アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(43)新崎盛暉「日本にとって沖縄とは何か」

岩波新書での新崎盛暉(あらさき・もりてる)の沖縄史に関する著作といえば、共著も含めて「沖縄問題二十年」(1965年)と「沖縄・70年前後」(1970年)と「沖縄戦後史」(1976年)と「沖縄現代史」(1996年)となる。この辺りの事情を新崎本人に語ってもらうと、

「私が戦後二0年に当たる一九六五年に、中野好夫先生との共著で岩波新書から『沖縄問題二十年』を出して五0年になる。『沖縄問題二十年』は、沖縄戦から二0年、米軍政下の沖縄民衆の闘いを本土国民にも共有してもらいたいという想いを込めて書いた本である。この本が出た直後から、沖縄返還に向かうせめぎ合いが激しくなる。その動きをまとめた二冊目の新書が『沖縄・70年前後 』(七0年)である。次いで、沖縄返還に至る米軍政下の沖縄の戦後史を通史的叙述で総括したのが、『沖縄戦後史』(七六年)である。…沖縄返還によって沖縄大学という小さな大学に招かれ、七四年以降、沖縄で生活することが可能になった。地域住民の一人として、市民の一人としてさまざまな社会運動や文化運動にも参加してきた。したがって、九五年の沖縄民衆の決起をその渦中で体験することになった。そのことによって、沖縄返還・日本復帰後の日米安保体制と沖縄民衆の闘いの歴史をまとめたのが『沖縄現代史』(九六年)である」

それから岩波新書の赤、新崎盛暉「日本にとって沖縄とは何か」(2016年)へと至る。新崎の戦後沖縄研究は「沖縄戦後史」とは言いながら、沖縄の産業振興や観光資源開発など戦後の沖縄発展の良い点にはあまり触れておらず、確かに基地反対闘争に偏(かたよ)っている。そのことに関し、「著者の沖縄史の立場が中立・公平ではない」と新崎の沖縄戦後史を酷評する書評もある。しかし氏の沖縄史の内容以前に、沖縄戦後史を50年以上に渡り継続して研究し続けてきた著者に対し「戦後沖縄への見方が偏っている」と酷評するのは何だかつまらない気がする。並の人の能力で新書なら二日三日で読める。何度も返り読みをし、時に書き抜きメモをして丁寧に読んでも、せいぜい一週間が限度だ。読む分には書籍など短期間で読める。しかし、ひとつのテーマについて考え構想し執筆して著作を上梓するには数ヵ月から数年、時に数十年単位の時間を要する。沖縄戦後史研究の新崎盛暉は50年以上である。そんな著者に対して、たかだか新書を数冊ばかり読んだくらいで書評にて批判し酷評して一刀両断というのは、著書内容の妥当性云々以前に人として非常につまらない気がする。これは理屈や論理ではない。

新崎盛暉「日本とって沖縄とは何か」は、1945年と1972年と1995年の三つの年を軸にして主に記述されている。すなわち、

「1945年、沖縄は地上戦を経て、米軍の軍事占領下で戦後史の第一歩を踏み出した」「1972年5月、沖縄は日本に返還された。沖縄返還によって、日本本土の米軍基地は約三分の一に削減され、在日米軍基地の約75パーセントが沖縄に集中することになった」「1995年、米兵の凶悪犯罪をきっかけにして米軍基地の縮小整理、日米地位協定の改定要求が沖縄の民衆から激しく起きた」

以上の三つ契機を押さえて沖縄戦後史が述べられているのだ。しかも本書は、基地反対闘争に限定して戦後の沖縄時事について日時や場所や関係人物や団体組織を時系列で詳述しており、あたかも戦後の地元沖縄新聞ダイジェスト版の様相である。だが、そのような細かな戦後沖縄時事の情報の羅列に溺(おぼ)れてはいけない。沖縄戦後史に対する正統な読み方は、おそらくあるに違いない。

実のところ、沖縄戦後史における沖縄米軍基地に対する基地反対闘争では運動を通しての基地縮小や基地移転の問題だけでなく、日本の戦後民主主義の実質そのものが問われている。ここにおいて沖縄戦後史を日本の戦後のあり様に重ね合わせて「理念と現実」との二元論にて考え論じることができるはずだ。日本国憲法の三大原則に引き付け、戦後民主主義を、国家の恣意的な軍事力行使に歯止めをかけ、さらには戦後日本の国家による再軍備に国民が圧力をかけて軍事力縮小から廃絶の方向へ持っていく、加えて、国家に個人の基本的人権の尊重を遵守するよう政治権力の不当な恣意的支配にも限界の抑制を付して国家を国民主権の原理にて監視する、そうした戦後民主主義的な「理念」と、他方での実際には軍事力の容認と拡大を通し、政治権力たる国家の力の論理で支配し動く権力政治の「現実」との相剋にて、沖縄戦後史ならびに戦後の日本を理解することが可能である。

