アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(19)原武史「昭和天皇」

一概に「昭和天皇」について論じるといっても、あらゆる視点からの切り口が実に様々にあるわけで、岩波新書の赤、原武史「昭和天皇」(2008年)は 、そのままそれだけの「昭和天皇」の漠然タイトルだが、しかし一読して本書の内容を押さえるなら戦前・戦中から戦後の時系列に沿って皇太子時代から摂取就任、天皇即位から崩御までの昭和天皇の生涯を宮中祭祀の観点から一貫して「昭和天皇」について明らかにしようとする新書である。

「新嘗祭、神武天皇祭など頻繁に行われる宮中祭祀に熱心に出席、『神』への祈りを重ねた昭和天皇。従来ほとんど直視されなかった聖域での儀礼とその意味に、各種史料によって光を当て、皇族間の確執をも視野に入れつつ、その生涯を描き直す。激動の戦前・戦中から戦後の最晩年まで、天皇は『神』に向かって何を祈り続けたのか」(表紙カバー裏解説)

確かに「皇族間の確執をも視野に入れつつ」で、長兄の昭和天皇と三兄の高松宮との間で皇位継承や日本の終戦処理をめぐる確執など、昭和天皇に関する評伝や研究にて前から広く言及される内容が本書にて述べられており、皇族内の兄弟関係は終始良好には落ち着かず必ず不穏な空気の波風が立ち、普通の一般家庭にもありがちで案外に俗っぽく、「なるほど、確かに昭和天皇は人間らしい。はからずも天皇の神格否定」である、私の感慨として。ここに「新日本建設に関する詔書」(1946年)における「天皇の人間宣言」の代替のようなものを勝手に読み込んでしまうのは不敬であり、不遜(ふそん)であろうか。

本書を読み進めて行くと、さらに生母・節子(さだこ)、すなわち大正天皇の皇后・貞明皇后(ていめい・こうごう)たる皇太后と皇子の昭和天皇の親子間の不和が明かされる。皇太子時代の若年の頃からスポーツや生物学研究や近代都市計画に夢中であった昭和天皇に対する生母・皇太后からの苦言があった。ヨーロッパ訪問後の帰国で、英国王室の影響を受けて、後宮の改革など宮中の近代化に着手する昭和天皇への皇太后からの批判もあった。後の対米英戦にての戦争継続や敗戦後に退位を勧める皇太后との対立もあった。いつの時代でも皇子の昭和天皇と生母の貞明皇后の関係は確執の不和である。

何よりも本書のテーマである「宮中祭祀」のあり方をめぐっての昭和天皇と貞明皇后の対決があった。昭和天皇も戦時中や戦後の壮年、晩年期には宮中祭祀に非常に熱心になるが、皇太子時代の若年の頃は日本の皇室伝統の祭祀儀礼には比較的淡白であり、宮中祭祀を疎(おろそ)かにして大正天皇の代役を果たさずにいた。それで皇太后が、昭和天皇の宮中祭祀への「形式」的態度に「神罰」を匂わせて、あからさまに激怒する。「たしかに明治天皇や大正天皇のときと比べれば、昭和天皇が出席する旬祭の数が増えた分、親祭の回数は増えたように見えるが、…皇太后は『形式』だけにとどまる天皇の祭祀に対する態度を批判し、『真実神ヲ敬セザレバ必ズ神罰アルベシ』と話しているのである」(82ページ)。

昭和天皇は、宮中祭祀に関し生涯を通して熱意の濃淡があり、壮年期の戦時中には、若年期とはうって変わって前からの皇太后の期待に沿う形で非常に熱心に祭祀儀礼に打ち込む。すると若い時とは違った皇太后同様に負けず劣らずの昭和天皇の宮中祭祀への積極性から、今度は皇太后との間で「祭祀権の主導をめぐる争い」になってしまう。「『かちいくさ』を祈る皇太后は、戦況の悪化に反比例するかのように、神がかりの傾向を強めつつあった。天皇は、そのような皇太后に手を焼きつつ…太平洋戦争期の天皇は、宮中祭祀を継続しながら祭祀権を事実上皇太后に奪われる格好になっていた」(142ページ)。やはり昭和天皇と貞明皇后は戦時中も、またもや一貫して確執の不和なのである。

