アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(52)浅野順一「ヨブ記」

「旧約聖書」にある「ヨブ記」は、富裕な家長であり、信仰にあつい「義人」(堅く神の義を守る人)であるヨブが一朝にして全財産を失い幸福な家庭を破壊され、自らは悪性の病に苦しむ実に不条理な話だ。自分の責任でないのにもかかわらず、なぜヨブはそのような不幸に陥らなければならなかったのか。悪が栄え善が苦しむ不条理な現実をどう解釈するべきか。一言にしていえば「義人の苦難はなぜか」という話である。

「ヨブ記」はキリスト者以外にも一般によく読まれる。人は自身が苦難を背負った時、不幸に陥った時に「なぜ私だけが」と苦悩して「ヨブ記」を読む。「ヨブ記」は、あくまでも「旧約聖書」の中の一編であり宗教論理の書である。「ヨブ記」を読んでみても、「義人の苦難」の主題に引きつけて自身の今ある苦悩や不幸の現状に合点(がてん)がいかない、腑(ふ)に落ちないなど、一向に気持ちが晴れず苦しみが和(やわ)らがず全く納得がいかないとすれば、それは「ヨブ記」の読み方を間違えているからだ。

「ヨブ記」を正統に読むには政治や経済の世俗の価値観を超えた宗教書として、さらには「ヨブ記」は「旧約聖書」中のユダヤ教の教典であるが、同時にキリスト教のそれでもあり「ヨブ記」に登場する人物はヨブを始めとして皆が異邦人であるから、「ヨブ記」は民族宗教のユダヤ教というよりは世界宗教のキリスト教の内実を持つ。そのため、先の宗教書の点に加えて世界宗教の観点からも「ヨブ記」を読み理解しなくてはいけない。逆からいえば、「(政治や経済の世俗の価値観と対立させる形で)宗教とは何か」「(民族宗教と対立させる形で)世界宗教とは何か」を押さえて読めば「ヨブ記」の正統な理解につながるはずである。

「ヨブ記」について、岩波新書の青、浅野順一「ヨブ記」(1968年)での人名表記と翻訳に依拠する形で、まずはその内容を確認しておこう。

ヨブは義人で、信仰的にも道徳的にも非の打ち所のない人物である。甚だ幸福な家庭の父であり男は七人、女は三人、ヨブと妻を加えて十二人の家族であり家産は裕福であった。その財産は多数の家畜の数に表れていた(1の1─5)。ここでヤーウェ(神)と対立するサタン(悪魔)がヤーウェに、「あなたがそんなにヨブをお賞(ほ)めになるなら、一度あなたの手を延ばし、彼のすべての財産を撃ってごらんなさい、そうすればヨブは必ずあなたに向かってあなたを呪うでしょう」(1の11)と提言する。やがて神の試練により、ヨブは一朝にして財産を奪われ家族も失う。しかし、ヨブは「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主(ヤーウェ)が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(1の21)。ヨブは神から受けた苦難を甘受する。さらにヨブ自身が悪性の腫物のために昼夜を分かたず苦しめられるはめになる。「ヨブは陶器の破片を取り、それで身を掻(か)く」(2の8)ほどの堪え難き苦痛である。財産を失って、ことに愛する子供たちを奪われたヨブの妻は「神を呪って死になさい」(2の9)とヨブを通して神への恨みをぶつける。だがヨブは、そんな妻に反駁(はんばく)して「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ、われわれは神から幸を受けるのだから災をもうけるべきではないか」(2の20)と語った。

次にヨブの友人が訪れ、ヨブとの対話の始まりである。友人のエリパズは「考えてもみよ、だれが罪のないのに、滅ばされた者があるか、どこに正しい者で断ち滅ぼされた者があるか。わたしの見たところによれば、不義を耕やし、害悪をまく者はそれを刈り取っている。彼らは神のいぶきによって滅び、その怒りの息によって消え失せる」(4の7─9)と神の怒りを招いたと考えられるヨブの不信仰の不義を糾弾する。友人のピルダデも「あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、あなたがもし清く、正しくあるならば、彼(神)は必ずあなたのために立って、あなたの正しいすみかを栄えさせられる」(8の5・6)と言って、ヨブ自身の罪のはもとより家族の罪をも認めて神の前に懺悔(ざんげ)し、正しい信仰に立ち帰るよう説得する。友人らのヨブに対する批判と勧告は続く。しかしヨブは全く応じない。「あなたがたの知っていることはわたしも知っている。わたしはあなた方に劣らない」(13の2・3)と答えるのみだ。

その後、突如として神は「つむじ風」(砂漠の怒濤の嵐)の中から次の如くヨブに呼びかけた。「無知の言葉をもって神の計りごとを暗くするこの者はだれか」(38の2)「あなたはなおわたしに責任を負わそうとするのか。あなたはわたしを非とし、自分を是としようとするのか」(40の8)。そこでヨブは神に答えていった。ここが話のクライマックスである。

