アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(120)平岡昇「平等に憑かれた人々」

岩波新書の青、平岡昇「平等に憑(つ)かれた人々」(1973年)は副題が「バブーフとその仲間たち」であり、表紙カバー裏解説には以下のようにある。

「フランス革命末期に泡沫(ほうまつ)のように消えた『平等派の陰謀』とは何だったのか。十八世紀フランスのいかなる歴史状況のなかで、何がバブーフ、ブオナロティ、マレシャルらを結束させ、『陰謀』へと駆りたてたのか。彼ら自身の著作や手紙、また同時代および後世の史家、文学者の発言を手がかりに、その思想的内面に光を当てる」

さらに「はじめに」にて、著者は本書執筆の意図を次のように述べている。

「この本は、フランス革命の末期、総裁政府時代におこった、というよりおこらないうちに潰滅(かいめつ)させられたある政治的陰謀事件の意味を、おもだった当事者の生涯や思想を通じて私なりに問おうとするくわだてである。それは『バブーフの陰謀事件』とよばれ、事件当時では、政府側によって極悪な暴徒、当時のことばでは無政府主義者たちの破壊運動だと宣伝され、一般にもっとも悪質の社会秩序破壊のくわだてとして印象づけられたため、当時の歴史家にも、それは大革命の大きな波のうねりの一角にかろうじて浮かび出て、束の間に消えうせた泡沫のようなものにみえていた。それが事件後約三十年を経て、七月革命の前夜、おもだった当事者の一人、ブオナロティによって事件の意義の宣揚のために書かれた『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』(1828年)が現れて以来、社会運動家、革命家はもとより一般の人々、文学者や歴史家の注目をもひくようになった」

本書はフランス革命時の平等派の人達、思想家であり革命家でもある三人の、いわゆる「平等に憑かれた人々」の評伝である。すなわち、「バブーフ・『人民の護民官』」と「ブオナロティ・永遠の革命家」と「マレシャル・『神なき人』のユートピア」である。これら三人に関する三つの章は、以前に岩波書店の雑誌「世界」にて「平等派の人びと」と題して三回にわたり連載されたもので、それら連載に序論と結論をつけて岩波新書「平等に憑かれた人々」の一冊にして後に刊行したものだ。

以下「人民の護民官」たるバブーフ(1760─96年)について。

バブーフは1760年12月24日、北フランスの貧しい農民の家に生まれた。父クロード・バブーフは初め塩税関係の小役人を勤めていたが、反抗的で頭を下げるのが嫌いなクロードは、それが原因でまもなく職を失い土工にまで身を落としてしまう。そうした闘志の激しい父親の気性をバブーフは受け継いだ。少年バブーフは、失業した父親を助けるために十四歳から働き家計を助けた。そして働きながらバブーフは独学をなした。若いバブーフの知的形成にとって、もっとも重要な意味を持つのは父親ゆずりの強い自負心、権威に対する反抗心、熱情的な気質、それに頑固なほど素朴な農民魂ともいうべきものであった。バブーフは若い頃から「人間不平等起源論」を著したルソーに傾倒していた。時代はフランス革命の最中である。バブーフは土地台帳管理人の仕事に就いて主に農村問題に取り組み、農民一揆の反封建闘争(ジャックリーの乱)の伝統精神をも自身の内に取り込みながら封建領主たる地主貴族に対する不信と対抗思想を深めていった。

1795年11月30日付「人民の護民官」第35号にバブーフは「平民派宣言」と題する一文を掲載した。彼は「土地は万人のものである」との認識に立ち、個人が必要以上の土地を私有する行為を「社会的窃盗」と指弾。同時に、個人の財産譲渡権や相続権も否定した。これに代わる制度として彼が提示したのは、物品の共同管理に基づく配給行政であった。すなわち、全ての人間及び生産品に関する情報の登録を義務付け、現物生産品を国庫に納めさせたのち、改めて平等に分配するというものである。フランス革命に際し、ブルジョア市民階級が百科事典的に主張する漠然と抽象的に人間の権利の平等を謳(うた)う無難な啓蒙思想ではなくて、早くも人民の私有財産のあり様にまで、物質的・経済的格差にまで踏み込んで是正を要求する徹底した平等主義の思想であった。この点、バブーフが後のマルクスら共産主義者から初期社会主義の先駆として一目置かれるのも故(ゆえ)あることである。

