アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(108)廣松渉「新哲学入門」

本来、マルクス主義の思想に階層上下の序列の観念があってはならないのだが、しかし現実のマルクス主義者には確実に階層上下の序列がある。

一番高級で上等なのはマルクス主義の哲学者である。なぜなら「マルクス主義」云々の文言を差し引いても、哲学そのものが存在論や認識論や実践論、あらゆる物事の本質を根本的に考え抜く基幹学問だからである。哲学の次点に来るのがマルクス主義文学者で、文学も哲学に次いで実は哲学ほど確固たる統一的方法論が確立・共有されていない困難もあるが、人間の本質や普遍的精神に時に接近する力を持っている。その文学の下にマルクス主義の経済学、社会学、心理学、芸術論(演劇や映画やデザインや音楽やスポーツなど)の各種理論的分野が様々にある。そして、第一の上位の頂点たる哲学とは対照的に一番下位の底辺にあり下劣で下等なのは、マルクス主義の政治学と実際に活動従事するマルクス主義の政治指導者である。

政治は下劣だ。ゆえに「政治」と名が付くものは、政治学も政治理論も政治家も政治的活動も皆、下劣である。なぜなら政治の本質は党派性にあるからである。党派性とは自分を中心にして「こちらを味方、あちらを敵」と区別し、常に自分(たち)が正しく相手(ら)が間違っている「党派の論理」に基づいて他者を攻撃することだからである。政治的である人は党派性に依拠しており、他者に攻撃的で不寛容で他罰感情が強い性癖の持ち主である。不思議なことに彼らには、なぜかいつも自分(たち)と対峙する敵がいる。

これを疑う人は「政治的である」今日の人達をつぶさに観察してみたまえ。右翼と左翼、保守反動と革新リベラル、愛国者と反日勢力、日本人と在日外国人、日本国と中国・韓国・北朝鮮の東アジア諸国、自民党と反自民…云々、彼らはいつも自分(たち)が正しくて相手(ら)が間違っているの党派性の論理に乗っかっているから。しかも、自分(たち)以外の異質な他者に対し全くの不寛容で異常なまでに他者に対する攻撃性や他罰感情が強いから。

そんな下劣でくだらない政治であるが、それでも現在の私達が政治に関心を持って最低限、政治的なものにコミットしなければならない(選挙に行くとか意思表示をして世論を形成する)のは、そんな愚劣でくだらない政治でも放置して一部の人達にやりたい放題やらせておくと最悪、政治のあり様によっては多くの人間が死んだり(紛争の勃発や戦争の遂行)、個人の思想や良心の自由が不当に制限されたり(自粛・規制・検閲・逮捕の横行)、一部の人々が差別・抑圧されたり(排外運動やヘイトスピーチの流行)する悪(あ)しき事態に陥るからである。政治は実に愚劣でくだらない必要悪だが、それを放置しておくと被害は甚大で最悪、人間の生命の危機にまで関わる。

さて、廣松渉である。九州が生んだ偉大な哲学者であり、東京大学で主にマルクス研究をやった廣松渉は、先のマルクス主義の階層上下の序列からして、この人は高級であり上等であり、しかも精密であって精巧である。普通に考えて、なぜ廣松渉は物象化理論なのか。凡百(ぼんぴゃく)のマルクス主義者の多くが疎外論を展開する中で、なぜ廣松渉だけ疎外論ではなくて物象化論であるのか。それは廣松が目先の政治社会現象的な「疎外」ではなくて、根本の哲学認識的な「物象」にまで掘り下げて思考しているからだ。廣松渉のマルクス読解は現象政治の弊害たる「疎外」ではなく、人間認識の哲学的錯認である「物象」にまで深く斬り込む。ここでも哲学と政治の階層序列の上下は、もはや明白である。

廣松渉は物的世界観(まず実体があって次に関係があると考える)に、事的世界観(関係が最初にあってこそ次に実体があると考える)を対置した。廣松による認識における四肢構造論、ここで「四肢構造」を「所与─所識」と「能知─能識」の各二肢性の四つの項目により構成される自存化した構制と理解してはならない。それは、あたかも「四肢構造」という独立した概念実体が個別に存在しているかのように錯認する物象化に他ならないからだ。四肢構造論は、あくまでもそれら四つの項の媒介「関係」なのである。世界は「こと」の関係性で出来ている事的世界なのである。確かに人々が常々錯覚してしまうように、世界や自己の確固たる「もの」の実体が最初にあるように思える物的実在の世界と認識理解した方が時に便利であるが、それこそが物象化の甘い誘惑の陥穽(かんせい)か。

廣松渉は天才で世上人気もあるため、この人は書籍一冊を上梓するのも軽々と簡単に、しかも何冊も次々と書けてしまう。廣松渉の場合、一般の人と比べて「一冊入魂」の魂(たましい)の入り具合が割合に薄いのではと私は感じる。廣松は天才だから、「この部分はあれこれ随分と悩みながら苦しんで書いた」とか「執筆を振り返って、この箇所には特に深い思い入れがある」など、この人に限ってはそういった泥臭い口上や実際の苦労の経験があまりない(と思われる)。

そうした多数ある廣松の著作の中で「存在と意味」全三巻(1982─93年。ただし二巻までの出版で本人逝去のため未完)といった廣松渉、終生のライフワークの本格仕事よりも、旧知の編集者の求めに応じ情誼(じょうぎ)を発揮して執筆したり、旧ソ連崩壊の時局に伴うマルクスの毀損(きそん)評価に対応したりした一般向けに比較的平易な語り口調で書いた中途の新書本の書き仕事、「新哲学入門」(1988年)や「哲学入門一歩前」(1988年)や「今こそマルクスを読み返す」(1990年)の方が良書の名著なのではという思いが私はする。事実、廣松渉「新哲学入門」と「哲学入門一歩前」と「今こそマルクスを読み返す」は何度読み返してもその度に毎回、面白い。

それにしても岩波新書の赤、廣松渉「新哲学入門」はヒドイと思う。「哲学入門」とは言いながら内容はそこそこ難しく、哲学をまだ本格的に学んだことのない初学の人が読んだら確実に大怪我をする哲学の「入門」書である(笑)。岩波新書にて「看板タイトルに偽(いつわ)りあり」の高度で内容が難しい、とても初学者向けの「入門」とは思えない「哲学入門」は、三木清「哲学入門」(1940年)と廣松渉「新哲学入門」であるに違いない。