アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(29)島薗進「国家神道と日本人」

岩波新書の赤、島薗進(しまぞの・すすむ)「国家神道と日本人」(2010年)の概要は以下である。

「戦前、日本人の精神的支柱として機能した『国家神道』。それはいつどのように構想され、どのように国民の心身に入り込んでいったのか。また、敗戦でそれは解体・消滅したのか。本書では、神社だけではなく、皇室祭祀や天皇崇敬の装置を視野に入れ、国体思想や民間宗教との関わりを丹念に追う。日本の精神史理解のベースを提示する意欲作」(表紙カバー裏解説)

本書は五つの問いかけ表題で「国家神道」の定義と形成過程、用語法、三区分の時代的変遷の内容からなる全五章にて構成されている。すなわち「第一章・国家神道はどのような位置にあったか?宗教地形」「第二章・国家神道はどのように捉えられてきたか?用語法」「第三章・国家神道はどのように生み出されたか?幕末維新期」「第四章・国家神道はどのように広められたか?教育勅語以後」「第五章・国家神道は解体したのか?戦後」の各章よりなる。

まず本作のテーマである「国家神道」の定義について、本書から該当箇所を引用しておくと、

「国家神道の正統的な表現を想定するとすれば、このような信念の体系となる。…国家神道は皇室祭祀と伊勢神宮を頂点とする神社および神祇祭祀に高い価値を置き、神的な系譜を引き継ぐ天皇を神聖な存在として尊び、天皇中心の国体の維持、繁栄を願う思想と信仰実践のシステムである」(59ページ)

全五章のうち、第一章の「宗教地形」は国家神道の形成と定着に関する基礎的記述で、明治維新から大日本帝国憲法下での「信教の自由」体制確立までの明治国家の宗教政策の試行錯誤のジグザクな迷走過程を概観する。神祇官から神祇省、教部省の設置から内務省への吸収の教化組織の相次ぐ改編。神仏分離令、廃仏毀釈、宣教師の設置、大教宣布の詔、信教の自由保障の口達の各種法令。仏教、キリスト教ら他宗教との衝突回避とともに、国民教化の柱となるべき神道の優越性確保のための戦術転換たる神道国教化政策から神道非宗教論への転回、つまりは神道習俗論、神道祭祀の強調路線への変更(国家神道と教派神道の分離)など国家神道研究の基礎的概観の内容で、第一章「宗教地形」は国家神道を理解し深める基調の議論であり、必読といえる。

本書の読み所は、第二章での「用語法」の国家神道定義に絡めた著者による村上重良を主とする先行研究批判にあると思える。「村上重良の国家神道論の欠点」は「国家神道を描き出す際に、戦時中の国家神道の像にひきずられている」ことと、「国家神道をまずは神社・神職の組織として捉える」ことにあるとする(71ページ)。この二点の先行研究批判を通しての著者の処方箋(しょほうせん)は、国家神道の考察に際し、先に引用した表紙カバー裏解説での「(戦時下以外の)国体思想や民間宗教との関わりを丹念に追う」と「(神社・神職組織以外の)皇室祭祀や天皇崇敬の装置を視野に入れ」るの部分に実はそれぞれ対応しており、「国体思想や民間宗教」と「皇室祭祀や天皇崇敬の装置」の各要素に重点を置いて本書では国家神道が論じられている。特に後者の「皇室祭祀や天皇崇敬の装置を視野に入れる」に関しては、(おそらくは)1990年代の国民国家論を著者は相当に意識して国民創出の各種装置(皇室祭祀、行幸視察、祝日、学校行事のシステム化とメディア活用)の作用を見極めた国民国家論の成果を国家神道研究に繰り込んでのことだと思われる。

本書は国家神道に対し何かしらある程度学んで馴染みある人にとっては、これまでに何度も繰り返し解説されてきた定番内容が多い。というのも、すでに私達は村上重良、大江志乃夫、安丸良夫、阿満利麿、子安宣邦らによる国家神道についての大変に優れた先行研究を知っており、加えてそれら国家神道の問題性を指摘する研究に反論する葦津珍彦、阪本是丸、新田均など神道学者らの対抗言説のあり様もおよそ分かっているからだ。そういった意味で岩波新書、島薗進「国家神道と日本人」は国家神道に初学の方には分かりやすい親切記述で入門書としては最適であるが、ある程度、国家神道を知っている者にとっては、すでに他著にて既読感ある内容なため多少の物足りなさを感じてしまうのも読後の正直な感想で、その辺りがあえて本書の難点といえば言えなくもない。

