アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(13)花崎皋平「生きる場の哲学」

本を読む意図からして、内容重視で書かれている論旨や論述展開や細かな情報そのものに関心の価値がある場合もあるが案外、内容などどうでもよくて著者の人柄に魅せられ、その本の書かれていること全般に心惹(こころひ)かれる場合もある。また、そういった著者の個性の人柄がにじみ出た本の場合には、しっかりした論文集や完成した小説ではなくて、その人主宰の雑多なバラエティ・ブックのような、論文があり書評があり創作もあり、インタビューもあれば対談もあるし複数参加の座談もある、著者本人とその人の師や友人らが多く出てきて内容も様々でなかなか要約しづらい幕の内弁当のような雑多な内容構成ではあるが、しかし著者の人格の人柄で全てがつながっている、そうした体裁の本が多い気がする。

岩波新書の黄、花崎皋平(はなざき・こうへい)「生きる場の哲学」(1981年)も著者の魅力がにじみ出た内容雑多な著者主宰によるバラエティ・ブック的本で、私は一読後にも昔からなぜか強く印象に残ってしまう看過できない新書なのである。「あとがき」にて著者の花崎が書いているように「この仕事は、わたしのはじめての書き下ろし」であり、「お読みくださった方のなかには、小冊子のわりには内容があれもこれもと欲ばりすぎ、詰め込みすぎではないかとのご批判がありそうに思えます」で、確かに内容は「欲ばりすぎ、詰め込みすぎ」で話もあちらこちらに飛んでスッキリとした要約や書評は困難な一冊だ。具体的にどういった所がこの本の良さなのか、また逆にどういう所が難点なのか、バランスシート的に無理をして指摘しようと思えばできるのだろうけれど、そういった細かな事はどうでもよい。

岩波新書「生きる場の哲学」は副題が「共感からの出発」となっている。原理的にいって「共感」というのは社会的弱者、現代社会にて抑圧された人達、底辺にいることを余儀なくされている人々に対する人間的な、ある種の精神的感応なのであり、そういった姿勢の出発点となる「共感」すべき人々が本書には多く登場する。例えば、アジアの底辺の生活人民ら生活ぎりぎりの水準のその日暮らしを強いられる人々、日本国内の在日朝鮮人やアイヌの人達、ベ平連の同志、伊達火力発電所建設反対運動の地元の住民(著者は北海道在住で伊達火力発電所反対運動に参加している)、広島や長崎の原爆被害者、水俣の患者ら、成田の東京国際空港建設反対の三里塚・芝山連合空港反対同盟の同志らである。

花崎皋平はマルクス「ドイツ・イデオロギー」(1845年)の訳者でマルクス主義者なので、「共感」や「思いやり」を説く際にそれが「思いやりイデオロギー」になること(「思いやり」の優しさや同情を表面上示しただけで、不均衡で非人道的な現実の過酷な支配体制の改革に何ら乗り出さず、そのまま現状維持の態度を貫くこと)を十分に警戒する氏の態度を最低限、確認した上で後は本書を自由に思う存分に読み散らかしたい。社会的弱者に対する「共感」や「思いやり」強調で陥るイデオロギー的罠を、とりあえず確認しておきたい。すなわち、

「共感は、現代の日本国では『思いやり』イデオロギーとして、階級融和の幻想に人びとをからめとるために使われてもいる。功業をなしとげたブルジョアジーの代表者やそれに尻尾をふる学識経験者たちによって、きまったようにくりかえし、この『思いやり』精神が鼓舞される」

他者への「共感」や「思いやり」が治者によりイデオロギー的教説に使われることに対し警戒を露(あらわ)にする、いかにもマルクス主義者らしい文章ではないか。マルクス主義の良いところは、ある思想や言説に対し、近接して内在的に読み解き明らかにしつつも、次の瞬間には即反転して今度はかなり離れた遠方からその思想言説が時代状況の中で果たすイデオロギー的役割を総体的に冷徹に捉えることができる遠近の自在性にある。

ただ、この花崎に限っては社会的弱者や社会の底辺の人々と接するうちに「言語の過剰を批判して、身体性を軸とした思想を組み立てる、さまざまないとなみ」を学んだ結果、私は「理性への信頼、知識と技術の習得を至上の価値のようにいう…『マルクス曰く』の自分の文章がはずかしくなった」とまで述べているから、さらにマルクス主義の理性的言説を離れ射程の広いより遠くへ踏み出していることも確かだ。しかも、この人はもともと北海道大学の教授であったのに中途退官し、一市民として執筆したり地域の運動に参加したりしているから、氏の実際の生活において氏が言うところの「保身と出世」を投げ棄(す)て自身の生活を賭(か)けて、そして人間が生きて生活する場の「根拠地」の根っこは大切にする他者との「共感」や「思いやり」の内実、花崎が発する言葉の文章の重みは果てしなくどこまでも重い。定年まで待たずに自主退官し、大学での「保身と出世」の道を絶っての市民運動・地域活動への献身というのに私はひたすら頭が下がる思いである。

