アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(152)河原理子「戦争と検閲 石川達三を読み直す」

岩波新書の赤、河原理子「戦争と検閲・石川達三を読み直す」(2015年)の表紙カバー裏解説文は相当に力が入っている。

「『生きている兵隊』で発禁処分を受けた達三。その裁判では何が問われたのか。また、戦後のGHQの検閲で問われたこととは?公判資料や本人の日記、幻の原稿など貴重な資料を多数駆使して、言論統制の時代の実像に迫る。取材し報道することの意味を問い続けて来た著者が抑えがたい自らの問いを発しながら綴(つづ)る入魂の一冊」(表紙カバー裏解説)

著者の河原理子は朝日新聞記者を経て、雑誌「AERA」編集長、文化部次長、編集委員、甲府総局長の職を歴任している。元現場の新聞記者だけに報道ジャーナリズムの自由の問題に深い関心を持ち、戦時中の国家による言論規制・検閲のトピックに関し、特に新聞雑誌に対する報道規制(国家の「安寧秩序」を乱し風俗を害すると見なされた場合の事前の発禁措置と差し押さえ、発売後の回収命令)たる過去に施行された「新聞紙法」(1909─49年)の実態に結びつけて、言論表現の自由を再び制限しようとする今日の国によるマスコミ規制の反動化に著者は強く警鐘を鳴らす。ゆえに前述引用のような、「取材し報道することの意味を問い続けて来た著者が抑えがたい自らの問いを発しながら綴る入魂の一冊」の力の入った解説文となるわけである。

河原理子「戦争と検閲」の副題は「石川達三を読み直す」だ。石川達三(1905─85年)は後に「社会派」と呼ばれた文学者であり、第一回芥川賞受賞者であった。石川は日中戦争当時、総合雑誌「中央公論」の特派員として中国大陸に渡り従軍取材を行った。石川達三「生きている兵隊」(1938年)は、中国北部から南京に転戦して入城するある部隊の姿を描いた小説である。本作品は「中央公論」1938年3月号の看板寄稿になるはずたった。ところが、当時の内務省により発売頒布禁止処分、いわゆる「発禁処分」にされたのだった。その後、石川は警視庁での取り調べを経て新聞紙法違反の罪で刑事裁判にかけられ、有罪判決を受けた。これは筆禍事件である。国家による言論弾圧事件の典型であった。

「生きている兵隊」事件の一審裁判の記録と当時の警視庁の「聴取書」や「意見書」を石川達三の子息である石川旺(さかえ)が所有しており、それら裁判記録と達三の未発表原稿(「南京通信」など)、非公開日記を著者が氏との縁で閲覧させてもらったことによる新発掘資料の公表が、今回の「石川達三を読み直す」の目玉となっている。

本書にて引用されている石川達三の一審裁判(禁錮四ヶ月執行猶予三年の有罪判決で確定)での、判事による判決理由は以下である。

「八田卯一郎判事は判決理由のなかで、『生きている兵隊』の四つの記述を挙げた。(1)瀕死の母を抱いて泣き続ける中国娘を銃剣で殺害する場面、(2)砂糖を盗んだ中国青年を銃剣で殺害する場面、(3)前線は現地徴発主義でやっているという話と、兵士たちが『生肉の徴発』に出かける話、(4)姑娘が『拳銃の弾丸と交換にくれた』という銀の指環を笠原伍長らが見せる場面。これら『皇軍兵士ノ非戦闘員ノ殺戮、略奪、軍規弛緩ノ状況』を記述し…これらの掲載事項が安寧秩序を紊乱(びんらん)する」(109ページ)

つまりは「事変進行中に安寧秩序を紊(みだ)す作品を掲載した」というのが石川の有罪判決の理由である。この「戦時の安寧秩序を紊す」理由で有罪の判決が出るに先立ち、法廷にて石川の次のような答弁があった。

「なぜ戦場への派遣を希望したのか、と八田卯一郎判事に問われて、達三はこう答えている。『日々報道スル新聞等テサヘモ都合ノ良イ事件ハ書キ真実ヲ報道シテ居ナイノテ、国民カ暢気ナ気分テ居ル事カ自分ハ不満テシタ。…殊ニ南京陥落ノ際ハ提灯行列ヲヤリ御祭リ騒ヲシテ居タノテ、憤慨ニ堪ヘマセンテシタ。私ハ戦争ノ如何ナルモノテアルカヲ本当ニ国民ニ知ラサネハナラヌト考ヘ、其為ニ是非一度戦線ヲ視察シタイ希望ヲ抱イテ居タノテス』」(97ページ)

