アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(114)中谷宇吉郎「雪」(松岡正剛「千夜千冊」に寄せて)

岩波新書の赤、中谷宇吉郎「雪」(1938年)の概要は以下だ。

「雪の研究で世界的に有名な著者が、平明懇切に雪の科学について語る。雪と人間生活との関係から始まり、有名な『人工雪』の出来るまでの過程を詳細に述べる。本書は、身近な自然現象に対して、先入観や固定観念にとらわれず科学的方法や思考で対象に迫るとはどういうことかを明快に示す好著として長く読みつがれてきた」(表紙カバー裏解説)

さて、中谷宇吉郎「雪」は松岡正剛主宰の書評サイト「千夜千冊」の第一回の「第一夜」になっている。後々まで長く続く松岡の人気書評にて最初に読まれ評された一冊だ。そこで以下、岩波新書の中谷宇吉郎「雪」を離れて、松岡正剛「千夜千冊」を肴(さかな)に書評のあり方について、あれこれと書いてみる。

私はあまり人の来ない、つまらない書評ブログを今では細々とやっているが(笑)、昔から普通の読書に加えて書評やブックレビューの読み物には関心があり、これまで著者当人以外の他人が書いた書評を楽しんで読んできた。松岡正剛の書評サイト「千夜千冊」は、現在ではネット上で屈指の人気書評コンテンツと言ってよく、氏の書評を私も日常的に頻繁によく読む。

松岡正剛は、「古今東西1000夜を超える千差万別・前人未踏のブックナビゲーションサイト」である書評サイト「松岡正剛・千夜千冊」の執筆を2000年から開始している。「同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる」のルールを自らに課し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた自在な文筆は話題を呼んだ。何よりも驚きなのは、松岡の「千夜千冊」の書籍を読んで1本の書評を書き上げる早さ、更新の頻繁さだ。「千夜千冊」は中谷宇吉郎「雪」の「第0001夜」から始まり、これが2000年の掲載エントリーである。それから良寛「良寛全集」の「第1000夜」掲載が2004年である。つまりは1000冊の書評を4年の間に上げていることになる。4年は約1460日であるから、単純計算の日割りにして書評1本を書き上げて掲載するのに2日も要していない。4年で1000冊の書評を執筆掲載するためには、ほぼ毎日、一日から一日半程度で1書評は上げる掲載ペースを守らなければならないことになる。

一日から一日半程度で1本の書評を仕上げなければならないとは、誠に過酷である。しかも、それがほぼ毎日の連続である。もうこれは「千夜千冊」を開設前より相当な構想年月と準備期間とがあって、松岡が事前に膨大に書き貯めていた過去に執筆の書評文を少しずつ蔵出ししてやっているのでは、と思えるほどだ。もしくは松岡正剛という人が相当に有能な人で、本を一冊を読むのにも極度の短時間で済み、それと同時で即座に書くべき書評の構想内容が思い浮かんで、すぐに書けて推敲(すいこう)少なく早くに文章が完成してしまう、かなり優秀な人なのか。後に松岡正剛は大病を患い体力的なものもあって、近年では書評掲載の更新ペースは落ちているようではある。しかしながら、書籍を読み思考し文筆して一つ書評にまとめる氏の力量には感嘆せざるを得ない。私のような本一冊を読むのに時間がかかり、文章を書くのにも散々に迷い最後まで推敲を重ねてしまう、1本の書評を上げるのに早くても4日5日の数日かかる凡人にとって実に羨(うらや)ましいかぎりだ。

一般によく指摘されるように、書評とは本のあらすじや内容を単に要約して読み手に紹介することではない。近年では最初に目次を羅列し、次に各章ごとの概要を要約して体裁よく紹介するだけの、実際に書籍を読んでいないのに読んだ気にさせる、ある意味便利な(?)、「書評もどき」が流行し人気である。しかし、そういうのは正統な書評ではない。そうした書評対象本の内容要約を元に、さらに本そのものを評論し分析して本に評価を加える文章のことを書評という。書評において、本の内容要約はあくまでも前提作業であり、書評の本筋は書籍に対する分析や評価にある。その本が良書で名著でお薦めであれば、どこの部分のどの記述や論述展開が具体的に良くて、文章技術や著者の資質や時代状況の分析を絡(から)めて「なぜ良いのか」考察して説明できなければならない。同時に、その書籍や著者に対する共感や尊敬の念を心を尽くし丁寧に書き示さなければならない。

同様に、該当書籍が良くない不出来な本ならば、その書評にあたり、どこが具体的に良くないのか、なぜそうした良くない結果の内容の残念な書籍になってしまったのか、掘り下げ考察して書評の読み手に伝えなければならない。同時に、その書籍や著者を全否定して傷つけないような細やかな配慮も必要になる。単に「素晴らしい、名著である」とか「お薦めである」と称賛したり、逆に「良くない、最悪である」とか「何ら読む価値もない」と酷評するだけでは、ただのリコメンドの無難な広告カタログ、ないしは書籍そのものや著者への人格否定に連なる単なる嫌がらせの中傷(ちゅうしょう)でしかない。それらは、まっとうな論評の書評ではない。

最後に、ここで大風呂敷を広げることを許してもらえるならば書評とは二つの真剣勝負であるといえる。一つは、書評家と対象書籍との直接対決の真剣勝負である。本の内容や文章技術や著者の資質や時代状況の分析を絡め、その書籍を充分に読み切って熟知し書評家が書評対象の書籍より勝(まさ)っていたり、時に共感や尊敬の念を持って丁寧に敬意を表して、ある意味、書籍をどれだけ広く深く読んで凌駕できているかの勝負である。そして、そうした書評家と対象書籍との直接対決の真剣勝負の格闘を、書評を通して現実に書評を読んでいる書評の読み手に見せながら、書評の書き手と書評の読み手との間に展開される戦いが、もう一つの真剣勝負であるのだ。この二つ目の戦いにおいて、書評の書き手が書評を読んでいる人に、その書評を読んだことで書評対象の本を実際に手に取って読ませる読書行動を誘発し促すことが出来れば、書評の書き手は書評の読み手に対し完全勝利したことになる。

ただ単に書評を読んで「面白かった、参考になった、満足した」それだけで終わってしまわれては書評執筆のこちらは困るのだ。書評対象本を未読な人には、書評を読んだ上で新たに興味を持ってその書籍が読みたくなり、実際に本を手に取って読んでしまうように。また書評対象本を既読な人には、過去に一度は読んだけれど書評を読んだ上で新たな再発見やその書籍の魅力を再度教えられて、再び本を手に取って読んでしまうように。

正統な書評の書き手は、特に二つ目の書評の読み手との真剣勝負において、現実の読書行動を誘発し書評読者を本に向かわせ読ませるよう、その完全勝利を目指して書評を書いている。少なくとも私は毎回そうだ。だが、この勝利の獲得の何と困難であることか。私も今ではつまらない書評ブログを細々とやっているが、いまだに書評読者との真剣勝負にて完全勝利の心地を得たことは一度もないのである(苦笑)。