アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(37)清水正徳「働くことの意味」

岩波新書の黄、清水正徳「働くことの意味」(1982年)の概要は以下だ。

「古来、人びとは労働をただ『生活のための労苦』とだけ考えてきたわけではない。自然や超越者とのかかわりで、さまざまに意味づけて働いてきた。本書は、主要な労働観の系譜をたどり、その流れの中から、哲学的宗教的な見方をこえた科学的労働理論がいかに形づくられてきたかを明らかにし、その思想的遺産が今日にもつ意味を考える」(表紙カバー裏解説)

直截(ちょくせつ)に言って「哲学的宗教的な見方をこえた科学的労働理論」とはマルクス主義、「その思想的遺産」はマルクス主義における「疎外」の概念を指す。著者の清水正徳は西洋哲学専攻の学者で、本書の他にも「自己疎外論から『資本論』へ・労働の疎外と労働力の商品化」(1966年)という、そのままマルクスの「疎外論」を通しての「労働の疎外」と「労働力の商品化」に関する著作を出している。よって本新書も、主に疎外論を通しての労働に対するマルクスの指摘を重視した立場からの「働くことの意味」についての考察となっている。

本書が大変に優れているのは、著者による一貫した記述態度であり、この書籍に関しては「書き方の勝利」という言葉がいつも私は頭に浮かぶ。つまりは「主要な労働観の系譜」として古今東西の主な思想家・哲学者の「労働とは何か」の労働観を取り上げ、それら労働理論の原理的考察に徹する。多くの哲学者たちや経済学者たちにおける「労働とは何か」の定義文をひたすら引用し紹介する内容に本書はなっているのだ。現在もそうだが、本書初版が出された1982年当時にも「働くことの意味」をめぐる時事的な労働問題のトピックは多々あって、例えば過労死、会社(忠誠)主義、職場の環境改善運動、賃上げ闘争、首切り合理化反対、労働組合潰し(会社の御用組合結成による分断工作)などがあった。しかしながら、本書にはそれら現実の労働をめぐる社会的問題に関する言及がほとんどない。

その時々の社会的な労働の問題に触れずに労働に関する原理的考察に特化し、「働くとはどういうことか」の各人の抽象定義の紹介に徹したため、逆に本書は今日でも違和感なく時代を超えて後々まで長く読み継がれる古典の名著になったともいえる。時事的なトピックを、その都度取り入れて著述展開させるのは時代状況に密着並走しており、同時代で読んでいる向きには当時の最新の時事的問題を繰り込んで大変に良いのだが、その時々のタイムリーな時事問題を扱っているだけに時代が経過すると書籍の内容が古く見え色褪(あ)せてしまう、場合によっては賞味期限切れになってしまうという難点もあるからだ。それら労働にまつわるその時々の具体的な社会問題への言及はほとんどなく、「働くことの意味」に関し時事論を排して原理論にのみ傾注する著者の書き方選択の態度が、本新書を現在でも違和なく読める絶対に「時代遅れ」にさせず色褪せない、まさに文字通り「不朽」の名著たらしめており、清水正徳「働くことの意味」に関しては「書き方の勝利」といった感慨を私はいつも持つ。

岩波新書の清水正徳「働くことの意味」の読み所は、後半の「Ⅲ・人間疎外と労働」の章での「『主人と奴隷』の弁証法・ヘーゲルの労働観」「労働疎外論・ヘーゲルからマルクスへ」「『労働力商品』の発見・マルクスの労働観」の三つの節、さらには「Ⅳ・現代社会と働くことの意味」の章での「現代における人間疎外・『物化・物神性』をめぐって」「人間関係と労働・現代の労働思想」「自由と連帯の可能性・『自主管理』をめぐって」の三つの節であると思う。マルクスの疎外論はマルクス独自(オリジナル)の発想ではなく、ヘーゲル左派なマルクスがヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法の疎外の理論から継承発展させたもので、その意味でもヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法は素晴らしい。

弁証法は古代ギリシア哲学の時代からあるが、人間の主体的働きかけとは無関係に神や自然の作用で勝手に生成発展し進化止揚する従来型の弁証法ではなく、近代哲学者のヘーゲルが弁証法的生成発展にて「外化」や「疎外」という人間主体の契機を取り入れた近代的弁証法は誠に素晴らしいと思う。ヘーゲルの「主人と奴隷」の項を読むだけで私は、おかずなしで白ご飯を三杯はいける(笑)。

そういえば1980年代、まさに本書のような疎外論を基調とした近代労働理論の論説が流行(はや)っていた。私が高校生の頃、大学受験の現代文評論にて創造性、自律性、自己形成(教養陶治)、歓(よろこ)びの感情、人間の尊厳、文化の継承の有無により「労働」と「遊び」の異同を厳密に概念規定するマルクスの疎外論に依拠した抽象的な労働理論の評論文をよく読まされたものだ。