戦後の沖縄が米軍との過酷な地上戦を経て、米軍の軍事占領下での戦後史の踏み出しにより、「日本の非武装化」(理念)と「沖縄の分離軍事化」(現実)というの二元体制で始まった戦後日本であったが、冷戦下にてやがては日本の再軍備、日米同盟の軍事的強化により、戦後民主主義の「日本の非武装化」の理念は「目下の日米同盟国化」の現実へと変容し、理念的な戦後民主主義は現実的な権力政治により侵食され始める。「理念と現実」の二元論が破産し、「現実と現実」のみの「目下の日米同盟化」(現実)と「沖縄の分離軍事」(現実)とが一元的に並走する。こうした対米従属的日米同盟の矛盾を沖縄にしわ寄せすることで日米関係を安定化させる日米間の仕組みが成立し、安保条約改定に至って本土米軍基地の沖縄へのしわ寄せ集中たる「より強力な沖縄の分離軍事」(過酷な現実)が、さらに促進される。沖縄は日米両政府から基地存続の既成事実化を絶えず迫られ、沖縄への基地負担強化を沖縄県民は際限なく強いられる。

非武装ないしは国家の軍事力行使に歯止めをかける戦後民主主義の理念は、そのまま沖縄の反基地闘争の運動理念と同一であった。「力こそ正義」の権力政治の現実に圧倒・凌駕(りょうが)されながら、国家の軍事力行使に対し現実抑制の効力を発揮できず、実質的に無化されつつある戦後民主主義理念の窮状は、沖縄の在日米軍基地の存続・強化の圧力に押され続ける著者の新崎ら反基運動勢力の苦境と同様であり、理念的立場の両者は軌を一にしている。

沖縄戦後史と日本の戦後民主主義のあり様とを重ね合わせて、「理念が現実に侵食され、やがては突き崩されつつある」現状が戦後の沖縄を通して明らかになる。この意味において沖縄戦後史は、沖縄米軍基地に対する反対運動を通しての基地縮小や基地そのものの移転の問題だけでなく、同時に日本の戦後民主主義の行く末そのものが問われている問題であるに違いない。すなわち、それこそが本書タイトルの「日本にとって沖縄とは何か」という問いに対する答えとなる。

本新書を読んで私が感心するのは、沖縄の基地存続強化の受け入れ承認に見合った形での日本政府による沖縄振興予算の増額上積みのからめ手に対し、著者の新崎が「結局、沖縄は金で動く」とする政府関係者の思惑を見切り、非常に醒(さ)めた目で冷ややかに見ていること(「第4章「政権交代・オスプレイ配備・埋立承認」)。尖閣諸島領有権問題に関し、中国の領土ナショナリズムの危険性を執拗に煽(あお)ることで日本の領土ナショナリズムも同様に高揚させ、米軍の日本駐留の意義付け強調を経ての沖縄米軍基地の拡大強化へと誘導を果たす「中国脅威論の利用」に警戒し、その動きに日中間の「領土ナショナリズムの相対化」を冷静に対置させていること(第4章「尖閣問題への視点」)。また教科書検定における、沖縄戦での日本軍命令による「集団自決」の記述削除をめぐり、「教科書検定問題の意味するもの」(現状の沖縄再軍備強化をスムーズするための軍隊イメージ良化イデオロギー)である「集団自決」記述削除の歴史修正に新崎が反対し、「世代を超えた歴史的体験の共有」を主張していること(第3章「教科書検定問題の意味するもの」)である。

そして、基地反対闘争に携わり同時代史として自身のことに引き付け、沖縄戦後史について50年以上の長きに渡り考え続けていると、著者の中で思想が昇華し結晶化して遂には著者独自の言語創出にまで至る。それら造語は「構造的沖縄差別」と「オール沖縄」であった。これら新崎による造語の意味内容を本書「日本にとって沖縄とは何か」に即し確認しておけば以下のようになる。

「構造的沖縄差別」とは、日米共同覇権主義を志向する日米安保体制の中で日本がアメリカの世界戦略の一環に組み込まれ、沖縄を第三世界抑圧の軍事拠点として位置づけることによって生じる本土米軍基地を沖縄に集中させる差別的仕組みを意味する。また「オール沖縄」とは、出来るだけ中央政府とは事を荒立てたくないと考える沖縄の保守的政治家や経済人らも巻き込んで「日本にとって沖縄とは何か」、沖縄戦後史と現代史を踏まえた自治、民主主義、平和に関する根底的問い返しが各層からなされている現状を指す。

最後に岩波新書の赤、新崎盛暉「日本にとって沖縄とは何か」の概要を載せておく。

「いま、日本政府は沖縄・辺野古に新たな巨大基地の建設を強行している。それは単なる基地建設の問題ではなく、戦後70年の日本、米国、そして沖縄の関係史の到達点として存在している。『構造的沖縄差別』を克服するために、どうすればよいか。沖縄現代史の第一人者が戦後の歩みを振り返り、本質を厳しく問う」(表紙カバー裏解説)