アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(28)武谷三男「原子力発電」

2011年、東日本大震災にて福島第一原発で放射能漏(も)れ事故が起こる。その福島原発の過酷事故を受けて以後に私は改めて読み返した原発関連の書籍が多くあり、自身の無知からそれら書籍に今更ながら新たに教えられ学ぶべき事柄も多々あった。そういった原発関連書籍の中の一冊、岩波新書の青、武谷三男「原子力発電」(1976年)は比較的古い本である。

本書は、日本の原子力エネルギー政策に異論を唱え方針転換を迫る、いわゆる「反原発」の立場に属する論旨となっている。ただし明白に反原発の主張なのだけれど、本文中にて著者の「日本の原子力エネルギー政策に反対」の立場は直接的に露骨に主張されない。その代わり「原子力発電」そのものの原理的・構造的問題や海外原発での事故の実例報告、戦後日本の原子力政策の課題について、おそらくはどんなに上手くやっても到底、解決克服できないであろう山積課題や根本的問題を「これでもか」と多方面からデータや実例にて、どこまでも冷静に客観的に提示しながら、例えば「このような、これまでの産業・経済の政策から生じている社会のひずみ、エネルギー消費の不健全さ、電力会社の親方日の丸な体質が改める方向に進まない限り、私達は求める解決からどんどん遠ざかってゆくであろう」(203ページ)といった抑制の効いた表現にて「原子力発電」そのものを遠回しに、しかし確実に否定する。

主観的な「反原発」の強い主張を直接的に書き入れるよりは、あえて主張なしで山積課題や根本問題のみを客観的に淡々と提示し積み重ねることにより反原発立場の説得性を出す。おそらくは事前に非常に戦略的に練(ね)られ考えられた上での記述と思われる。その説得力ある巧妙な論じ方が、まずは本書の読み所だ。

同様に冒頭の「序にかえて」にて原子力の軍事利用への反対、被爆国・日本の広島と長崎での教訓を生かし、「原子力の平和利用は、…原水爆を克服しない限り人類のものとはならない」、よって冷戦下にて大国が核武装の今日「日本のような被爆国の小国が原子力の平和利用の主導権をとるべき」とし、「私は一九五二年二月『読売新聞』に、日本も実験用原子炉をつくって、平和目的の技術のための研究をはじめるべきだと提案した」(9ページ)と武谷三男は書いている。しかし「どこまでも平和利用目的に限る」という日本の原子力体制の原則を明確にしないまま、1954年に当時の改新党(後に自民党総裁になる)中曽根康弘を中心に原子炉予算案が衆院に出され通過し、中曽根が「学者がぐずぐずしているから、札束で頬をひっぱたくのだ」と述べたような早急で強引な政府与党の原子力政策推進に、武谷は不信を抱く。また同年に起きたビキニ水爆での第五福竜丸被曝の事件、さらにはこの頃から次第に各地で高まりを見せる全国自治体住民の公害反対運動、これら軍事核の将来的利用と明確に切り離さない政府与党の原子力政策に対する不信と戦後日本の反核平和運動と公害反対運動を背景に武谷は、ついには原子力反対の立場に至る。

最初から「原発反対の結論ありき」なのではなく、実は初めは「日本も実験用原子炉をつくって、平和目的の技術のための研究をはじめるべきと提案した」武谷であったが、次第に反原発の立場に転回していく自身の過程遍歴を戦後日本の反核平和運動や公害告発の市民運動の社会問題に絡(から)めて時系列で客観的に淡々と書き入れる。「序にかえて」にての武谷の書き方も説得力を出すための、これまたよく事前に非常に戦略的に練られ考えられた上での記述だと思われる。

その上で続く本論にて「原子力発電」について、発電の仕組み、原発の構造、核燃料処理・再利用サイクルのクローズド・システムの現実不可能性、原発「安全」基準認定のカラクリ、放射能の人体への影響、原発事故の被害想定など、専門家の科学的見地から「原子力発電」の問題を一般読者に分かりやすいようデータ数値や図表を便宜、交え厳密・丁寧に説明記述していく。加えて、日本の原子力政策の平和利用目的ではない戦略核転用への可能性、日常的なデータ改竄(かいざん)、人為ミスや事故を隠す原子力委員会と電力会社の隠蔽体質、政府や業界に都合のよい科学者・技術者のみで構成される原子力委員会の人選、英米政府と原発メーカーによる海外からの官民一体売り込み圧力に翻弄される日本の原発振興、「資源乏しい日本の自力エネルギー政策の切り札」になるとは到底、思えない日本の原発の海外依存度の高さ、原子力発電の経済的効率性、他の発電方法と原子力発電との比較、下請けの重層による原発現場労働者の過酷環境、原発立地の集中にて地域住民が被る重い負担など、原子力行政の社会的問題にも踏み込む。

本書は武谷三男編「原子力発電」で武谷による編であって、実は武谷の単著ではない。すなわち「われわれ原子力安全問題研究会(幹事・武谷三男、小野周、武谷三男、中島篤之助、藤本陽一)は一九七二年から毎月討論をくり返し、岩波書店の雑誌『科学』に七四年まで二年間にわたって原子力安全問題のさまざまな問題についての論文を連載した。…その編集の過程で、われわれの間で、一般向きのよみやすい本を至急につくる必要が痛感された」(205ページ)。そして、武谷編「原子力発電」の執筆者らが望む本新書の好ましい読まれ方とは、「この書が各地の住民運動のテキストになることを期待するだけでなく、金力にあかした間違った宣伝が横行するなかで、原子力発電のような重大な心配のある問題に対して国民の冷静な眼をやしなう一助になればと願うのである」(206ページ)。本書は「原子力発電」の問題に関し、科学的、社会的あらゆる観点からの論点課題を漏らすことなく、ほぼ網羅で挙げ新書の一冊にコンパクトにまとめており、確かに原発建設受け入れ是非をめぐる学習会での「各地の住民運動のテキスト」としての活用にも非常に有用だ。原発問題に初学な方にも最適である。

2011年に東日本大震災にて福島第一原発で放射能漏れ事故が起き、福島原発の過酷事故を受けて以後、改めて原発関連書籍を昔のものも含め私は、それなりに集中して読んだ時期があった。なかでも1976年に出された岩波新書の武谷三男「原子力発電」は、その際に初めて読んで「いわゆる2011年の福島以前に、ここまで的確に原発の諸問題を圧縮網羅で指摘し看破した良書が上梓されていたとは」という初読にての驚きの感想である。