アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(15)篠田浩一郎「小説はいかに書かれたか」

岩波新書の黄、篠田浩一郎「小説はいかに書かれたか」(1982年)は、古書店巡りをしていると行く先々の古書店にて重複して非常によく見かける新書である。発行部数が多く岩波新書の中では当時かなり売れた書籍なのか。もしくは本書は大学の文学講義にてテキストに指定されたり参考文献に挙げられたりで、そのため一時期、多くの学生が購読していた背景があったのかもしれない。

とりあえず一読しての感想は「難しい」。ただ「難しい」の一言に私の場合は尽きる。そのように「難しい」と感じてしまうのは、本書における「小説はいかに書かれたか」に関し、その副題である「『破戒』から『死霊』まで」での著者により提示される小説の具体的方法論の読みが、おそらくは一般の人が日常的に普段読んでいる小説の「読み」と明白に異なるからに相違ない。少なくとも私の日常的な小説の「読み」とは確実に異なるので、本書にて展開される「小説はいかに書かれたか」での読みは私には「難しい」と感じられてしまうのだと思う。

一見「形式と内容の二元論」を古いものとして排しながら、しかし著者による「形式の変革はおのずから小説の、いわゆる内容の変革をも果たしているはずであり、…その言語によって表現されたものは新しい時代の歴史的問題性を内に胎(はら)んでいるはずだという確信」から、本書では小説の形式(文体、物語構成、表現技法など)にこだわり、形式を入口にして作品の内容に迫る方法論のアプローチとなっており、一般の人が日常的に小説を読んで時に話の筋を追跡して熱中したり、読後感を反芻(はんすう)したりで楽しむ通俗的読みとは明らかに異なる。なるほど普通に考えて、人は自身で思っている頭の中の小説構想を言葉に託(たく)して無制約に自在に物語を書けるわけでは決してなく、あらかじめある小説の形式たる言葉の文体や物語構成や技法の制約に最初から引きずられ先天的に限定され、そういった形式に半(なか)ば依拠しながら「不自由」に発想し構想して小説を書いている。だから「形式と内容の二元論」にて、とりあえずは形式への着目と検討から入り次第に小説内容そのものを詰めていく文芸批評の順序は妥当であると、私は深く納得する。

さて本書は、副題の通り「『破戒』から『死霊』まで」の明治以降の日本近代文学を扱っており、全部で四つのパートからなり、各パートにて二つの小説を挙げ論じていく構成となっている。パートⅠでは島崎の「破戒」(1906年)と漱石の「明暗」(1917年)を挙げる。島崎藤村「破戒」における二葉亭四迷の言文一致の影響、タイトルや登場人物の名の付け方の考察である。夏目漱石「明暗」での「文学論」の方法論、連想論と暗示論の分析が述べられる。パートⅡでは、志賀の「暗夜行路」(1937年)と有島の「或る女」(1919年)を素材にして志賀直哉「暗夜行路」での三人称から一人称への人称変更の書き換えの結果、自己の言語を他者の言語に化そうとする企(くわだ)て成否の見極めをやる。また有島武郎「或る女」での自然把握、前半の擬人法多用から後半の擬人法回避への転回を日本の近代化の問題に結びつけて論ずる。

パートⅢからは、これまで論じてきたパートⅠとⅡでの自然主義や白樺派や新感覚派に対し、それら旧来文学を超える試み、文学の歴史的発展の評価軸が新たに加えられ、葉山嘉樹「海に生くる人々」(1926年)と横光利一「上海」(1931年)での「話すように書く」近代口語文から「書くように書く」記述文体への転換、プロレタリア文学の従来的な形式論への反抗、自然主義や新感覚派の文体からの離脱を述べる。また葉山は文学以前の生活にぶつかったが、横光は文学以前の生活に欠けていたとする両作家のコントラストを指摘し、小説記述への影響をも示す。さらにパートⅣでは戦後文学、「近代文学」同人の野間宏「真空地帯」(1952年)と埴谷雄高「死霊」(1946年)を現代小説と規定し、二葉亭以来の言文一致体の文章(近代小説)とは別の次元の「新しい小説」(現代小説)と評価する。野間の「真空地帯」での複数の時間と階層に基づく複雑視点の組み合わせの小説構造分析をやる。そして、その階層の複数視点の不統一を戦中の日本の軍隊や戦後日本の中での天皇制の巧(たく)みな内在的存命に結びつける。他方、埴谷の「死霊」での複数の語り手の文面登場による複数の客観的視点の転換、生の彼岸の死の側から人間を見つめる逆発想の存在論を指摘する。

本書の執筆にあたり、「私の年来のテーマである、私の呼ぶ『内在的天皇制』、すなわちこの日本人の集団的深層心理がやはり言語のレベルから出発してどのようにして作品化され、その作品のなかに内在化しているか」の著者の問題意識に加え、「現在説話の記号学は構造(化)分析、読解、またナラトロジーなどに分化しながら未開の分野として開拓されているが、私が本書で用いた方法はこのいずれもの発想をとりいれながら、しかし専門用語の使用などをできるだけ排しつつ、こうした発想にも慣れていないごく一般の読者に十分理解できしかも興味をもって読めるよう配慮したつもりである」と著者は述べている。著者の中にある「内在的天皇制」といった、ある意味、日本の「近代」に対する問題意識を共有し、しかも同時に記号論や物語の構造分析など「脱近代」のポストモダンな新しい方法論にも精通していなければ、おそらくこの「小説はいかに書かれたか」は、まっとうに読めたことにならない。

加えて、「破戒」から「死霊」まで小説を未読の読者にも分かるよう工夫して記述した旨を著者は述べているが、しかし本書の深い理解のためには扱われている当該作品をあらかじめ読んだ上で本新書に当たることが望ましい。確かに最後の埴谷雄高「死霊」は難解で長編なため読むのが大変なのだが、この「小説はいかに書かれた」上梓の1980年代は埴谷の「死霊」も第三章までしか発表されておらず、本書でも第三章までの扱いなので、まだ短編感覚で軽く読めると思う。

以上の点を考えると繰り返しになるが、やはり一読して「難しい」の感想に私はなってしまう。ただ私のような文学の素人で日本の近代文学における近代天皇制についての問題意識が希薄で、また記号論やテキスト解体のポストモダン思潮にも全く不慣れで日々、自己流読書で勝手に楽しんで小説を読んでいる一般の平凡読者にとって、本書にてやられているような小説の書き手により事前に十分に練られ考え抜かれた物語の複雑な構造に気づくとか、巧みな表現技法の効果を見切る、形式により制約され制限された小説内容の限界を見届けるといったことは偶然に意識的にできることはある。しかし、それは本当にたまたまの幸運でしかなく、毎回高い精度でもって確実にできる訳ではない。

「プロの文芸批評家や文学研究の人達は、日々こういうような問題意識を持って分析的に小説を読んでいるのだな。一般の人が日常的に楽しんで読む『趣味は読書』のお気軽でお手軽な読み方とは違うのだ」といった小説の読みの深さの別次元の可能性を改めて読者に知らしめてくれる書籍、そういった岩波新書の黄、篠田浩一郎「小説はいかに書かれたか」についての感想の結論である。