アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(58)暉峻淑子「豊かさとは何か」 橘木俊詔「格差社会」

以前に岩波新書の赤、暉峻淑子(てるおか・いつこ)「豊かさとは何か」(1989年)と「豊かさの条件」(2003年)を読んだ時に、現代の日本社会の「豊かさ」欠如の問題を指摘してはいるが、量質ともに「真の豊かさとは何か」についての考察が欠落しており、物足りない読後感が確かにあった。

そもそも人間の「豊かさ」についてのアプローチは物質的な「貧困克服」と精神的な「生きがい追求」の二つがあって、貧困格差の物質面での「豊かさ」問題には、解決策として社会資本の拡充、経済的弱者救出のセーフティネット政策各種の施策や福祉国家への志向が挙げられ、他方、精神的な人生の意義の「豊かさ」問題、空虚感や「生きる意味」喪失の虚(むな)しさに多くの人が苛(さいな)まれる問題、いわゆる「レゾンデートル問題」(存在価値問題)に処する自己存在価値の確保には、個別のカウンセリングやグループ治療や社会参加ボランティアの各種の心理学的アプローチが考えられる。

暉峻の「豊かさとは何か」と「豊かさの条件」を読んだ時に私が物足りなく感じたのは、「量」の考察の幅広さからして著者の暉峻淑子が貧困格差の物質的「豊かさ」の問題ばかりを論じ、他方の精神的「豊かさ」の「レゾンデートル問題」(存在価値問題)に全く触れていなかったからだ。否(いな)、著書にて特に「生きがい」喪失の精神的「豊かさ」の問題に言及なくともよいのだが、少なくとも暉峻淑子の岩波新書2冊を読む限り、「ゆとり」の感情や社会資本の充実や画一的ではない自由な生活態度など、経済的で物質的な「豊かさ」欠如とそれに準ずる問題しか著者の眼中にはなく、「生きがい」喪失の実存価値問題が全く想定されていないように私には思われた。「真の豊かさとは何か」に関する全体の考察に幅広さを欠く悪印象があった。それは本書での暉峻の議論が「物質的に一見豊かそうに見えて実は豊かではない日本社会」と「そのまま見た目も内実も豊かなヨーロッパ社会」、特にドイツと日本の単純対照比較のセットで常に語られていることからも明白である。

他方「質」の掘り下げに関しても、暉峻淑子は現代日本社会の貧困格差や社会資本の充実不備の現象的問題を指摘するのみで、「ゆとりや多様性や社会的弱者を踏みつけにする経済至上主義が、ここまで日本社会にて万能で、まかり通るのはなぜか」「なぜ日本社会において、社会的貧困弱者は我慢や努力が足りない末の本人の自業自得の『自己責任論』で時に痛烈に否定され、追い詰められる羽目になるのか」「自業自得や当人の身から出たサビの『自己責任論』で片付けられ、社会的貧困弱者に対する人々の援助や協力の人間同士の連帯が日本では、なかなか困難で成立しないのはなぜなのか」。これら疑問に対して一向に問題を深める解析記述がないのだ。ただ表面的な貧困格差の「豊かさ」欠落の問題を指摘し散らしているだけの悪印象が、これまた読後に残った。

しかしながら後々よくよく考え直してみて、「これは新書なのだから、そこまで詰めた濃密な議論が出来なくとも、新書を読んで初学の若い学生や今まで貧困格差の問題に無関心だった大人が『人間の真の豊かさとは何か』の問題に気付いて新たに関心の問題意識を持つだけで、ひとまずそれで十分なのではないか、本新書の社会的役割は果たせたことになるのでは」と私は思うようになった。

岩波新書の赤、橘木俊詔(たちばなき・としあき)「格差社会」(2006年)に関しても、そうした心持ちだ。本新書は暉峻淑子「豊かさとは何か」「豊かさの条件」に準ずる内容であり、現代日本の「格差社会」における貧困問題を扱っている。子ども、若者、女性、母子家庭、高齢者、地方地域の貧困。加えて収入、雇用、教育、健康、医療、福祉における格差を幅広く議論の俎上(そじょう)に載せている。

本書は、まず日本の貧困格差の現状と要因を様々な統計データにより詳細に検討し、不平等化が進行する日本社会の貧困状況を呈示する。次になぜ「格差社会」が良くないのか、人々の間での貧困格差はなぜいけないのか、その理由を論じる。それから最後に解決の方向として「格差社会への処方箋」提言、雇用格差の是正、貧困の救済(セーフティネットの拡充)、税制と社会保障制度の改革(所得の再分配)、その他「非福祉国家からの脱却」の施策を述べて考察をまとめている。

