アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(131)黒田俊雄「寺社勢力」

先日、岩波書店が出している月刊誌「図書」の「岩波新書創刊80年記念」に当たる臨時増刊「はじめての新書」(2018年)を入手した。

「はじめての新書」というアンケート企画であり、各界著名人が歴代新書の中から推薦する名著な新書ラインナップに対し、「この手のアンケートでこの新書を挙げるのは定番で無難ではあるけれど、書籍の内容からしてなるほど納得できる」とか、「馬鹿野郎!あの新書を誰も挙げないなんてコイツらセンスないな」など(笑)、面白半分に半畳を入れながら適当につらつらと読んでいた。みすず書房の月刊誌「みすず」が昔から毎年新年号でやっている前年のベストな書籍を各人が挙げる恒例の「読書アンケート」同様、この種のアンケート企画は、そういった茶々を入れながらからかい半分に読んで楽しむものだ。

そうしたなかで岩波新書の黄、黒田俊雄「寺社勢力」(1980年)を「(読まれるべき)はじめての新書」として推(お)している人が一人だけいた。黒田「寺社勢力」を推薦していたのは、江戸の都市史研究をやっている近世史専攻の吉田伸之である。岩波新書「寺社勢力」は良書の名著として、つねづね日本中世史研究の黒田俊雄に私は敬服していたので、黒田の「寺社勢力」が一人からだけだが挙げられていることがうれしく思えた。以下のような吉田伸之による黒田俊雄「寺社勢力」に対する力の入った推薦文が、黒田の「寺社勢力」は1980年の初版刊行であるにもかかわらず2000年代に入った現在でも「一般書ながら、歴史学の最先端を堪能できる」と明確に言い切る吉田伸之の熱烈な推薦ぶりに思わず私は笑ってしまう。

「中世史像を寺社勢力の動きから描く傑作。博識を基礎に、鋭利な視点と深い問題意識から書き下ろす。アイロニーのちりばめられた文体も魅力的である。一般書ながら、歴史学の最先端を堪能できる」

黒田俊雄「寺社勢力」が現在でも「一般書ながら、歴史学の最先端を堪能できる」かどうか私は疑問だが、しかし本新書が今でも読まれるべき良書であり名著であることに変わりはない。

黒田「寺社勢力」の副題は「もう一つの中世社会」である。日本の中世社会といえば、例えば、承久の乱における幕府と朝廷の対決があって、はたまた地方でも古代からの律令体制下の国司がいてその後ろ楯(だて)に公家の領家があり、他方で新興の鎌倉幕府から承認された地頭がいて領地での国司と地頭との対立があり、そうした状況から鎌倉時代を始めとする日本の中世社会は朝幕二元体制だと高校の日本史授業にて教えられ、また一般的にもそのように理解されがちであるけれど、実は違う。日本の中世社会には少なくとも公家権門と武家権門と宗教権門の三つの勢力があって、それら諸勢力が三つ巴(どもえ)で互いに拮抗し牽制(けんせい)し合い、しかし時には相互に依存し補完し合っているというのが、戦後の主流な日本中世史研究における中世封建社会に対する認識だ。

岩波新書の黒田俊雄「寺社勢力」は、そうした従来一般的には朝幕二元論(旧体制の天皇を中心とする公家と新興の鎌倉幕府の武家との対立構造)で理解されがちな中世社会像に「寺社勢力」という第三の要素を加えて、寺社(僧侶の教団)と王権(天皇の朝廷)と武家(武士の幕府)の三つの関係から、「もう一つの中世社会」として日本の中世社会像を新たに捉えなおそうとする試みである。よって、本書にて主に扱われる「寺社勢力」は、法然や親鸞や日蓮ら新興の鎌倉「新仏教」ではなく、昔から伝統的にある今や強大な社会的・政治的勢力となっていた南都北嶺を始めとする中央の大寺社たる顕密仏教、いわゆる「旧仏教」の勢力となる。

