アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(83)丸山眞男「戦前における日本の右翼運動」

(今回は岩波新書に収録されていない、丸山眞男「戦前における日本の右翼運動」についての文章を「岩波新書の書評」ブログではあるが、例外的に載せます。念のため、丸山「戦前における日本の右翼運動」論文は岩波新書にはありません。)

丸山眞男の「戦前における日本の右翼運動」(1958年)が昔から好きだ。丸山眞男、この人は確かに日本の戦後民主主義の「知識人」であった。知識人であるがゆえに民衆や大衆とは距離を置いた。時に民衆や大衆の短絡的で一時の感情的な思考を否定的に見て、それらを嫌悪さえしていた。しかし、知識人の丸山が日本の民衆の悪い癖を「権力の偏重」や「実感信仰」の概念把握にて次々と的確に明確に診断していったのも確かであって、現実の日本の民衆に対する丸山政治学の分析の切れ味には驚嘆すべきものがあった。

丸山「戦前における日本の右翼運動」は題名タイトルが「戦前における」となっていながら本論を読んでみると、戦後日本の「現代世界」に関しての「現代世界の右翼的な国家主義にほぼ共通するイデオロギーあるいは精神的傾向としてどのようなものが挙げられるか」が執拗に述べられており、そこが本論説への半畳の入れ所であり笑い所でもある。

しかしながら「戦前における日本の右翼運動」と言いながら、「現代世界の右翼的な国家主義」について主に述べるのは、戦前右翼的な思考が、そのまま戦後日本社会でも人々の内で継承され延命し増殖しているからに他ならない。そういう右翼的国家主義精神の蔓延は丸山が本論説を執筆した1950年代よりも今日の2000年以降の現代日本において、より酷く深刻になってきている感すらある。

そして丸山に言わせれば、そうした右翼的な国家主義思考のイデオロギーにイカれるのは、知識人や一般の常識的な社会人(政治家、公務員、教員、会社員など)や主婦(主夫)や普通の学生であるよりは、子分を従え指導指揮する、親方的な小権力の小宇宙を持った自営業や自由業の事業主ないしはリーダー(実力主義で成り上がりの中小企業のワンマン社長など)や、個人的挫折経験などから社会や他者に怨念(ルサンチマン)の劣等意識と敵対意識を潜在的に持った社会的責任倫理が希薄な学生の若者や末端労働者の社会人であり、一般社会のどこにでもいるような民衆や大衆の中で「現代世界の右翼的な国家主義傾向」は日々、醸成され再生産されるのであった。

以下に引用する、丸山眞男による「現代世界の右翼的な国家主義にほぼ共通するイデオロギーあるいは精神的傾向」十項目の指摘は実に傑作である。

「ここで現代世界の右翼的な国家主義にほぼ共通するイデオロギーあるいは精神的傾向としてどのようなものが挙げられるか、試みに羅列して見よう。(Ⅰ)他のあらゆる忠誠にたいする国家的忠誠の優先、(Ⅱ)平等と国際的連帯を強調する思想や宗教への憎悪、(Ⅲ)反戦平和運動にたいする反情と『武徳』の讚美、(Ⅳ)国家的『使命』の謳歌、(Ⅴ)国民的伝統・文化を外部からの邪悪な影響から守れというアピール、(Ⅵ)一般に権利よりも義務、自由よりも秩序の強調、(Ⅶ)社会的結合の基本的靭帯としての家族と郷土の重視、(Ⅷ)あらゆる人間関係を権威主義的に編成しようという傾向、(Ⅸ)『正統的な国民宗教または道徳』の確立、(Ⅹ)知識人にたいして、彼等が破壊的な思想傾向の普及者になりやすいという理由から警戒と猜疑の念をいだく傾向。…右にあげた主張や傾向は、政界、実業界、教育界など様々な領域の党派や団体にひろく蔓延し、とくにそれらの指導者たちの間で信奉されていた」(「戦前における日本の右翼運動」)

(Ⅰ)の「他のあらゆる忠誠にたいする国家的忠誠の優先」に関しては、今日の日本社会にて国家批判や政権批判を行うと何でも「反日左翼」と認定したがる風潮に私は恐怖すら覚える。戦時中の挙国一致内閣での思想統制下でも国家批判や政権批判をやれば「国賊、非国民」と、かつて人々は厳しく糾弾されたのだった。

(Ⅱ)の「平等と国際的連帯を強調する思想や宗教への憎悪」や(Ⅷ)の「あらゆる人間関係を権威主義的に編成しようという傾向」など、率直にいってチンピラの思考である。平等や連帯といった人間の権利規範を安易に全否定する権威主義的人間関係は、人間の上下主従に執着する「相手からナメられたら終わり」のチンピラ思考であるから、他者に対する常に厳しい抑圧・不寛容の他罰感情や特定集団や民族や国家や国際組織(労働組合や市民運動グループ、在日外国人や他民族文化の人々、近隣東アジア諸国、国連など国家の権力公使に制限を付する国際組織)に対する絶えざる蔑視と憎悪と激しい攻撃的言動を伴う。これはもう一種の病気である。