アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(122)網野善彦「日本中世の民衆像」

日本中世史研究専攻の網野善彦(あみの・よしひこ)による、いわゆる「網野史学」の代表著作といえば「蒙古襲来」(1974年)か「無縁・公界・楽」(1978年)辺りになるのだろうか。この人は自身の研究キャリアにて割合、初期から代表作を著して網野史学は早くも完成の観がある。特に網野の「無縁・公界・楽」は氏の代表作と言ってよく1970年代当時、学術書としては異例のヒットを記録し一般の多くの人々に読まれたそうである。その後、1990年代にさらに大きな網野史学ブームの再来があったように思う。

すなわち、網野善彦「日本の歴史をよみなおす」正続二巻(1991・1996年)の異例のロングラン大ヒットである。本書は、後にも版を重ね書式を変えて読まれ続けた。90年代に学生だった私は今でも非常に印象深く覚えているのだが当時、高校の先生が網野の「日本の歴史をよみなおす」を読んで相当に感激して、授業中に「お薦めの本」として熱心に語っていた。その当時から熱烈な網野史学ファンの網野の読者は多くいたのだった。

網野善彦による網野史学の特徴はこうだ。氏は日本中世史専攻の研究者であり、日本中世の職能民や芸能民ら、農民以外の非定住である漂泊民の世界を明らかにして、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究の新たな可能性を切り拓(ひら)いた。それまで日本中世史といえば、日本史でもヨーロッパ史の影響を受けて封建的抑圧を強いられた前近代の暗い時代、「暗黒の中世」といったステレオタイプな中世史理解が強かったように思う。網野善彦は、前近代の中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者たちが決して農民だけではなく、漁業や林業や手工業や芸能など多様な生業の従事者であり、彼らには自由も平和もあったことを史料を交えて指摘した。また中央集権的な政治支配から逸脱する地方の無秩序で自由なあり様も示した。日本史学に民俗学からのアプローチを行い、新たな研究視角を導入したといえる。

網野善彦の戦後歴史学研究や回顧のエッセイ、インタビューを読んでいると、網野の発言に出てくる氏に強い影響を与えた日本史研究の研究者が主に以下の三人であったことに気づく。網野史学は、彼らの先行研究に少なからず拠(よ)っている。

まず石母田正 (いしもだ・しょう)である。石母田は戦後の歴史学に多大な影響を与えた。戦後、日本史学、特に古代史や中世史を志した人の多くが石母田正「中世的世界の形成」(1946年)を読んだことにより、歴史学を専攻する道を選んだという。確かに石母田「中世世界の形成」は、一読して非常に優れた日本史研究である。こうした実証的かつ系統理論的な日本中世史研究の業績が終戦直後の1946年に早くも出されていたことに、私は驚きを禁じ得ない。本書は、東大寺庄園(荘園)の歴史を、いわば「定点観測」で綿密にたどり、古代から中世世界への大きな歴史の動きを描き出すことに見事、成功している。石母田の「中世的世界の形成」を読む度に感心するのは、日本史における「中世的なもの」を摘出することが自(おの)ずと日本の古代世界や近世世界との相違を際立たせ、石母田の考察が単なる中世史研究にとどまらない、実は日本史の大きな時代区分論になり得ていることだ。

網野の歴史研究エッセイを読んでいると、安良城盛昭(あらき・もりあき)の話もよく出てくる。安良城は沖縄出身の学者であり、沖縄の抑圧された地域や人々への共感の立場から天皇制や被差別部落の構造に関する研究を彼は精力的に進めた。また安良城はマルクス主義歴史学の影響を強く受けて、古代律令制と中世荘園制と近世幕藩制との相違を押さえる時代区分論を熱心にやっていたの印象が強い。石母田の土地制度史からの「中世的世界の形成」もそうだが、石母田や安良城が古代史ないしは中世史研究専攻にもかかわらず、古代・中世の一時代に終始せず、幅広い視野で歴史の時代区分論を展開して古代・中世も含めた日本史全体を射程にできたのは当時、彼らが歴史の段階的発展理論を追究するマルクス主義の歴史学に傾倒していたことによる。良くも悪くも、日本の戦後歴史学の一時期は、特に敗戦後からある時代にまでかけてマルクス主義が一つの大きな潮流であり、時代の影響力を持っていたのだった。

