アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(105)渡辺慧「生命と自由」

渡辺慧(わたなべ ・さとし)の岩波新書には「認識とパタン」(1978年)などがあり、その他にも他出版から出ている認識論を始め時間論や生命論の名著が多数あるが、「渡辺慧の一冊」といえば、岩波新書の黄「生命と自由」(1980年)が私は昔から好きだ。これは内容的にバランスの取れた渡辺慧の良著である。しかし、それ以前に渡辺慧は、最近の読者諸氏に広く知られているのか!?渡辺慧についてのあらましはこうだ。

「渡辺慧(1910─93年)は、日本の理論物理学者である。渡辺は語学に堪能で、戦前より積極的に海外に活躍の場を見出した『頭脳流出組の初期の一人』とされる。『学は一つなり』をモットーとし、哲学、物理学、心理学、情報理論、認知科学、コンピュータ科学等、広汎な領域でコスモロジカルな思索を展開したことから、『ルネサンス人の最後の一人』とも称される。鶴見俊輔が主宰の『思想の科学』研究会が1946年に発足した当初のオリジナルメンバーの一人でもあった。その知的営為の独創的な先駆性は、今日なお村上陽一郎らによって高く評価されている。また家庭生活においては、戦中戦後の困難な時代に慣れない土地で大変な苦労を強いられながらも渡辺を支え続けた妻ドロテアを終生愛した愛妻家であり、とても子煩悩であったことが知られている」

理系の理論物理学者であるが、自身の専攻分野のみの「タコツボ」型専門バカにならず、専攻の物理学以外にも宗教学や哲学や現代思想や心理学にも精通し、「広汎な領域でコスモロジカルな思索を展開した」渡辺慧は、まさに万能人たる「(日本の)ルネサンス人の最後の一人」と称するに相応(ふさわ)しい。岩波新書「生命と自由」は、そうした渡辺慧の多彩な才能が凝縮集約されている。本書を読むと、相変わらずの渡辺の愛妻家ぶりも感じることができる。

渡辺慧「生命と自由」の概要は以下である。「インド、ギリシア以来の哲学的生命観、現代諸科学の生命論に新たな検討を加え、著者独自の生命観を語る」。ここでは一読者の私が下手な要約をするよりも書き手の渡辺慧その人に直接に語ってもらおう。

「全部で五章ありますが、最初の二章では、主として哲学的な生命観の話をし、第三章では物理学からみた生命、第四章では化学からみた生命のお話をします。そこまでは、だいたい他人様のしたことで、私の役割は多少の私見を交えながらなるたけ肩のこらないように説明するだけです。第五章は前四章の短い摘要と私自身の生命観の概説です。この本のいわばメッセージともいうべき『生命は自由の追求である』という考えの意味がここで解るでしょう。言うまでもありませんが、『自由』というのには何も政治的な意味を含ませてありません。第五章にはだいぶ野心的な論説がありますので、学者先生達の大多数が私に賛成して下さるのには半世紀以上かかるでしょう。あるいは結局未来永劫だれも賛成して下さらないかもしれません。でも書いておきたいと思います」(「はしがき」)

著者の渡辺いわく、「第五章(「自由追求としての生命」)にはだいぶ野心的な論説がありますので、学者先生達の大多数が私に賛成して下さるのには半世紀以上かかるでしょう。あるいは結局未来永劫だれも賛成して下さらないかもしれません」。氏は、自身が立論の独自の生命観に相当に悲観的である。本書は全五章よりなる。「第一章・『もの』としての生命、『こと』としての生命」と「第二章・存在の基底としての生命」にて、まず宗教学、哲学、心理学ら文系学問の観点から「生命」について論じ、次に「第三章・機械としての生命」と「第四章・化学系としての生命」では物理学と化学の理系科学の観点から「生命」への考察を進める。そうして前述での文理を併(あわ)せた四つの章の議論を階梯(かいてい)に、最後の「第五章・自由追求としての生命」にて「生命は自由の追求である」という著者の持論が展開される。渡辺慧は、専門分野の枠組みに捕らわれず、あらゆることに普遍的な関心をもち思考技術を発揮できた、あたかもルネサンスの理想である万能人のようである。

渡辺は、「第五章にはだいぶ野心的な論説がありますので、学者先生達の大多数が私に賛成して下さるのには半世紀以上かかるでしょう。あるいは結局・未来永劫だれも賛成して下さらないかもしれません」といい、最終章における「生命は自由の追求である」の自身の生命観の結論に関して、確かに鶴見俊輔が主宰の「思想の科学」同人が、いかにも書きそうな「生命と自由」の自由の理論ではあるけれども(笑)、そこまで悲観的になることはないのではないか。結論の妥当性・説得性よりも本書にて、そこに至るまでの議論の考察の過程が面白いと私には思える。

例えば、第一章は「『もの』としての生命、『こと』としての生命」であり、ウィトゲンシュタインの「世界とは『こと』(相互関係)の集まりである」の文言を引いて、「私は元来『こと論者』の一人でありまして、生命も『もの』ではなく『こと』とみようとするわけであります」と述べる渡辺慧は、マルクス読解を元に近代人の物象化的錯認を激しく糾弾し、物的実在の世界を排して関係性の事的世界観を披瀝(ひれき)する、まるで「共同主観的な世界構成の四肢構造論」のマルクス研究者かつ哲学者の廣松渉のようだ(笑)。その他にも、ベルクソンの「純粋持続」やサイバネティクス理論、生命におけるエントロピー減少への言及などがあり、たかだが200ページ弱の新書だから各種の哲学知見や科学理論に関し簡潔解説にて走り書き的に語るエッセイ風の記述ではあるが、読んで啓発刺激になり、とりあえず楽しめる。

岩波新書の黄、渡辺慧「生命と自由」は、そうした議論の中途の過程が楽しい読み心地が毎回する。氏の思索の幅広い特長と温かい気さくな人柄が感じられる。この新書は渡辺慧の好作の良著と言ってよい。