アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(111)木田元「ハイデガーの思想」

ドイツの哲学者、ハイデッガーに関しては岩波新書の赤、木田元「ハイデガーの思想」(1993年)を始めとして「入門」や彼の主著「存在と時間」(1927年)の「精読解説」の書籍が実に多く、やたら出ている。「ハイデッガーは難解である。しかしハイデッガーを知りたいしハイデッガーを読み解きたい」人々が世間には多数いて、そのことの需要の表れなのか。

ここでハイデッガーの思想の概要の全体や核心の本質を過不足なく理解し要約して語る字数も、そもそもの力量も私にはないので何とも言えないが、例えばアリストテレスやマルクスの一流の哲学者は、だいたい自著にて「哲学とは何か」の定義づけをしているものである。哲学という思考の営みや、哲学という学問そのものについての各人なりの語りや記述の定義を押さえることが、哲学者に対する手っ取り早い有効な本質理解の方法の一つだと思える。ハイデッガーに関しても、彼による以下のような「哲学の定式」を先に押さえておくのがよいと思われる。

「哲学は普遍的な現象学的存在論であり、現存在の解釈学から出発する。現存在の解釈は実存の分析論として、すべての哲学的に問うことの導きの糸の端を、そこからすべての哲学的に問うことが発し、そこへと打ち返すところに結びつけているのである」(「存在と時間」「『哲学』の定式」)

ここからハイデッガーの志向する「哲学」は、まず「普遍的な現象学的存在論」であり、次に普遍的な存在論を展開するにあたり「現存在の解釈学」の現象学的方法に依拠し、さらには現存在の現象学的解釈は人間存在の「実存の分析論」に連なるものであることが分かる。ハイデッガーの「哲学」は、古代ギリシア哲学よりの伝統的存在論と近代哲学の現象学的方法論と近代の実存哲学、少なくとも三つの要素から成り立っている。古代ギリシア哲学の存在論はプラトンとアリストテレス、近代の現象学はフッサール、近代の実存哲学はキルケゴールやニーチェと便宜それぞれを措定しておけばよい。

ところで、「存在と時間」で目されているのは「存在の意味に対する問いの具体的解明」である。ハイデッガー「存在と時間」において、「存在は時間から理解される」ということだ。

例えば、こうした事例を考えてみる。地球と太陽との間の距離は約1億5千万キロである。光の速度は1秒間に約30万キロメートルであり、地球をおよそ7回半回る速さだという。だとすると太陽からの発せられた光が地球にまで届くには約8分かかる。ということは、地球でみる太陽の姿は常に8分前のものであって現在ただ今のものではない。仮に今、太陽が大爆発を起こして不意に消えてしまったとしても、地球では8分経つまでそれに気付かない。8分経って地球の人間は、やっと太陽の消滅に気付くわけである。なぜなら地球より距離的に遠く約1億5千万キロ彼方に位置する太陽は、常に時間的に8分前の太陽だから。

ここで面白いのは、地球から遠く離れて位置している太陽の存在が普通に距離的隔たりの空間の次元であるように思えて、それがいつの間にか常に存在するのは数分前の太陽であるという時間の次元にねじれてしまっていることだ。事物の存在に関し、何億キロ彼方という距離的隔たりの空間的と思われていた存在が、数分前という時の経過の時間的な存在にねじれてしまうのはなぜなのか。

早々にそのカラクリを明かしてしまえば、それはそれ自体として外部世界に一見、独立して客観的に自明に存在しているかのように思える事物は、実はそれを認識し了解する人間主体との関係性において、常に暗黙裡に内在的に存在しているからである。地球から遠く離れた太陽は、それ自体が地球との隔たりにて個別独立的に空間上に存在しているように思えて、実は最終的には地球上から観察している人間主体との関係性において暗黙裡に内在的に「存在」了解されてしまうので、その了解主体に至るまでの「時間」の機制が必ず入るというわけだ。もちろん、これは即席の例え話の与太であり、「存在と時間」に関するハイデッガーの厳密な考察議論には及びもつかない雑なものだが、よって各人ハイデッガーの原著やハイデッガー哲学の概説書を熟読して頂きたいが、こうした「太陽と地球」の雑な与太話からでも「存在は時間から理解される」、とりあえずは「存在と時間」には深い関係性があることの一端を窺(うかが)い知ることができる。