本新書の副題「何が問題なのか」からして、とりあえずは「格差の何が悪いのか」本書を通し学んで把握できれば、この新書の役割は果たせたといえる。「何が問題なのか」というサブタイトルの付け方からして、著書もそのように本書が読まれることを望んでいるに相違ない。本書に対する他の人の書評を読んでいると、「第1章・格差の現状を検証する」と「第2章・『平等神話』崩壊の要因を探る」での著者の統計データ扱いの不適切さや、「第5章・格差社会への処方箋」にて著者が出した「処方箋」の有効性に疑義を呈する批判の批評が多く、そうした細かなで精密な議論も私は否定しないが、やはりこの岩波新書「格差社会」の本質的な読みは、副題である「(格差社会の)何が問題なのか」を読み取り、問題の大枠を読者が共有することにあるのではないか。

格差問題テーマの討論にて、「格差はいつの時代でも、どこの社会にもあり、格差が生じるのは普通の自然なことで、格差が出ることは何ら悪いことではない」という「格差問題つぶし」の主張に対する反論根拠の想定問答集、ないしは格差問題に関する学生小論文のネタ本のような安直な感じに一見なってしまうが、そうした読まれ方や本書の使われ方を著者は許容し想定しているようにも思える。本書タイトルに従って「格差社会」の「何が問題なのか」を理解できれば岩波新書「格差社会」は、まっとうに読めたことになるに違いない。本書にて指摘されている「格差社会」の「何が問題なのか」を箇条書きにして、まとめると次のようになる。

(1)経済効率のために格差拡大はやむをえないとすると、貧困者や弱者があまりにも低い賃金に押さえられているため、働いても仕方がないと労働意欲を失ってしまう人が増大し、日本経済の成長や活性化にとってマイナスの要因となる。(2)貧困者が失業者であれば、その人は働いていないことを意味し、人材を有効に活用していない、あるいは人的資源をムダにしていることになる。(3)貧困者や弱者は社会から疎外されているという劣等感を持つ場合が少なくなく、不幸なことに勝者や高所得者や社会全体を憎み結果、犯罪に手を染めてしまう場合もある。貧困者や弱者が増えることは犯罪の可能性を増やし社会を不安定にする。(4)貧困者や弱者が増えることは逆に社会の負担を増やしてしまう矛盾が生じる。貧困で生活できない人には、税金による公的な経済援助(生活保護)を行う必要が生じ、貧困者が増えれば、そうした経済援助負担が自動的に増える。したがって貧困者の数は、国民に余分な税負担を要求しないためにも、できるだけ抑えた方がよい。(5)倫理的な問題として豪邸に住み華麗な消費に走る高所得者と、みすぼらしい家に住み日々の食に困るような貧困者が並存している状態が果たして人間的といえるか。富者の強者が貧困者の弱者を見下したり、子どもの頃から勝者と敗者が固定されている社会は倫理的に問題がある。

最後の(5)の「倫理的な問題」が特に重要だと私には思える。貧困格差の問題は、(3)や(4)のような社会全体に与える治安悪化や国家の財政破綻を招くといった新たな社会問題を引き起こす更なる実利的弊害のそれではなく、常識的に考えて「豪邸に住み華麗な消費に走る高所得者と、みすぼらしい家に住み日々の食に困るような貧困者が並存している状態が、果たして人間的といえるか」という倫理の人間の気持ちの問題、宗教的に言って人間の罪悪感の感情意識の問題に最後は帰着すると思う。この「倫理的な問題」を「ただの感情論」と見なして安易に廃棄してはいけない。

現代日本の「格差社会」の問題については、さらに以下のものが考えられる。

☆「経済的格差の貧困」から「機会の格差の選択不自由性の貧困」へ、さらに滑り落ちる悪循環。☆貧困の内実について、経済的困窮である「絶対的貧困」と機会選択喪失といった「相対的貧困」との相違区別と、それぞれの貧困問題への個別対応の必要性。☆「平等」よりも「公正」を重視して「個人の努力や工夫が報われる市場の競争原理に基づく活力ある社会」の新自由主義(ネオリベラリズム)的かけ声の欺瞞。すなわち、規制緩和や社会保障制度縮小の「小さな政府」と言いながらグローバル化の新自由主義的政策下にて格差が拡大し貧困者や弱者の増大にて治安悪化の社会不安が増すため、社会福祉政策から個人の監視管理へ単に政府が財政支出の軸足を移しているだけであり、何ら「小さな政府」になっていない。治安強化や国民の一大監視管理社会の到来にて、むしろ前よりも「大きな政府」の招来をきたすネオリベラリズム政策の欺瞞。

これら岩波新書の赤、橘木俊詔「格差社会」には書かれざる論点まで押さえて、貧困格差の「何が問題なのか」にとどまることなく、最終的に日本の「格差社会」の問題は追及されなければならないはずだ。