網野史学を考える上で民俗学の宮本常一(みやもと・つねいち)との、つながりも看過できない。宮本が所属していた日本常民文化研究所は、後に神奈川大学に招致された。その後、神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科が開設され、研究指導者として網野が招かれたのであった。神奈川大学は宮本の民俗学と網野の日本史学とをつなぐ場となった。宮本常一の学問は、もとより民俗学の枠に収まるものではないが、民俗学研究者として離島や漂泊民や被差別民や性の「個」の問題を宮本は重視したため、普遍的な日本人の来歴や民族性の規範を見つけようとする主に「種」の問題解明の柳田國男の学閥から、宮本は無視され冷遇されていたという。

私が網野の仕事の中で特に好きなものの一つに、宮本常一「忘れられた日本人」(1960年)の後の岩波文庫版に収められた巻末解説がある。あの巻末解説での宮本民俗学に共感する網野の力の入りようは、筆の迫力があって実に見事だと思った。宮本の「忘れられた日本人」は、日本各地の民間伝承を調査することを通して、地方にて黙々と生きる無名の人々、つまりは「忘れられた日本人」の日常生活と人間存在を掘り起こそうとするものだ。その際に日本の地方の村落共同体は封建的で人間関係は陰湿で村の掟の因襲や差別も未だあり、といった前近代的な昔の暗い村落の紋切り型イメージを故意に排する、どちらかといえば肯定的な良イメージの「忘れられた日本人」を描き出す記述を宮本常一はあえて、わざとやっている。そうして網野も、宮本「忘れられた日本人」の記述戦略に賛同し接木していた。前述のように、それまで日本中世史といえば封建的抑圧を強いられた前近代の暗い時代、「暗黒の中世」といったステレオタイプな中世史理解が強かったように思う。網野史学には宮本民俗学に乗っかる形で、そうした一面的な日本中世史像を打ち破ろうとする志向もあった。

思えば、網野善彦による網野史学は石母田正や安良城盛昭の戦後のマルクス主義歴史学の問題意識を引き継いで、中世史研究にとどまらない、時代区分論や日本歴史の総体を見据えた全体的な議論や考察、まさに「日本の歴史をよみなおす」ような新たな歴史の見方の提言をやってきた。網野は、日本中世の職能民や芸能民ら農民以外の非定住である漂泊民や被差別民の世界を明らかにすることを通して、安良城のように王権(天皇制)と被差別民との関係の構造問題にも触れ得た。また、いわゆる「農業中心史観」への批判を通し農民百姓のみの農奴的存在ではなくて、漁業や林業や手工業や芸能など多様な生業を持つ民衆の歴史的存在を見つめることで、中世史や近世史における土地支配を介した画一的な封建体制論を相対化することもできた。マルクス主義的な、土地に緊縛され、ひたすら収奪されて抑圧される民衆理解に疑問を呈し、「無縁」に「日本中世の自由と平和」も見出せた。さらには農業中心史観に対する批判、漁業への注目により、「海民」の「海から見た歴史」の列島文化の日本文化論を展開させ、日本が孤立した島国ではなく東アジアの近隣諸国の他地域の人々との往来交流があった史実を指して、日本人だけによる日本国といった伝統的な単一民族国家論の一国史観を否定し、ある程度、解体することもできた。

以上のように網野善彦の網野史学は、多様な歴史の諸相を指摘して読む者に新たな歴史学の可能性を示し得た所に、その魅力があるように思う。網野の著作は何を読んでもだいたい面白い。なかでも「網野善彦この一冊」として完成度が高く私が推(お)すとすれば、「蒙古襲来」上下(1974年)になる。