アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(3)ウルフ「どうしたら幸福になれるか」(その1)

ウルフ「どうしたら幸福になれるか」上下(1960、1961年)は、岩波新書の昔の青版である。いわゆる「幸福論」「人生論」に属する類(たぐ)いのものだ。先日も、ある芸能人がアランの「幸福論」(1925年)を挙げて「私の人生を変えたおすすめの一冊」と言っていたが、どうも私は昔から「幸福論」や「人生論」には非常に違和感がある。

そもそも「幸福」は規範でない。どんな状態状況下でも、その人が主観的に「自分は幸せで幸福」と思えは「幸福」になる。そして往々にして、そういった「幸福」追求の際には他者への配慮を決定的に欠く。極端な話、他人を踏みつけにして自身や自分たち家族や仲間らがエゴイズムの発露で欲望充足を満たして快適に過ごし、時にえげつないこともやって適当に金儲けをし人生を謳歌(おうか)して、それで「幸せ」、すなわち「幸福」論という線も成立するわけだ。「幸福になりたい」「幸せな人生を送りたい」と素朴に願う幸福論の「幸福」というのは当為や規範ではなく、かなり幅広くゆるく特定の状態状況を「幸福」と勝手に呼んで、他者のことは全く眼中になく単に自己満足の自己充足しているだけの可能性が大いにある。加えて「繁栄」や「平和」も、「幸福」と同じく規範ではない。単に状況を勝手にそう呼称しているだけだ。端から見て「ぜひとも幸せになりたい」「幸福な人生を送りたい」と素朴に言ってしまう、その無神経さに腹が立つのと同じくらい、あまりにも当事者本位な他者の相手が見えていない本当に勝手気ままな実におめでたい主観的思考である。

毎年8月15日に「全国戦没者追悼式」が開かれると天皇はなぜか「世界の平和と繁栄を願います」の式辞を毎回、述べる。あれを私は聞いて、いつも不快に思う。「繁栄」など他者や他国や他民族がどうあれ、彼らを踏みつけにして支配して略取しても同時に成り立つ状態だ。否(いな)、むしろ歴史を学んでいる者なら知っているはずで、他者の他国の他民族を支配し略取してこそ初めて過去の大日本帝国の自国の「繁栄」はあったわけである。「繁栄」というのは、他人の犠牲の上の自分たちだけの安楽独占のケースがかなりの確率を占める。一般に多くはそういった状態を「繁栄」と呼ぶのである。そういうことを何ら深く考えることなく、素朴に「世界の平和と繁栄を願います」などと言う。

同様に「平和」も規範ではなくて極めてゆるく、いい加減に状態について勝手に言っているだけだ。政治権力があまりにも強圧的で力で凌駕(りょうが)して押さえつけることができている専制支配の場合には、反体制の内乱も起こりようがないから抑圧されていると同時に、なるほど「平和」である。例えば現在の北朝鮮は、かなりの独裁・強圧政治で監視体制の圧政を敷いているから反乱やクーデターの内乱など起こりようがなく、本当に「平和」だ。

過去の十五年戦争時の前半、日本の大陸侵出で日本軍が連戦連勝で調子がよいときは、十五年「戦争」の最中であっても当時の多くの日本人の意識や認識は「平和」である。アジア・太平洋地域の人々を踏みつけにして現地支配していても、戦勝による好景気で日本国内の明るいムードで「繁栄」の「平和」だ。それで多くの日本人が「これは平和ではない」と危機感を持って身に染みて感じるようになるのは、いよいよ自分たちが今度は逆に被害をうけて生命や財産の危機を初めて身近に感じるようになってから、つまりは日米開戦の太平洋戦争の末期、それも十五年戦争の本当に最後の最後の方で沖縄陥落、本土爆撃、東京大空襲、広島と長崎への原爆投下があって初めて「これは平和ではない。まぎれもなく戦争だ」と思い至る。だから戦後の反戦平和運動にてクローズアップして語られるのは主に自分らが被害を被った対アメリカ戦の、それもいよいよ日本の敗戦濃厚な本土空襲のケースに異常に偏(かたよ)り限定して、せいぜい被害者意識を丸出しの「多くの日本人が空襲で亡くなって家も焼かれて、だから戦争はよくない」の「反戦」止まりである。正確には「自分たちが負けて被害者の犠牲になる形の戦争だけは嫌だ」の「厭戦」止まりだ。十五年戦争の前半の大陸侵出で日本が加害者で調子がよかった時のことは「戦争」の戦時ではない。素朴に自分たちに実害の被害が出ない場合には、アジア・太平洋地域の他者を踏みつけにして他人の犠牲の上で自国の「繁栄」を謳歌していても救いようがないくらい、どこまでも日本人は主観的に「平和」であった。

「幸福」も「繁栄」も「平和」も規範や当為ではなくて当人の恣意的な主観の認識の思い込みで、他人に危害を加えても犠牲を強いても、いくらでも人間は「幸福」になれるし「繁栄」も「平和」も手に入れられる。そこには他者への視線や配慮が致命的に欠けている。同様に「人生」も、人それぞれが生まれ置かれたその人なりの環境条件や状況からの制約があって、「人生論」などで一概に大ざっぱに人の人生も語れないだろうと私は思う。ゆえに「幸福論」や「人生論」という冠のつく用途の書籍は、胡散臭(うさんくさ)くて非常に怪しいのである。規範と状態との区別や他者に関しての考えが、そもそも浅くて決定的に致命的に考えなしだから正直、馬鹿らしくて私は最初から真面目に読む気になどなれない、昔から定番とされているアランの「幸福論」などは。

しかしながらウルフの「どうしたら幸福になれるか」は先日例外的に読んだので、その書評を書こうと思ったのだが、前提の「幸福論批判」の話がはからずも長くなってしまったので(笑)。その内容はまた次回に。