アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(47)豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」(その2)

(今回も祥伝社新書、豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」(2010年)についての書評を特集「岩波新書の書評」ブログではあるが、前回に引き続き例外的に載せます。念のため、豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」は岩波新書ではありません。)

SF作家の豊田有恒が2010年12月に「日本の原発技術が世界を変える」を上梓する。だが、年が明けての2011年3月11日に東日本大震災が発生し、東京電力の福島第一原発が罹災して放射能漏(も)れ事故を起こす。そこで、あらためて豊田有恒「日本の原発技術が世界を変える」である。本書にて豊田は、「私はもともと原発には懐疑的な慎重の批判派」の趣旨を述べてはいるが、あれはなかなか強力な原発賛美の推進本だ。その原発推進の理由は以下の二つである。まず海外での新規の原発建設に政府とメーカーが官民一体となって参入し原発商戦で日本が金儲けの論理、さらには不安定な東アジア情勢に鑑(かんが)み、将来的な戦略的核武装のために日本国として原子力発電を柱とする原子力エネルギー政策の堅持ということだ。

そして東日本大震災以後に「3・11の未来」(2011年)という書籍が出版され、豊田は「原発災害と宇宙戦艦ヤマト」という論考を寄稿している。福島第一原発の深刻な放射能漏れ事故を受けて、「日本製原発の海外輸出で金儲けの論理」と「将来的な日本の核武装の国家的戦略」の標榜ゆえに強力な原発推進論者であった豊田有恒はその後、何と述べているのか。とりあえず読んでみた。

読後の結論からいうと、「日本の原発技術が世界を変える」以降の「原発災害と宇宙戦艦ヤマト」にて、福島の過酷事故があっても豊田の原発賛成で推進の姿勢に何ら変わりはないということである。いわゆる「転向」はなく、むしろ前よりも強硬により強力な原発推進の論調になっている。SF作家であり以前にSFアニメ「宇宙戦艦ヤマト」の設定を担当したことから、「SF素材を通じての自身と原子力エネルギーや原発との関わり」を冒頭から主に述べているが、「3・11の未来」での福島以後の日本の原発のあり方に関する豊田有恒の要点記述をそのまま書き抜いてまとめると、およそ以下のようになる。

(1)「貞観大地震ではマグニチュード8・5だったから…つまり、今回のマグニチュード9・0の大災厄は、『人智を超越した大災害』だということである。想定外も想定外、予想外も予想外、前代未聞の未曽有の大災厄なのである」

(2)「原子力の平和利用というスローガンに、日本人すべてが酔いしれていたのである。恐るべき原子力を、平和利用することこそが、被爆国日本の責任であり、悲願である、という美しい言葉に日本人すべてが安住してしまい、核有事を想定しないまま、すごしてきた。しかし、これは世界の常識から見れば、きわめて非常識なことだという事実には、すべての日本人が目をつぶってきた」

(3)「日本人は、非核三原則、平和利用という、いわばスローガンに溺(おぼ)れてしまい、ほんとうの核の危険性に気付いていない。非核三原則を唱えれば、世界から核兵器がなくなるのか。…非核三原則というのはお題目か、お経のようなものだから、一種の信仰でしかなく、理性に基づいたものではない」

(4)「核の抑止力という考えかたが、日本人には、もっとも苦手である。…つまり、日本人は、中露という核大国に囲まれ、北朝鮮すら核武装する。地球上でいちばん危険な核をめぐる国際環境に置かれながら、能天気を決めこんでいるのである」

(5)「国連安保理の常任理事国は、すべて核保有国である。かれらは、みな最悪の場合は、核戦争を想定しているのである。…ぼくは、『宇宙戦艦ヤマト』のSF設定を引き受けるに当たって、核有事の最たるケースとして、グローバルスケールの核汚染というフォーマットを作り上げた。核といえば平和利用という美名に酔いしれている日本に、警鐘を鳴らすためでもあった。核は、軍事とは切り離せないものなのだ」

