アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(107)牧英正「道頓堀裁判」

以前に「道頓堀裁判」というのがあった。1965年に大阪地方裁判所に民事で訴えが起こされ、1976年に判決が出された。提訴から結審まで審理に11年かかった。判決後、控訴はなく地裁の一審判決にて裁判は終決している。「道頓堀裁判」の概要はこうだ。

道頓堀は大阪の「ミナミ」と呼ばれる繁華街の中心にあり、江戸時代初めにできたといわれる。1965年、開削者の子孫から道頓堀川河川敷地の約五万坪の所有権確認訴訟が起こされた。近世のはじめ私財を投じて道頓堀川を開削した「安井」道頓、安井治兵衛、安井九兵衛、平野藤次らのうち、安井九兵衛の12代の子孫である安井朝雄が原告である。被告は国と大阪府と大阪市であった。道頓堀川は昔から大阪市が管理していたが、その河川敷地は国有財産として台帳に記載されていない、土地登記簿にも登録のない、いわゆる脱落地である。道頓堀は豊臣時代の末から徳川時代初期にかけて、豪商で特権的な地位を得ていた久宝寺出身の安井家が土地を拝領して自費で開削し周囲に宅地を造成した。この史実に基づき、本訴原告の安井朝雄は道頓堀川の河川敷地に対する安井家の所有権認定を求めたのであった。

そもそも1965年の時期に原告が訴訟を提起するに至ったのは、5年後に大阪での万国博覧会開催を控え、当時はげしい汚染を極めていた道頓堀川の埋め立てと下水道整備の浄化工事を計画していた大阪市の道頓堀川改修計画の公表を受けてのことであった。本訴原告の安井朝雄は、前記の所有権確認請求の訴訟と同時に大阪地方裁判所に不動産仮処分命令(国・大阪府・大阪市に対し、道頓堀川の河川敷地に埋め立てその他現状を変更する工事をしてはならない旨の命令)の申請書を提出した。大阪地裁は、この仮処分申請を受けて口頭弁論を開いたうえ、1966年に仮処分申請を却下する判決を言い渡している。

そうした「道頓堀裁判」の前哨戦(?)ともいうべき、大阪市の道頓堀川改修工事に関する仮処分命令申請の裁判を経て、1976年に道頓堀川の河川敷地に対する安井家の所有権認定請求を棄却する判決が出された。11年の歳月を要した裁判の結果、道頓堀川河川敷地に対する安井家の所有権は認められなかったのである。道頓堀川河川敷地所有権訴訟は、国と大阪府と大阪市の被告らの勝訴、安井氏ら原告の敗訴にて結審し、敗訴した原告側が後日控訴しなかったため地裁判決にて「道頓堀裁判」は終決した。

岩波新書の黄、牧英正「道頓堀裁判」(1981年)は本裁判の詳細を記述している。著者の牧英正は日本法制史専攻の学者であり、本件裁判にて書証として法廷に提出された「安井家文書」を始め、安井家に秘蔵されていた多くの古文書類の鑑定を務めた。道頓堀訴訟に鑑定人の立場から関わった著者が、のちに裁判過程の記録や判決要旨の論点をまとめたものが本書「道頓堀裁判」である。

言うまでもなく、この「道頓堀裁判」が人々の興味を掻(か)き立てるのは歴史学と法律学とが見事なまでに交錯しているからだ。歴史学の観点からして、まず大阪の象徴的な名所である道頓堀周辺の開発の歴史が法廷の場にて公的に明らかにされる点が面白い。道頓堀川の河川敷所有権の確認を請求する本控原告の安井は、自らの権利の立証をしなければならない。そこで「安井家文書」を始め、安井家に秘蔵されていた多くの古文書類が書証として法廷に提出され鑑定に至るわけである。歴史的事実の具体的論点として、「道頓堀川を開削した中心人物で後の道頓堀の名称由来になった安井道頓の出自の解明(道頓は本当に安井家の人なのか?)」「道頓が秀吉から拝領したという土地の正確な位置範囲等や道頓堀川開削に至った詳しい経緯」「江戸から明治を経て現代に至るまでの道頓堀川の管理支配の実態」の史実が文献史料に即し子細に検討された。それらについては本書「道頓堀裁判」の「Ⅳ・道頓の謎」「Ⅴ・道頓堀川開削の経緯」「Ⅵ・道頓堀川の管理支配」の各章で実際の古文書や家系図を引用掲載して詳しく解説されている。

さらに歴史学の問題に加えて、本件「道頓堀裁判」では江戸時代の土地所有をどう考えるかという法律学上の問題もあった。明治以前の事由に遡(さかのぼ)って現在の土地所有権を争う訴訟の難しさがあった。近代的土地所有制度が確立していない、明治以前の江戸時代からの因縁を持つ土地所有権認定の法廷紛争において、どのような解釈から裁判所は司法判断を下すのか。

