岩波新書の赤、尾藤正英「日本文化の歴史」(2000年)の概要は以下である。
「日本人の日常生活に息づく伝統が解体しつつある今、私たちの自己認識はどこにたどり着こうとしているのか。人々の価値観や生活意識を示すものとしての宗教や思考を中心に歴史をたどり、国家や社会組織のあり方の変化に対応して、新しい時代の文化を主体的に形作ってきた日本社会の活力と、その固有のエートスを描き出す」(表紙カバー裏解説)
さらに著者は「日本文化の歴史」の「文化」について、次のように述べる。「ここでいう文化とは、さまざまな文化遺産や文化現象を指すのではなく、それらを包括しつつ、歴史的に形成されて来た日本人の生活や思考の様式の全体を、特にそこに現れた民族としての個性ないし特性に注目して考える意味の概念である」。
本書は「日本文化の歴史」とはいいながら文化遺産や文化現象そのものを扱うのではなく、日本人固有の思想・精神について述べるものである。先に引用した本書概要の通り、「人々の価値観や生活意識を示すものとしての宗教や思考を中心に歴史をたどり、国家や社会組織のあり方の変化に対応して、新しい時代の文化を主体的に形作ってきた日本社会の活力と、その固有のエートスを描き出す」。「エートス」とは、人間の文化社会の行為パターン(生活形式や習慣)や心的態度や倫理的態度(個人の感情規則や内面的価値基準)を総称した、ある時代のある地域の人々に共有されてある精神的雰囲気、独自の精神文化の型のようなものだ。本新書は著者が放送大学で開講した「日本文化論」「日本史概説」の講義に基づいた内容で、それらの公的テキストにもなっている。ゆえに「日本文化の歴史」について、原始・古代から近現代までの通史概論の形式をとる。
私は、本書「日本文化の歴史」の著者・尾藤正英を氏の著作を介して前から知っていた。尾藤正英は日本近世史、近世思想史専攻の研究者であり、現在ではそうでもないが、昔は江戸時代の近世思想史は「封建体制下の政治体制や社会文化や学問思想の封建イデオロギーの歴史」であり、「やがては克服されるべき前近代的なもの」と否定的に理解され、現代の歴史家の評価態度からして総体的に軽く見積もられる傾向にあった。まさに「暗黒の中世(近世)」史観の日本版のような日本史研究の趨勢(すうせい)が戦後の日本史研究には根強くあったのだ。
尾藤正英は近世史専攻の研究者として、そうした日本近世史が全体に否定的に軽く見積もられる風潮に一貫して反発している所があった。尾藤の初期の著作「日本封建思想史研究」(1961年)にて、現代の価値判断から歴史を超越的に批判したり、「ないものねだり」で現代の価値判断から歴史に対し至らなさの欠落を歴史家が指摘して糾弾することを尾藤は強く戒(いまし)める。「歴史家は裁判官ではない」ということを尾藤が「日本封建思想史研究」の著書にて戦後の早い時期から繰り返し語り続けていたのは、江戸の幕藩体制や徳川儒教史を扱う日本近世史を取り巻く戦後の日本史研究の状況による。そのため、幕藩体制や徳川儒教を前近代的な封建的なものとして否定的に捉える一方で、江戸時代の歴史が時代に特有な独自な特長ある政治体制や思想文化であることをそのまま認めて、現代からの価値判断を介さずに考察しようとする志向が他の研究者と比較しても尾藤の場合は特に強い。「日本封建思想史研究」は、今では日本近世思想史の名著と評されてよいと思うが、ここから後に氏の著作を読み継ぐにつれ、そうした尾藤正英の研究志向(嗜好)の持ち味が私には感じられた。