さて、原武史「昭和天皇」は、天皇を論ずる際の切り口のテーマである「宮中祭祀」と、天皇の生涯を時系列にて記述する章立て構成からして昭和天皇の宮中祭祀への取り組みの内実の時代的変遷が最大の読み所である。ここでいう「天皇の宮中祭祀への取り組みの内実」とは、すなわち、先に引用した表紙カバー裏解説の結語「天皇は『神』に向かって何を祈り続けたのか」、つまりは「天皇による神への祈り、祈願の具体的内容とは何か」である。

この点に関し、十五年戦争後半の日中戦争勃発と対米英開戦の戦中、それから敗戦を受けての戦後の時系列に沿って、(1)当時の戦況や政治状況に対する天皇のその時々の意向、(2)その都度「天皇は『神』に向かって一体、何を祈り続けていたのか」祈りの内容、そして(3)「昭和天皇」に対する著者・原武史のコメント記述、以上の3点を押さえ主要なものを本書から便宜、書き出してみると、

1937年10月17日、日中中戦争勃発後の神嘗祭(かんなめさい)にて、当時の新聞報道によれば「天皇陛下は東亜の平和確立を御祈願遊ばされた、…恭しく時局の安定を御祈願遊ばされ…」。昭和天皇は、日中戦争にて「重慶に兵を集め大打撃を加えたる上にて、我が公明なる態度をもって和平に導き、すみやかに時局を収拾するの方策なきや」(「昭和天皇独白録」)と話した。「天皇は日中戦争でも必ずしも米英との衝突を恐れて戦争の早期終結を主張していたわけではなく、その前に中国軍を叩くことが必要という認識を抱いていた。『東亜の平和確立』『時局の安定の』ためには、戦争の勝利という重大な条件が付いていたのである」(109・110ページ)

1939年9月1日、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。東アジアでは日中戦争の長期化に伴い、後に日独伊三国同盟の締結に続いて、1941年12月1日の御前会議にて米英およびオランダとの開戦が決定、12月8日に太平洋戦争が勃発した。宣戦布告から日本軍は戦闘各地にて連戦連勝の破竹の勢いであった。側近の木戸幸一の回想によると、「大東亜戦の緒戦の成功は誠に目をみはらせるものがあり、その為め国民の間には政府の宣伝なども手つだって聊(いささ)か戦勝気分に酔ひ安易な考えがあるように私には見えた」。

1942年3月9日のジャワ島占領に際し、昭和天皇は「余り戦果が早く挙(あが)り過ぎるよ」(「木戸幸一日記」)と上機嫌に語った。1942年2月18日、「天皇は戦勝第一次祝賀式に際して、再び正門鉄橋に白馬に乗って現れ、宮城前広場を埋めつくした十数万の人々の歓呼に応えた。日中戦争における漢口陥落のときと全く同じパフォーマンスを行った天皇は、漢口陥落のときと同様、『神の御加護』による戦争の勝利を確信していたに違いない」(127ページ)

しかし、戦局の転機となる1942年6月のミッドウェーにおける劇的敗北を経て、次第に日本の戦況が悪化してくると1942年12月12日、天皇は極秘に伊勢神宮に参拝した。当時の侍従・城英一郎の、この日の日記には「御告文緒戦の戦勝を感謝、非常の国難に御身を以て国民を率ひられ、尚将来の神明の御加護を祈念あらせらる」。「天皇はひそかに、伊勢神宮に戦勝祈願の参拝をした」(127ページ)

さらに一向に好転しない悪化の一途をたどる戦局を受け、1944年2月11日、天皇は宮中三殿で紀元節祭を行った。当時の侍従・尾形健一の日記によれば、「時局ヲ特ニ御軫念(しんねん)アラセラレ御告文ニ戦勝祈願ヲ併セ行ハセラレタリト洩レ承ル」。「(天皇は)戦況が好転するよう、『御力、御救』を祈願したということだろう」(134ページ)

けれども続くサイパン陥落にて日本の連敗の劣勢は止まらず、いよいよ敗色濃厚ななか戦争の即時終決をはっきり主張し進言した近衛文麿の「近衛上奏文」に対し、「近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めたが良いと云ふ意見を述べた。私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当ではないと答へた」(「昭和天皇独白録」)と天皇自身が後に回想している。昭和天皇はどこまでも強気である。1945年3月6日に日光に疎開していた皇太子へ出した手紙にて、「空襲見舞ありがたう。戦争は困難ではあるが、最善の努力と神力によって時局をきりぬけやうと思つて居る」と書いた。