「見よ、わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」(40の3―5)「わたしは知ります、あなたはすべてのことをなすことができ、また如何なるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それ故、わたしはみずから悟らないことを言い、みずから知らない、測り難いことを述べました。…わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」(42の1─6)

ヨブの言葉を受け、神はヨブの第一の友人・エリパズと二人の友人に対して激しく激怒した。「主はこれらの言葉をヨブに語られた後、テマン人とエリパズに言われた、『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向って燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しいことをわたしについて述べなかったからである』」(42の7)。その後、ヨブは神の御心により健康と家族と財産を回復し、元の繁栄を取り戻して末永く幸せに暮らしたという。

「ヨブ記」は真の信仰と義人について、どこまでも対立構造にて描き切って明示する誠に清々(すがすが)しいほどに分かりやすいキリスト教的な話である。「ヨブ記」における対立を「人物、幸福の内実、信仰のあり方」の各項にて公式化し挙げてみると、

「人物」ヨブ≠妻、ヨブの友人(エリパズ、ゾパル、ビルダデ、エルフ)
「幸福」人間の原罪に目覚めた新たな生き方≠世俗的地上の繁栄の追求(財産、家族、健康、学識、地位、名誉など)
「信仰」無私の信仰≠欲望充足、反対給付の期待、信賞必罰の応報主義

神の意に沿うのは前者である。ことごとく前者であって決して後者ではない。神にとって「わたしのしもべヨブは正しいことをわたしについて述べたが、友人らは、そうではない」の神の怒りは、エリパズを始めとするヨブの友人らに向けられる。ヨブの妻もエリパズと同様である。彼らは「幸福」を世俗的地上の繁栄の獲得(財産、家族、健康、学識、地位、名誉)に置き、彼らにおいて「信仰」は、その世俗的欲望充足のための手段である。ヨブの妻や友人達が信仰によって安楽や幸福を直接的には求めていなくても、彼らの主観的に「苦しい」信仰は、その信に伴う報償の反対給付を期待する不義の祈りなのである。なぜなら信仰のあつい義人であったヨブが自身の責任でないにもかかわらず、財産や家族や健康を取り上げられるという神の試練にさらされた時、ヨブの妻は「神を呪って死になさい」といい、ヨブの友人らは「だれが罪のないのに神に滅ぼされた者があるか。わたしの見たところによれば、今回のあなたの苦難は己の不義、害悪のせい」と激しく糾弾しているからだ。そのように願いが叶わないからといって安易に神を逆恨みしたり、神による苦難の原因を不信仰の不義に因果応報的に求めるのは、「善行には幸福で繁栄、悪行には不幸で破滅」という信賞必罰で応報主義の打算的判断に基づいてヨブの妻や友人らが日頃から信仰を実践している証左に他ならない。

しかしながらヨブは彼らとは違った。「われわれは神から幸を受けるのだから災をもうけるべきではないか」 と苦難の試練の中で語るヨブの信仰は、世俗的現世の幸福や繁栄のために祈る信賞期待な応報主義の打算を初めから超えている。ヨブは「神から幸を受ける」ためだけに祈っているわけではないのだ。

さらに「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう」とヨブは語り、「裸の自分」を見つめる。この「裸で出て再び裸で帰る」における「裸」は、従来の聖書解説にて指摘されているように、世俗的現世での繁栄の象徴である財産の所有に執着せず、人間が始めに神の像に造られた時のままの無所有の「裸」に帰するという物質的意味であると同時に、人間が神の像に造られた時にエゴイズムという原罪を負う者として造られた、そうした「裸」の自分、自身の原罪(人間悪)を直視して認めるという精神的意味も有している。ここにキリスト教の本質がある。

ヨブの信仰は欲望充足、反対給付の期待、賞罰応報を超えた人間の原罪を見つめる無私の信仰である。ゆえに「ヨブ記」のクライマックス場面たる神との対話にて、ヨブは以下のように述べて自分の原罪を愚直なまでに見つめ告白するのだ。「わたしはまことに卑しい者です、なんとあなたに答えましょうか。ただ手を口に当てるのみです」。財産と家族と健康の世俗的地上の幸福を神に奪われ、人間の原罪の自覚に新たに目覚めて人間的変化をきたしたヨブは、自身の罪深さとの対照において神の更なる偉大さの全能さを改めて知るのである。すなわち、「わたしは知ります、あなたはすべてのことをなすことができ、また如何なるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを」。

結果、ヨブは前よりもさらに深く(耳で聞くだけよりも目で見るがごとく)神の存在をより身近に強く感じるようになる。「わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします」。つまりは悪行由来の自分の責任ではない、一見不条理にも思える「義人の苦難」の体験を通してヨブの信仰は、さらに深められたのであった。