ここに至って、フランス革命はナポレオン前夜の総裁政府の時代を迎えていた。バブーフは苛烈な急進派の平等主義の思想ゆえ、反革命の反動的な王党派とも穏健でやや保守的なブルジョア共和派の総裁政府とも原理的に鋭く対立し、容赦のない批判議論を展開できた。王党派と総裁政府、どちらの陣営にもバブーフら平等派は日和見(ひよりみ)することはなかった。

バブーフは1795年11月、パンテオン・クラブを組織し、共産主義とその基底にある平等を主張。パンテオン・クラブのうち過激派は、反乱委員会と秘密の執行部を設置。前者は軍や警察など行政の内部に工作員を送り込み、後者は総裁政府が打倒された後に新たな議会が開催されるまでの間、一時的に独裁執行権を行使する予定であった。翌12月総裁政府はバブーフ逮捕を布告したが、バブーフは地下に潜行。1796年3月、地下で総裁政府の転覆、共産主義体制樹立のための蜂起委員会を組織。バラスの資金援助を受け、ジャコバン派の1793年憲法(男子普通選挙や抵抗権を規定した民主憲法)実現のための決起を企図したが、総裁政府のカルノーは会員の一人、ジョルジュ・グリゼルをスパイとして買収していた。計画はグリゼルによる密告で事前に発覚。決行前日の1796年5月10日にバブーフは逮捕された。この事件を「バブーフの陰謀」ないしは「平等派の陰謀」と呼ぶ。

バブーフの他、ブオナロティ、ダルテ、ドルエら首謀者が逮捕拘束された。裁判はヴァンドームの法廷で1796年10月5日に開始され、翌97年 5月26日にバブーフはダルテと共に死刑を宣告された。彼らはバブーフの息子から渡された短刀で刺し違えて死のうと図(はか)ったが果たせず、5月27日、ヴァンドームでギロチンにかけられ処刑された。遺体はヴァンドーム旧墓地に埋葬されている。

バブーフは享年36。バブーフの家族は妻のアンヌ・ヴィクトワール・ラングレ、当時11歳の長男エミール(元はロベールの名であったが、バブーフがルソーにあやかって後に「エミール」と改名させた)を頭に、次男カミーユと生まれたばかりの三男カイユスの三人の息子がいた。そのうち妻と長男は、パリのアベイの牢獄から二百キロ離れたヴァンドームのトリニテ修道院内に設けられた高等法廷へ移されたバブーフの後を徒歩でついていった。刑死の前夜、獄中にて家族にあてて書き残した手紙の抜粋、バブーフの家族へ向けた哀切な別れの絶筆が岩波新書「平等に憑かれた人々」に掲載されてある。

「バブーフの陰謀」事件にてバブーフは処刑されたが、同志ブオナロティはバブーフと共に拘束され死刑を宣告されたにもかかわらず、ナポレオンの尽力で死刑を免れた。ブオナロティは1828年に「バブーフの、いわゆる平等のための陰謀」を上梓し、事件の意義を喧伝した。出版当初はさしたる反響を呼ばなかったが、蓋(ふた)を開けてみればブルジョア革命でしかなかった七月革命の結果に失望した社会主義者らの関心を集め、以後バブーフの名は広く知れ渡ることとなる。バブーフの思想と行動は後のフランス革命、二月革命やパリ・コミューンへの原動力となった。

「バブーフの陰謀」という事件の呼び名は、当時の総裁政府側からする敵対勢力のクーデターの政府転覆計画に批判的意味の重点を置いたがゆえの呼称の「陰謀」である。私有制否定の「共同の幸福」を志向するバブーフの徹底平等の思想は、後のマルクスら共産主義者のみならず、社会主義者や無政府主義者や労働運動のシンパ、総じて人民の貧困廃絶と階級格差の是正を目する左派運動理論の先駆となった。また前衛分子による武装クーデターおよびプロレタリアの一時的独裁の観念を樹立した点において、フランス革命時におけるバブーフら平等派の人々の行動は、レーニンやトロツキーら後の革命運動家から実践手本として高く評価されている。