アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(49)柴田三千雄「フランス史10講」

近年、岩波新書から「××史10講」というタイトルで古代から近現代までの各国通史を新書の一冊で、それぞれ書き抜くという非常に大胆で面白い試みのシリーズが出ている。そのフランス版に当たるのが岩波新書の赤、柴田三千雄「フランス史10講」(2006年)である。新書ゆえ最大でもせいぜい300ページの紙数制約の中でフランス史の古代から近現代まで全時代を概説するというのは、なかなか難しい仕事だ。長い現代までの各国通史を新書一冊にまとめるのが、そもそも強引で冒険な企画だと思われる。

「新書一冊の少ない枚数で一国史すべてを概説するなど、そんなこと出来るわけないだろう」といった各国史執筆担当者のボヤキが聞こえてきそうである。そこで各人なりに「無謀企画のかわし方、切り抜け方」というものがある。例えば「あえて詳細な親切な解説は断念回避して先行研究や参考文献を多彩に雑多に引用して済ませる」(「イギリス史10講」)、「解説記述の歴史事項を極度に削り内容を易化させて何とかまとめる」(「ドイツ史10講」)などである。そうした各国史担当の著者らの無謀企画への処し方、切り抜け方が各人各様であり、そこが岩波新書の赤「××史10講」シリーズ企画の当たり具合の面白さだといえる。

柴田三千雄「フランス史10講」では、「限られた紙面だが、しかし自身が言いたい最新研究の成果を踏まえた歴史の原理的なことを果敢に書き入れる」という著者の方針がとられている。「最新研究の成果を踏まえた歴史の原理的なこと」に関し、本新書を読んでいると昨今の現代歴史学の主流になりつつある「一国史観の乗り越え」が本講義の前後で著者により繰り返し語られていることに気づく。

「実はフランスも日本も長期的な歴史分析の自己完結的な単位ではない。一国史の集積が世界史だと考えるのは、一九世紀に生まれた『国民国家』という国家モデルの観念にすぎない。フランスは、『ヨーロッパ地域世界』という、より広い歴史空間に属しており、フランス史の展開は、そのなかでこそ理解できる。同様に、日本は『東アジア地域世界』に属している」(「『フランス史』とは何か・予備的な考察」4ページ)

「フランス史という国民国家の歴史は自己完結した対象ではない。ヨーロッパあるいは世界全体の関連のなかで形成されてきた相対的なものであり、『フランス史像』といっても、これを固定的あるいは絶対的に考えるべきではない。そもそも国民国家そのものが、再検討を迫られているのが、現代である」(「あとがき」227ページ)

「フランス史10講」にて一国史を概説する体裁をとりながらも、「フランスの歴史」の一国史の枠組みを越えて「ヨーロッパ地域世界」の歴史空間という、より広い視点からフランスの伝統や文化、国民国家を相対化する「フランス史10講」での著者の語りは、ヨーロッパ史の研究者からする、同様に一国史にこだわり自国の歴史讚美に終始したり自国の歴史讚美を通して他国批判を展開させたりする一国史に惑溺(わくでき)して、「東アジア地域世界」の関連形成の歴史を構想しえない今日の東アジアの私達の日本史研究に対する周到な批判にも実はなっているのだ。「フランスは『ヨーロッパ地域世界』という、より広い歴史空間に属しており、フランス史の展開は、そのなかでこそ理解できる。同様に、日本は『東アジア地域世界』に属している」「そもそも国民国家そのものが、再検討を迫られているのが、現代である」の記述は脛(すね)に傷もつ日本の愛国主義者や保守や右派、排他的ナショナリストにとっては、かなり耳の痛い指摘ではないか。

古代から近現代にまで至るフランス史の中で一つの注目となるのは近代のフランス革命であるに違いなく、同様に「フランス史10講」においても、その読み所の一つは「第6講・フランス革命と第一帝政」での著者によるフランス革命に関する講義解説となるに相違ない。この第6講は「フランス革命の解釈をめぐって」という具体的な歴史事項の説明ではなくて、まさに「最新研究の成果を踏まえた歴史の原理的なこと」の解説から始まる。その講義概要はこうだ。

「フランス革命については、…わが国の戦後歴史学は、近代国家開始の画期となるのはブルジョワ革命であり、…また、フランス革命は、封建貴族にたいしてブルジョワジーが最も徹底的に闘ったという意味で、ブルジョワ革命の典型だとした」。しかし「私は、貴族とブルジョワがア・プリオリに排除しあう敵対関係とは考えない」と著者はいう。そして「革命の発生の仕方」の考察を交えて、その理由に「複合革命論」と「変革主体の出現」の二つを挙げる。「複合革命論」とは、アリストクラート(貴族とそれに準ずるブルジョワ)、ブルジョワ、都市民衆、農民の四つの「革命」からフランス革命は「複合」的に構成されており、結果その中で「ブルジョワ革命」が最大の成果をおさめたという議論である。「変革主体の出現」とは、そもそも体制内に本来的に「革命」をめざす精鋭な階級や集団が内在していたわけではなくて、三つの階級・集団による力の三極構造、すなわち特権的中間団体の王権への抵抗(自由主義貴族や知識人)と、経済発展を背景にもつブルジョワ層の上昇(ブルジョワ)と、民衆騒擾(都市民衆や農村農民)それら三者の密な関係により、革命のその時々で「変革主体の出現」がなされたという指摘である(115─124ページ)。

