アメジローの岩波新書の書評(集成)

アメリカン・ショートヘアのアメジローです。岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(139)原田正純「水俣病」

以前に、報道写真家の桑原史成が水俣に行って撮った水俣病患者の一連の写真集を見ていて、患者らは近海で捕った魚介類を介して発病したにもかかわらず、発病後も日常的に魚を食べ続けている食事の場面の多くの写真を目にし、私は不思議に思ったことがあった。そして、発病した地元の漁村集落の人達は近海で捕れた汚染の恐れがある魚介類を出荷できないため現金収入なく経済的に困窮し、商品として出荷流通されることのない廃棄処分となる自分達が捕った魚を彼らは食べるしかない過酷な水俣の現実を後に私は知った。

ここで改めて「水俣病」の概要を確認しておくと、

「水俣病とは、熊本県八代海(やつしろかい)、別名・不知火海(しらぬいかい)沿岸で発生した公害病である。熊本県水俣市にあるチッソ水俣工場は、工業排水を水俣湾に排出していたが、これに含まれていたメチル水銀が魚介類の食物連鎖によって生物濃縮し、これらの魚介類が汚染されていると知らずに摂取した不知火海沿岸の熊本県および鹿児島県の住民の一部に見られたメチル水銀中毒症である。環境汚染の食物連鎖で起きた人類史上最初の病気である。 日本の高度経済成長期に発生し、公害の原点ともいわれる。また工業災害における犠牲者の多さでも知られる。当初は原因が分からず『奇病』と呼ばれていたが、地名を採って『水俣病』と呼ばれるようになった。1956年5月に公式発見されてから後にメチル水銀が原因だと判明し、環境に配慮した対策がとられたのは1968年のことであった。原因が解明された後は同様の公害病の呼称にも用いられた。水俣病、第二水俣病(新潟水俣病)、イタイイタイ病、四日市ぜんそくの4つは四大公害病と呼ばれる」

かつて地域を挙げて誘致した企業が垂れ流した廃液に蝕まれた水俣病患者は、孤立無援の存在だった。「おおごとになると会社がつぶれる。会社がつぶれると市もつぶれる」。発見当初、市民は「奇病」をタブー視し隠蔽した。日本全体が戦後の高度経済成長のさなか、水俣市はチッソの企業によって支えられた典型的な企業城下町であったのだ。非は明らかにチッソの企業側にある。しかし、市民のなかに多くの会社関係者がいた。市長や労組や多くの市民は患者を長い間、捨て置いた。1956年5月に公式発見されてから後にメチル水銀が原因だと判明し、環境に配慮した対策がとられたのは1968年のことであった。水俣病患者は最初の発症から10年以上も放置されていた。

水俣病の事例に限らず、公害事件や過酷事故の社会問題にて加害者側の企業や国の出方は、だいたい決まっている。およそ一般化できるように思う。

「案件発生の露見の際には、まず当社に非はない、原因も当社にはなく責任もないと強硬に言い張る─次に企業側の過失の原因が解明され明らかになりはじめると、当社に責任はないが見舞金の名目にて一定の金銭を支払う。その際、被害者組織の集団を介しての団体交渉ではなく、なるべく個別に案件処理して、以後の損害賠償請求や裁判訴訟に訴え出ないよう念書などを取ろうとする─それでも裁判訴訟になると、最初は当初では予見不可能、当時の科学水準では技術的に困難、想定外の事態の発生にて当社に責任はなく、不作為の無罪主張をやる─しかし、結審して被告の企業側が敗訴になるか、審議の過程で敗訴濃厚になると裁判所の和解勧告に従い、会社の責任の非を認め初めて公的に謝罪し賠償に応じることになる。だが、ここでも公害病認定に際し、被害者に厳しい線引きをし不認定を出して一定数を弾(はじ)いて出来るだけ賠償金額を少額に抑えようとする」

あえて一般化していえば、こういったところか。近年、水俣病の問題は、東日本大震災での福島第一原発の放射能漏(も)れ過酷事故に伴う原発施設周辺住民の強制移住の賠償責任問題や農産物の被害補償問題に重ねて読まれる傾向にある。上記の「まず、当社に非はないと強硬に言い張る」から、最後の「公的に謝罪して賠償に応じるが、出来るだけ賠償金額を少額に抑えようとする」までの一般モデルの過程を昔の水俣病のチッソと国、そして現在の福島原発事故の東京電力と国のあり様とに重ね合わせ、それぞれ詳細に検討してみると面白いかもしれない。これは歴史の反復か、ないしは同一な社会問題構造の温存か。

岩波新書の青、原田正純「水俣病」(1972年)は、著者が臨床脳波、中毒性神経精神障害に関する研究専攻の医学者であり、本新書執筆時の原田正純の肩書きは熊本大学体質医学研究所の助教授である。著者の原田が臨床医学専攻の人だから、本書「水俣病」も発病システムの臨床医学の専門的見地からの話ばかりかと思いきや、「奇病」発見の経緯や発病の原因物質究明(有機水銀の確認)から当初のチッソと通産省(企業と国)の対応、「水俣病」の公害病認定と公的裁判を経ての全貌の解明、その後の検診体制と個々の患者が抱える公害病申請認定の困難さまで、水俣病に関する一連の動きが社会的・政治的事柄も含め幅広く述べられている。岩波新書の原田正純「水俣病」は、偏見や誤解なく水俣病について正確にその概要を知りたい人が読むべき最初の一冊として大変に有用である。

著者は「あとがき」にて、「岩波の編集部から『水俣病』について書いてほしいとの話があったとき、大変に躊躇(ちゅうちょ)した。その理由は、水俣病の全貌は今やっとその一角が明らかにされたに過ぎず、現在なお日々進行している問題であるから、もし仮に今もっとも新しい事実を記述しても、それはすぐに書き改められなくてならないことは明白だから」の旨を述べている。そうした「中途で書籍を上梓することで現在も進行中の水俣病の問題を終わらせたくない」著者の強い思いがあったのだろう。後に本書の続編、原田正純「水俣病は終っていない」(1985年)が同じく岩波新書から出ている。

それにしても私が常々苦々しく思うのは、公害病や一般病気の名称に「××病」や「××ウイルス」の形式にて、地域の地名や発見者の名字の名前を安易につけて呼称することだ。その地域が故郷である人々や現に今も住んでいる人達、たまたま名前の名字が同じ人々に対し大変に気の毒である。特に「水俣病」に関しては、地元の水俣市を中心に後に病名変更の運動が起きている。昔の日本人には、そうした病名呼称決定の折の配慮の細やかさが欠けており、残念に思う。