社会学者の大澤真幸(おおさわ・まさち)が展開する社会学を「大澤社会学」というらしい。
私が氏の著作を知ったのは、大学入試センター試験・現代文の過去問を大学卒業後に一時期、遊びで解いていたことがあって、その時に初めて大澤真幸の文章を読んだ。2012年度の追試験の第1問に大澤「電子メディア論」(1995年)からの出典で問題作成され出題されていた。あの年度のセンター現代文追試は、大澤の課題文そもそもの難しさから例年よりも明らかにセンター現代文の問題も難しかったのではと思う。おそらく2012年度追試験の現代文の平均点は例年のものと比べて相当に低かったに違いない。
後に大澤の著作を集中して読んでみたが、全体に大澤社会学は文体が硬質で内容も難しいという率直な感想だ。まず大澤が、どの考察論述にても論理的に入り組んだ複雑な難しさを毎回あえて狙って書いているフシがある。大澤社会学にて現象的には全く別な正反対なものに見えるのに、よくよく掘り下げて考えてみると実は同じ構造の類似な同質同根のものであったり。はたまた人間主体や社会システムが特定の一方向に「主体的」に働きかけているつもりで働きかけをやればやるほど、当初の人間主体の働きかけの意図とは逆方向に行って思わぬ逆説の奇妙な効果を発揮してしまうだとか。そうした隠された構造原理の見切りや反復や逆説や矛盾の展開を、論理的にヒネった複雑な事柄を論述の中で鮮(あざ)やかに指摘して読者に知らしめたい、大澤の毎回の意図があるように思われる。
これも大澤社会学の大きな特徴だが、昨今の社会事件トピック、最新の現代思想や社会学の知見、映画、アニメ、マンガ、ゲーム、ライトノベルの具体例を一つの考察論述の中に連発でいくつも入れて議論を派手に展開させる、いわゆる「サブカルチャー批評」の手法を主に取る。オンラインゲームでの新たな型の流行だとか、例えばアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」の話だとかを書き入れられても、確かに引用の際にはそれを知らない読者も想定して大澤による一応の説明解説はあるのだが、そもそものゲームやアニメを知らない私は余計に分からなくなるのである(笑)。
こうしたサブカルチャー批評を日本で最初にやり始めたのは、おそらくは1980年代の吉本隆明あたりで、80年代の吉本に言わせれば、当時の日本社会は第一次産業(農業、漁業、林業)と第二次産業(製造、建築)に従事の労働人口を合わせても第三次産業(小売、卸、金融、サーヴィス、流通)に従事している人口を下回るほどの、日本は「高度資本主義社会」であるとする。高度資本主義社会とは、原材料や製造製品を販売するだけではなくて、目に見えないブランド記号のイメージや付加価値のサーヴィスをも売り買いする新たな「高度」資本主義であり、資本主義の次の段階である。80年代以降の日本は既にそうした段階の資本主義に突入しており、したがって以前の商業資本や産業資本の社会分析に依拠した従来のマルクス主義の左派理論は理念的破産を余儀なくされる。そこで政治や生産経済や労働運動や純文学の正統文化のハイカルチャー(メインカルチャー)ではなくて、従前の左翼文化からは「消費は堕落」と否定的に見られ考察対象にならなかった都市風俗の消費文化、都市文学や映画や音楽やマンガやテレビのお笑いタレントの話芸についての評論、サブカルチャー批評を吉本隆明がやり出した。
吉本隆明がサブカルチャー批評をやる際に「重層的な非決定」ということを言った。現在の多層的に重なった文化と観念の様態に対し、どこかに重心を置くことを否定して、層ごとに同じ重量で非決定に対応していくという姿勢を指す。この「重層的非決定」によれば、当時の吉本からして経済学批判の古典のマルクス「資本論」も80年代日本の消費社会にての女性ファッション雑誌「アンアン」も全く同じ量質地平にあり、「マルクスは上等だが『アンアン』は下劣」ということはあり得ない。両者とも重層的に層は異なりがら現在の情況を共に反映している、その意味で両者とも理念的に正しいと吉本はする。
つまりは、そうした消費文化のサブカルチャーの中に「大衆の原像」の精神的雰囲気(エートス)が今や象徴的に端的に見受けられるのであって、だからこそ都市の消費文化のサブカルチャーは評論されるに値するのだ、と。高度資本主義社会では製品を販売するだけではなく、目に見えないブランド記号のイメージや付加価値のサーヴィスをも売り買いするので、そこから吉本の一連のサブカルチャー批評の代表作は、いずれも「イメージ」がタイトルに入る「マス・イメージ論」(1984年)や「ハイ・イメージ論」(1989年)になっているわけである。
