アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(99)鶴見良行「バナナと日本人」

岩波新書の黄、鶴見良行「バナナと日本人」(1982年)は昔からある書籍で、岩波新書の中でも古典の名著と言ってよい。「フィリピン農園と食卓のあいた」という本書の副題から「フィリピン(バナナ)農園」の貧しさと「(日本人の)食卓」の豊かさを対比のコントラストにて、かつ日本の豊かさとフィリピンの貧困とを関連づけて読むことが本書では肝要である。本新書と同時期に著者は「アジアはなぜ貧しいのか」(1982年)も上梓している。「アジアはなぜ貧しいのか」、逆にいえば「日本やアメリカはなぜ豊かなのか」。開発途上国のアジアに対する、先進国たる日本やアメリカの加害問題として考えるべきだろう。

鶴見良行「バナナと日本人」の内容は先進国が開発途上国に強いる、いわゆる「モノカルチャー経済」の問題に他ならない。モノカルチャー経済の概要は以下だ。

「モノカルチャー経済」とは、先進国による開発途上国に対する強制的な単一商品作物栽培生産の制度としくみ全般を指す。モノカルチャー経済は、植民地化された土地で宗主国にて需要の高い農作物を集中的に生産させたことが始まりである。例えば、オランダ領東インド(現在のインドネシア)における商品作物の強制栽培制度など。これにより宗主国は効率よく農作物を得ることができた。代表的な作物にサトウキビ、天然ゴム、トウモロコシ、穀物、パルプ、コーヒー豆がある。その多くは主食たりえないものばかりであり、現地住民は商品経済に組み込まれ自給能力を失い飢餓の原因にもなった。商品作物の栽培に専従させられ特定の産業に力を入れたため現地では、それ以外の産業が発展しないからである。結果、自給自足生活は不可能となり、さらに長時間・低賃金の劣悪な労働環境にて現地の人々は過酷な貨幣経済の波にさらわれ、貧困窮乏生活を強いられることとなる。第二次世界大戦後、多くの旧植民地は独立を得て様々な産業を発展させる努力をしているが、そのために必要な資金を得るために植民地時代の輸出品に頼らないといけない国もあり、モノカルチャー依存から脱却できない地域は現在でも多い。

モノカルチャー経済のメリットは、植民地を支配する宗主国や旧植民地独立後に開発途上国に進出してきた多国籍企業にとってのみのメリットである。複数の作物を生産する事に比べて、単一の農作物を生産する事は技術的にも単一で済み効率的である。しかも開発途上国では、資本投下できる土地や原材料資源が豊富で、安価な労働力の確保も容易だ。

他方、宗主国や多国籍企業が安値で安定した作物を作るため開発途上国に商品作物の単一栽培(生産)を強いるモノカルチャー経済のデメリットは、地域の契約農家や労働者に対してのみの誠に過酷なデメリットなのであった。例えば、モノカルチャー生産で効率よく利益を得られる事から従来他品種の消滅に拍車がかかり、地域環境にて生態系が破壊され生物多様性が失われる。偏(かたよ)ったモノカルチャー経済の効率化により、地域の自生経済の成長が阻害され、生産国の伝統文化が失われてしまう危険性も高い。商品としての作物の効率的増産を目指すため、農薬の大量使用散布により環境や人体に深刻な影響を与える。大規模な田畑を生み出すための森林伐採や焼畑農業によって土地が枯れてしまい、甚大な環境破壊を引き起こす。国際市場での価格変動に地域経済が左右されやすい。ある作物の価格が下落すると、その単一作物にのみ依存した地域経済や契約農家・労働者の収入は打撃を受け、貧困が広がる。現にそうした商品作物の価格暴落がなくとも、普段から契約農家や労働者は極めて悪質不利な商品納入契約支配下にある、ないしは劣悪な労働環境下での雇用を強いられている。

