アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(87)内田義彦「資本論の世界」

スミスを始めとしてマルサス、リカードらの古典派経済学とマルクスの近代経済学と、河上肇の日本経済思想史の研究で知られる、内田義彦の岩波新書の著作は「資本論の世界」(1966年)と「社会認識の歩み」(1971年)と「読書と社会科学」(1985年)であり、奇(く)しくも内田の「岩波三部作」のような体裁になっている。

なかでも「岩波三部作」の最初の著作「資本論の世界」は、内田義彦によるマルクスについての論考であり、これは以前に内田がラジオ講座で話した内容を文字起こしして後に改訂したものだ。すなわち、「本書は録音速記に加筆したものではない。テープをききながら、こうもしゃべればよかったかなという形で、まったく新たに書き下ろしたといえば人ぎきがいいが、書き直してはテープにとり、それを聞きながら書き直すという作業を繰り返して出来上がったものである」(213ページ)。本書は「初学者のためのマルクス入門書」として紹介されることが多いが、岩波新書の青、内田義彦「資本論の世界」は初学の入門用には適さない、マルクス初心者には内容がやや難しいのでは、というのが私の結論だ。

というのも本書にて内田が試みているのは、マルクス「資本論」(1867年)の概要や学術用語を噛(か)み砕いて読み手にわかりやすく概説することだけでは決してない。そもそも本新書のタイトルが、なぜ「資本論の世界」なのかといえば、

「私は『資本論』の筋書を筋書としてお話しするつもりはありません。『資本論』を使うことで資本主義の現実がどうみえるかをお話しする。それによってまた、そういう独自な方法で資本主義を捉えざるをえなかったマルクスの問題を、現代に浮かばせてみたいというのが、私のねらいであります。でありますから、問題は、マルクスの体系はこうだではなくて、なぜマルクスはこういう方法をとっているかであります。それには一つ、分析の対象である資本主義そのものの、従来の社会とは違った独自の性格があるだろう。今一つには、窮極的にそういう体系的な方法にまでマルクスを導いていったマルクスの眼があるだろう。研究の対象である資本主義社会と、それを捉えようとするマルクスの間に、緊張をはらんで成立するのが『資本論の世界』でありますから、その間の関係を明らかにしないかぎり、『資本論』の説明は『資本論』の筋書に終わってしまう」(35・36ページ)

著者の内田義彦がいう「資本論の世界」とは、従来の社会とは違った独自の性格を持つ「資本主義そのもの」の分析対象と、窮極的に社会科学の体系的な方法に裏打ちされた「マルクスの眼」の分析主体との間に、緊張をはらんで成立する「世界」である。「資本論の世界」は、分析対象と分析主体との間に成り立つ二元的「世界」なのであった。だから、著者のいう「資本論の世界」に迫るには考察対象たる資本主義と考察主体たるマルクスの両者それぞれを明らかにしないかぎり、そこでのマルクス『資本論』の読みは通り一辺倒の表面的な筋書解説で終わってしまう。ここから本書の記述は対象と主体についてのそれに二分できるはずだ。つまりは前者の資本主義そのものについての考察、そして後者のマルクスの社会科学の方法論に関する考察である。

「これから、六回にわたって、『資本論』を読みながら、思想家マルクスの出している問題を考えてゆきたいと思います」(1ページ)と書き出しにあるように、本新書は全六章からなる。前半の「Ⅰ・マルクスを見る眼」「Ⅱ・『資本論』以前の問題」「Ⅲ・スミスの世界とマルクスの世界」の三つの章は社会科学の体系的方法をとるマルクスの「主体」に関するものだ。後半の「Ⅳ・労働と疎外」「Ⅴ・相対的剰余価値の論理」「Ⅵ・資本と人間の再生産」の三つの章は資本主義社会の「対象」についてのものである。

マルクスの「資本論の世界」を論ずる書籍なのに、前半に「『資本論』以前の問題」や「スミスの世界とマルクスの世界」など、マルクス以前やマルクス以外の内容の章をわざわざ設けているのは不自然な感じがする。初読の際、少なくとも私はそう感じた。しかし著者の内田義彦からすれば、「資本論の世界」とは分析対象たる資本主義社会と分析主体たる社会科学の方法を取るマルクスより成る二元的「世界」であるから、それら「資本論の世界」観の構成一要素であるところのマルクスの資本主義分析にて駆使される社会科学の方法論の出自を遡(さかのぼ)れば、古典派経済学のスミスにまでたどり着き、よって内田からすればマルクスの「資本論の世界」にてスミスに言及しない訳にはいかないのである。

ここでいうスミスから共通してマルクスが継承する「社会科学の方法」とは、個人や社会の恣意的選択や自由行為にて無秩序に生成されるように一見思える経済や社会体制についての人文社会的な考察対象に、理系の自然科学同様、法則性や概念を当てはめ筋道立てて抽象理論化することだ。さらには人間社会や人類歴史の発展・進歩を進める原動力についての見極めの考察も含む。より具体的にいって、スミスからマルクスへと連なる「労働」や「分業」や「商品」の概念形成の共通と相違である。

そうした「社会科学成立」の抽象理論化の志向は、「経済学の書物である『資本論』をじっさいに使ってみて、その限りで人間と社会がどう見えてくるのか、それをためしてみたい。そして、それを通じて、こういう、経済学の体系という形をとらざるを得なかったマルクスの思想、さらに、そういう体型をつくり、あるいは作らざるを得なかったマルクスという人物が、歴史的な意味をはなれて、現代のわれわれに何を語りかけているのかを考えてみたい」(2ページ)と本書にあるように、スミスの古典派経済学やマルクスの資本主義分析を単なる経済論の一分野概説だけで終わらせたくない、より広く体系的な幅と深さを持った人間主体の自然に対する働きかけの「人間と社会」の問題として捉えたい、率直に言って一つの体系的な「社会科学」にまで昇華させたい著者・内田義彦の強い思いによるものであった。

