アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(84)柄谷行人「世界共和国へ」

柄谷行人「世界共和国へ」(2006年)は、岩波新書の新赤版1001点目にあたる節目の新装赤版で、夏目漱石やマルクスや「歴史の反復」や日本国憲法を様々に論じてきた著者のカントに関する仕事であり、「トランスクリティーク・カントとマルクス」(2001年)を一般読者向けに分かりやすく新書にまとめたものだ。

「『資本=ネーション=国家』という複合体に覆われた現在の世界からは、それを超えるための理念も想像力も失われてしまった。資本制とネーションと国家の起源をそれぞれ三つの基礎的な交換様式から解明し、その複合体から抜け出す方法を『世界共和国』への道すじの中に探ってゆく。二一世紀の世界を変える大胆な社会構想」(表紙カバー裏解説)

また本新書の帯には本文抜粋で、以下の文章が引用されている。

「私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば『世界共和国』に至る道筋です。しかし、そのためには、資本、ネーション、国家がいかにして存在するのか明らかにする必要があります。資本、ネーション、国家はそれぞれ、簡単に否定できないような根拠をもっているのです。それを揚棄しようとするのであれば、まずそれらが何であるかを認識しなければならない。たんにそれらを否定するだけでは、何にもなりません。結果的に、資本や国家の現実性を承認するほかなくなり、そのあげくに、『理念』を嘲笑するに至るだけです」(15・16ページ)

柄谷が言うような「資本=ネーション=国家」を超えるためには、それら三者の出自生成の複雑な絡(から)み合いを歴史的にたどり解きほぐす必要があり、そのため本新書ではローマ帝国から絶対主義やフランス革命、カントからスミスやヘーゲルやマルクスまで、世界史や哲学を通しての資本やネーションや国家に関する事柄が幅広く概説されている。そうした著者の総論的な語りが、まずは本書の読み所といえる。もちろん、著者の柄谷行人は「資本と国家への対抗」のために「まずそれらが何であるかを認識しなければならない」戦略的立場から資本や国家に対し歴史的概観を施しているのだが、そのような著者の切実な問題意識を外して、ひとまず世界史や哲学の教養書として本書を読んでも面白いと私は思う。

帯に引用されたの文章の最後、「たんにそれら(資本や国家)を否定するだけでは、何にもなりません。結果的に、資本や国家の現実性を承認するほかなくなり、そのあげくに『理念』を嘲笑するに至るだけです」は、間接的に遠回しに、しかし明確にマルクス主義の現状を痛烈批判している。従来型のマルクス主義のように、ただ資本と国家を否定するだけでは不十分であり、それは結果として「資本や国家の現実性承認」、そしてそのあげくにマルクス主義者の唱える革命や世界観の「理念」が無効なものとして「嘲笑」されるに至る、今日の共産主義者の窮状を極めて的確に冷ややかに語っている。しかも、著者は一言も「マルクス主義」の言葉は直接に使っていないが、読む人が読めば、あれは昨今の共産主義思想が置かれている苦境の立場を示しており、同時に資本と国家を超える柄谷の「世界共和国へ」の志向が従来の「マルクス越え」を狙っていることは明白だ。こうした「直接的には語らないが暗に匂わせる」著者の本書での語りも非常に優れている。

何よりも冒頭からチョムスキーの「国家の四つの形態」(4ページ)にて、縦と横に二つの評価軸を作り交差させて四象限にて図示解説する相変わらずの「柄谷節」の炸裂で、私は思わず笑ってしまう。柄谷が前から多用する二つの評価軸の四事象図示の説明は、説明対象たる一つの理論そのものを独立して超越的に論じるのではなく、他の三つのものと評価の象限区分にて比較相対しながら考察できる所が強みの良さで、柄谷行人の毎度の論説を読む人は当然、そのことを意識して読んでしかるべきであろう。本書「世界共和国へ」にても、柄谷は「私は…資本、国家、ネーションを三つの基礎的な交換様式から見、さらに、それらを超える可能性を第四の交換様式(アソシエーション)に見いだすというような考えを提示した」(227ページ)としているが、その「アソシエーショニズム」は四象限の中の一つであり、常に他の三つの象限の思想理論と対照され、それらとの関係にてアソシエーションの正当性の良さが突き詰められるのであった。すなわち、縦軸に「統制と自由」、横軸に「不平等と平等」の評価基軸をとり、左上の象限から時計回りにB、A、D、Cと位置付けして、名称と二つの軸による簡潔内容と19世紀の主要人物とを重ね合わせ、それぞれ挙げてみると、