1945年4月に沖縄本島への米軍上陸、本土への米軍の空襲が激しさを増すなか、「天皇の戦争継続の意思は揺るがなかった。天皇は、たとえ沖縄戦に敗れても、『唯一縷(いちる)の望みは、ビルマ作戦と呼応して、雲南を叩けば、英米に対して、相当打撃を与へ得るのではないか』(「昭和天皇独白録」)と考えていた」(145ページ)。

1945年6月14日、天皇は大宮御所に皇太后を訪問した。訪問前から「御気分悪しくならせられ」「御嘔吐」した天皇は皇太后と会見後、倒れるように床に着き二日間にわたり寝込む。その一週間後の6月22日、天皇自らが召集した最高戦争指導者会議の席上、天皇は従来の方針を転換し直ちに戦争の終決工作に着手すべきと意思表示した。1945年8月10日、御前会議にてポツダム宣言受諾の「聖断」を下す。同夜、天皇は宮内省にて「終戦の詔書」を録音した。

1945年9月1日、宮中三殿にて祭祀を再開する。当時の侍従・徳川義寛の回想によると、「この時の御告文はもちろん表には出ていません。でも、終戦の詔書を踏まえて作られていて、『国民と共に再建に歩む』との趣旨が入っていました」。「徳川の回想から推測する限り、御文告には自らの戦争責任を問う言葉も、退位に触れる言葉もなかったと思われる」(152ページ)。

1945年11月13日、天皇は伊勢神宮を参拝した。1942年12月12日の戦勝祈願から、ほぼ三年ぶりの参拝であった。当時の侍従・木ノ下道雄の日誌に記録されていた昭和天皇の発言は、「神の御力によりて国家の再建と世界平和確立に尽くさんとす」。また昭和天皇の同発言として、「戦時後半天候常に我に幸いせざりしは、非科学的考え方ながら、伊勢神宮の御助(たす)けなかりしが故なりと思う。神宮は軍の神にあらず平和の神なり」というものもあった。「天皇は、三年前に自らが伊勢神宮で行った祈りを、明らかに反省していた。…しかし、『軍の神』であろうが『平和の神』であろうが、『神の御力』にすがる発想そのものは、敗戦前と少しも変わっていない」(155・156ページ)

以上、原武史「昭和天皇」からの書き抜きにて明確になるのは次のようなことだ。十五年戦争後半の日中戦争勃発から対米軍開戦を経て、後に日本がいよいよ敗戦濃厚になるギリギリの時期まで、つまりは沖縄本島への米軍上陸があり、本土に連日連夜、米軍の空襲があり、日本の国民の生命や財産が相当な危険にさらされ甚大な被害があっても、終戦の1945年8月の二ヶ月前の6月の時点まで昭和天皇が実は相当な強気で戦争継続への意欲を持ち続けていた。しかし終始確執不和があった生母の貞明皇后への1945年6月14日の訪問に臨んで、その直後に何らかの理由で寝込み(皇太后による天皇への詰問や互いの口論が原因と考えられる)、昭和天皇の中でかなりの劇的な心境変化があり、その一週間後に自らが召集した最高戦争指導者会議の席上にて従来の戦争継続の立場を転回させ、終戦工作の指示を初めて公に意思表示した。皇族内の母子関係にて確執があった皇太后との会見後に寝込むという案外に私的な契機にて、天皇の戦争への姿勢意欲の方針は「徹底抗戦の継続から終戦工作の模索へ」と大きく転回したのである。

加えて、本書のテーマである「宮中祭祀」にて、その都度「天皇は『神』に向かって何を祈り続けたのか」。天皇による神への祈りの具体的祈願の内容は、神嘗祭、紀元節祭、伊勢神宮参拝にて戦中は「神の御加護」「御力、御救」「神力」など緒戦勝利の戦果の僥倖(ぎょうこう)であった。昭和天皇の祭祀の祈りは、どこまでも「戦勝祈願」である。ところが敗戦を迎え戦後になると天皇の神への祈りの内容が激変し、今度は「国民と共に再建に歩む」や「神の御力によりて国家の再建と世界平和の確立」の国家の再建、世界平和の実現のための祈りに変わる。「戦勝」から「平和」へ全く正反対に神への祈りが変貌する。あげくには、そんな祈る主体の天皇の変化に合わせる形で祈りの対象たる肝心の神、伊勢神宮の神さえも戦中の「軍の神」から戦後には「平和の神」へと昭和天皇の言説により実に都合よく強引に変えられてしまう(「神宮は軍の神にあらず平和の神なり」)。恣意的な自己解釈によって、伊勢神宮の「神」の性格すら勝手に変更できてしまう「全能な」昭和天皇である(笑)。

