弊して、追い詰められたギリギリの状態にまで石原は来ていた。

1977年11月、石原は自宅の浴槽で亡くなっているのを、電話に出ないことを心配した知人の訪問により発見される。発見された時、石原は死後一日以上経過していた。飲酒した上で風呂に入ったことが原因の急性心不全とみられている。62歳没。石原吉郎には最期まで苦しい苛酷な人生であった。

以前に石原吉郎「望郷と海」を初めて読んだ時の、生と死の人間実存を考えさせられ心をわし掴(づか)みにされて震撼するような、あの衝撃を私は忘れることができない。石原「望郷と海」は、昔は高校の現代文教科書に教材として載っていた。高校の国語教科書に掲載されていたのは、石原「望郷と海」の「確認されない死のなかで」の部分であったと記憶している。なるほど、石原吉郎「望郷と海」の中でも最良の本当に最高な読み所の箇所を抜粋し掲載している。教科書編集者の抜粋選択眼は非常に確かで優れている。「確認されない死のなかで」の、あの「胴がねじ切れたまま営倉に無造作に放置されている一人のルーマニア人の死体」の衝撃光景の描写はとても印象深く、石原「望郷と海」の幾つかあるクライマックスの読み所のヤマの内の一つではある。

石原吉郎「望郷と海」に関しては、極寒ロシアの強制収容所内での寒さ、飢え、極度の疲労、それに糞尿と嘔吐物にまみれた、人間の尊厳など微塵(みじん)も認められない苛酷な生活環境と強制労働のシベリア抑留体験に加えて、石原がシベリア抑留の厳しい強制労働環境の中で生き延び、ロシアから日本へつながる「海」を日々眺めては日本への引き揚げの「望郷」の思いを重ね、ついに念願かなって日本へ帰国した後、日本の親族たちから彼はどのような仕打ちを受けたのか。旧ソ連共産党の「アカの手先」と疑われ、親族から絶縁を突き付けられる石原吉郎「望郷と海」における苛烈な「望郷」の結末を、私は多くの戦後の日本人に知ってもらいたい。石原にとって誠に辛(つら)かったであろう「望郷」の結末に、「望郷と海」を読み返し石原吉郎のことを思うとき、いつも私は心痛むのである。