アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(153)森川智之「声優」

普段からアニメや映画の日本語吹き替えやドキュメンタリーを観ることは多いが正直、私は特に声優を気にして鑑賞することは、これまであまりなかった。岩波新書の赤、森川智之「声優」(2018年)は、現役の人気声優であり、またプロダクション経営もなす著者が「声優」という「声の職人」について語る新書だ。

誠に失礼ながら、森川智之という声優のことを本書を読むまで私は知らなかった。森川智之は人気声優であり、ファンから「帝王」と呼ばれているらしい。アニメやゲームや映画吹き替えやナレーション、加えてプロダクション経営や後継声優の育成も手掛けるなど幅広く活躍しており、声優として業界ではベテランの人物らしい。著者は1967年生まれだが、本書掲載写真を見ると非常に若々しくスマートでビジュアルがよい。私より歳上であるのに確実に私よりも若く見える(笑)。

昔は声優といえば比較的日陰(ひかげ)のマイナスなイメージがあって、もともと俳優や歌手志望であったのだけれど、そちらの本業で活躍できない人が不本意ながら声優やナレーションの裏方仕事に流れていく事例が多かったと聞く。だが、近年では声優の仕事そのものが人気であり、最近の人は最初から声優志望で「声優になりたい」人が、ほとんどらしい。また昨今の声優は声のみの裏方の仕事だけでなく、本人が顔出しで積極的に表に出てライヴをやったり写真集を出したり、一般の俳優やタレントをしのぐ勢い人気であるようだ。おそらくは、そうした声優人気を背景に岩波新書「声優」は企画され出版されている。「声の職人」たる「声優」の実像や日常の仕事や業界の実際について知りたい読者が、潜在的に多くいるに違いない。

本書は森川智之という声優の日頃の仕事ぶりや氏が声優になったきっかけ、声優の育成システムや業界のあり様、森川が力を入れている後継育成の取り組みや自身の声優という仕事に対する思い、今後のことを談話形式にて縦横無尽に語っている。

岩波新書「声優」を一読して、声優という仕事に非見識ながら素人の私が率直に感じた特に印象深かった内容は以下の二つだ。

まず、著者である森川智之その人が相当に優秀である。森川が声優の世界に入ったきっかけは、10代の頃に当時活躍中の現役声優が主宰する養成所への入所であるのだが、そこで先生に「声が大きいね」と褒(ほ)められ、かつ「きみは声が大きい。発声もできているし滑舌もいいから、他のクラスの発声練習を先生として見てくれ」と言われ、新入の研究生でありながら同時に声優養成所の講師までやっている。森川智之いわく、「自分のクラスの授業は生徒として受けながら、他のクラスの授業を担当するという不思議な経験もしました」。

これは素人目から見てかなわないと思う。声優としての資質以外にも、この人にはコミュニケーション能力や社会人としての常識、「この人と一緒に仕事をしたい」と人に思わせる信頼感や安心感の人間的魅力がそもそもあって、それに後に声を通して自在に感情表出できるなど声優としての技術(テクニック)が研鑽(けんさん)され加味されて、以後ずっと声優として第一線にて活躍の実績キャリアがあるのであり、森川智之は相当に例外、普通の人には到底マネのできないような特異な事例であるように思えた。とりあえず養成所に研修生として入ったら、いきなり「他のクラスの発声練習を先生として見てくれ」と頼まれるというのは普通の人には、なかなかあり得ないことである。この人の声優のなり方や業界での成功事例はかなり特殊であり希(まれ)で、一般人にはあまり参考にならないのでは、の率直な感想だ。

また声優の森川智之はトム・クルーズのほとんどの作品を担当する専属吹き替えということだが、そのきっかけとなるトム・クルーズの吹き替え役オーディションの過程、キューブリックの作品「アイズ・ワイド・シャット」(1999年)の吹き替え役に決まるまでのエピソードが読んで非常に興味深く面白い。映像に関して異常なまでの完璧主義を誇る本格派の映画監督スタンリー・キューブリックであったが、その映画作品の日本語吹き替えスタッフもキューブリックに負けず劣らずの相当な完璧主義のプロフェッショナルな仕事を要求する硬派で職人気質な人達だったことが分かる。

声優として成功するには、「この人物やキャラクターならば、絶対にこの人の声でなければダメだ」と多くの一般の人々に思わせる、世間にそう認知させる自分にしかできない声優としての定番のアタリ役仕事を手に入れることが重要ではないかと思える。古い例で申し訳ないが(笑)、例えばテレビ映画の「刑事コロンボ」の日本語吹き替えなら小池朝雄だとか、ジャッキー・チェンの日本語吹き替えなら絶対に石丸博也だとか、アニメ「サザエさん」ならフグ田サザエの声は加藤みどりでなければ違和を感じる視聴者が多いなど。そうした自分にしか出来ない、他の人では代替がきかない世間の人達を納得させるような定番イメージ構築の役柄仕事を持っている声優は、末長く活躍できるのではないか。

さて、岩波新書「声優」を実際に手にして読む人とは主にどういった人達であろうか。まず、森川智之のファンが彼のことをもっと知りたいと思い、本新書を手にするだろう。次に将来は声優の仕事に就きたい、声優志望の若い人が本書を読むと考えられる。この点に関しては語り手の森川も、また岩波新書編集部も強く想定しているらしく、本論にて「声優育成の専門学校の授業料の妥当額」の話や、森川智之からする「声優を目指す人に、これだけは伝えたいこと」の声優志望の読者へ向けた実践アドバイスの話が多くある。さらには「声優」という職種を外して、一般の社会人が「自身の仕事にどう向き合うか」「自分にとっての天職の見つけ方」の仕事論として一般化しても読める。声優・森川智之の仕事に対する認識や姿勢は実に立派であると私は感心した。本書を一読して、声優以外の職業に従事している者も見習いたい参考になる箇所が大いにあった。

そして最後に、ただ単にアニメやゲームが好きなだけで将来その分野に関わる仕事に何となく就きたいと楽観的に考えているプロ根性の覚悟が希薄な若い人が近くにいて、もし自分の家族や親族の子どもで「アニメが大好きだから将来はアニメに携わる仕事をやりたい、声優の専門学校に行きたい」としている人に本書を黙っておもむろに渡し、「プロの声優になるにはこれほど大変なのだ。例えば養成所に入所したら、いきなり講師もやってくれと頼まれるような、それほどの才能資質と人間魅力がある人でないと森川智之のような声優業界での成功は難しい。それほど選ばれた人にしか通用しない厳しい業界なのだ」と暗に無言で知らしめ説得する、その辺りが岩波新書の赤、森川智之「声優」の最適な使い方であり、読まれ方の落とし所であるように私には思えた。