アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(23)大庭健「善と悪」

岩波新書の赤、大庭健「善と悪」(2006年)の副題は「倫理学への招待」で、本書の概要は以下である。

「道徳的にみて『善い』『悪い』という判断には、客観的な根拠はあるのか。『赤い』『青い』などの知覚的判断や、『酸性』『アルカリ性』などの科学的判断とはどう違うのか。その基準となる『道徳原理』は、どのようにありうるか。ソクラテス以来の大問題を、最新の分析哲学の手法を用いて根底から論じ、倫理学の基本を解き明かす」(表紙カバー裏解説)

この概要にて注目すべきは「最新の分析哲学の手法を用いて」という点であり、本新書は「倫理学への招待」の倫理学入門の体裁をとってはいるが、一口に倫理学といっても実は「分析哲学」の立場から述べられたものである。そこで「分析哲学とは何か」あらかじめ分析哲学の特徴や長所と短所を押さえた上で本書に臨むのが好ましい。本書が「倫理学への招待」の倫理学入門であるにもかかわらず、一読して「難しい」と感じられるなら、それは分析哲学の厳密な手法に由来する「意味のある難しさ」であって、そのことを最初に繰り込んで「この本は分析哲学の書だ」と理解し正当に読まれなければいけない。

分析哲学とは、論理的言語分析の哲学で、神学や形而学的な倫理学的言明の真理性に頼らずに論理経験主義の意味による検証可能性より思考の明晰化をはかる実証主義伝統の哲学である。分析哲学の特徴としては、まず何よりも大論理の形而上哲学の否定があり、神学を絡(から)めた伝統哲学への批判で論理的言語や自然科学の方法に依拠した「日常言語の哲学」を志向する。そのため、こういった性質をもつ分析哲学が隆盛するのは、先天的な理のイデアを想定するギリシア哲学やヨーロッパの大陸合理論やドイツ観念論と対立するイギリス経験論とアメリカのプラグマティズムが主流である。分析哲学が盛んなのは、神学の形而上学とは疎遠な英米の哲学風土においてであり、事実、分析哲学は現代ではイギリス、アメリカ、カナダ、オーストラリアの主に英語圏にて研究される傾向にある。今日、アメリカにて大学教育に採用される哲学といえば、おおよそ分析哲学である。近年に流行したアメリカのサンデルの正義論「ハーバード白熱教室講義録」(2012年)、あれなどは笑ってしまうほどの典型的な分析哲学だ。

分析哲学の方法論的特徴は言語分析や概念提示を主な道具とする。「分析哲学」とは、その呼び名の通り、言語の論理分析こそが哲学の仕事だとする考え方である。よって議論の流れにおいて、概念定義の論理構造をはっきりと提示し、言語表現の範囲内での問題提起をやり、それら概念同士の同一差異を分析し指摘する手続きを通して考察を論理的に前に進める。分析の正しさの基準として思考実験をしばしば用いたり、時に経験科学の知見を取り入れ議論を展開させる。

分析哲学の長所といえば、従来哲学のように伝統哲学の権威や神学的な直観啓示の先天的な形而上学に一切頼らず、経験的事実をひたすら積み重ねて、明晰な論理的言語分析によって厳密に哲学議論を進めることである。この点において分析哲学は、無駄に深遠で時に神秘主義でもある形而上学的な難解イメージや実質を持つ従来哲学への対抗批判となりうる。分析哲学は論理的で有用、日常に近い哲学を志向する。そして精密な立論議論にて非常によく出来た詰め将棋のように「こう来れば、こうなり、よってこういった結論が導ける」云々で筋道立てた相当に説得性ある哲学議論を展開させることができる。

加えて便宜、極論な想定例の思考実験をはさみ、時に社会の身近な倫理事例の問題(ケーススタディ)の解決策を対話・討論を通して共に考える。例えばサンデルの有名な「トロッコ問題」のような究極の選択問題など。ある事柄に関し、分析哲学の常套(じょうとう)で厳密な概念定義を細かな場合分けを介してやり、またさらに類似対照な別の概念を提示し、ぶつけ比較考量させることで、これまで単独個別で漠然と理解し考えていた事象や問題が俄然(がぜん)明確に意識化され物事の理が、はっきりしてくる効能が分析哲学の何よりの魅力だと思う。