確かに、石川達三「生きている兵隊」を読むと小説でありながら、当時の判事が「事変進行中に安寧秩序を紊(みだ)す」と苦言を呈し有罪判決にするような、大陸前線での日本人兵士による中国現地の非戦闘員である民間人に対するの戦時(性)暴力の実態、「皇軍兵士ノ非戦闘員ノ殺戮、略奪、軍規弛緩ノ状況」を石川達三は何ら悪びれることなく殊更(ことさら)隠そうともせず、従軍取材を通じて自分が見たままのことを書いている。現在でも石川の「生きている兵隊」は絶版にならず出版されており入手して読めるが、先に判事が指摘した戦場の4つの記述事例の他に私が読んで強く印象に残ったものでも、例えば、

「(註─当時の日本軍の敵兵捕虜の扱いにて軍内部で組織的に日常的に殺害していたことに関し)こういう追撃戦ではどの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。自分たちがこれから必死な戦闘にかかるというのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけには行かない。最も簡単に処理をつける方法は殺すことである。しかし一旦つれて来ると殺すのにも骨が折れてならない。『捕虜は捕らえたらその場で殺せ』。それは特に命令というわけではなかったが、大体そういう方針が上部から示された」

「(註─日本軍内部での上からの命令の組織的公認のかたちで『支那軍の正規兵』のみならず『女子供』の非戦闘員も日常的に殺害していたことについて)南京に近づくにつれて抗日思想はかなり行きわたっているものと見られ一層庶民に対する疑惑はふかめられることにもなった。『これから以西は民間にも抗日思想が強いから、女子供にも油断してはならぬ。抵抗する者は庶民と雖(いえど)も射殺して宜(よろ)し』。軍の首脳部からこういう指令が伝達された」

の記述がある。これらの記述は今でも石川著「生きている兵隊」を読めば容易に確認できる。石川達三の書きぶりからして、当時の日本軍は南京侵攻の過程で「現地徴発」という名の略奪、「生肉の徴発」と称する若い女性の連れ去り、捕虜の虐殺、女性と子供の殺害を上からの命令で組織的かつ日常的に行っていたことが分かる。

確かに、作者の石川達三は末尾に「本稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものであり、従って部隊名、将兵の姓名なども多く仮想のものと承知されたい」という付記を置いている。結局、これは「どの部隊がモデルになっていて作中の将兵らは一体誰なのか」具体的な追及の混乱を避けるための著者の石川達三の配慮であって、この作品に書かれていること、「生肉の徴発」と称して若い女性を探したり、捕虜や女性・子供の非戦闘員を容赦なく日常的に殺したりするのは、石川が従軍取材して実際に目にしたことであろう。なぜなら石川達三は公判証言にて、先に引用したような、彼が従軍し小説執筆をした自身の根本動機として以下の旨を明快に述べているからだ。

「日々報道する新聞等は都合の良い事件ばかりを報道して、国民が前線兵士の真実を何ら知らず、暢気(のんき)な気分でいる事が自分には不満だった。殊(こと)に南京陥落の際には国内では提灯行列をやって御祭り騒ぎをしたりして、自分としては憤慨に堪(た)えなかった。私は戦争とは如何なるものであるか、真実を国民に知らせねばならないと考えて、そのために戦線視察を希望した」

日本軍の大陸での民間人に対する戦時(性)暴力の実態を全くなかったことにして全否定したい、もしくは仮にあったとしても非日常の偶発事故の例外的事例や一部の心ない個人の突発的暴走にして、日本軍が組織的に奨励したり公認していたことにしたくない右派や保守や歴史修正主義者らは、「生きている兵隊」での「生肉の徴発」の若い女性の連れ去りや捕虜や子供ら非戦闘員への容赦のない組織的・日常的な殺戮も「小説中のフィクション」であり、実際にあったことではないものとして理解し処理しようとしてきた。その際には、石川が作品末尾に付した「本稿は実戦の忠実な記録ではなく」の一文が彼らの主張の根拠になっていた。

しかしながら、「日々報道する新聞等は都合の良い事件ばかりを報道して、国民が前線兵士の真実を何ら知らず、暢気(のんき)な気分でいる事が自分には不満であったし憤慨に堪(た)えなかった。私は戦争とは如何なるものであるか、真実を国民に知らせねばならいと思った」ほどの熱意を持って従軍取材に志願し大陸前線の南京攻略部隊に密着した石川達三なのであるから、小説「生きている兵隊」末尾にて、いくら「本稿は実戦の忠実な記録ではない」云々の付記があったとしても、日本軍による現地の民間中国人に対する殺戮・略奪が全くの虚偽のフィクションで誇張の創作とは到底、考えられない。何しろ「国民が前線兵士の真実を何ら知らず、暢気(のんき)な気分でいる事が自分には不満で憤慨に堪(た)えなかった」とするほどの怒りに震え真実を求めて戦地に赴き、戦争小説「生きている兵隊」を書き上げた石川達三であるのだ。その石川が「生きている兵隊」の戦場での具体的行為について、嘘や誇張を交えて書くことはあり得ない。石川による末尾の「本稿は実戦の忠実な記録ではなく、作者はかなり自由な創作を試みたものであり、従って部隊名、将兵の姓名なども多く仮想のものと承知されたい」という付記は、「どの部隊がモデルになっていて作中の将兵らは一体誰なのか」具体的な追及の混乱を避けるための著者の石川の配慮であって、この作品に書かれてある日本軍による組織的・日常的な戦時(性)暴力の実態は実際にあったことと読み取るのが妥当である。