元々の吉本隆明のサブカルチャー批評も、必ずしも上手くいって成功しているとは言い難い。評論対象となるマンガや音楽やテレビのお笑いタレントの話芸自体にそこまで突っ込んで論及するほどの中身の厚みが、そもそもないからだ。所詮、サブカルチャーは「下層の」文化であって、使い捨てで消費されるあだ花でしかないのか!?吉本以後のサブカルチャー批評、大澤真幸を始めとして大澤と同時代の1990年代以降のサブカルチャー批評をやる人たち、例えば宮台真司、東浩紀、大塚英志、斎藤美奈子、斎藤環らも、そこまで上手くやっているとは思えない。ただ大澤の著述は、それら同時代のサブカルチャー批評の社会評論の中でスケールの広さや考察の複雑さで頭一つ抜けている印象は私は持つ。
さて「岩波新書の書評」ブログに即し以下、岩波新書の赤、大澤真幸「不可能性の時代」(2008年)に話を絞ると表紙カバー裏解説には次のようにある。
「『現実から逃避』するのではなく、むしろ『現実へと逃避』する者たち。彼らはいったい何を求めているのか。戦後の『理想の時代』から、七0年代以降の『虚構の時代』を経て、九五年を境に迎えた特異な時代を、戦後精神史の中に位置づけ、現代社会における普遍的な連帯の可能性を理論的に探る。大澤社会学・最新の地平」
繰り返しになるが、大澤の論述は文体が硬質で内容も難しい、少なくとも私にとっては。精読するには割合、時間もかかるし労力も要る。岩波新書「不可能性の時代」の中から難しい術語の使用と固い文体の大澤社会学に典型な、いかにも大澤らしい文章をさらに一つ挙げておこう。
「われわれは、この暴力的な『現実』への逃避がもたらす閉塞の有り処を、『理解の時代・虚構の時代・不可能性の時代』という(日本の)戦後史の三区分を経由しながら探り当てた。この閉塞に対して、われわれは、どのように対抗することができるのだろうか?不毛な破壊(の擬制)に身を委ねることなく、この閉塞を克服することができるのだろうか?」
「不毛な破壊(の擬制)」など一般の人には日常的にあまり聞き慣れない抽象術語に加えて、本書では冒頭の序論から「『現実』への逃避」というフレーズが頻繁に出てくる。この表現は普通に考えておかしい。普通、現実とは過酷で人間主体を時に脅(おびや)かすので、そこから逃避されるものであり、一般には「現実からの逃避」である。ところが、大澤真幸はあえて「『現実』への逃避」などと言う。この人は最初からわざと狙っているのである(笑)。「現実からの逃避」ではなくて「『現実』への逃避」と逆説めいた言い方をあえてする。ここに「隠された構造原理の見切りや反復や逆説や矛盾の展開を論理的にヒネった事柄を論述の中で鮮やかに指摘して読者に知らしめたい」毎度の大澤の意向、大澤社会学の本領の骨頂がある。この「『現実』への逃避」の奇妙な逆説めいた言い方にまず引っ掛かり不思議に思い、興味を持って先を読み進められる人は、大澤「不可能性の時代」に間違いなくハマって大澤社会学を楽しめる資質の読者だ。
「不可能性の時代」にて読み手が知らないマンガや未鑑賞な映画の話(浦沢直樹「20世紀少年」1999年やメル・ギブソン監督「パッション」2004年など)をされると、私は分からないので本書での大澤の記述を信用するしかない。だが、それ以外の昨今の社会事件トピック(「地下鉄サリン事件」1995年や「神戸連続児童殺傷事件」1997年など)や、宗教史(「新約聖書」の「福音書」記述など)や、戦後思想史研究(丸山眞男の「戦後民主主義」やジョン・ダワー『敗北を抱き締めて』2001年など)の具体的事柄で私が多少は知っていることに関し、時事問題の理解解釈として「さすがにこれは変ではないか」とか、引用元の前後の文脈を知っている者からすれば「説明が少しおかしいのでは」と思わずにいられない記述が相当数あるのも事実だ。大澤真幸の大澤社会学に対し、その専門分野の識者や研究者から「大澤の本に引用され書かれてあるのはトンデモ理解」とする批判が昔から多くあることも、私達は知っている。
大澤真幸による大澤社会学は確かに文体が硬質で内容も難しいし精読を要請され読んでいて、それなりに面白く読む者の読解力は確実に鍛えられるだろう。大澤は実はサブカルチャー批評だけでなく、本職の社会学や西洋哲学や精神分析や現代思想の最新知見の論説も上手い具合に議論の中に数多く盛り込んでいる。それら次々に連続で繰り出される社会理論の多彩な引用に読んで圧倒される感はある。しかしながら、表層の「難解きどり」な複雑さとは裏腹に、これが学術的に読むに耐えうるのか、学問的な社会学の研究として通用し、これからも時代の中で残り長く読まれ続けるのか、私には相当に疑問だ。
岩波新書「不可能性の時代」を始めとする大澤社会学の最良の読まれ方の落とし所は、割り切って趣味の娯楽用読書の「社会学」もどきか、若い学生の読解力見極めのための精読用の大学入試問題素材としての活用といった地点が、せいぜいの所だと私には思える。