アメジローの岩波新書の書評(集成)

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岩波新書の書評(155)高桑純夫「人間の自由について」

岩波新書の青、高桑純夫「人間の自由について」(1949年)は、本新書の表紙をよく見ると青地カラー上にあるタイトル表記「人間の自由について」にて、「人間」と「自由」の文字だけ微妙に太く濃いポイント印字になっている。「人間」と「自由」の二語こそが肝要だ、とする著者の強い思いの表れであろうか。

本書は文字通り「人間の自由について 」述べている。西洋哲学史における「自由の概念の変遷」を論じたものだ。著者は、自由の概念の変遷契機を主に3つの歴史的事象を境に区分する。(1)ルネサンス、(2)フランス革命、(3)史的唯物論である。すなわち、(1)のルネサンスにて個人主義の近代的自我の覚醒がなされ、同時に人間主体に対する客体自然が発見され合理的自然科学が成立する。それから(2)のフランス革命にて、市民革命を経て「自然権」としての人権の政治的観念が成立する。この自然権は個人主義の経験的かつ規範的な人間の普遍的自然把握に根差したものであった。そうして(3)の史的唯物論にて、革命下の個人の経験的・規範的な人間理解に、さらに歴史社会の発展法則という時間(歴史)の契機が加わり、文字通り「史的」唯物論の自由の形成過程となる。その規範当為の本来的人間に保障されるべき「自由」は、物質的貧困窮乏に苦しむ大多数の人間疎外を打開する、より現実に根差したものとなる。ゆえに史的唯物論における人間の自由は、フランス革命当時の「百科全書」記述に体(てい)よく掲載され収まるような見映(みば)えのよい、以前の静的鑑賞的な人間存在の自然権の「自由」概念ではなくて、現実政治の中で物質的貧困と階級格差の是正を時の政治権力に対し激しく求め抗議する、よりラディカルな人間存在への「自由」であったのだ。

こうしたことがそのまま全て本書に厳密に記述されているわけではないが、以上のことは岩波新書「人間の自由について」を読む際の前提ないしは本書の大まかなアウトラインにはなろうし、それに類する主な事柄は確かに本新書に記載されてある。本書にて「ルネサンス、フランス革命、史的唯物論」の3つの時代契機により「人間の自由」の歴史を論じていることは確かで、それを西洋哲学史のなかの主要人物に結びつけると著者に依(よ)るかぎり、(1)のルネサンス以降はホッブズの自然権の「自由」の概説から始まり、(2)のフランス革命以後は主にカントの道徳的「自由」の検討に傾注し、(3)の史的唯物論は、そのままマルクスの経済社会的「自由」の解説にそれぞれ対応し論じられている。

高桑純夫「人間の自由について」を最初に手にした時、そのタイトルからして西洋哲学史における「自由の概念の変遷」を(1)のルネサンスから(3)の史的唯物論まで3つの区分の全時代に渡り概略的に大きく広く論じる新書だと思っていたし、そうした思い込みで私は読み始めていた。ところが実際に読み進めていくにつれて、高桑「人間の自由について」は、特に(2)のフランス革命時のドイツ観念論の祖たるカントの道徳的自由論に力を入れ集中して論述していることに気づいて非常に驚いた。岩波新書「人間の自由について」は、そのタイトルからは容易に予想しがたく、内容は実のところ主にカントの道徳的自由に関するものであった。つまりは、本書はカント哲学の「自由」についての書籍なのだ。本書はカントの自由論について、三批判書の内の実践道徳論である二冊目に該当の「実践理性批判」の読解解説に焦点を定め、カントの道徳自由論に特化した考察である。そうしてカントの「倫理的自由」の内在的読み方の解説を行いながら、同時にカントの実践理性の「人間の自由」を容赦なく批判している。本書を読んでいると、著者からする「カントにたいする不満」「カントの自由論につきまとう欠陥」といった率直な言葉がすぐさま目に入り、心に刺さる。

私の感慨として、近年のカント哲学に関する著作は圧倒的にカント礼賛(らいさん)であり、カントを肯定的にのみ捉え論じるものが多い。私はそうした昨今のカント礼賛傾向に少なからず不満を抱いていた。そういった意味からして、高桑「人間の自由について」にて展開されるカント批判には実に胸がすく清々(すがすが)しい思いがする。

確かに、カントはドイツ観念哲学の道を拓(ひら)いてカント以降、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルへと続く。ドイツ観念論においてカントは偉大である。しかも、カントの登場は当時行き詰まりつつあったヨーロッパの哲学界にても、西洋哲学史の危機を救う画期の「事件」であった。伝統的ヨーロッパの大陸合理論と新興のイギリス経験論の双方の難点を封じ利点を止揚する「第三の道」たる独自の批判哲学を当時、カントは展開できた。それはカントが、フランスでもなくイギリスでもない、両国の哲学を相対化できるカントその人が紛(まぎ)れもないドイツの哲学者だからであった。総じてカントまでのヨーロッパ哲学史を概観するとき、「人間の自由について」の観念は、個人主義の発見に伴うホップスの「自由」の定義、自由とは拘束の欠如と自己保存衝動の確保とされる極めて感性的で素朴な定義から、後のカントに至って人間の自由は現象界における個人の欲望充足の因果律を乗り越え、物自体の可想界にまで架橋した、他者との倫理関係における定言命題の格率遂行の主体的な判断行為に厳格なまでに高められていた。ここに単なる手段に堕(だ)することのない「目的の王国」における、それ自体が目的であり尊厳性を持った人間主体の「人格」が初めて成立する。カント以前に人間の自由に伴う「個人」や「人権」はあったが、「人格」は未だ存在していなかった。

