アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(102)丸山眞男「『文明論之概略』を読む」

岩波新書の黄、丸山眞男「『文明論之概略』を読む」全三巻(1986年)は、古典観賞の手引きのような講義録の新書だ。「現代の私達が古典をどう読んで古典から何を学び、現在にどのように生かすか」その要訣を教えてくれる。

本書は大学ゼミの講読講義の体裁である。福沢諭吉「文明論之概略」(1875年)をテキストにまず原文を朗読し、丸山眞男が時代背景や読み所を順次解説していく。話し言葉で記述された講義録のようであり、精読史料の福沢「文明論之概略」の原典本文が、あらかじめ新書内に親切に抜粋掲載されてある。各自別個に福沢「文明論之概略」を用意して、丸山の本新書といちいち引き比べて読まなくても済む。誠に親切編集の岩波新書「『文明論之概略』を読む」である。

主に本書にて展開される丸山眞男の福沢諭吉論に対し、昔からの強い批判がある。丸山福沢論批判の中で近年、特に厳しい痛烈なものといえば、安川寿之輔「福沢諭吉と丸山眞男・『丸山諭吉』神話を解体する」(2003年)と、子安宣邦「福沢諭吉『文明論之概略』精読」(2005年)になるのだろうか。

今更こうしたことをクドクドと述べるのは馬鹿らしい不毛な気がするから最低限の簡潔記述で済ませたいが、「丸山眞男の福沢諭吉への読みが恣意的で福沢を理想化し過ぎている。福沢に対する評価が甘すぎる。丸山が強調する福沢は実物の福沢諭吉ではない、福沢の虚像である」旨の痛烈批判、丸山福沢論批判は昔からあるが(安川寿之輔「日本近代教育の思想構造・増補版」1979年など)、そうした言辞に私はあまり感心しないし正直、共感できない。丸山の福沢論は厳密実証的な歴史研究というよりは、どちらかといえば古典観賞に近い。「現代の私達が古典をどう読んで古典から何を学び、現在にどのように生かすか」の古典を通じての教養教授のジャンルである。

古典とは昔の書物であるから現代の私達からみて当然、時代的制約の遅れや限界はある。しかし、そうした古典の遅れや限界を超越批判せず、あえて一度括弧(かっこ)に入れて「現代の私達が古典をどう読んで古典から何を学び、現在にどのように生かすか」謙虚に自己を古典に傾注すべきだ。そのことは、他ならぬ丸山眞男が「『文明論之概略』を読む」の中の「序・古典からどう学ぶか」にて、「私は自身の福沢惚(ぼ)れを自認している。なぜなら初めから超越的な批判の眼差しで判断する者には、ついに到達できない真実というものがあるから」という趣旨の彼の「古典との対話」の主張の内に見事に言い尽くされている。私には安川「福沢諭吉と丸山眞男」や子安「福沢諭吉『文明論之概略』精読」は、どうも硬直した直情的実証主義な立場よりする思想史研究や歴史研究からの小児病的批判に思えてしまう。

さて、丸山「『文明論之概略』を読む」全三巻は、古典観賞の読み物として大変よく出来ている。まず読み込まれる対象原典の福沢諭吉「文明論之概略」が名著の古典である。その名著たる古典を読み込む読解主体の丸山眞男の読みの手際(てぎわ)と力量も非常に優れている。 よく出来た古典観賞とは、第一に対象たる古典そのものが優れており、第二に優れた古典を読み込む観賞主体も優れていて、古典原書の書き手と古典観賞の読み手兼解説者の二人の相互の作用が増幅され、より素晴らしいものとなる。

岩波新書「『文明論之概略』を読む」の読み所の良さをここで逐一述べるとキリがないから最低限、以下3点だけ最良の読み所と思える主要の部分を示しておこう。

(1)第一章「議論の本位を定る事」は、福沢の「文明論之概略」にて、文字通り「議論の本位を定る」の「議論の前提」をなす出発の部分であり重要な箇所だ。時事的な政治や教育への処方箋(しょほうせん)的提言である「時事論」の執筆が多い福沢にあって、「文明論之概略」は抽象体系的な福沢の思考の「原理論」を示す貴重な史料である。特に第一章は、福沢の原理的思考方法を述べた最たるものであるから注目に値する。福沢の「文明論之概略」の第一章「議論の本位を定る事」を解説した丸山「『文明論之概略』を読む」の「第二講・何のために論ずるのか」は、以前の丸山の福沢論文「福沢諭吉の哲学」(1947年)と内容が重複している。本書の「第二講・何のために論ずるのか」と併せて「福沢諭吉の哲学」論文も精読すると、丸山福沢論の力点と面白さがより深く分かるはずだ。

(2)福沢の「文明論之概略」の中で第九章「日本文明の由来」は圧巻である。この章の「日本文明の由来」の文明史記述を読むだけでも、福沢諭吉が同時代の知識人より頭ひとつ抜けていたことが分かる。「日本文明の由来」に「権力の偏重(へんちょう)」の病根を見出し摘出して、日本人の精神的病理の解明に福沢が当たる。もちろん、現代の私達の日本社会にも「権力の偏重」の病は至る所の人間関係にて確認され、いまだ人々は伝染してあるのであった。その事を福沢の「文明論之概略」の「日本文明の由来」の章の古典を読み、現代の私達は改めて古典から学んで知るのである。もとの「権力の偏重」に関する福沢の考察が良いので、それを読んで解説する第十六講から第十八講の丸山の語りも当然のごとく良い。

(3)福沢「文明論之概略」の最終章たる第十章「自国の独立を論ず」は、第一章「議論の本位を定る事」と見事に対応している。最初の「議論の本位を定る事」が抽象的な「文明論之概略」を貫く福沢の考え方を説明する骨組みの「原理論」であるのに対し、最後の「自国の独立を論ず」では再度「議論の本位を定る事」の思考原理が繰り返される。しかし、今度は抽象原理のみではなくて、第二章以降の各章の「文明論之概略」の考察議論を経た上で、具体的な時事的議論(「文明の本旨」と「自国の独立」)を肉付けし加えた「時事論」となっている。「文章論之概略」は冒頭の第一章「議論の本位を定る事」と巻末の第十章「自国の独立を論ず」が同じ内容ではあるが、最初は原理のみ、最後はその原理に具体的事柄を乗せ肉付けした時事というように抽象度を落として具体化を増す反復一貫的な書き方を福沢諭吉は、わざとしている。

「『文明論之概略』を読む」の著者の丸山眞男も、当然そのことを押さえて読んで解説している。そもそも福沢の「文明論之概略」を読む際、第一章と第十章の内容が同一の反復であることを見切り、かつ両章の抽象具体の濃淡相違を押さえて読めている人が、どれほどいるだろうか。そうしたこなれた古典観賞の読みの味わい方を岩波新書の黄、丸山眞男「『文明論之概略』を読む」全三巻は現代の私達に真摯(しんし)に教えてくれる。