「B・福祉国家資本主義(社会民主主義)、統制もあり不平等、ボナパルト、ビスマルク、A・国家社会主義(共産主義)、統制はあるが平等、サン・シモン、ラッサール、D・リバタリアン社会主義(アソシエーショニズム)、自由であり平等、プルードン、マルクス、C・リベラリズム(新自由主義)、不平等であるが自由、古典経済学派」

さらに、これら四象限にそれぞれに特徴的な「四つの交換様式」を対応させると、「B・福祉国家資本主義、再分配(略取と再分配)、A・国家社会主義、互酬(贈与と返礼)、D・リバタリアン社会主義、X(エックス)、C・リベラリズム、商品交換(貨幣と商品)」となる。

「資本と国家の乗り越え」を目する柄谷が志向しているのは当然、自由でありかつ平等でもある、かつてのプルードンやマルクスが唱えた「リバタリアン社会主義(アソシエーショニズム)」である。そして、Dの「アソシエーショニズム」の交換様式を「X(エックス)」と匿名表記してはいるが、その内容は「アソシエーション」であり、以下のように定義される。

「それは、商品交換(C)という位相において開かれた自由な個人の上に、互酬的交換(A)を回復しようとするものだといってよいでしょう。私はそれをアソシエーションと呼ぶことにします」(38ページ)

柄谷は「アソシエーション」について、さらに言う。「アソシエーションが交換様式A・B・Cと異なるのは、後者が実在するのに対して、想像的なものだという点です。実際、それは歴史的には普遍宗教が説く『倫理』としてあらわれたのです。とはいえ、それはたんに観念ではなく、現実に大きな役割を果たしてきました。たとえば、歴史上にあらわれた社会運動は、おおむね、宗教運動という形態をとっています。近代の社会主義運動もまたこのDという位相においてあらわれたといえます。これらは、A・B・Cの結合に基づく資本主義的な社会構成体に対して、外部から対抗するばかりでなく、その社会構成体に内属しています」(38・39ページ)

柄谷のいうリバタリアン社会主義の交換様式「アソシエーション」(D)は、リベラリズム(新自由主義)の「商品交換」(C)の自由と、国家社会主義(共産主義)の「互酬的交換」(A)の平等の双方を確保しようとするものだ。これはかつて歴史上に実在したことがなく、いまだ想像的なものだという。なるほど、それは当たり前でDのアソシエーションは、Cのリベラリズム(新自由主義)とAの国家社会主義(共産主義)のそれぞれの良さ、規制なしで自主的な自由と格差なしで互酬的な平等との双方を兼ね備えているからである。そして、いまだ実現されざる想像的なアソシエーションの本質を歴史的にたどれば、普遍宗教が説く「倫理」となる。「歴史上にあらわれた社会運動は、おおむね、宗教運動という形態をとっています」。例えばカントの道徳法則「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」、これは理性に基づくある種の宗教的普遍「倫理」の言明だが、そうした普遍宗教の理念的な倫理規範は、資本や国家の現状の論理、「格差」(行きすぎた放任の自由)や「統制」(過剰な制限の平等)の人間疎外と異質であるがゆえに、それらに対抗できる倫理たりうる。

そうした普遍宗教的な倫理規範に歴史的に求められる、資本主義的な社会構成体に対抗できるアソシエーションの発想は、柄谷において「カントの二つの構想」(181ページ)に求められるのであった。その二つとは、すなわち(1)商人資本の支配を斥けた小生産者たちのアソシエーション=互酬的交換を高次元で取り返す、そもそも富の格差が生じないような交換システムの実現と、(2)諸国家がその主権を譲渡することによって資本と国家を揚棄するような「世界共和国」の実現である。

