岩波新書の赤、斎藤貴男「安心のファシズム」(2004年)の副題は「支配されたがる人びと」であり、その概要はおよそ以下である。
「携帯電話、住基ネット、ネット家電、自動改札機など、便利なテクノロジーにちらつく権力の影。人間の尊厳を冒され、道具にされる運命をしいられるにもかかわらず、それでも人びとは、そこに『安心』を求める。自由から逃走し、支配されたがるその心性はどこからくるのか。著者の長年の取材、調査、研究を集大成する渾身(こんしん)の書き下ろし」(表紙カバー裏解説)
本新書は「著者の長年の取材、調査、研究を集大成する渾身の書き下ろし」というだけあって、これまでの著者の現代日本批判の各種テーマがバランスよく入り、網羅的に論じられている。岩波新書「安心のファシズム」は全六章からなる。ここで目次を書き出してみると、
「第一章・イラク人質事件と銃後の思想、第二章・自動改札機と携帯電話、第三章・自由からの逃走、第四章・監視カメラの心理学、第五章・社会ダーウィニズムと服従の論理、第六章・安心のファシズム」
第一章は2004年のイラク人質事件をめぐる、日本からイラクに入ったボランティア活動家とジャーナリストら三人が現地の武装グループに「人質」として拘束されるも後に解放された一連の報道を受けて、拘束当事者やその日本の家族に対し「自己責任論」、ないしは「自作自演説」にて大勢の人々が誹謗中傷で叩きまくる諸外国とは異なる日本国内の世論の狂騒を問題にしている。第二章では、自動改札機、携帯電話、住基ネット、ネット通販の活用普及にて政府や企業が提唱する利便性や効率性に迎合することで、一元管理で人々が容易に管理支配される現代社会のテクノロジーの危うさに警鐘を鳴らす。第三章は政府と文部科学省が2002年に教材「心のノート」を全国の小中学校に配布し、学校教育にて積極的に進める道徳科目化の動きに対し、戦前の修身教育復活の反動を読み取り、人間の自律的な内面の価値判断にまで国家の政治権力が介入し侵食する、公への奉仕献身など倫理価値を国家が教育を介して教え込む「教化」の怪しさを述べている。
第四章では、路上や公共の場など至る所に監視カメラが設置される現状を危惧し、犯罪捜査の進展と事件の解明に一時的に寄与するものの、実は「監視カメラ設置による犯罪抑止効果は薄い」という諸外国のデータ提示とともに、政府や警察など特定集団に委ねられ恣意的にチェックされ活用されかねない監視カメラの過剰設置は、個人のプライバシーを侵害し、日本が一大監視社会に陥る危険性を指摘する。第五章では1990年代以降、日本にも蔓延しつつあるアメリカ型の新自由主義(ネオリベラリズム)の風潮にて、社会ダーウィニズムの優勝劣敗の社会的弱者の切り捨て、それは人間の尊厳性を認めず、人間他者を「使える」手段に貶(おとし)めることに他ならないのだが、市場万能主義により富める富裕層はますます富み、他方で貧しき貧困層はさらに困窮し格差が広がる二極化の問題、加えてそうした格差社会のなかで敗者となった貧困弱者が暴発しないように、これまでの社会福祉政策の切り捨てと共に一層の監視と抑圧服従に軸足を移す新自由主義政策下での「小さな政府」への異論、2000年代以降の保守党・自民党政権のネオリベラリズム政策に対する痛烈な批判を展開する。
そうして最終章の第六章では本書タイトルである「安心のファシズム」の内実について、主にフロム「自由からの逃走」(1941年)とエーコ「永遠のファシズム」(1997年)から文献引用をやり、現代日本のファシズム的状況を総括して著者は批判と憂慮のうちに筆を擱(お)くのであった。
岩波新書「安心のファシズム」は、何よりもタイトルが優れている。まず「安心の」とくる。「安心」とは規範ではない。どこまでも個人の心理的欲求に従った、状況についての曖昧(あいまい)な恣意的呼称である。極端な話、どういった状況であっても当人が「これは安心だ」と思えば「安心」できるし、「これは安心ではなくて不安だ」と思えば相当に不安になって果てしなく「安心」を求めてしまう。このように確固とした規範のない、実は曖昧でかなり個人の内的な心理的要素に呑(の)まれるものであるから、悪意ある第三者(国家の政治権力や企業資本や社会全体にそれとなく漂い人々に共有されている時代的雰囲気など)から不安を煽(あお)られ、いくらでもコントロールされうる。
例えば、北朝鮮のミサイル問題で必要以上に憎悪の不安を煽って日米同盟堅持、軍備増強、憲法改正への世論誘導をなす手法は1990年代以降の東西冷戦体制崩壊を経て、右派や保守のメディア、排外主義者や国家主義者らが使う常套(じょうとう)であるわけだが、「不穏な隣国・北朝鮮に対抗して日本を守る安心の確保」といった場合、「安心」の確保は明確な規範の定義がない、どこまでも心理的なものに影響された漠然とした状況への主観的呼称認識であるから、本当の意味での心底からの「安心」を求めると、もはや際限がない。ミサイル感知のアラート整備、ミサイル防衛の追撃システム完備、日米韓の共同軍事演習による示威行為、自衛隊の海外派兵を経ての後方支援の戦闘力誇示と、どんどんエスカレートして最後は北朝鮮ミサイル基地への先制攻撃にまで「安心」に訴えかけると極端な話そこまでいく。
繰り返すまでもなく「安心」は状況に対する主観的欲求の恣意的呼称であって求め出すと際限がないし、また外部からいくらでも操作され故意に誘導できる。「安心」とは「ここまで」の原理的な限定がある規範ではないからだ。そうした原理の限定の規範であるのは「安全」である。「安心」と「安全」は明確に異なる。
