岩波新書の赤、井村裕夫「健康長寿のための医学」(2016年)の表紙カバー裏解説には次のようにある。
「成人期だけでなく、胎生期や子どものときの環境が、その後の高齢期の健康に影響するという。糖尿病、認知症など具体的な病気の最新知見とともに、人生の早い時期から自分の体について考える『ライフコース・ヘルスケア』、発症する前に予防する『先制医療』などを、近年の研究成果に基づき解説する」
本書は現在、社会にて急激に進む少子高齢化により、高齢者の急速増加で高齢者の医療費・介護費の公的負担が増えると同時に、高齢者保険の一部負担をしてきた若年の現役世代の減少しつつある将来を見越して、現今の日本の国民皆保険制度はいずれは崩壊することもありうる見通しのもと、将来高齢者医療のケアが昨今のように十分には為し得ないの危惧により、「なぜ健康長寿のための医学」知見が個々人にとり必要なのか、そうした広い射程から「健康長寿」の問題をまずは説き始める(「第1章・少子高齢化とその社会への影響」)。近い将来、公的医療制度に個人が全面的に依存できない事態も考えられることから、「残された時間のなかで、限られた資源を活用して一人でも多くの人の健康を守るために医学は何をなすべきか」が述べられている。
また、その記述に際し「近年の最新の研究成果に基づいて解説する」ため、ないしは「正確を期するため国際的に広く用いられている」概念用語を使用するために、本論中では一般に耳慣れない造語や専門術語の使用も多い(「NCD」や「ライフコース・ヘルスケア」など)。それら用語の内容にも留意しながら、本書の主要な要点を箇条書きにしてまずは書き出してみる。
(1)高齢社会で問題となる疾患は「NCD」である。NCDとは非感染症疾患のことであり、具体的に心血管系疾患、がん、糖尿病の病気を指す。かつて多かった死因疾患は結核や肺炎や気管支炎や下痢や腸炎などの感染症であったが、現在は世界の高齢化現象とともに感染症が減り、その分NCDによる死因が増えている。
(2)NCDの発病には遺伝要因と環境要因の二つが考えられる。胎生期、胎児期の低栄養が成人後の健康に影響することを示したデータが「コホート研究」(共通因子を持つ観察集団への追跡研究)により得られた。例えば、低体重出生児には後に糖尿病などが多く見られ、早期の低栄養は成人になってからの心疾患の発症に影響するものと考えられる。低栄養以外にも胎生期あるいは生後早期に影響する因子として、生体へのストレスや化学物質(ビスフェノールなど)の内分泌かく乱物質があり、それらに暴露されると、がんになるリスクが増加したり脳の発達に影響する。
(3)壮年期以降、長期に渡って健康を維持するためには政策として青少年期を中心とした「健康教育」が大切であり、「健康リテラシー」育成のための学習機会構築が肝要である。若年齢から認知機能、精神疾患、反社会的行動に対する抑制を学ぶことが必要だ。具体的には喫煙、飲酒の適度なたしなみ、薬物中毒の回避など。その他、後天的な認知の問題だけでなく、生来ないしは小児期に形成された個人の性格も健康の重要な因子となりうる。
(4)高齢者の「QOL」(生活の質)を維持するために何をなすべきか。重要なことは「ADL」(人の手を借りないで自立して生活できる状態)を保つことであり、より具体的には「フレイル」や「ロコモティブ・シンドローム」を招く疾病や外傷を事前に予防・防止することである。フレイルとは、加齢に伴って身体機能や予備能力が低下した状態をいう。ロコモティブ・シンドロームとは、運動器機すなわち骨・筋肉・関節の疾患によって要介護になるリスクの高い状態と定義される。フレイルから「寝たきり」への移行段階を促進するものとして疾患、ストレス、生活習慣がある。
(5)「ライフコース・ヘルスケア」というのは、胎生期から、さらに場合によっては受胎期から個人の健康を生涯に渡り計画的に連続して考えていく姿勢のことである。早い時期から人生の全体を通して健康に注意する。それには病気の予防と治療の両方の意味が含まれる。またその際には胎生個体のみならず妊娠中、さらには受精前からの母胎の健康管理も考慮されねばならない。
(6)ライフコース・ヘルスケアの各ステージは、(Ⅰ)受精前・妊娠中における母胎のケア(高齢出産の出来うる限りの回避、妊婦の高血圧・肥満の防止、妊婦の喫煙厳禁、飲酒の制限など)。(Ⅱ)乳・幼児、小児期におけるケア(十分な栄養、ストレスと化学物質の回避)、(Ⅲ)青年期における健康教育の実施(喫煙、飲酒、薬物への注意)。(Ⅳ)壮年期における健診の継続。(Ⅴ)老年期における健診と治療(フレイル、ロコモの防止)というように、個人の「ライフヒストリー」(人生の生活史)に従い各ステージごとにヘルスケアを進めることが求められる。