以上のように、環境汚染や文化破壊や健康被害や労働疎外や貧困問題が顕著に現れてしまうなど、モノカルチャー経済には多くの問題が露呈している。こうしたモノカルチャー経済の概要がまずあり、これらある程度、抽象化した理論問題として一般的に理解した上で本書「バナナと日本人」にての具体的個別事案、フィリピンはミンダナオのバナナ栽培輸出のモノカルチャー経済の実態告発ルポに当たるのが賢明である。というのも、こうした開発途上国が抱えているモノカルチャー経済の問題はフィリピン・ミンダナオのバナナの事例にとどまらず、モノカルチャーである単一商品作物の品目と場所を変え世界の至る地域で広範に確認できるからだ。本書「バナナと日本人」のような著作は、バナナのみならず、また私たち日本人以外でも品目と食卓の人々を変えて「××と××人」として、いくらでも執筆できる。例えば砂糖、コーヒー豆、紅茶の茶葉、チョコレートのカカオ、養殖エビなど。品目と消費者とを変えてこの手の告発ルポは、いくらでも書けてしまうのだから人間社会の現実世界(リアル・ワールド)は誠に不条理で残酷というしかない。

事実、こうした本書「バナナと日本人」を始めとするグローバル経済批判、モノカルチャー経済告発の書籍は1980年代から岩波新書のみならず他社にても連続して出版されるようになる。特に岩波新書に限っていえば鶴見良行「バナナと日本人」(1982年)以降、村井吉敬「エビと日本人」(1988年)や川北稔「砂糖の世界史」(1996年)の類書がよく知られている。日本社会も1980年代に入ると当然に「もはや戦後ではない」時代を過ぎて、次の高度経済成長の時代も早くに過ぎ去って、物質的に豊かな経済的繁栄を極めた、さらにその先にあるより良い快適さや個人の嗜好や満足度に密に対応する高度資本主義社会となり、そうすると今の自分達の日本社会の物質的豊かさの由来を探り、それが「真の豊かさであるかを疑う」思考にて、例えば私たち日本人の食卓にある美味しくて安価で栄養価の高いバナナ、この果物がどこでどういう人々により栽培生産され、どういう流通経路のどういった国際資本企業の手を経て商品として市場に出回り、最終的に私たち日本の消費者の手に渡り毎日の食卓に乗るのか追跡吟味して疑い批判する再考の契機も他方で出てくる。その過程にて、現代の先進国に属する国際企業が独占的に取り仕切る多国籍アグリビジネスの欺瞞と開発途上国の人々の抑圧貧困の実態が明らかになる、というわけである。

岩波新書「バナナと日本人」を読むと分かるが、モノカルチャー輸出のバナナをめぐる経済はまさにグローバル経済のそれである。生産はフィリピン、仲介はアメリカ資本を主とする多国籍企業、消費は日本というように「グローバルな」地球規模での世界的流通経済である。そこでは経済的弱者のフィリピンの現地の生産者が、中間買上輸出の多国籍アグリビジネス企業や日本の消費者の経済的強者から常に略取され抑圧支配される構図が浮き彫りになる。輸出バナナの生産流通は「フィリピン現地の契約農家と労働者─フィリピン現地子会社─輸出の多国籍企業のブランド親会社─日本の輸入会社─日本の問屋と小売り商店─日本の消費者」の経路をとる。本書執筆時の1980年代、フィリピンのミンダナオにてのバナナのモノカルチャー経済はアメリカ資本のアグリビジネス企業4社による寡占であり、各4社がそれぞれブランドネームを持っている。「ドール」や「デルモンテ」や「チキータ」や「バナンボ」である。そして、例えば「デルモンテ」ブランドのバナナは日本の輸入会社の富士フルーツと豊田通商が手がけ、「ドール」のブランド・バナナは伊藤忠商事が手がけるというように、現地から買い上げたバナナを通して仲介輸出の外国資本の多国籍企業と日本の輸入商社とが密接につながっている。本書を読む前から「デルモンテ」のバナナの商標ブランドを知っていて私は何とも思わなかったのに、岩波新書「バナナと日本人」読後には「デルモンテ」が非常に胡散臭(うさんくさ)い、果てしなく怪しいブラックなブランド名として響いてくるのだから不思議だ。

本書「バナナと日本人」は全部で9つの章からなる。モノカルチャー経済批判の観点から著者がフィリピンのミンダナオのバナナが外国資本企業を通じて日本へ輸出される経路を逆行し、著者が実際に現地に出向き、多国籍企業や生産契約農家や労働者の実態を関係者に直撃するルポの章が一つの読み所であるといえる。そうした意味で「5・多国籍企業の戦略は?」や「6・契約農家の『見えざる鎖』」や「7・農園で働く人びと」の本章記述は特に読むべきものがある。また最初の章からフィリピンの戦前、米国の植民地政策下の前史を丁寧に述べているが(「2・植民地ミンダナオ」「3・ダバオ麻農園の姿」)、これは戦後に独立後のフィリピンにモノカルチャー経済がある日、突然に形成されたのではなく、戦前や戦中の強制栽培のプランテーションや軍政統治に出自を持つ、植民地支配制度から連続したものであることを読者に知らしめるための著者による構成記述の配慮なのだから、そのことを踏まえ、現代のモノカルチャー経済を戦前の強制栽培制度や植民地支配との連続性において私達は理解するべきだ。

