アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(81)藤沢令夫「ギリシア哲学と現代」

岩波新書の黄、藤沢令夫「ギリシア哲学と現代」(1980年)の肝(きも)は、その題名にある。つまりは「ギリシア哲学」を単に完結した古典として個別に哲学教科書的に解説するのではなく、「現代」状況に結びつけて論じようする。ゆえに「ギリシア哲学と現代」なのである。

より詳細にいって副題の「世界観のありかた」からして近代の「主体と客体」の心身二元論、「近代の自然科学と二元論的下絵の定着」の始源を呪術の非合理性を拝した人間中心主義を現実主義的な「ギリシア(自然)哲学」に求めつつ、しかしながら「現代」の自然科学の発達と工業化社会がもたらすマイナスの波及効果(公害現象、自然環境破壊、薬害、大量殺人の武器弾薬など)、ないしは時間と空間とを均質支配する効率主義の近代主義の思考を人間生命尊重の「ギリシア哲学」からの逸脱として厳しく批判する。「現代」の近代合理主義の思考に対する批判として、「ギリシア哲学」を対置させようとする。本書は、そうした議論の主旨の「ギリシア哲学と現代」である。

本新書は以前に「岩波市民講座」にて著者が講義した内容をまとめたものであり、「最初の講義の時間内には話せなかった事柄を補足しながら、かなり大幅に書きあらため」(209ページ)たものだという。なるほど、本書を一読して立論の順序や展開、各章同士の関係性やそれら小論が全体の議論の中で果たす有機的つながりの配置が、あらかじめ事前に整序づけられ、よく考えられている。

本書における「考察の手続き」(28ページ)は以下である。まず「いま哲学が指向すべき世界観はどのようなものか」、次のような(1)から(5)の段階的見取図に沿って議論が進められる

「(1)近代自然科学を支えてきた世界の見方は、どのようなものであったか。そして、近代自然科学の成功が近世以降の哲学に与えた影響の確認(第Ⅱ章)。(2)近代自然科学の哲学的問題ないしは難点の指摘(第Ⅲ章)。(3)歴史的遡源(そげん)と原理的還元の作業を経ての近代自然科学的思考の由来の解明(第Ⅳ章)。(4)克服・解決の方向として哲学的世界観は、どういう方向性を持ち、どのような諸条件を満たすべきかの考察と提言(第Ⅴ章)。(5)われわれの求める哲学的世界観の可能性をプラトンとアリストテレスの哲学に即しての具体的検討(第Ⅵ章、第Ⅶ章)」

このうち(2)の「近代自然科学の哲学的問題ないしは難点の指摘」は、より詳細に次の4つの「基本的問題」(54ページ)が挙げられ、二つの原理ないしは次元の統一・止揚が求められる。「1・事実と価値、2・物質と生命、3・『物』と知覚、4・部分と全体」。また(4)の「克服・解決の方向として哲学的世界観は、どういう方向性を持ち、どのような諸条件を満たすべきかの考察と提言」は、以下の5つの「要請される世界観の充たすべき基本的な条件」(104ページ)を通して著者により主張される。

「(A)全体的視野の確保、(B)統一性の確保、(C)『物』の解体と物の尊厳性、(D)知覚の因果説の拒否、(E)『場の描写』的な記述方式」

(A)と(B)は近代の自然科学を支える「二元論的下絵の定着」克服のための前提である。「全体的視野」から「統一性」を志向して、主体と客体の二元論的世界観の統一・止揚を目指す。(C)と(D)は「物」実体の個別的な客体存在や、「物」実体に付属すると錯覚されている属性を人間主体が知覚する仕組みの因果説を排し、関係論的に存在と認識を考え直す思考への架橋である。その上で「物」の客観的な素朴存在を解体し、人間主体との関係にて物の尊厳性を見出し認め、「主語・述語=実体・属性」という主客の近代二元論たる「知覚の因果説」の記述方式を退けて、代わりに(C)と(D)の条件に照応した(E)の「場の描写」、つまりは存在や認識について「場」を媒介にした関係論的な思考をとるべきとする著者の哲学的立場に連なる結論となっている。

ここで私達は気付くはずだ、本書「ギリシア哲学と現代」は一見、自然科学や社会経済の効率主義に象徴される人間疎外の近代合理主義思考を否定し、それに人間中心主義の「ギリシア哲学」を対抗させる「ギリシア哲学」への回帰の志向に見えて、実は客観的「物」存在や客体に対する主体認識を自明とした主客の近代主義を批判して関係論的な「場の哲学」を展開する、本書出版時の1980年時点での「最新の」ポストモダン議論でもあることを。

岩波新書「ギリシア哲学と現代」にて、著者は「現代」における時間と空間とを均質支配する効率主義の近代的思考を、それが究極的にはギリシアの自然哲学に始源があるとしながらも、人間生命尊重の「ギリシア哲学」からの逸脱として厳しく批判する。近代合理主義の思考への批判としてギリシア哲学を対置する。「第Ⅶ章・アリストテレスの哲学とエネルゲイアの思想」の中で、「キネーシス(運動)とエネルゲイア(活動)」の概念図式にて、「キネーシスは文字通り物体の運動へと原理上還元されるのに対して、エネルゲイアとは魂・心・精神(あるいは生命)の活動にほかならないこと」(183ページ)を読者に示した上で、「キネーシス」の目的合理主義、効率主義的な「運動」に「エネルゲイア」の人間の生命「活動」を対抗させようとするのだ。すなわち、「とうとうたる近代化もしくは現代化の奔流によって、人間におけるあらゆるエネルゲイア的な可能性がつぎつぎと圧殺されて行くのをゆるさないためには、…それを推進させている『運動の論理』の素姓と本性を見据えることによって、活を求めなければならない」(190ページ)

また著者は「哲学」を次のように定義する。

「哲学とは、世界に関する客観的(科学的)知識と、その世界のなかにおける人間の生の意味を見きわめ、あるいは善を選ぶところの主体的な知恵とを、どこまでもロゴスの基本に徹しながら、ひとつの総合的な視力のもとに収斂(しゅうれん)することによって、形而上学を指向することである」(204ページ)

著者の藤沢令夫において「哲学」とは、「世界に関する客観的(科学的)知識」と「人間の生の意味を見きわめ、あるいは善を選ぶところの主体的な知恵」とを「総合的な視力のもとに収斂」させるものであり、それら知の二つの方向の総合・収斂こそが人間の知のあり方の原点である。それゆえ、著者の志向する世界と人間との有機的総合たる生命活動的な「ギリシア哲学」は、主客二元論に支えられた近代自然科学や効率目的追求の「現代」を原理的に完膚なきまでに批判できたのであった。