また「共感」や「思いやり」について、自身の経験からその大切さを主観的に延々と循環的に語る独りよがりの説教にならず、ルソーの「憐れみ」やスミスの「共感」の概念定義に言及して内容を深める学問的裏付けある記述もよい。それからルソーやスミスから経済学史のスミス研究の内田義彦、社会科学のヴェーバー研究の大塚久雄に話が広がっていくのだ、これが(笑)。この辺り、著者による内田義彦のスミス論の読解解説は花崎皋平「生きる場の哲学」の読み所ではないかと思う。

最後に、この「共感」や「思いやり」をめぐる今日的課題について私が気になることを軽くまとめておくと、社会的弱者や底辺の人々に対し「共感」や「やさしさ」を持つことは思想や理念の点からして何ら異論はない。ただ思想の言葉以前の肉体や感性や感情の次元からして、どうしても「共感」の「共生」では認められない言語以前の他者に対する違和や時に不信の思い(特定人物に対する生理的嫌悪や苦手の意識で、どうしても馴染めない人の存在など)が、人により内心生じてしまうことも確かだ。こうした「共感」や「共生」に関する「実感からして自分としては、どうしても連帯できない人達が世間には少なからずいること」について、言葉以前の限界を冷静に了解しておくことも大切だ。

しかしながら、その一方でそういった「共感」の齟齬(そご)の感性的・感情的違和を異常に拡大解釈し、「やはり共感など所詮は理想論のキレイ事のウソ。人間は本来的に自分の事だけが大切なエゴイスティックな存在でしかない」と開き直る露悪な本音主義が社会世論の本流になってきつつあることにも注意したい。加えて現代国家や企業資本は「共感や共生を『思いやり』イデオロギーとして、階級融和の幻想に人びとをからめとるために使う」など、そんな遠回しで回りくどい面倒なことは今の時代にはやらない。例えば、隣人への家族愛や郷土国家への「思いやり」の愛国心で人々を国家主義に動員したり、職場での「思いやり」封建的人間関係のパターナリズムの強要で現状の過酷な労働環境を正当化して労使関係の対立緩和を謀(はか)ったりなど、現在の国家や企業は、そうしたことはしない。むしろ、前述の露悪な本音主義に乗っかって共感・共生よりは個人のエゴを称揚した上で、社会的弱者擁護よりは今や「公正な」競争是認や「社会的弱者になるのは自己責任」の自己責任論の横行にて当たり前の階層秩序強化の方向にシフトで、社会的弱者の救済や社会の底辺の人々との連帯可能性は常につき崩されつつある。共感・共生成立の契機は現在、非常な苦境に立たされているといってよい。

そういった思想理念の言葉以前の「共感」への個人の感性的な違和の問題、それにつけ込んで共感・共生を全否定する露悪な本音主義の社会的風潮と、さらにその「所詮、人間はお互いに分かり合えないエゴイズム単体」の開き直り本音主義な社会風潮に便乗して人々の共感・共生の連帯を挫(くじ)く、現代国家や企業資本のあり様にどう対処し対抗していくか。共感や共生の問題は、静的で固定的な定番紋切りの説教テーマではなくて、時代状況や社会的趨勢(すうせい)、国家や企業資本のあり様の、いわゆる「相手の出方」を見定めてから対応する極めて状況的で流動的な思想的課題である。「共感」と「共生」の重要性をただただ固定的に説くばかりでなく、時代の風潮や国家・企業資本への動的対抗事案をいかに勘案し自らの「共感・共生の哲学」の内に繰り込むか、花崎皋平にとっても私達にしてもいい加減ひとつの考え所ではないかと思う。

「生きる場の哲学・共感からの出発」(1981年)から、この後も「アイデンティティと共生の哲学」(1993年)や「共生への触発・脱植民地・多文化・倫理をめぐって」(2002年)など「共感・共生の哲学」を一貫してブレずに唱え続ける花崎皋平であるから、そのような時代状況の中での動的対抗事案たる「共感・共生」の思想的課題への戦略について、後の氏の著書にて果たして言及があるかどうか、もし言及があるとしたらどのように扱われているのか各自、追跡し見極めると面白いに違いない。