ここは非常に大切な所なので、日本軍の大陸での一般市民に対する戦時(性)暴力の実態を全くなかったことにして全否定したい、もしくは仮にあったとしても、それは突発例外的な個人の暴走であって、日本軍が上から奨励したり公認して組織ぐるみでやっていたことにしたくない右派や保守や歴史修正主義者の方々は特に熟考して、よくよく冷静に考え直して頂きたい。

結局のところ、石川達三「生きている兵隊」の筆禍事件に関し、その真相は、石川は「国民が前線兵士の真実を何ら知らず、暢気(のんき)な気分でいる事」に激怒し、大陸最前線での日本の「生きている兵隊」の真実の実態を銃後の日本国内の国民に正確に伝えたいがために彼は従軍取材して、まさに「生きている兵隊」の戦争小説を執筆したのだった。そのため、この人の場合、非戦闘員にまで及ぶ一般市民に対する殺戮、性的暴力、略奪、放火といった前線部隊での「生きている兵隊」の残虐で非人道的な実態を書きはするが、そこに「人道的立場からの反戦意識」や「戦時暴力に対する倫理的糾弾」など、ない。ただ単にリアリズムを目指して、現地での日本軍の見たままを捕虜・非戦闘員の虐殺も略奪も別に悪びれず殊更に隠すこともなく、そのまま素直に正直に素朴に石川は書くだけである。それこそが銃ではなくてペンを以てする文学者たる自身の国への戦争協力であると自覚し石川達三は、戦時中に文筆活動に邁進したのであった。

そうして石川の「生きている兵隊」は余りにもリアリズムがありすぎて真実を追求し、容赦なく日本軍の前線兵士の実態を書いてしまい、それは「皇軍兵士ノ非戦闘員ノ殺戮、略奪、軍規弛緩ノ状況」を明るみに出して、「事変進行中に安寧秩序を紊(みだ)す」ような人道的見地からの非倫理の蛮行や軍の統率コントロールが出来ていない日本軍の不名誉の「不都合な真実」を国民一般の世間に知らしめることになるので、石川「生きている兵隊」は新聞紙法に抵触して発禁処分となり、石川達三は有罪判決になったというのが実の所であった(96─111ページ)。国家としては、前線兵士の日常的な残虐行為や軍規律の現地での乱れの組織崩壊(当時の国際条約からして捕虜や民間人の殺害は軍規違反の戦争犯罪に該当する)を絶対に国民に知られたくなかったのである

戦争小説「生きている兵隊」をめぐる規制検閲、国家による言論弾圧に抵抗し報道ジャーナリズムの自由を守ろうとした石川達三の従来の「勇敢」イメージとは微妙に異なる、石川「筆禍」事件の真相である。石川達三は反戦意識から国策遂行の戦争批判にて「生きている兵隊」を執筆し、それゆえの発禁処分で言論弾圧になったわけではない。真相は逆である。石川達三からする文学者の戦争協力の熱烈なあり様があまりに正直で戦時の日本の軍隊の真実を暴露しすぎて過激すぎるため、国の方が慌(あわ)てて「生きている兵隊」の作品掲載を諌(いさ)めた「検閲」の「言論弾圧」の実情であったのだ。

この辺の事情を一審裁判の記録と当時の警視庁の「聴取書」や「意見書」を保管していた達三の子息である石川旺は、公判記録を事前に読んで知っていた。だから、「戦争と検閲」の著者・河原理子が「石川達三の話を詳しく聞かせてほしい」とお願いしても、石川旺は上手い具合にはぐらかすし、いよいよになると「戦後、達三は自由主義者としてメディアに取り上げられたようですが、自由主義者というわけじゃあない」と石川旺は河原理子に事情の裏があることをほのめかして語ったりする。

この「戦時に検閲に引っ掛かって弾圧されたといっても、達三は戦争遂行の国策に抵抗した自由主義者だったというわけでは決してない」旨の発言は、非常に含みのある味わい深い言葉だ。まさに「石川達三は一筋縄ではいかない」のである。その辺りの現実の微妙で複雑な「石川達三の読み直し」を岩波新書の赤、河原理子「戦争と検閲・石川達三を読み直す」は現代の私たちに教えてくれる。