ハイデッガーの哲学にて「存在」の考察に「時間」が入るのは、従来の伝統的な「普遍的な現象学的存在論」に対し、素朴実在論の議論を抜けて、世界は人間主体の眼前に広がるありのままのそれであり、俯瞰(ふかん)的事象説明認識の先天的な大陸合理論を排して眼前の「事象そのものへ」迫る、「現存在の解釈学」たる現象学的方法に依拠しているからに他ならない。加えて人間存在の「実存の分析論」の実存哲学からの考察により、「人間とは何であるか」の分析を通して、先駆的可能性としての現存在の不可避の死が強烈に意識され、そこで人間は死への先駆的決意を経て「根源的な時間性」を得るとする。かくのごとく、実存的人間主体の側からも「存在」に対して「時間」の契機は確保されるのであった。

以上のことは哲学的に言って、独立の系の実在の認識対象される世界対象が人間の外部にまずあって、その客観的対象物たる世界を人間主体が外部から認識理解するという、主体と対象の二元論的世界観を軽々と打ち破る。世界は認識対象と認識主体からなる二元論的構成ではなく、世界の中に人間存在も含まれてあり、その枠の中で同じ内部世界を構成し、かつそこから認識了解している、いわば「世界内存在」として人間の現存在があるのであって、世界の中にある存在としてしか、人間は世界の世界性や共同存在としての他者や自己の存在を考えることが出来ないのである。

さらには西洋哲学の伝統的存在論において、日常世界の存在や超越的なものの存在は、あくまで空間次元の範疇(はんちゅう)にて主に説明理解されてきた。プラトンのギリシア哲学の超越的なイデアの存在にしても、中世神学の一者(神)からの知性(ヌース)、尽きることのない価値根源の流出にしても、デカルトの近代哲学の空間と時間のパラメーター表示での二次元的対象把握にしても、眼前の対象事物や普遍的で超越的な存在価値は不変であり、時間性であるよりは空間的である。存在は空間次元にて位置し、距離を保って離れて空間彼方に文字通り「存在」してある。それらを原理的に認識把握できるかどうかは、個人の哲学的資質や信仰や理性のあり様にかかっていた。そうした、ともすれば空間次元のみで、それに哲人気質や信仰や理性の認知機能を加えて認識了解に至る従来型の「存在」論に、「時間」の機制を噛(か)ませたハイデッガーの「存在と時間」の哲学は、ギリシア哲学以来の伝統的な西洋哲学の存在論を、プラトンやアリストテレスからデカルトまで一度解体して再構築する、まさに存在論哲学の画期であったのだ。

ハイデッガーによれば、他の動物やコンピューター機械とは違い、存在物の存在する「もの」ではなく、事物が存在する「こと」の存在の意味まで考えられるのは人間だけである。ハイデッガーの哲学の画期の意義は少なくとも、存在する物について考えることではなく、存在することの意味を考えることにあった。よく指摘されるように、西洋哲学にて伝統的な存在論は(真に)存在する「もの」の究明に費やされ、存在する「こと」の意味について、ほとんど考えられてこなかった。

ところで、日々の私の感慨として例えばこういうことがある。時に「専門家」と称して、ある分野の物事に関し非常に詳しい人がいる。博物的にあらゆる事象を分類して名付けたり関係づけたり、評価を下してランク付けしたりする。大変に細かく詳細に物をよく知っている。そのものについての知識が豊富である。しかし、そうした博物的な専門家の物知りが、時に滑稽で虚(むな)しく思えてしまうのはなぜなのだろうか。それはハイデッガー流にいえば、そのような博物的な専門家の物知りは、世界にある存在物それ自体の「もの」の表層は多彩に多様に数多く知ってはいるが、世界に物事が存在する「こと」の意味については全く知らないからである。世界は、あたかも「タマネギの皮むき」のようである。大した実体はなくてもタマネギの皮をむくように世界は、皮をむけばむく度に毎回、表層は多彩に多様で違った様相を新たに見せる。そうした世界の物の存在物それ自体を際限なく知っていってもキリがない。そこには世界に存在する「もの」に対しての量的拡大な知識に終始し、世界が存在する「こと」の意味について掘り下げて考える質的考察がないからである。

世界について本質的に知ることは、個別の事象に対する知識の総和ではなくて、物事の意味を掘り下げ有機的に理解する思考の深さにある。このことは、ハイデッガーによる伝統的な存在論哲学に対する批判的乗り越えの趣旨に、そのまま対応している。存在について考えることは、存在する「もの」の詳細ではなく、存在する「こと」の意味について考えなければならない。そうしたことまで教えてくれる、そこまでの問題射程を持つハイデッガーの存在論哲学であるように思う。