アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(50)上田紀行「生きる意味」

岩波新書の赤、上田紀行「生きる意味」(2005年)の概要は以下だ。

「私たちがいま直面しているのは『生きる意味の不況』である。…経済的不況が危機の原因だと言う人は多い。しかし、私たちの多くは既に気づいている。景気が回復すればすべてが解決するのだろうか。問題の本質はもっと深いところにあるのではないか。私たちをこれまで支えてきた確かなものがいまや崩壊しつつあるのではないか。私たちの『生きる意味』の豊かさを取り戻すこと。そのためにこの本は書かれている。何が私たちから『生きる意味』を奪っているのか。その原因を探り出し、そこを突破して、いかに自分自身の人生を創造的に歩むことができるかを考えたい。そしてひとりひとりの生きる意味に支えられた、真に豊かな社会の未来図を描き出したい」(「はじめに」)

本書は、いわゆる「レゾンデートル問題」(存在価値問題)から人間の「生きる意味」の豊かさを問うものだ。人間の豊かさについてのアプローチは物質的な「貧困克服」と精神的な「生きがい追求」の二つがあって、物質面での「豊かさ」問題で社会資本の拡充や福祉国家への志向を説いたものに例えば岩波新書、暉峻淑子(てるおか・いつこ)「豊かさとは何か」(1989年)があり、また精神的な人生の意義の「豊かさ」問題を扱ったものとして、昔から広く知られている神谷美恵子「生きがいについて」(1966年)を挙げることができる。

上田「生きる意味」は、神谷「生きがいについて」と同じ精神的な豊かさを問う系譜の後継書に当たる。そして、このレゾンデートルの自己存在価値の確保は、経済的に豊かになった先進国の社会であればあるほど切実なものとなり、空虚感や「生きる意味」喪失の虚(むな)しさに多くの人が苛(さいな)まれる問題であるといえる。したがって前者の物質的な「豊かさ」達成の問題と混同して、「生きる意味」を見失って「心が豊かではない」生きがい喪失で弱っている人に対し、「衣食住が足りて物質生活で恵まれているのに甘えている。発展途上国の恵まれない生活を強いられている人達を見てみろ!」と激怒して説教したりするのは明らかに筋違いである。

岩波新書の上田紀行「生きる意味」は、生きがい喪失の日本の現代社会の問題を摘出し、その原因を他者の承認や世間体の抑圧や「交換可能な自分」という疎外、自尊感情の欠如や近代社会の合理化・効率化、新自由主義のグローバリズムや「質より量」の数字信仰に求め、最後に「生きる意味」獲得のための処方箋として「内的成長のきっかけ」、すなわち著者が言うところの「ワクワクすること」と「苦悩と向き合うこと」の必要性を述べている。それから「生きる意味を育む場」としての「他者とのコミュニケーション」の大切さを示し、さらにその具体的方策にNGO(非政府組織)やNPO(民間非営利組織)やセルフヘルプ・グループ(同じ悩みや障害を持つ人達によって作られた小グループ)への参加、地域の宗教コミュニティ(寺院や教会)の活用を著者は挙げている。

本書にて説かれる「生きる意味」の大切さや、現代社会において「生きる意味」を阻むものの考察や「生きる意味」の豊かさ回復への処方箋など、著者の考えに概(おおむ)ね私は賛同できる。ただ、この人の言葉遣いや語り口に少なからずの違和感は正直、私にはあった。そして、本書を読み進めていて中途に「私にしても、二0代の終わりにスリランカで悪魔祓いの調査をしていたとき…」の文章を見た時に私は思い出した。岩波新書「生きる意味」の著者・上田紀行は、以前に「スリランカの悪魔祓い」(1990年)を執筆した人だ。

上田「スリランカの悪魔祓い」は昔に読んだ記憶があった。その内容は著者の上田紀行が大学時代に、まさに「生きる意味」を喪失してノイローゼ気味になり、友人の勧めで自身の心の治癒・回復を兼ねてインドへいき、現地で文化人類学を学び始めて「スリランカの悪魔祓い」の儀式を調査する。心身症の治療をやるスリランカの祈祷の民間治療(「悪魔祓い」)を彼は目の当たりにして西洋文明の物質的な外科的手術や投薬治療に疑問を抱く。周囲の人々や環境との関係回復、心と身体の調和を保つことで、うつ病や神経症や心身症、その他の病気も治癒できることを悟って近代文明の物質偏重や心身相関意識の欠如の問題に思い至り、発展途上国の第三国の立場から自然環境保護のエコロジストや精神世界のスピリチュアリストがやるような先進国の物質文明批判を以前にやっていた人である、上田紀行という人は。そこから岩波新書の「生きる意味」を読んで内容的には妥当で同意できるのだが、最後の最後で正直、この著者に私は賛同したくない自身の違和の原因が少しだけ突きとめられたような気がした。

本書における著者の自信過剰で時に説教くさい、スピリチュアルで感性的な言葉遣いの連発も気になったが(例えば「生きる意味のオーダーメイドの時代」「霊感のおもむくままにデッサンをし、自分から湧き上がってくる創造の奔流に身を任せてみたい」「『数字』の犠牲として『生命の輝き』が失われる」「私は『弱いものいじめ』をする社会が嫌いだ」など)、私が最も違和を感じたのは、この人の「いかにもならしさ」が表れている以下のような数々の語りだ。

