岩波新書の赤、岡田温司「黙示録・イメージの源泉」(2014年)の概要は以下だ。
「繰り返される数字の『七』、竜との戦い、聖女と大淫婦、禍々(まがまが)しくも強烈に惹(ひ)きつける謎めいた表象に溢(あふ)れ返るテクスト『黙示録』。古代から現代に至る各種の芸術作品を参照しながら、歴史の結節点で繰り返し変奏されてきたその『終末』と『再生』イメージの系譜をたどり、この書が人間の想像力に与えてきた影響の本質に迫る」
「黙示録」とはアポカリプスである。この世の終わり(終末)、ハルマゲドン(最終戦争)、天変地異、暴君の支配、オカルト、ノストラダムス…様々な「イメージの源泉」である。その原点は「新約聖書」の最後に収録されている「ヨハネの黙示録」にある。それは「とりわけ西洋の宗教と政治、文化と社会、文学と芸術に計り知れないほどの影響力をもってきたテクストである」と著者はいう。そして「とはいえ黙示録、つまりアポカリプスの本来の意味は、そうしたカタストロフにあるわけではない。その原義は秘密のヴェールが剥(は)がれること、つまり啓示である」とする。
本書は六つの章よりなる。前半の三つはテクストに、後半の三つはイメージにかかわる。テクストを扱う前半の章では、「旧約聖書」や「新約聖書」の全体に目を向け、「黙示録」的な思想の萌芽をユダヤ教と初期キリスト教のうちに跡づけようとする。イメージを扱う後半の章では、主に男中心で展開する「黙示録」の中に登場する数少ない女性(「バビロンの大淫婦」など)と、「アンチキリスト」(栄光の「主の日」が到来するよりも前に神への反逆が起こり、この世を混乱に陥れる不法の者、滅びの子を指す)と、「黙示録」の最大の特徴ともいえる「カタストロフ」(破壊や破滅のイメージ)それぞれ三つのテーマを扱っている。
著者の岡田温司の西洋美術史・思想史専攻はであり、本新書以外にも近年、氏の著作はかなり多い。この人はファンである自身の読者を相当数もっているの印象だ。氏による同じ岩波新書では、「グランドツアー・19世紀イタリアへの旅」(2010年)や「デスマスク」(2011年)など、文献引用や図表掲載を多用した主にヨーロッパ文化史、美術史、メディア史に関する執筆にてイメージ喚起の点で非常に刺激的であり読んで面白い。岩波新書「黙示録」も「イメージの源泉」というタイトルから了解できるように、各時代やメディアにおける「黙示録」イメージを文献・図表の引用掲載を通じ次から次へとたたみかけるように周到に連続で出して、読み手を圧倒し魅了する。
特に本書「黙示録」では、それが「終末と破壊」の、いわゆる「リセット願望」に飢えている昨今の若者の興味を引く時に安易に誤解されやすいテーマであるだけに、冒頭の「はじめに」から「本書はオカルト、スピリチュアル、ニューエイジ的な黙示録の読み込みとははっきりと一戦を画すること。むしろ、本書の立場はそうした読みに批判的であること。それゆえ終末思想を、ことさら煽(あお)るものではないこと。黙示録には不寛容と暴力を扇動する一面があるのを断じて忘れてはならないこと」の確認を再三に渡り釘を刺して強調する。著者のこの姿勢は本論にても変わらず常に一貫している。
例えば第Ⅰ章にて「奇跡の七」や「悪魔の六百六十六」を詳細に述べながら、しかし同時にカッシーラーの「原理的にどんな数でも神秘的な意味をもちうるのだ。それゆえ、そうした数の神格化と聖化の議論は深読みや恣意的な解釈に陥る危険性をつねに伴っている」旨の記号論的言辞を引用して、著者は「黙示録」にまつわる数字への神秘的のめり込みから一定の距離を置こうとする。同様に第Ⅴ章のアンチキリストのテーマに関しても、1990年代の湾岸戦争におけるイラクのサダム・フセインをアメリカにとっての「敵」たるアンチキリストにしてしまうヴァーチャルな黙示録的人物措定といった近年の「黙示録」イメージに依拠した「アンチキリストの使われ方」に対し、そうした不寛容や暴力を暗に肯定する風潮を著者は明確に否定している。
このような「黙示録」イメージの由来や詳細を丁寧に論じながら同時にそれへのオカルトやスピリチュアルな読まれ方、不寛容や暴力礼賛への歯止めにも配慮する、いわば「黙示録への熱いのめり込みのアクセルと、醒(さ)めた相対化のブレーキ」との双方の踏み加減のバランスが非常に優れている。いたずらにオカルトやスピリチュアルな「黙示録」の読みを期待する読者は、本書での抑制された真面目な議論に失望するだろう。私は一読者として著者に代わって「してやったり」の痛快な思いがする。
この絶妙なバランス具合が岩波新書の赤、岡田温司「黙示録・イメージの源泉」の良さの魅力だと思える。そうした「黙示録への熱いのめり込みのアクセルと醒めた相対化のブレーキ」との双方の踏み加減の絶妙バランスは「はじめに」から本論の内容にて一貫し、それは「手を替え品を替えて繰り出されてくる黙示録や終末論のレトリックに、いたずらに振り回されてはならない」とする、以下のような「おわりに」における著者の「脱稿後の思い」と「本書の執筆の動機」にまで、より強固に維持され連続せられるのであった。
「脱稿して改めて思うのは、『黙示録』の思想やイメージが、それと意識されることの少ないまま、いかに日常のなかに浸透しているか、ということである。なぜならそこには、人間のもっとも根源的な感情である希望と恐怖が、さまざまな姿をとって投影されているからだ。それゆえ、キリスト教信者ではない一般の人々にもアピールする力をもつ。手を替え品を替えて繰り出されてくる黙示録や終末論のレトリックに、踊らされる必要は毛頭ないが、だからといって無視することもできない。いたずらに振り回されないためにも、その源泉や変遷を知っておくのも無駄ではないだろう。本書の動機のひとつもそこにある」(「おわりに」)