しかしながら、これまた周知の通り、ドイツ観念哲学の立場にあったがゆえにフランスの大陸合理論とイギリスの経験論とを鮮(あざ)やかに統合できたカントは三批判書の中途にて早くも失速してしまう。今まさにフランス革命を迎えつつあるフランスでもなく、すでに名誉革命を終えたイギリスでもない、いまだ中央集権化がならず領邦国家の分裂状況たる後進国・ドイツの哲学者であったがゆえに、彼の実践哲学は現実行動の場を持たず、実践理性の世界はひたすら個人の内面に収斂(しゅうれん)する。カントの「実践理性批判」は、非常に厳格な各個人の内面にのみ課せられた格率遂行の道徳的要請に終始した。カントの実践理性の哲学は、個人に対し現実世界にて何ら政治的・社会的な行動の義務を課さなかったのである。カントにおける「自由」は政治的自由ではなくて、あくまでも道徳的自由であった。

本書にて展開されるカント哲学批判も、カントの道徳的な「人間の自由について」、それが観念的であり教説的であるということが批判論拠の柱になっている。事実、カントの哲学は驚くほど実に精密であったが、あまりにも観念的過ぎた。カント批判を展開すると同時に、「なぜカントの実践理性の哲学は、個人に対し現実世界にて何ら政治的・社会的な行動の義務を課することなく、カントにおける『自由』は、政治的自由ではなくて、どこまでも道徳的自由の観念論的厳格主義(リゴリズム)に終始したのか」についても、当時の未だ中央集権化ならず政治的市民革命が果たせないドイツの後進性と、カントその人のキリスト者たる個人の人間資質の面から著者は的確に分析指摘している。この点は、特に本書の「第六章・自由と責任」での「第二節・カントの自由論」と「第三節・その批判」にて詳細に考察されている。

こうした「リゴリズムの厳格主義で観念論的過ぎる」とする旨の、著者からの「カントにたいする不満」や「カントの自由論につきまとう欠陥」のカント哲学批判は、本書が出版された1950年前後の敗戦直後の日本の哲学思想界の状況に支えられ見事に対応していた。当時の戦後社会の時代の雰囲気として、カントを始めとするドイツ観念哲学に対する批判の素地は確実にあった。岩波新書「人間の自由について」にて直接に言及されてはいないが、本書を執筆時の著者に、京都学派の西田哲学ら戦中昭和の多くの日本の哲学者がカントやヘーゲルを中心としたドイツ観念哲学にイカれていたことに対する反感や、カントの観念哲学が敗戦直後の日本社会の混乱、特に人々の物質的困窮問題に際し何ら解決の方策を示し得ず無力であることへの失望の思いがあったからだと本書を読むにつけ本文行間から、それとなく窺(うかが)い知ることは出来る。実践哲学の観点から「カント哲学の意義」を否定しようとする、例えば以下のような、やや感情的な著者の書きぶりからしてそうだ。

「パンが足りず、着物が足りず、住宅が悪かったら、自由だけではたいしたことはできない。自由だけで暮らしていくのは非常に困難である。よく、そして、楽しく生活するには、自由という富が、物質的な富でおぎなわれることが必要である。自由は、おそらくはこういうものであろう。…私たちにとって、いままさに自由の中心問題と見えるところのものが、カントには、無類の邪魔ものとしか映っていない」

そして、さらに以下のように続ける。

「まさにこのような現代社会に立つわれわれである。とすれば、現代のわれわれにとって、たとえばカントのいう実践的自由のような自由が、いかに精密に分析され、またいかに厳格に論証されようと、それがいったい何の意義をもちうるであろう」

こうしてカントにおける道徳的「自由」が、現実の物質的窮乏を始めとする現代社会の人間疎外の根本問題に何ら解決の意義を持ち得ないことを指摘し、カントの哲学を容赦なく批判し尽くした後で、著者は「人間の自由とは、客体の運動・性質を支配する必然的法則を捕捉して、逆に人間がその客体を自己の統制下におくとき、つまり人間が物の主となったときの自主性をいうのである」という、「反デューリング論」にてマルクスが展開したような発展止揚な経済社会的「自由」への展望を最終章にて少しだけ語る。しかし残念ながら本書は、そこで終わってしまう。

岩波新書の高桑純夫「人間の自由について」(1949年)は、主にカントの観念論的な道徳的「自由」に関し述べ批判したものであるが、続くマルクスの実践的な史的唯物論における経済社会的「自由」については、同じく岩波新書の田中清一「自由の問題」(1959年)にて集中的に述べられている。高桑「人間の自由について」がカントの道徳的「自由」に関してのもの、田中「自由の問題」がマルクスの経済社会的「自由」についての書籍と論じ分けられており、実は二冊で続き物になっているのだ。この辺りの趣向、当時の岩波新書編集部の編集方針は心憎いばかりである。昔の岩波新書には隠れた名著が多くある。それらを発掘し再発見して読み返す楽しみと喜びが確かにある。岩波新書の青、高桑純夫「人間の自由について」を読了後は、すぐさま続けて同新書の青、田中清一「自由の問題」を読むことをお薦めする。