「将来何をやりたいかと聞かれれば、多くの学生は『県庁に勤めたい』とか『市役所に行きたい』『銀行に…』などと言うが、『何故そこに行きたいのか?』と聞いてもけげんな顔をされる。『先生、だって県庁ですよ』と、どうしてそれ以上説明する必要があるのかと言わんばかりの態度だ。この県をもっと良くしたいとか、自分はどんな施策の実現に取り組みたいから県庁に入るというのではなく、県庁に入ること自体が目的なのだ。県庁とは最も『世間体』のいい就職先であり、子どもが県庁に入れば、親も親戚も学校の先生も一生『世間に顔だてできる』わけで、もう人生に何の心配もいらない。そもそも私の教えていた国立大学自体が、そこに入ることによって、親にとっても高校の先生たちにとっても『世間体』が最大に確保される場なのであり、私はその『世間体』の牙城で教えていたというわけだった」(「『かけがえなさ』の喪失」)

「例えば学校のテストを考えてみよう。いま目の前に数学のテストの点数が八0点の生徒と五0点の生徒がいるとしよう。どちらがいいかと聞かれれば、八0点のほうがいいに決まっていると私たちは即座に答えるはずだ。あなたが親であれば『何であなたは数学が五0点なの!』と目を吊り上げるだろうし、まさに数学の担当教師ならば『おい、もっと勉強しろ!』とはっぱをかけるところだろう。しかし、本当に八0点のほうが五0点よりもいいと、無条件に断定できるものだろうか。そして、五0点の生徒に『お前も八0点を目指せ。一00点を目指せ!』と激励することだけが正しい教育なのであろうか。何をバカなことを言っているのだ、点数はいいほうがいいに決まっているじゃないかときっと思われるだろう。しかし、私が言いたいのはこういうことだ。その生徒の将来の夢とか、いま何にワクワクしているのかとか、その生徒が何を喜びとして生きているのかとか、どんな人生のイメージを思い描いているかを聞くこともなく、生徒と見れば『一00点目指せ!』と言っておけばいいのか。彼らの人生にはひとりひとりの『生きる意味づけ』があって、その中で学校にも通い、テストも受けているのだということが無視され、あたかも生徒はテストで一00点取るために生きているかのように扱ってもいいのか?」(「『数字信仰』から『人生の質』へ」)

「数年前、私の教えている東工大で留学生向けの講義を受け持ったとき、『日本の大学のどこに一番違和感を感じた(ママ)か?』と聞いたことがある。その答えにびっくりした。ひとりが『学生が授業中に寝ていることです』と答えたところ、皆が『そうだ、そうだ』と大きくうなずいたのである。『どうして大学生が教室で寝ているんですか?それでも大学生ですか!』と言うのだ。それを日本人大学生にぶつけてみると誰もが『だって、誰にも迷惑かけていないんだから、寝ようが勝手じゃないですか』と言う。『寝ていて、授業についていけなくて後で困るのは自分なんですから、別に他人に何か言われる筋合いじゃないでしょう』。しかし、海外からの留学生にとってショックなのは、『大学生にもなって教室で寝ているあなたは、大学生としてのプライドがないのか?』ということなのだ」(「かけがえのない『私』たち」)

いずれも「県庁に内定して喜ぶ学生」や「試験での高得点を煽(あお)る親と教師」や「授業中に居眠りする大学生」ら「生きる意味」を見出せない、疎外されていたり無気力であることの問題例として著者の身近なエピソードが挙げられている。確かにそうした社会状況や日本の学生や親や教師は私もつまらないとは思うけれど、現代日本の若者の「世間体の呪縛」や「数字信仰」や「学生としてのプライドのなさ」を責め、あえて彼らにつまらない言い分の表明や反論をさせたり、自分とはタイプが違う融通の利かない親や数学教師を登場させたり、時には海外の留学生に日本の大学生批判を誘導してやらせたりして、著者の上田紀行がそれに便乗し、さらに苦々しくボヤき、時にあからさまにキレて「生きる意味」を喪失した日本の若者批判を得意げに優越して語り、いつも最後に情熱的に「生きる意味」の必要性を自身が説いて暗に自分だけの手柄にするような、上記の引用はいずれもそういったやり口の著者の語りである。

これは自然の豊かさに恵まれた、しかし先進国による開発の脅威にさらされる発展途上国の第三国に日本人のエコロジストやスピリチュアリストが行き、先進国の近代文明を自然破壊や効率主義や物質偏重の観点から超越的に得意気に糾弾して、最後は自分だけの手柄にする彼らの常套(じょうとう)なやり口に似ている。そのつながりが「生きる意味」から「スリランカの悪魔祓い」へ、上田紀行の著作を遡(さかのぼ)り連続して透けて見えた気がした。

「上田紀行という奴は相当にうぬぼれた、めでたい単純な男だ」の悪印象が私には拭(ぬぐ)えない。岩波新書の赤、上田紀行「生きる意味」は、内容は大変に妥当で概ね賛同できるのだけれど、どうしても違和を感じ最後の最後で著者の言い分を認めたくない気持ちになることも確かだ。