なるほど、そもそも祈願の祈りというのは非常に個人的で内面的な精神行為であり、ゆえにまさに宗教的行為なのであって、何かを祈り続けている人に関し、その人が実際に神に向かって本当は何を祈っているのか、実のところ無心に祈ってる当人以外には誰も分からない。祈りの内実は客観的に外から見えず、他人が確認しようもないのである。だから「神に何を祈るのか」、祈りの内容は本人の都合により実は案外、当人の内面にての恣意的操作で自分本位に勝手に祈願内容を巧妙にズラしたり、時に大きく転回させたりで、いくらでも自由に変えられる。

そして本書記述にあるように、敗戦後に側近の木戸幸一や長年に渡る確執があった生母の貞明皇后、宮中関係者と皇族から「第一に皇祖皇宗に対して、第二に国民に対して責任をとるには退位しかない」旨の戦争責任の追及により、昭和天皇が暗に退位を周囲から迫られる窮地に陥った際、「天皇が神に戦勝を祈り続けた戦中期の祈りを悔い改め、平和を祈り続ける決意を固めていたとすれば、退位しなくても責任をとる道が開けることになる」(159ページ)。「神の御力にすがる発想そのもの」の、神への祈りの主体の祭祀の姿勢は戦前・戦中からそのままに戦後まで一貫して連続させ、しかし、その小手先の神への祈りの内容だけ「戦勝祈願」から「世界平和の確立」へ変えることで昭和天皇は退位で責任をとることなく、むしろ「世界平和」を神に祈り続ける天皇として退位を封じて留位を果たす。昭和天皇は、戦後も引き続き自身の地位を確実なものにできた。さらには、

「天皇は、マッカーサーとの第三回会見で、『日本人の教養未だ低く且つ宗教心の足らない現在』という言葉を用いたほか、徳川義寛にもしばしば『宗教心を持たねばだめだね』『こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ』と語っていたという」(175・176ページ)

敗戦直後のマッカーサーとの第三回会見での昭和天皇の語り、「日本人の教養未だ低く且つ宗教心の足らない現在」という言葉に加え、「こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ」←(笑)。戦時中には何度も継続して「戦勝祈願」で神に祈って宗教心の祭祀にあれほど熱心だった昭和天皇の、戦後に神への祈りの内容を「世界平和の確立」に卑劣に恣意的に変更したからでこそできる、かつての敵、米軍のマッカーサーの前での昭和天皇の語りである。戦時中に何度も継続して「戦勝祈願」で神に祈って宗教心の祭祀にあれほどまでに熱心だった昭和天皇が、敗戦後には「こういう戦争になったのは、宗教心が足りなかったからだ」←(爆笑)

岩波新書の原武史「昭和天皇」を読んだ上での、戦前・戦中から戦後を通して「天皇は『神』に向かって何を祈り続けたのか」の昭和天皇による継続した宮中祭祀、神への祈りに付きまとう自己本位な胡散臭(うさんくさ)さの欺瞞の疑いは果てしなく強い。本書を通しての宮中祭祀に関わる昭和天皇に対する不信の思いを私はどこまでも拭(ぬぐ)えない。

著者の原は本書にて、その他、昭和天皇の祈願の優先順位が常に「第一は万世一系の皇祖皇宗で、第二に国民」であり、ゆえに戦時中は国民の生命よりは「三種の神器」の国体の死守を終始優先させていたこと、同様に戦後においても天皇の「主観的な」戦争責任の謝罪は、あくまでも皇祖神や「英霊」に対してであり、一般国民や侵略されたアジア・太平洋地域の人々に対する天皇の責任意識は極めて希薄であったことに再三、触れている。特に「第一は祖宗、第二に国民」の昭和天皇の優先順位については、執拗に原は何度も繰り返し述べて「天皇の戦争責任」の文脈にて昭和天皇を厳しく糾弾しており、右派や国粋主義者、熱烈な天皇支持者や皇室崇拝者らにとっては大変に耳の痛い内容となっている。さらには、著者の前仕事「可視化された帝国」(2001年)での近代の視覚上位の「可視」=見る文化に依拠した「国体」の視覚化や、元号制定や国体歴史の再編による空間支配にとどまらない「時間支配」など、近代天皇制国家による民衆の内面収奪支配の問題についても頻繁に言及されている。

岩波新書の赤、原武史「昭和天皇」はコンパクトな新書ではあるが、一読後の感想として大変に中身が濃い力作の良著であるといえる。