本書での議論にて柄谷により特に重要視されているのは、(2)の現実の資本と国家を超えるより上位の国際的組織(資本や国家がそれに対して主権を放棄するようなもの、例えば各国の軍事的主権を一時的に制限・譲渡する今日の国際連合のような)の構想であり、それはカントの平和論「永遠平和のために」(1795年)における「神の国」発想に由来した「世界共和国へ」の構想に他ならない。そうしたカントの道徳規範に依拠した柄谷行人による「資本=ネーション=国家を超える理念と想像力」は、本書タイトル「世界共和国へ」にそのまま集約していくのであった。

岩波新書「世界共和国へ」を読んだ上での私の率直な感想は、「現存国家や資本のさらに上位に位置し、それら権力行使や経済活動に制限の限界を付する国際連合のような世界的上位組織の構想が、どうして日本人はそんなに好きなのか!?」ということであり、この耳障りのよい国連主義的な「世界共和国」構想を述べる著者に対して「柄谷、お前もか!」という率直な思いだ。

「資本=ネーション=国家を超える」とする柄谷の「世界共和国へ」の発想は、国家主権を形式的に否定して欧米を排した近隣アジアとブロック経済圏を形成する戦前の大日本帝国の「東亜新秩序」ないしは「大東亜共栄圏」構想、さらには国家間の関税や規制の障壁を大幅に取り除いてグローバルで「自由な」貿易体制を構築する今日の日本政府が進める「環太平洋パートナーシップ協定(TPP)」のそれに似ている。目的の中身は違うが、「国家や資本を一旦揚棄してグローバルを志向する」云々の発想様式は同じである。そのような国家や資本を超える「世界共和国へ」の発想は、目先の政治的主権や自国内での経済活動を一時的に一旦放棄しているように見せながら、帝国主義的な新自由主義体制構築のグローバル化を推進する資本と結託したネオリベ政策遂行の現在の日本の国家が、むしろ積極的にやっている(やりたがっている)事案である。またアメリカによる単独行動主義の問題は、軍事的主権を一時的に譲渡して集団安全体制の足並みを揃えて戦争防止をはかる設立当初の理念とは程遠い、今日の国連の苦悩を見るにつけ、本書にいう「世界共和国へ」の実現可能性にも私は疑問を持たざるを得ない。

柄谷行人がいう「資本=ネーション=国家』という複合体に覆われた現在の世界から、それを超えるため」には「世界共和国へ」などというカントの発想に依拠した大それた「理念も想像力も」要らない。そこまで大風呂敷を広げなくてもよい。マルクス主義の有効性が果てしなく疑われ続け、資本と国家を超える道筋が見出だせない現代世界にて、資本と国家に対抗するためには以下の二つの実効的政策を世界的でなくてもよいから一国の国内政策として着実に遂行するだけでよい。

(1)今日の資本主義体制下にて労働にまつわる人間疎外を根絶するために、個人が自らの労働力を売りに出さない(働いてもよいし、別に働かなくてもよい選択)自由の確保、つまりは「ベーシックインカム」(最低限所得保障)の導入。(2)経済格差解消のための所得公平分配の施策。福祉国家的な分配正義の遂行(軽減税率にして食料品や教育費への税率を出来うる限り下げ、代わりに嗜好品やレジャー消費、個人の相続税や企業の法人税は、どこまでも限界まで上げる施策を通しての富の再分配)

しかしながら2000年代以降の自民党保守政府の政策を見ていると、(1)のベーシックインカムとも(2)の所得公平分配の施策とも全くの正反対である。経済界の資本と結託した現政府による新自由主義的(ネオリベラリズム)政策断行のもと、人々は市場に投げ出された「自由な」個人として過酷な労働条件下でも働かざるを得ず、貧困格差の問題は実に深刻で、「ワーキングプア」(正社員並みに働いているのに、生活保護水準にも満たない収入しか得られない就労社会層。「働く貧困層」ともいわれる)の問題や一部の一握りの富裕層とその他の大勢の貧困層との激しい二極化が、ますます進行しつつある。(1)のベーシックインカムも(2)の所得公平分配の施策も「世界共和国へ」の構想同様、日本ではおそらく将来的に実現の可能性は皆無であり、私は苦笑するしかない。