(6)「今、日本が、世界一の技術水準にある原子力を放棄することも、不可能ではないだろう。しかし、そのプラス・マイナスをよく考えてみるべきである。…イギリスの科学史家C・P・スノーは、『知的ラッダイト』というキーワードを用いて説明している。…いかにも科学めいた理屈付けで、新技術を葬ってしまう風潮を、スノーは、皮肉をこめて『知的ラッダイト』と呼んだのである」

(7)「日本人の叡智を集めて、この国難を乗り切る日が来ることを、祈るしかない」

以上(1)から(7)、要するに「今回の震災津波の大災害は歴史上稀にみる予想外の想定外で、そもそも日本は中露、北朝鮮の核保有国に囲まれているのだから、核抑止の考えを持ち従来の原子力の平和利用などというお題目の理想論は今すぐに捨てて、核は軍事とは切り離せないことを日本人は認識すべきだ」。それで最後はスノーの「知的ラッダイト」という概念を持ってきて、「世界一の技術水準にある日本の原発技術を、いかにも科学めいた理屈付けで簡単に葬ってしまうべきではない。日本人の叡智を集めて原発事故の国難を乗り切ることを祈る」と結んでいる。「この先の日本国の核抑止の戦略的核武装のために福島の事故があっても、日本は最新の原発技術を放棄すべきでないし、脱原発の方向に決して向かうべきではない」の内容になっている。何よりも福島以後の原発議論のほとんどが核武装の軍事核の問題に偏(かたよ)っていることが豊田は、いかにも矮小で異常だ。3・11以後も従来と全く変わらず強力な原発讚美の推進論者たる豊田有恒ということである。

私は豊田の最新論文を読んで、かなり驚愕した。いや正直にいうと、あきれて脱力した。というのも、豊田有恒は震災前の「日本の原発技術が世界を変える」の時には、原発賛成の理由として「中国・韓国・北朝鮮の脅威に対応するために、やがて将来的には日本も核保有を考えなくてはならないが、しかし現在、日本の原発技術を推進するのは世界的な原子力ルネッサンスの波に乗った原子力の平和利用のもと」という「あくまでも原子力は平和利用」とする自身の立場を明確に表明していたからである。例えば「日本の原発技術が世界を変える」の序章にて「平和利用の道を拓いた、アイゼンハワー演説」という、1957年4月アメリカ初の商業炉稼働に際してのアイゼンハワーの演説を長く引用した節がある。また同様に「核の平和利用には、相応の決意と覚悟が必要」というタイトルの節では、「日本としては核の平和利用だけという人類最初の夢に挑戦していくべきなのだ」と豊田有恒は期間限定の当面目標ながら、「核の平和利用」の方針を明確に述べていたからだ。

ところが、福島原発の事故後には「戦後の日本人は、原子力の平和利用という美名のスローガンに酔いしれ溺れてきた…核は、軍事とは切り離せないものなのだ」になってしまう。3・11以前と以後とで大きく変わりすぎる。以前は「日本としては、核の平和利用だけという人類最初の夢に挑戦していくべき」と言っていた人が、福島を経ると「原子力の平和利用というのは美名のスローガン…核は、軍事とは切り離せないものなのだ」と発言するようになる。これは見過ごすことのできない、あまりにも変節しすぎな180度の大転回である。

以前は「原子力の平和利用」の名のもとに原発賛成の推進で、日本製原発の海外輸出を積極的に進め「日本の原発技術が世界を変える」と言っていた人が、やがて「原子力の平和利用なんて美名のお題目のお経のようなもの。原子力の技術は軍事の核保有と切り離すことができない」と恥ずかしげもなく堂々と主張するようになる。みずからの言動の変化に本人は気付かないのか。この変節が大きな矛盾として、なぜ豊田本人に強く意識されないのか。もしくは著(いちじる)しい自己言説の矛盾に気づいてはいるが、豊田有恒はそのままやり過ごすのはなぜなのか。この点に関し、例えば以下のような妥当解釈が考えられる。

SF作家ではあるが同時に「いい加減にしろ中国」(2000年)や「北朝鮮とのケンカのしかた」(2003年)の書籍も執筆している好戦的で排他的ナショナリストたる豊田有恒は、最初から将来的な戦略的核武装の国家的念願を一貫して強く持ち、やがては日本の核保有に転用するために原発賛成で国の原子力エネルギー政策を支持してきた。しかし、被爆国であり非核三原則に支えられた戦後日本の反核世論や日本人に広くある原子力アレルギーの反発を考慮し、当面は「原子力の平和利用」という名目を前面に掲げた穏健路線で原発振興をやっていた。