本新書以外での内田義彦の著作も読んでいると分かるが、内田は資本主義に対して、例えばスミスを通しての自利心が効率的かつ公正配分の正義に連なる「見えざる手」というポジティヴな面を引き出す資本主義礼賛、ないしはマルクスの疎外論に依拠したネガティヴな面を摘出の資本主義批判のみで決して終わらせたくない意識が非常に強い。それこそが単なる一面的な礼賛肯定や批判の否定に終始しない、安易な政争の具とはなりえない、内田義彦が志向する体系理論的な社会科学としての「経済学の生誕」(1953年)であった。それは本書「資本論の世界」でも同様だ。ゆえに内田義彦は、人間の自然に対する働きかけたる物質代謝の過程や人間と動物の対自然への意識・行動の相違など、より根源的な観点からマルクスを、さらにはスミスも読み解こうとする。そうした分析主体側の問題を扱うのが「資本論の世界」、前半の三つの章である。

他方、残りの後半三つの章にて、いよいよやっと著者はマルクス「資本論」の実質的読みに入る。内田の「資本論の世界」と原書の「資本論」とを対照させると、「Ⅳ・労働と疎外」はマルクス「資本論」の「第五章・労働過程と価値増殖過程」に、「Ⅴ・相対的剰余価値の論理」は「第六章・不変資本と可変資本」から「第一三章・機械装置と大工業」までに、そして「Ⅵ・資本と人間の再生産」は「第二一章・単純再生産」から「第二三章・資本主義的蓄積の一般的法則」にそれぞれ対応している。

ただ本新書は全体で約200ページであり、しかしその内の前半の100ページ弱を「資本論の世界」の分析主体のスミスからマルクスに至るまでの経済学のあり様記述に使っているため、後半の残り100ページ強で「資本主義社会はマルクスの眼にどのように写り、その資本主義をマルクスは、どう分析しているのか」分析対象たる資本主義に関するもの、つまりは「資本論」での実際のマルクスの記述に即した形での内田の解説が足早に強引に展開されており、だが内容密度は濃く、内田義彦「資本論の世界」後半の三つの章は「誤魔化しなく読んで正確に理解するには歴代の岩波新書の中でも相当に困難な難解記述」の感想を正直、私は持つ。それが冒頭にて述べた、「本新書は初学の入門用には適さない、マルクス初心者には内容がやや難しいのでは、というのが私の結論」の本意だ。

なぜ本書ではマルクスの「資本論の世界」がテーマであるのに、前半で「スミスの世界とマルクス世界」の対照など、マルクス以外のことをあえてやり、そのため後半のマルクス「資本論」を実際に読んで解説する紙数が少なく、しかし内容が濃いために読み手の理解に困難をきたすアンバランスな分量議論の下手な本作りになっているのか。この点に関し、本新書以外での内田義彦の著作も読んでいるとすぐに気づいて了解できるのだが、それは本書「資本論の世界」が内田の旧著「経済学史講義」(1961年)の縮小ダイジェスト版であるからに他ならない。

内田義彦「経済学史講義」は前半の数章でスミスについて集中的に詳しく論じ、中間にマルサスやリカードを挟(はさ)み彼らに軽く触れた後、後半で同様に数章を費やして今度はマルクスについて集中的に詳細に論じている。岩波新書「資本論の世界」は旧著「経済学史講義」と実は章立ての議論の順序は全く同じであり、しかし新書「資本論の世界」は全体で200ページと少なく紙数に制約があるため、著者の内田は前半のスミスの記述を「経済学史講義」からダイジェストの要約で軽くつまんで記載し、また後半のマルクスの記述に関してもかなり圧縮して「資本論の世界」の新書に転載し、まとめている。この辺りのことは内田「資本論の世界」と旧著「経済学史講義」とを読み比べてみると分かるはずだ。そうした本作り事情の構成的難点があるため、岩波新書の「資本論の世界」は読んで全体に難しく思える。少なくとも私には「難しい」と感じられてしまうのだと思う。

加えて、本書「資本論の世界」を始めとして内田のマルクス解説では、スミスの古典派経済学とのつながりは「経済学の生誕」文脈から実に詳しく重点的に論じるのだが、他方、ヘーゲルのドイツ観念論哲学との関連については比較的淡白であり、あまり詳しく触れない。よくよく考えてみれば、マルクスは経済学専攻ではなく、もとはヘーゲル左派に属した哲学の人であり、マルクスはギリシア哲学のデモクリトスとエピクロスで大学の卒業論文を書いたような人である。マルクスが後に経済学にのめり込み「資本論」を執筆する際、そこには明らかにマルクスがヘーゲルから受け継いだ哲学的思考があった。弁証法や疎外の論理や「精神」の生成史としての「世界史」である。よって、マルクスの「資本論」を正当に理解するには、スミスの古典派経済学からの流れと平行してヘーゲルからのドイツ観念論哲学の流れを押さえることが欠かせない。

ところが、内田義彦はスミスを源流とする近代経済学の理論史家なため、氏がマルクスを論ずる際にはヘーゲルとのつながり指摘の言及が極端に少なく、ほとんどない。こうした点も岩波新書「資本論の世界」を始めとする内田義彦のマルクス講義の難点であり、内田のマルクス解説が初学の入門用に適さない、マルクス初心者には内容がやや難しい所以(ゆえん)である。