アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(103)宮城音弥「天才」

岩波新書の青、宮城音弥「天才」(1967年)の帯には次のようにある。

「世に天才といわれる人物は多い。ミケランジェロ、ゲーテ、モーツァルト、ベートーベン…。人間の長い歴史の中で、彼らは社会の発展や文化の創造にさまざまな貢献をしてきた。いったい彼らのとび離れた能力はどこから生まれるのか。彼らの果たした仕事は電子計算機でも代替することができるのか。著者は、こうした興味ある問題を、心理学・精神病理学を駆使して分析し、天才とは何かを明らかにして、画一性のみを要求する現代社会に警告を与える」

「天才とは何か」、本書で述べられる「天才」の定義の概要はこうだ。「天才」を定義づけるに当たり、まず(1)特異な能力、(2)生産的能力、(3)創造的能力の3つの能力があるとする。(1)は普通人には到底及ばない「特異な能力」である。道具や機械に依存しない、人間の暗記や暗算の力、ずば抜けた記憶力や驚異的な計算力などだ。(2)の「生産的能力」とは、凡人よりも優れた各種の能力である。「問題を解く、絵を描く、文章を書く」など科学的なものや数学的なもの、芸術的なものや言語的なものの能力が人よりも際立ち優れていることである。そして(3)の「創造的能力」があるとする。これら3つの「能力」に対して、著者はそれぞれにラベルをつける。(1)の「特異な能力」は天性、(2)の「生産的能力」は能才、(3)の「創造的能力」は天才というように。よって「天才とは何か」は、本書にて指摘される「創造的能力」の具体的な3つの内容を押さえて以下のように定義できるだろう。

「天才」=創造的能力=(1)条件反応の般化、(2)学習の転移、(3)知性の見通しと中心転換

「天才」に必須な「創造的能力」各種の内容について、(1)の「条件反応の般化」とは違った様々な刺激に対し一つの反応(般化)ができる(刺激般化)、ないしは一つの刺激に対し様々な反応(般化)ができる(反応般化)ということである。「天才」は般化の範囲が広い(様々な複数刺激に単一で安定して反応する抽象まとめの能力が強い、もしくは単一刺激に複数で様々に反応する多様出力の能力が強い)とされる。(2)の「学習の転移」は、一つのものを学習すると他のものの学習も助けられたり、新規の分野にも応用(転移)する学習の広がり汎化の能力である。こうした既存知識の他分野への応用や新規分野への予測活用たる「学習の転移」に「天才」は優れている。

(3)の「知性の見通しと中心転換」は、他人と同じものを見ていながら、まったく新奇な「見通し」を思いついたり、知覚の着眼・力点をズラす「中心転換」をやることで新たに発明・発見をなす創造作用である。この「知性の見通しと中心転換」の能力は、「場」の条件からの反応(般化)による思いつきや過去学習の転移による原則パターンよりの「類推」ではなく、「天才」であるその人の全くの個人のパーソナリティー要素(生来的に「天才」が生まれつき持っている才能)に由来するものであり、残念ながら凡人には無い。

著者によれば(1)の「般化」と(2)の「転移」の創造的知性は普通の人も、ある程度は有するとされる。しかし「天才」は(1)の「条件反応の般化」と(2)の「学習の転移」の創造的能力が凡人より、はるかに卓越している。そして(3)の「知性の見通しと中心転換」こそが、凡人にはない「天才の天才たる所以(ゆえん)」である。すなわち「天才とは般化や学習の転移を離れた、知性の見通しと中心転換にて真の創造性を示す者に他ならない」。

著者により「天才」とは区別される「能才」は俗にいう「秀才」と同義であるから、「天才と能才の違い」は、一般によく議論される「天才と秀才の相違とは何か」であるともいえる。「天才」と「能才(秀才)」とは一体どこの何が違うのだろうか。それは能才が「生産的能力」であり、どちらかといえば単独遂行的な限られた特定専門分野にての特定能力の発揮が単に人よりも秀(ひい)でて優れている「適応型」に終始するのに対し、天才は「創造的能力」を有し、「創造的」であるがゆえに新しい価値規範の構築や、旧来価値や既存システムの批判的乗り越えの否定の相対化や、従来の社会や人々がなし得なかった全く新たな着想の新発想の提示をなし得る。「天才」定義のカギに「創造」の要素は欠かせない。

日頃の私の感触からいっても、「能才」は従来価値のルールや既存システム分野の中での職人的な優れた技術能力の適応発揮の遂行のみだが、「天才」は「能才」の優れた職人的技術能力を持った上で、さらに従来ルールや既存システムを相対化し、時に凌駕(りょうが)して新たな価値規範の創造までできる。しかも「天才」には地道な習練・鍛練の努力、長い期間の試行錯誤の失敗から学んだ成果、細かな計算づくの分析を経て初めて得られる見通し知見は必要ない。そうした泥臭い地道な努力は「天才」とは無縁である。「天才」は、生来の個人のパーソナリティー要素から天啓、思いつき、直感のテレパシー、ひらめきのインスピレーション、ないしは日常的な当たり前の行為として己の心身への過大な負荷なく自然に無意識のうちに軽々といとも簡単に「生産的能力プラス創造的能力」を遺憾なく発揮・遂行できてしまう。それこそが「能才」とは異なる、次元の違いを見せつける「天才」というべきか。