そうした欲望充足の世俗的打算を超えた無私の信仰により、人間の原罪に基づいた新たな生き方の志向という、より深化した信仰に目覚めた「神のしもべ」たるヨブと対照させて、神はヨブと対話し論争した友人らに向け怒りを露(あらわ)にする。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向って燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しいことをわたしについて述べなかったからである」。なぜ神がヨブの友人らに怒るのかといえば、彼らの神への信仰が、世俗的繁栄の欲望充足のための応報主義の打算に基づいたものであることを神が見透しているからである。欲望充足のための応報主義の打算に基づいた祈り、これほどまでに神に対し人間の傲慢(ごうまん)を表す行為はない。それは「祈る」という人間側の行為と引き換えに、神に対し自分を救えと強要することに等しいからだ。

祈りによるしかも、神の与えた試練に苦しんでいるヨブに対し、その苦難の理由をヨブ自身の不信仰の不義に求めヨブを激しく糾弾する時、彼らはあたかも「神の権威を利用して人間が人間を裁く」愚行に自身を堕(だ)しているのであり、ヨブが感得した人間の原罪の静かな自覚から、これほどかけ離れて思い上がった不遜な「信仰」もまたない。だから「わたしのしもべヨブ」とは対照的に、「ヨブのように正しいことをわたしについて述べなかった」と神の怒りはヨブの友人らに向って燃えさかるのだ。

こうした内実を持つ「ヨブ記」を読んでみても「義人の苦難」の主題に引きつけて、自身の今ある苦悩や不幸の現状に合点がいかない、腑に落ちないなど、一向に気持ちが晴れず苦しみが和らがず全く納得がいかないとすれば、それは「ヨブ記」の読み方を間違えているからである。信仰あつく清く正しく敬虔な祈りの生活を送っていれば、その分だけ神の手厚い加護により世俗的生活での物質的繁栄と心の安らぎの精神的平和が得られるに相違ないとか、間違っても自身の日常の信仰生活にて、不義や罪悪を犯した心当たりが全くないのに、ヨブのような、ある日突然に財産や家族や健康を損なう「義人の苦難」は不条理であり到底甘受し難い、少なくとも私は(ヨブのように)受け入れ納得することは出来ないなど、「ヨブ記」の内容そのものや現実の自身に身に覚えのない突然の不条理な苦悩や不幸に反感を抱く人は、政治や経済の世俗の価値観にて宗教書の「ヨブ記」を理解しようとしているからに相違ない。そうした日々努力の善根を重ねた上での因果によって繁栄や幸福の成果を手にしたり、苦悩や不幸の不条理を事前に回避できるとする応報主義は、政治や経済に属する合目的的な世俗の論理であり、宗教のそれではない。

宗教の本質は、信賞必罰や因果応報の功利を目的とした世俗の打算的論理の価値観を転倒させ無効にすることにある。幸福になりたいとか、世俗的成功を収めたいとか、心の平安を得たいの損得勘定から神に祈るのは、政治や経済に類する世俗的功利の活動でしかなく、それは宗教行為ではない。本来、宗教とはその信仰態度や実践行為によって当人にもたらされる利点があるか否かの世俗的功利の打算を遥かに超越した所で無私の立場から為されるものである。

確かに、例えば日本の神道のような現世利益のために(商売繁盛や家内安全や病気治癒など)功利を求めて神に祈る宗教もあるが、神道やユダヤ教の半(なか)ば呪術を介しての偶像崇拝や霊的神への畏敬や信頼、儀礼の形式的遂行に基づいて祈願(神頼み)の欲望充足を果たす宗教は民族宗教と呼ばれるものであり、キリスト教や仏教の世界宗教とは全く異なる。神道の民族宗教の神々は人間が祈れば、いくらでも祈願成就で願いを叶えて人間を甘やかすけれど、キリスト教の世界宗教の神は欲望充足で神に祈る人間の打算を厳しく叱(しか)って戒(いまし)める。

キリスト教の世界宗教は民族宗教の欲望充足の肯定とは違い、むしろ真逆で欲望充足を果たそうとする人間のあり方をエゴイズム発露の人間悪として否定的に捉えて懲(こ)らしめる。その意味で、ヨブの信仰のあり方とヨブの妻や友人らの信仰のあり方とをどこまでも対立構造にて描き切り、最後に神がヨブを肯定し、かつヨブの友人らをあからさまに否定する「ヨブ記」は、誠に清々しいほどに分かりやすい「旧約聖書」の中のキリスト教的な話であるといえる。

そして、この「ヨブ記」を含め、世界宗教であるキリスト教において、人間が神の像に造られた時にエゴイズムの悪を負う者として造られたとする原罪に基づく人間観や、世俗的な地上生活での欲望充足が否定的に捉えられることに関し、「私は悪の行為に手を染めておらず、私には何ら過失はないのに、なぜ私が生まれながらにして原罪を背負った人間悪の存在になるのか。人間が現世の世俗生活にて欲望充足に奔走し、巨額の財産や幸福な家庭やみなぎる健康を追い求めて生きることの何がいけないのか」と、なおも納得できずに食い下がる人がいるとしたら、その人はキリスト教を全く理解していないし、「もともと(世界)宗教的素養がない人」と笑われ軽くあしらわれるだけである。