しかしながらその反面、毎回厳密で細かい論理の議論を苦労して追跡し読むわりには結論が常識的で保守的すぎる。「ここまで大袈裟にさんざん煽(あお)って引っ張って分析議論してきて最後の肝心の結論がそれ!?」的な肩透かしの感は正直、残る。分析哲学は宗教をかませず神学の形而上的な先天性を一切頼りにせず、経験主義的な言語分析の概念種別と論理主義で攻めるため、最終的に前提事実の素朴な再確認や常識的な有用性の観点からする無難な合理判断で終わる場合が多い。ラディカルな変革性に明らかに欠ける。私の感慨として哲学の倫理学にて、例えば「正義」を論ずる場合、その「正義」の正統性根拠は宗教的な形而上学の自然法や人権思想といった普遍的先天的な真理をまず想定し、その抽象原理からアプリオリに現実に天下って適用させる思考を取らない限り、せいぜい「最大多数の最大幸福」のような経験事実に基づく功利主義的で有用な現実に即した合理的判断、ラディカルな変革性に欠ける案外、常識的で保守的なものに落ち着くしかないと思う。

また分析哲学的手法にて問題意識のはっきりしてない下手な人がやると雑多な概念定義の紹介羅列に終始し、確かに新しい概念提示もあり、詳細に厳密に条件付けや場合分けをして述べ非常に専門的な哲学の思考分析のように思えるけれども、結局のところ「結論は何なのか、何のための厳密分析な概念提示の議論だったのか」表層の哲学硬派なイメージ(?)とは裏腹に本質的な中身の議論が空洞なことが論者によって時に多いことも確かである。

さて大庭健「善と悪」の肝心の内容は、「道徳的にみて『善い』『悪い』という判断には、客観的な根拠はあるのか」について、道徳的特性を細かに分析し、その特性の特徴を幾つか挙げたり「道徳的判断」に「科学的判断」を持ってきて両者の概念相違を対照考量し、「善悪や正邪の希薄な評価語」と「正直不実、親切冷酷の濃密な評価語」の概念対比をやったり、「投影主義」や「道徳的感受性」の概念を紹介して概念定義の論理構造をはっきりと提示し言語表現の範囲内での問題提起、それら概念同士の異同を分析し指摘することで考察を論理的に前に進める。まさに分析哲学の典型手法だ。最後に与えられる結論よりも、そのソツのない周到で手慣れた中途の厳密な議論の過程こそが本書の何よりの魅力であり、最大の読み所だと思える。

他方、「道徳的な善悪の基準となる『道徳原理』はどのようにありうるか」の最終的な結論に関しては、「道徳原理」はある、ただしそれには「普遍化可能性」(「道徳的原理が、原理としての普遍性をもつためには、その原理を主張する人の立場・置かれている位置が変わったとしても、なお同じように主張できるのでなければならない」)と、「不偏性」(「ある命題が道徳結論であるためには、その命題の論拠が、不一致を生むような特殊な信念・価値観にもとづいていないという条件を満たしていなければならない」)という適用形式の前提と価値内容の正統性の2つの点を兼備していなければならないとする。そして、その「道徳原理」とは「最大多数の最小苦悩」、つまりは「全体として、最も多くの人のより深刻ないわれなき苦悩が減るようにするものは、善い」という著者の結論である。

何だかイギリス経験論、ベンサムとミルの「最大多数の最大幸福」の功利主義哲学を勝手に薄めて造語したような(笑)、著者による「道徳善」に関する結論「最大多数の最小苦悩」であり、「『道徳原理』は、どのようにありうるか。ソクラテス以来の大問題を、最新の分析哲学の手法を用いて根底から論じ、倫理学の基本を解き明かす」と最初にさんざん大風呂敷を広げていたわりには「肝心の結論はそれ?」の肩透かしの感は正直、残る。道徳的に「善い」ことの内実が「いわれなき苦悩の減少排除」といった常識的な有用性の観点からする消極的な合理判断で、ラディカルな変革性に欠ける倫理学、案外に保守的なものに落ち着く読後の落胆を私は否(いな)めない。しかし逆に、そこが分析哲学の倫理的考察の堅実さの良さと言えないこともない。道徳的な「善と悪」に関し、精密に着実に言語論理的な分析を重ね最低限、確実に指摘できる本質要素を煮詰めに煮詰め結晶化し純粋原理として抽出すると、その倫理的命題は「最大多数の最小苦悩」になるということか。

著者は非常に親切な方で、最終章の第七章の結語にて「これまでの考察によって明らかになってきた善悪の輪郭(りんかく)」として、本書での議論の要点を箇条書き形式で5点に分け列挙し、まとめてくれている。その結語を初めに読んで結論を知った上で逆算して改めて最初から読むのも、岩波新書の大庭健「善と悪」をスムーズに理解するための有効な一つの手立てかと思われる。