今日の社会にて、例えば将棋で連戦連勝を続ける勝率の高いプロ棋士、毎シーズン高打率をキープしホームランを量産するプロ野球選手、新たなビジネスモデルの構築や市場開拓をして業績を上げ続けるカリスマ経営者など、本書の内容を踏まえ、かつ私の日頃の思いからして彼らは「天才」ではなくて、良くてせいぜい「能才」である。もちろん、特定分野の一芸に秀でて凡人よりも高い技術能力(生産的能力)を発揮できるのだから彼らは素晴らしいけれども、「能才(秀才)」はあくまでも慣習のルールや既存のシステムの中で自身の高い適応能力を発揮し遂行できるだけのことでしかない。彼らは真の意味で「創造的」ではない。

こういうことを書くと確実に怒られそうだが(笑)、将棋のプロにしてもプロ野球選手でも、対局勝負に勝ったり試合で好成績を修めることに何ら建設的な積極的な意味があるとは私には思えないし、カリスマ経営者が利益を上げて事業拡大しても、少しも私は感心しない。彼らは「能才(秀才)」であり、あくまでも慣習のルールや既存のシステムの中で自身の高い適応能力を発揮し遂行できているだけである。ぜいぜい言って良いところ「能才」であって「天才」ではない。彼らには従来ルールや既存システムの枠組みを疑う「天才」の創造性がない。

原理的に言って、対局での勝利や試合成績の好調やビジネスの儲けでは必ず他方に負ける屈辱の敗者がおり、打ち込まれてやられる失意の投手がおり、購入して時に損を見る消費者と使い倒されて疲弊する労働者がいて、対局の勝ち負けや試合での好成績や日々のビジネスの金儲けにおいて実に都合よく他者を、いわば「食い物にして」自身の「能力開花の適応の栄華」を無邪気に誇っているだけにしか私には見えない。そもそも負ける人ややられる人や抑圧される人がいなければ、対局で勝つ人や試合で好成績を修める人やビジネスで金を儲ける人は存在しない。

現代社会では将棋にて連戦連勝を続ける勝率の高いプロ棋士、毎シーズン高打率をキープしホームランを量産するプロ野球選手、新たなビジネスモデルの構築や市場開拓をして業績を上げ続けるカリスマ経営者を「天才」とほめたたえ人々は尊敬したり羨(うらや)んだりするけれど、私は全く共感できない。言うまでもなく、特定のルールやシステムからして敗者がいたり抑圧されている人達がいて、それら人々を自分が「食い物にしている」原理の構造に依存しているだけであるし、彼らはゲームのルールや既存の経済システムの枠組みを疑う「天才」の創造性がない。たまたま特定専門分野での適応能力が優れているだけの「能才」だからである。

さて話が脱線したので元に戻すと(笑)、著者は、本書にて「天才と能才の違い」を社会への適応(他者との良好な人的関係の構築)の観点から以下のようにも区別する。「天才は不適応者だ。社会的適応性を犠牲にして創造作用を行なう人間である」。他方、「能才の典型は調和のとれた健康な人間で高い知能にめぐまれ生産性をもち、すべての点で一般の人々よりすぐれた理想的人間である」。「(天才が発揮する)真の創造性は社会的適応性と逆連関する」のであり、「天才は日常生活への適応を欠く」とも著者はいう。

天才は新たな価値規範の創造により既成の社会と摩擦が生じ、白眼視されやすい。また当人の一点に異常に秀でた偏(かたよ)った能力と性格気質により、社会的に孤立しやすい。こうした指摘は著者が心理学・精神病理学の専攻だからなせるものであり、従来ある古典的な「天才」理解、「天才は平均的な知性よりは、むしろ狂気に近い」や「天才と狂人は紙一重」など斬新な着眼力や独創性の価値「創造」を発揮するがゆえに、ともすれば「天才」が狂気や狂人扱いされ社会から疎外される、人間社会での「天才の生きにくさ」に対する著者なりの同情と憂慮(ゆうりょ)が感じられる。

と同時に他方で、規律と型にはまった知識や技能を身につけ、従来ルールや既存システムにひたすら「適応」することを要求する単に能力に秀でた画一的な「秀才」だけを量産し歓迎しようとする今日の学校教育や職場環境への、著者からの現代社会に向けての警鐘もある。実はそれこそが前述引用した帯解説の末文、「著者は、こうした興味ある問題を、心理学・精神病理学を駆使して分析し、天才とは何かを明らかにして、画一性のみを要求する現代社会に警告を与える」ということの意味だ。

本書は「天才とは何か」以外にも天才における「コンプレックスの発散」「生命力の高揚」「天才の遺伝と環境」「天才と狂気」についても幅広く考察している。特に「天才と狂気」に関し、それら考察は「ミケランジェロ、ゲーテ、モーツァルト、ベートーベン」のみならず、ルソーの対人関係破綻やマルクスの執着的気質や夏目漱石の神経衰弱など、心理学・精神病理学の点から「天才」と目される歴史的人物の具体的検証を通しなされて非常に興味深い。

岩波新書の青、宮城音弥「天才」は、「天才は凡人とは違って、とにかくスゴい」とか「天才と狂人は紙一重」など従前ともすれば感性的に漠然と語られがちであった「天才」に関し、「天才とは、創造的能力の発揮、つまりは(1)条件反応の般化、(2)学習の転移、(3)知性の見通しと中心転換」と明確に定義しているところが何よりも優れている。