確かに、今日のモノカルチャー経済にて現地では以前のような暴力的な土地の略奪や奴隷の使用はない。しかし、かつては戦火の戦闘を交えて戦勝の末に暴力的に土地支配をやり、現地の人々を労働使役していたものを戦後は目に見えた、あからさまな武力行使や暴力は無しで、だが実質的には経済的強者からする弱者への抑圧支配の構図は何ら変わらず、ただ単に表面上は「平和」で「非暴力」で「穏便」に片務的で過酷な生産契約や労務契約を様々なカラクリ手口を使いながら、かつての宗主国たる現在の先進国が、かつての植民地たる現在の開発途上国と交わした「合法的」契約履行として強要させているだけのことであるから余計にタチが悪い。戦後のモノカルチャー経済に対する、戦前よりの植民地支配との連続性を見極める視点は重要である。

最後に本書の問題点をあえて指摘しておこう。本新書は非常に詳細な現地ルポを交えてモノカルチャー経済の問題性を摘出できてはいるが、モノカルチャー経済問題の解決について現実的な有効提言がなく、著者の筆はあいまいな精神論に終始している。本書での著者の結論は「つくる人びとを思いながら」や「生産者に思いをはせよ」や「平等なつながりのために」といった具合だ。

モノカルチャー経済を批判し状況好転に導く有効な方法として、例えば先進国の消費者に「フェアトレード」(註)商品の購入を促す、過酷なプランテーション事業により生産流通された商品の不買を勧める、さらにはNPO(民間非営利組織)を通して国際的アグリビジネスに進出する企業に対し環境や労働や品質に配慮した企業の社会的責任を果たすよう規制強化の監視と指導の方向(農薬使用制限や労働組合創設義務)で働きかける、などが考えられる。またモノカルチャー経済の多国籍アグリビジネスは大規模多投型農業であり、環境汚染や資源枯渇や労働者の収奪を生み出す問題があることから、多国籍アグリビジネスへの対抗軸として大規模農業から家族農業・小規模農業を支援する方向への大きな転換も有効だといえる。小規模生産者の自立、環境保護、食品安全を促すような、国家や企業が主体の多国籍アグリビジネスに対抗する、生産者に生存機会を保障する民衆交易という対抗軸が設定できるのではないだろうか。

こうした多国籍アグリビジネスの操業実態を明らかにして規制強化を求めていくこと以外にも、開発途上国の第三国をたかだか自分たちの生活の快適さや食の嗜好追求のためだけに食品生産の供給地として先進国の消費者が、文字通り「食い物にし」活用し尽くしてよいのか、そうした身勝手が許されるのか、そもそも多国籍アグリビジネスにおいて、人間の生命の糧(かて)となる食物を機械製品のように画一的に大量生産し世界的に流通させる「商品」にして金儲けのために安易に使ってよいのか、といった倫理的な意識の面からの問題追及も必要となってくるであろう。

もちろん、フィリピンのミンダナオにおける輸出バナナをめぐるモノカルチャー経済の多国籍アグリビジネスの状況は今日では変化して、現在では本新書にて報告されている1980年代当時の状況と大きく異なっているに違いない。また「著者による問題解決の提示が精神論的」という難点もありつつも、岩波新書の黄、鶴見良行「バナナと日本人」が示したモノカルチャー経済告発の問題指摘は当時の1980年代の日本では画期の先駆けであって、本書が岩波新書の中で今でも輝ける古典の名著であることに変わりはない。


(註─「フェアトレード」とは、公平・公正な貿易という意味。貧困のない公正な社会をつくるために、経済的・社会的に弱い立場にある開発途上国の生産者と、経済的・社会的に強い立場にある先進国の消費者とが対等な立場で行う貿易のこと。開発途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することにより、適正な賃金の支払いや労働環境の整備を通して立場の弱い開発途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す貿易の仕組みを指す。)