(7)重篤(じゅうとく)な症状が起きる以前の「予防」に力を入れるべきで、そのためには従来の予防医学よりもさらに一歩先んじて行う「先制医療」への取り組みが重要となる。先制医療とは、精密医療を予防に応用するものであり「精密予防」と呼んでもよい。今日、死因疾患の主とされるNCD、例えばがんの遺伝要因の解明がハイテク先制医療に求められている。また「新しいパブリック・ヘルス」として、「未来のヘルスケア」(ゲノム研究を中心とした生命科学研究の進歩など)と「ビッグ・データの活用」(膨大な臨床データの活用による医療の効率化)が挙げられる。
(1)については、私の実感からしても確かにそうである。昔は結核にかかると「不治の病」と悲観され諦(あきら)められる場合が多々あったが、今日では結核の感染症で亡くなる人は少ない。その分、非感染症たるNCDの心筋梗塞やがんで亡くなる人が現代では多く、死因疾患の上位を占めるNCDへの対応が現在では早急に求められていることに異論はない。(2)に関しても、母親の胎内に胎生期や生後早期にての飢餓を避けての十分な栄養、生体へのストレスや化学物質の過酷環境からの回避は確かに留意すべき事柄であり、胎児から小児の幼少期にかけてのヘルスケアは極めて重要だと思える。なぜなら著者が述べているように、幼年期の健康が後々、成年期の健康に影響を及ぼす因果がデータ上で明らかになっているからだ。
(3)の健康リテラシーの向上や健康教育への取り組みも理にかなっている。健康維持には診断や治療の実策以前に、個人の「健康に対する考え方」の認知が肝要であり、まずは喫煙習慣や過度な飲酒、薬物中毒、過食や偏食、睡眠不足の過酷な生活、重度のストレス、紫外線の長時間の浴び続け、そうした生活上の悪習慣を改める正しい認知を持つだけでも健康は維持でき増進できる。特別な予防や治療でなく、身体に悪いことを控えるだけで、ある程度、人は健康になれる。要は具体的医療行為の加療以前に、まずは当人の健康に対する考え方が大切ということだ。
(4)の老年期のQOLとADLの維持に関しては、その通りで、この(4)での老年期の健康への取り組みは(2)の胎生期、幼少期での十分な栄養供給、さらには(3)の青年期、成熟期の健康リテラシーの啓発も含めて、(5)と(6)のライフコース・ヘルスケアの各ステージの根幹要素を各々なすものである。本書での著者による一番の提言は、ライフコース・ヘルスケアという概念提示をした上での「健康長寿のための医学」へ向けた個人の主体的取り組みの促(うなが)しである。その都度、罹患したり体力的衰えが見えだす壮年期になって初めて健康に留意すればよいというような、その場しのぎの場当たり的なことではなくて、疾患に対する治療と疾患する以前の予防も含めて、各自が自身のライフヒストリーに従い各ステージごとに生涯に渡り一貫して自覚的にヘルスケアを進めるべきことを著者は説いている。何よりも、その事を本新書から第一に読み取るべきであろう。その上で(7)の先制医療の今後の進歩にも期待したい。
本書のタイトルは「健康長寿のための医学」であるが、「健康長寿」とは著者によれば、「日常的に介護を必要としないで、自立した生活ができる生存期間」のことである。そして、さらに「健康長寿」における「健康」とは、どういう状態なのか。著者はWHOの以下の「健康」定義を引用している。
「健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に病気あるいは虚弱がない状態ではない」
この「健康」定義にて特に読まれるべきは、「健康とは、…単に病気あるいは虚弱がない状態ではない」(病気や虚弱がなければ、それだけで「健康」と見なされるわけない)の指摘に加えて、「社会的に完全に良好な状態」ということから個人の社会的な状態を重視していることである。健康とは病気や虚弱がなければ即「健康」とするような、孤立した個体の身体的状態のみを指すのではない。それ以外にも、健康には社会へのコミットメント(他者との交流、仕事やボランティアへの参加など)の要素も含まれる。さらにいま一つ注目すべきことは、身体的に良好な状態という生活の質(QOL)を重視する立場から健康を定義していることだ。繰り返しになるが、健康とは「単に病気あるいは虚弱がない状態ではない」のであり、その「完全に良好な状態」には当人の生活の質も考慮されなければならない。