ところが後に私が驚いたのは、尾藤が主に1980年以降の論文や講演をまとめた「江戸時代とはなにか」(1992年)を読んだ時だ。元々あった「歴史をその時代に特有な独自な特長ある政治体制や思想文化であることを、そのまま認め現代からの価値判断を介さずに考察しようとする志向」に加えて、これまでの日本史研究の常識をひっくり返したい「新たな歴史解釈発見の功名心」(?)に駆られて尾藤の歴史語りが、今風の俗な言い方をすれば「トンデモ歴史」のそれになっていたからだ。
従来の歴史常識を打ち破る「新たな歴史解釈発見の功名心」というのは、尾藤「江戸時代とは何か」の帯での「自閉した近世史像を打ち破り、近世と近代を架橋する新しい日本歴史の見方」や、岩波新書「日本文化の歴史」の帯での「自閉した歴史観を打ち破る大胆な日本文化史の試み」の文句からして明白だ。尾藤の「江戸時代とは何か」と「日本文化の歴史」は内容が共通しており、両著を読んでいて「こりゃ本当かね」と半畳を入れたくなる歴史記述が相当にあった。かつて「日本封建思想史研究」や「日本の名著16・荻生徂徠」(1983年)解説にて近世思想史研究の良質な仕事を重ねていた尾藤正英に対し、「いかん、これでは尾藤の晩節が汚(けが)される」の率直な思いが私はした。
話が抽象的過ぎるので、ここで尾藤正英の「トンデモ歴史」語りの一例を挙げよう。旧著「江戸時代とは何か」に所収の「日本における国民的宗教の成立」論文にて以前に詳述されていたが、徳川幕府による本山末寺の制や寺請制の宗教統制、それに伴う死者の葬式や法要を主たる任務とする日本仏教思想及び教団の形骸化、いわゆる「葬式仏教化」に関し、尾藤が「葬式仏教の歴史的意義」として、幕藩体制下での「葬式仏教」を日本近世における「国民的宗教の成立」と、あえて高く評価する記述が岩波新書「日本文化の歴史」の中にもある。
「寺院が死者のための葬式や法要を主たる任務とするようになったことは、仏教の本来の精神からすれば、逸脱であると見られ、そのため葬式仏教として非難されることも多い。しかし十五、六世紀のころに成立した日本の仏教は、確かにインドや中国の仏教とは性格を異にしているかもしれないけれども、すべての人が死後には葬式をしてもらえるようになったというのは、それ以前に比べると画期的な変化であり、人々の精神生活の上に重要な意味をもっていたのではあるまいか。阿弥陀仏か釈迦仏か、宗派によって頼りとする仏は同一ではないにしても、死ねば仏式の葬式をしてもらえて、必ず仏の世界に行くことができるのであれば、個人としてこれほど安心なことはない。その安心感に支えられて、現実の社会生活は充実したものとなるであろう。それが日本の葬式仏教のもつ本来の意味であり、そのような形において天台本格論が現実のものになったともいえよう」(「第八章・国民的宗教の成立」)
江戸時代、徳川幕府による宗教統制を背景に日本仏教が実質的に「葬式仏教」になってしまったことに関し、世界宗教たる仏教の本来性格の欠落を問題とする宗教史や、幕藩体制下にて葬式や法要の儀式を通して宗教が個人を管理する体制維持のイデオロギーの役割を果たしていたことへの問題が何ら勘案されず、その代わりに宗教学や政治学の厳密な考察を抜きにした、相当に俗っぽい現代的な一般常識の判断から江戸時代の「葬式仏教の歴史的意義」を尾藤は半(なか)ば強引に肯定的に説いている。「葬式仏教」をして、「すべての人が死後には葬式をしてもらえるようになった画期的な変化」であり、それを「国民的宗教の成立」と高評価するのは、「万人平等の良イメージ」をそれとなく添えた上での漠然とした判断であって、他方厳密に言って、そこには寺請制度や檀家制度を通して封建権力による民衆の斉一的支配貫徹という非情な側面があるはずだからである。