そういった多少の不満も抱きつつ、最後に本書も含め村上重良や安丸良夫ら各氏の国家神道研究の書籍を読んだ後に、いつも私が感じる疑問と国家神道研究に対する多少の提言を以下、二つ挙げておく。

明治期の近代日本において国家神道という復古的な宗教政策が今さらながら成立するのは、なぜなのか。世界史的にみれば、近代に当たるこの時代に西洋では政治権力は国民形成やナショナリズム高揚に宗教を使うことは既にやっていないわけで、国家が政治的な体制信従に宗教を利用すれば個人の内面信仰の問題に触れざるをえず各人を刺激し、逆に宗教上の信条対立が政治闘争に転化し体制分裂して収拾がつかなくなるから(絶対主義下の宗教戦争、宗教改革など)結果、西洋近代において国家は世俗の秩序を優先して権力的な宗派強制を断念し、個人の信仰には踏み込まず宗教的寛容、事実上の「信仰の自由」が保障される。世界史的趨勢(すうせい)にて、もはや近代は脱宗教の時代であったのだ。

ところが、日本の「近代」では明治国家はまぎれもない教化国家であり、国家神道の宗教政策をとる。日本では明治の時代になっても神道の宗教利用の線が未だ成立する。この対照は世俗権力を超える普遍原理を持ち、かつ信仰が個人の内面の良心問題になりうる世界宗教たるキリスト教と、信仰が内面世界を措定せず外的儀式や呪術に吸収され、ゆえに権力と権威を一体のものとする(祭政一致な)共同体への統合、国家への忠誠や国民的陶酔の引き出しに寄与する民族宗教たる神道との相違に求められる。国家神道研究において、国学、水戸学、尊皇論ら国家神道の生成過程の一国史的な掘り下げ考察だけでなく、西洋のキリスト教史との世界史的な比較宗教学的視点から日本の神道(民族宗教!)そのものが発揮する国民教化の政治性の問題を突き詰めて考えるべきではないか。

また国家神道が、なぜここまで近代日本において長く強力に民衆に浸透し国民教化の政治性を発揮できたのか。国家神道が近代日本に長く深く根付く民衆における国家神道受容基盤の問題がある。本書「国家神道と日本人」でも最終章「国家神道は解体したのか?」にて、戦後に制度上・組織的には国家神道は解体されたが「見えにくい国家神道」としてバルトの「空虚な中心」による統合というポストモダン言説(?)を用いて、戦後も引き続き「天皇中心の国体の維持、繁栄を願う思想と信仰実践のシステムである国家神道は存続している」旨を述べ、著者は本書の考察を結んでいる(214─223ページ)。

従来の国家神道論にて、多くの論者から「日本人の精神的支柱として機能し続けた国家神道への考察を通して、近代日本人の精神性の解明を果たす」とか、「国家神道の分析は日本人の宗教意識を明らかにする鍵になる」の趣旨はよく述べられるし、本新書でも「(国家神道を通して)日本の精神史理解のベースを提示する意欲作」とする表紙カバー裏解説になっている。しかしながら少なくとも私は、本書も含め今まで国家神道関連書籍を読んで、近代日本人の精神性や宗教意識を明確に解明した書物にいまだ出会ったことがないのである(笑)。日本人の精神性や宗教意識を明らかにし、同時に国家神道の民衆定着への強力さ由来の原理的解明を果たした国家神道研究書籍をいつか読んでみたい。

現時点での私の見立てでは、国家神道の強靭さは近代日本思想史研究ないしは日本近代文学史にて、しばしば指摘されるところの「近代日本の精神構造」たる「欲望自然主義(欲望ナチュラリズム)」が民衆側に国家神道の受容基盤として根強くあり、神道信仰に通ずる日本人の精神性=欲望自然主義を媒介としているため、戦前・戦中のみならず戦後も国家神道(的なもの)が変わらず存続し強固にあり続けているのではないか。すなわち「近代天皇制国家─国家神道─(欲望自然主義)─民衆」の回路の定式化にて、国家神道を受け入れて体制信従する民衆側の精神性・宗教意識の問題を「欲望自然主義」と明確に規定してはどうか。

少なくとも本書「国家神道と日本人」での最終章のような、戦後に国家神道は制度上・組織的に解体したが、いまだ国家神道的なものが日本人に根強く残滓(ざんし)の事態について、バルトの「空虚な中心」のような、あやふやなポストモダン言説でいくら説明されても私には、はぐらかされ誤魔化されている感があり全く納得できないのである。