フランス革命にて、「そもそも貴族とブルジョワがア・プリオリ(先天的)に排除しあう敵対関係とは考えない」など、なぜそのような持って回った言い方を著者はするのだろうか。貴族とブルジョワが革命の過程で常に排除しあう敵対関係になかったことなど、フランス革命史を多少学んだことがある人なら普通に知っている。革命の最初は封建貴族と敵対関係にあったブルジョワも、ナポレオン登場による対外戦争の熱狂で国民的一体を体感して両者の対立が一時的に消散したり、革命の長期化で疲弊し中途で弛緩(しかん)して貴族との妥協を図りブルジョワが保守的になったり、革命の後半では社会主義者が台頭し危機感を持ったブルジョワが反動化して王権や貴族にあゆみ寄ったりしていた。「貴族とブルジョワがア・プリオリに排除しあう敵対関係とは考えない」という著者の言い方は、フランス革命の実際推移にてブルジョワの立場もその都度変わるため、ある時期には封建貴族と敵対しているが、またある時期には比較的親和である、そうした現実的な「フランス革命史の細かな実態の推移」と、後にフランス革命を総括しその歴史的意義を述べる際に、貴族とブルジョワが排除しあう敵対関係から最終的にブルジョワが王権と封建貴族を打倒して共和制となり、革命を経て絶対主義体制の崩壊から国民国家形成を遂げたため、革命の性格はブルジョワ革命であったと評価する抽象的な「フランス革命の歴史的意義」とを混同している。

しかしながら、第6講の最後まで読み進めていくと終わり近くで「ここでフランス革命と明治の変革(明治維新から国会開設まで)との比較について、一言しておきたい。日本では戦前から欧米学会の当時の主流的解釈をうけいれて『フランス革命イコールブルジョワ革命』論が支配的であり、それに立って明治変革との比較がなされてきた」(135ページ)という著者の「一言」を目にして、「私は、貴族とブルジョワがア・プリオリに排除しあう敵対関係とは考えない」の氏の主張は、従来のフランス革命研究ならびに明治維新研究が封建貴族と新興ブルジョワとの対立図式に依拠した階級史観であり、かつ主に経済問題を扱う革命分析が支配的であったそれら先行研究に対する批判を念頭においたものであったことに気づく。著者は「フランス史10講」にてフランス革命そのものの歴史を講義しながら、階級や経済関係にのみ依拠したフランス革命ならびに明治維新の「革命イコールブルジョワ革命」論という先行研究への批判を実は展開させていたのだ。そうした先行研究批判は、フランス革命(ないしは明治維新)を単に階級対立や経済的観点のみではなく、社会・政治的概念や文化的要因も勘案し多元的に革命現象を考察すべきとする著者の学術態度に基づくものに他ならない。

こうした著者によるフランス革命や明治維新の先行研究批判は、経済的階級還元なマルクス主義の史的唯物論の革命分析に対する批判にまでその射程を持つ。先に引用したヨーロッパ史を語っているようで、「フランスは『ヨーロッパ地域世界』という、より広い歴史空間に属している」とする「一国史観の乗り越え」の視点から実は東アジアの今日の歴史学、日本史学のあり様も批判しているのと同様、フランス史のフランス革命について近視的に論じているよう見えて、実のところ、日本の明治維新研究や経済的階級闘争史観を分析視角におくマルクス主義の批判にまで、その解説講義は及んでいるのであった。

本書での「フランス革命の解釈をめぐって」の記述が「限られた紙面だが、しかし自身が言いたい最新研究の成果を踏まえた歴史の原理的なことを果敢に書き入れる」という著者の執筆方針に基づいて、フランス史初学の人や「フランス革命は貴族とブルジョワの先天的な敵対闘争」とする一般的な革命イメージの誤解を未だ抱いている人に対し、ごまかすことなく丁寧に原理的修正を施す講義解説であり、「第6講・フランス革命と第一帝政」に著者の律儀な人柄や性格がよく表れている。氏のフランス革命解釈に関する、あの記述が本書にいくつかある読み所のヤマの一つであり最良の箇所のように思える。

岩波新書の赤「××史10講」という、一国史の全史を紙数制約のある新書一冊に全10講にてまとめるという企画そのものが無謀であり、冒険である。にもかかわらず、柴田三千雄「フランス史10講」は、氏のフランス革命の解釈記述に象徴されるような「限られた紙面だが、しかし自身が言いたい最新研究の成果を踏まえた歴史の原理的なことを果敢に書き入れる」新書執筆の姿勢が正攻法で実に清々(すがすが)しく、そこがこの書籍の持ち味の良さだといえる。