日本の裁判制度は判例主義の前例主義である。「道頓堀裁判」を進めるにあたり、実は過去に類似した案件で第三審まで行った最高裁判所による判決事例があった。「三田用水事件」(1952─69年)である。本件は東京にある三田用水河川敷の土地所有権確認請求であり、原告は三田用水普通水利組合、被告は国および東京都であった。この裁判は最高裁まで行き、原告の勝訴が確定している。その際、裁判所は三田用水の河川敷の所有権を原告の三田用水普通水利組合側に認める判示を出した。組合が長年、三田用水から田畑灌漑用の水を引き、かつ同用水の維持管理をしてきた事実を以て、「原告・水利組合に土地所有権が帰する」の判決を言い渡したのである。それは「近代的土地所有制度の導入にあたり、土地所有権を誰に帰属をさせるべきかについて直接に規定した立法がない場合、それまで土地について最も強い支配力をもっていた者の既得権が尊重されなければならない道理」に基づく、「所有者自然決定説」に依拠した判決であった。河川敷地に対する国と東京都の管理支配の歴史的事実の実態がなかったため、三田用水訴訟にて被告の国と東京都は最終的に負けている。

結果として本件道頓堀訴訟においても三田用水判決の自然決定説を踏襲したといえる。もちろん、「それまで土地について最も強い支配力をもっていた者の既得権が尊重される」自然決定説以外にも、「道頓の姓が安井であることの疑義、つまりは原告らが道頓と血縁関係にない可能性」「道頓が豊臣から城南の地を拝領して所有権を取得した前提事実自体が証拠上認められないこと」「明治初年の地租改正事業の際、所有権の証明手段たる地券が発行されなかったことに対する解釈」「私有公物の法律概念をめぐる法的解釈」など、他の論点も踏まえ総合的に司法判断されている。しかし何よりも「道頓堀裁判」にて決定打であったのは、三田用水訴訟の過去判例を踏襲した「近代的所有権は近代的土地所有制度が確立した時期において、当該土地を所持管理するなど最も強い支配権を行使していた者に帰属するものと解すべきである」とする自然決定説であった。ゆえに、

「明治維新以後現在まで一貫して被告らが道頓堀川を管理してきた事実は当事者間に争いがない(註─「見解相違の争いがないほど自明である」の意)。したがって明治初年の近代的土地所有制度が確立した際に本件川敷に対し最も強い支配権を行使していたのは、江戸幕府の諸機能を継受した明治政府すなわち国であったと認めるのが相当である。本件川敷は…官民有区分の実施段階において民有地と認むべき実質を有しておらず、結局官有地第三種に該当する土地として国有に確定したものと解するのが相当である」(判決文「第三・結論」)

以上のような判決言い渡しが「道頓堀裁判」にてなされたのである。この自然決定説の理路と道頓堀川河川敷に対し江戸幕府と明治政府、すなわち国が支配の実効力を発揮していた史実は、岩波新書「道頓堀裁判」の「Ⅵ・道頓堀川の管理支配」と「Ⅶ・浜地は公儀御地面」の章で詳しく述べられている。

「自然決定説」とは、近代的土地所有制度の導入にあたり、土地所有権を誰に帰属をさせるべきかについて直接に規定した立法がない場合、当該土地を所持管理するなど最も強い支配権を行使していた者に帰属するとしたものであった。自然決定説の底流には、戦後憲法における財産権保障の理念が表れているとみることができる。自然決定説は三田用水判決を契機とした、該当土地の所持管理実績の既成事実を重く見る全く新しい考え方であるといえる。他方、自然決定説に対して、土地所有権の成立・帰属は近代的土地所有権を形成的に付与する行政処分によるとする「処分による所有権付与説(処分決定説)」という伝統的な考え方があることも、本書にて指摘されている。

被告である国は今回の「道頓堀裁判」に勝って道頓堀川河川敷土地の所有を法的に認められたけれど、当裁判にて私有公物な土地所有の正当性の判断根拠は自然決定説によるものであって処分決定説ではない。道頓堀川河川敷のような土地所有認定に対し、近代的土地所有制度が確立していない明治以前の江戸時代からの因縁を持つ土地所有権認定の法廷紛争において、国の立場からしてみれば、直接的な土地支配管理の実績(既成事実)に由来する「自然決定説」よりも、行政手続き処分の形式的施行による一括認定である「処分決定説」にて土地所有の認定を勝ち取りたい所であったが、それは果たせなかった。今後もまた「道頓堀裁判」のような事例があれば、処分決定説に依(よ)らない限り、三田用水訴訟のように直接的な土地支配管理の既成事実が指摘され、その事実に基づく自然決定説にて再び国が敗けてしまう可能性を否定できないからだ。この意味で「道頓堀裁判」は形式的に国の主張が認められたが、実質的には裁判にて国は敗北したともいえる結末であった。

さて、前述のように道頓堀川の河川敷所有確認請求の訴えは「原告らが現在本件川敷につき所有権を有するものとは認めることはできない」とする原告の敗訴で結審し終決した。その際、判決文には「道頓堀川は原告らの先祖である初代安井九兵衛・道卜らの努力によって開削されたものであり、今日の道頓堀繁栄の基礎を築いた原告らの先祖の功績はまことの多大である」という安井家の功績を称(たた)える、裁判所による「異例の」配慮の文言が付されていた。

実は提訴の翌年、本訴原告の安井朝雄が死去したため、原告は子の久子夫妻に引き継がれた。当時の新聞の伝える所によると判決言い渡しの後、安井夫妻は「お金ではありません。先祖の功績が認められて満足」といい、「一審判決で裁判長が、最後に先祖の功績を認めて下さったので、もう控訴はいたしません」とさわやかに語ったという。そうした後日談が岩波新書、牧英正「道頓堀裁判」の最後に「余滴(よてき)」として静かに書き添えられている。

(※岩波新書の黄、牧英正「道頓堀裁判」は近年、「岩波新書の江戸時代」として改訂版(1993年)が復刻・復刊されています。)