実のところ、以上のような「北朝鮮のミサイル問題を通しての安心の問題」が本書に書かれているわけではないのだが、こうした規範でないがゆえに極めて恣意的で主観的な欲求であり際限がなく、ゆえに外部から悪意のある第三者によって不安が煽られ特定の方向に誘導されやすい事情を踏まえて、著者の斎藤貴男は「支配のために不安や怯(おび)え、恐怖、憎悪の念、贖罪(しょくざい)意識、その他諸々が総動員され、現代では支配のために巧みに利用される」旨を述べている。本書タイトル「安心のファシズム」に絡(から)めて、そういった規範ではない恣意的呼称の欲求ゆえに悪用されうる「安心」の正体について掘り下げ、理解を深めておくことは重要だ。
その上で「安心の」の次に「ファシズム」とくる。ファシズムとは個人の自由を抑圧する全体主義のことだ。ファシズムの全体主義について教科書的にいって、個人の自由を抑圧制限する主体契機は、(1)法的規制や軍隊・警察による抑圧拘束など物理的強制力を独占的に有する政治権力の国家、それから(2)社会内での世論形成や市民相互の同調圧力による多数者の専制、この二つである。よって、自由を抑圧する全体主義のファシズム専制に対抗する自由の事案として、以下の2つの方向が考えられる。(1)の対国家における政治権力の抑圧に抗する垂直方向の自由、(2)の間市民社会における多数者の専制に抗する水平方向の自由である。
そして日本社会の問題として前から広く指摘されるように、日本においては(1)の対国家への自由の力が伝統的・歴史的に非常に弱く、しかも(2)の市民相互間の多数者の社会的専制にて、なぜか日本の社会では、これまた伝統的に国家に自発的に服従する、そのため国家権力の直接的指示や介入なくとも、社会や世間の市民間で国家に従順愛国な多数者が、時に国家の支配に疑問を呈したり不信を抱いて対抗する少数者の自由を叩いて抑圧する社会的専制の全体主義に走る現象が多々見られる。
そうした国家の政府側に属する国民を支配する支配者層の人間では本当はないのに、なぜか社会のなかで国家の意向に従順ではない少数派を進んで叩く、国家に迎合的な社会的専制な人達を、最近の俗な呼び方で「エア御用」と言うらしいが(笑)、なぜ彼らが本当は国家やその時々の政治権力に支配される側の被支配階層の人間でしかないのに、そのように「エア御用」特性を発揮して、国家に従順でない人々を叩いては抑圧して黙らせる社会的専制の全体主義のファシズムに貢献奔走してしまうのか。それは彼らが一個の独立した人間として、「自身が国家権力にとっての統治の客体であること」を自覚していないからである。本当は国家によって自身は支配されているのに、自分が支配されている自覚がないし、支配されていることに気づいていない。それで「エア御用」にて国家の代行で国家に支配されたがらない「非国民」の取締り抑圧を、おそらくは「完全善意」で勝手に自発的にやっているのだから始末に悪く人間として救いようがない。そういった「エア御用」の「自身が国家権力にとっての統治の客体であること」に無自覚な人間こそが、本書での斎藤貴男に言わせれば、他ならぬ「支配されたがる人びと」なのであった。
岩波新書の斎藤貴男「安心のファシズム」に対する書評にて、「著者は反権力の偏(かたよ)った思想の持ち主であり、国家に対して反抗憎悪が過ぎる」云々の批判をよく見かける。そういう人はファシズムの全体主義をよく知らない無知な人だ。ファシズムの全体主義において、個人の自由を抑圧統制する主体契機の一つは、前述のように「法的規制や軍隊・警察による抑圧拘束など物理的強制力を独占的に有する政治権力たる国家」であるのだから、国家による自由の抑圧を警戒し、国家の支配専制に対抗し自由を志向することは原理的自明である。また古今東西の歴史を振り返って、どのような政治権力も自身の政治体制に従い賛美する従順な隷属者の言動の「自由」は認めるし尊重して、時に積極的に奨励するが、片や自分達の政治支配に不信を抱いたり異論を持ったり批判したりして容易に支配に屈しない人々の言動の自由は認めず抑圧する。政治権力による、こうした「自由の不均衡」は通例である。
そのような「自由の不均衡」があるからこそ、国家に批判的な人々の言動の自由は、国家の支配体制に従順な人々の自由よりも、何にも増し「不均衡に」より力を入れ優越し尊重されて、「対国家批判の言動の自由」は特に保障されなければならないのである。同様に社会の中での多数者の専制でも、少数派の意見と立場は慎重により優越されて「不均衡に」尊重保護されなければならない。なぜなら多数派の数の専制で少数派を無理に黙らせて抑圧することは、自由の保障原則に反するからだ。
岩波新書「安心のファシズム」に関し、「著者は反権力の偏った思想の持ち主であり、国家に対して反抗憎悪が過ぎる」云々の人達は、この辺りのことをよく分かっていない。本書「安心のファシズム」を執筆した斎藤貴男を始めとする、高橋哲哉、香山リカ、森達也といった現代日本のファシズムの全体主義的風潮に強い警鐘を鳴らす人達の一連の著作は、そうしたファシズムの全体主義における自由を抑圧する二つの主体契機(物理的強制力を持った政治権力の国家の統制専制と、社会内での世論形成や市民相互の同調圧力による多数者の抑圧専制)への対抗原理を押さえた上で読まなければ、「著者は反権力の偏った思想の持ち主であり、国家に対して反抗憎悪が過ぎる」云々のつまらない無知な感想の読みに終始して、結局は笑われるだけだ。まったく、お話にならない。