ところが、東日本大震災による福島第一原発の事故が発生し、原発反対の脱原発、原発に依存しない社会の方向に国内世論の大勢が動き出すと、将来的な日本の核武装に直結のために原発振興を唱えて国の原子力エネルギー政策を支持してきた豊田は、かなりの危機感を抱く。かつての「原子力の平和利用」などという戦後日本人の反核意識や原子力アレルギーに配慮した表面上の「穏健な」原発推進路線は軽く吹き飛び、国の原子力政策そのものが否定されていく3・11以後の原発をめぐる否定的世論は、豊田にとって「深刻で緊急な」事態のため、いよいよ追い詰められて彼が当初から一貫し保持してきた「原子力発電を転用し日本の戦略核武装」念願達成死守のため、ついには悲しき本音の暴露に至る。日本の原子力発電の原発技術は「原子力の平和利用」などにあるわけなく、「核や原子力エネルギーが軍事から切り離せないのは世界的常識」だ、「中露・北朝鮮が核保有の不安定な東アジア情勢を考えれば、日本の原発技術を活用して、将来的に日本が核武装を検討するのは当然のこと」と今や隠すことなく本音をばらす、なりふり構わぬ戦術転換を余儀なくされる。そんなところではないか。

福島の事故以降、今後の日本の原発のあり方をめぐって豊田有恒のような人は実際に多い。「将来的な核抑止の外交カード保持のため、原発を廃止すべきでない」とする軍拡ナショナリストな立場からの原発擁護の意見である。例えば、櫻井よしこは「脱原発論は日本の安全保障の弱体化につながる。原発の廃止は核武装の可能性放棄を意味し、そうなれば中国や韓国や北朝鮮の思うつぼ」といった趣旨の発言を直近の雑誌インタビュー(「サピオ」誌上)にてしている。櫻井よしこは相変わらずな19世紀型の古いタイプの帝国主義的ナショナリストで、いつも彼女は単純で分かりやすい。

そんな櫻井よしこも含め、豊田有恒並びに豊田に共感で賛同な原発推進派の方々に以下の二つの素朴な疑問というか質問をぶつけておこう。どなたかにご回答ご教示いただけると大変にありがたい。

(1)福島での深刻な事故にもかかわらず、以後も原発の継続稼働や国の原子力エネルギー政策の堅持を強く求める主張の背景には、「当面は原発で原子力に直結しておいて、やがては日本の核武装につなげる構想」が依然として根強くある。将来的な核武装への選択可能性を放棄させないために、今後とも原発維持や新規建設を続ける。廃炉や事故対応や核廃棄物処理、はたまた発電コストや二酸化炭素排出量でも今や原発が他の発電方法より優れていないことが明白になりつつあるのに、「発電」という原子力発電の本来の目的意味から大きく外れた所で、つまりは将来的な核武装の選択カード温存のために原発存続の推進を訴える。これは非常に遠回しで屈折した、いびつな議論ではないか。

(2)そもそも戦略的核武装など国家が軍備増強に乗り出すのは何のため?国民の生命や財産の安全、国土を守るためではないのか。しかるに将来的な核武装の可能性を放棄しないために原発稼働を続ける。そして、ひとたび地震や津波により深刻な放射能漏れ事故を起こしたら原発周辺地域は強制避難の強制退去で、国民の生命や財産の安全は著しく脅かされ国土も汚染されて荒廃する。原発推進が核武装で実を結び、核抑止で事前に他国の攻撃・侵略を防ぐ目的を達成する以前に、地震大国の日本で自然災害により原発が事故を起こし被曝・汚染したら、わざわざ諸外国が直接的に軍事圧力を加えなくとも、日本国民や日本の国土は他国から先制核攻撃を受けたのと同様な悲惨な状況に自業自得で勝手に陥る。それでは日本という国は、あまりにも愚かで滑稽(こっけい)すぎやしないか。