また「死ねば仏式の葬式をしてもらえて、必ず仏の世界に行くことができるのであれば、個人としてこれほど安心なことはない。その安心感に支えられて、現実の社会生活は充実したものとなるであろう」などというのは、かなり俗っぽい考え方であって、それは尾藤を含め現代社会の多くの人が一般的に抱いている主観的な実感からする勝手な憶測でしかない。学術的な「歴史的意義」には到底なりえない。少なくとも私は、「死ねば葬式を必ずしてもらえるのは、個人としてこれほど安心なことはない」云々とは少しも思わないし、私の場合そういったことはあり得ない。
こうした江戸時代の「葬式仏教の歴史的意義」についての尾藤の言説は、その時代特有の歴史の特長を認めて日本の歴史を超越批判的に捉えたくない尾藤個人の研究者としてのそもそもの志向(嗜好)に加え、これまでの日本史研究における江戸の「葬式仏教」に対するマイナス評価の常識をひっくり返したい、「新たな歴史解釈発見の功名心」に氏が駆られたことに由来していると思われる。しかしながら、先行の研究者も歴史学界もそこまで愚かではないので、これまでに確立し広く共有されている歴史解釈や定番評価は、それなりの妥当性や正当性はあるはずで、ゆえに「自閉した歴史観や近世史像を打ち破る、大胆で新しい日本歴史の見方の試み」などと言ってみても、「従来の歴史観や歴史像を打ち破る」ことなどそう滅多に出来るわけもなく、そうした変に力んで意気込んだ新奇な歴史語りは「大胆で新しい歴史学」の表看板の勇ましさとは裏腹に、いざ読んでみると聞くに耐えない荒唐無稽な「トンデモ歴史」語りに終始する、実に落胆させられる場合がほとんどだ。尾藤の「日本文化の歴史」も残念ながら、それに該当の事例に思える。
ただ、その一方で尾藤正英「日本文化の歴史」には読むべき優れた指摘もある。それは近世武家国家の体制原理たる「役の体系」という尾藤提唱の理論だ。従来の日本史研究において細かな時代区分論と絡(から)めて、大枠のより大きな視点から日本の歴史を二分する議論があった。
尾藤によれば、古代の律令国家の形成と崩壊、その後の中世の内乱期をはさんで日本の歴史は近世の武家政権にて「役の体系」という新たな組織原理をなし、その画期にて日本の歴史が二分されるとする。岩波新書「日本文化の歴史」と旧著「江戸時代とはなにか」から尾藤のいう「役の体系」の概要を押さえて書き出すと、以下のようになる。
(1)「役の体系」とは、日本人の作り上げた独特の生活文化であり、古代国家に代わる新たな武家政権、近世の国家体制をさす。中世社会の「職の体系」(中世の封建的な社会組織形成において封建的領有の権利は「職」の所有という形をとった)と対照する近世社会の組織原理である。(2)「役」は国家内の役割分担であり、16世紀からの国家形成の新しい特色である。古代国家の強制(賦役)とは異なり、「役」は自発的・個人的なものであって、「役」の責任を主体的に果たすことで個人が誇りを感じ自信を持つ。己の「役」を果たし、与えられた「役」に安んじて生きることが基本とされる。(3)「役」に奉ずることで個人や社会は安定するが、外部の圧力や時代の変化には対応できない難点を持つ。徳川封建社会の長期存続の背景、ないしは幕末の諸外国からの外圧に徳川幕府が対応できなかった理由は、この「役の体系」の性格による。
尾藤提唱の「役の体系」は優れた理論だ。「役の体系」の成立以前と以後とで歴史は断絶し、つまりは戦国時代以後の16世紀の武家政権の確立を境に日本の歴史は前後に二分できる。「日本文化の歴史」は、古代・中世の「職の体系」と近世・近代の「役の体系」からなる。「役の体系」は戦国大名の分国支配や江戸時代の幕藩体制のみならず、近代日本における明治国家成立期の天皇制国家の家族国家観や昭和ファシズム下の総力戦体制、戦後社会の会社(忠誠)主義にも通ずる、日本社会の組織形成の原理であると考えられ、日本の歴史を考える上で尾藤正英の「役の体系」理論は誠に示唆に富む。