このような宗教教団が世俗権力として振る舞う話は、論じる著者の立場がどうあれ、著者による直接の指摘がなくとも、そもそも宗教とは世俗の政治権力や政治の営みそのものを相対化し無化することが本領なはずなのに(なぜなら政治は本来は平等なはずの人間を治者と被治者とに分けて支配することだから。また政治権力は、この世の富や権威を独占享受する世俗的な権力集団だから)、現実には宗教組織が世俗の権力集団に化してしまっているといった強い批判の問題意識を持って読むことが前提だ。そこに、まず本書に接する際の読み手の力量が試されているといえる。

タイトルの「寺社勢力」からして、白河法皇を悩ませたとされる南都北嶺の「僧兵」(武装した僧侶)を連想したり、京の松尾大社が伯耆国・東郷荘の領家であったことなど中世の寺社が大荘園領主であった先入観を持って本書を読み始めても、あながち間違ってはいない。本書「寺社勢力」でも、民衆の救済の基である寺社が人間内面の信仰ではなく、世俗の経済優先の集団社会となっていった姿が克明に描かれている。日本の中世社会において宗教教団が世俗の封建権力となり、東大寺、南都(興福寺)北嶺(延暦寺)、高野山、吉野、熊野の寺社は大荘園領主であるとともに武力も保持する大勢力であり、武家と公家とに脅威を与えていた。軍事力、経済力で中世寺社勢力の強大さは時に幕府や朝廷を凌駕(りょうが)した。しかも、この寺社世界は国家の論理や俗世の有縁の絆(きずな)を断ち切る「無縁の場」であったし、また信仰集団として宗教的呪術に訴える力も有していた。実質は世俗の封建権力でありながら、表面的に「反世俗超越」の宗教教団として振る舞う「寺社勢力」には朝廷と幕府に対する精神的優越の強みがあった。

本書はこうした観点より、「寺社勢力」の隆盛から衰退に至るまでを綿密に追っている。そのうちの一つの読み所は「中世を通じての寺社勢力衰退の理由」である。「戦国時代末期に信長や秀吉が相次ぐ焼討ちと大殺戮を繰り返したために、権門的規模を誇った寺社勢力は衰退に至った」などと、表面的な事柄に理由を求め安易に了解しては決してならない。「寺社勢力の衰退」の根本理由については本書を読めば分かる。「寺社勢力の衰退」は、荘園制の崩壊による社会経済史観点の「中世社会の終焉」からより立体的・根本的に読まれ理解されるべきものだ。

また「本書は『寺社勢力』といいながら、顕密仏教(いわゆる「旧仏教」)を中世仏教の主役に据えて叙述しており、神道は独立の宗教として扱われていない。読者はそのことに終始不可解の念を抱いて本書を読むかもしれないが、なぜそういう書き方をするのか、この本を最後まで読めば分かるであろう」旨を著者は「まえがき」の中で述べている。「『寺社勢力』といっても、その多くは寺院に限られており、神社に関しての記述が少ない」理由も、本新書にて展開される古代から中世を経て近世と近代にまで至る日本仏教史(日本の仏教と神道と封建権力との関係、いわゆる「日本仏教の神道イデオロギー化」)に関しての著者による概観意図を押さえることで最後まで読み切って初めて分かる仕掛けになっている。この辺り、たかだか200ページ強の紙数の限られた新書のなかで「もう一つの中世社会」の「寺社勢力」のみならず、最初の序章を使って「前史・古代の宗教事情」を、かつ最後の「あとがき」も遺憾なく最大限に利用し「後史にかえて」にて近世と近代における「その後の寺社勢力」の宗教史的考察を古代から近代まで全時代の通史として幅広く展開させている所に、著者の黒田俊雄の並々ならぬ優れた手腕を感じさせる。

岩波新書の黄、黒田俊雄「寺社勢力」ほどの名著が「はじめての新書」アンケートにて、たった一人からしか推薦されていない現状は非常に残念だ。本書が今日、より多くの人々に読まれることを私は強く望む。最後に岩波新書「寺社勢力」の目次を記しておく

「前史・古代の宗教事情、Ⅰ・寺社勢力の興隆、Ⅱ・諸勢力との抗争、Ⅲ・聖と革新運動、Ⅳ・寺院生活の諸相、Ⅴ・地方寺社、Ⅵ・再編と混迷、Ⅶ・寺社勢力の衰退、あとがき・後史にかえて」