アメジローの岩波新書の書評(集成)

岩波新書の書評が中心の教養読書ブログです。

岩波新書の書評(156)宮沢俊義「憲法講話」

昔から岩波新書を愛読していて、「岩波新書は憲法に関する新書を多く出しすぎる」の率直な思いがする。事実、岩波新書にての憲法関連書籍は実に多くあり内容が重複して私は以前に読んだものでも忘れてしまったり、他の書籍と内容を混同し記憶してしまっているものも多い。

近年でも岩波新書は憲法関連の新書を連発して、端から見て異常とも思える程だが、それには日本の戦後民主主義の理念が、戦前日本の大日本帝国への批判・反省から、国家の恣意的自由な権力行使に制限の歯止めをかけて封じる立憲主義の立場と一致しており、ゆえに戦後民主主義は戦後の日本国憲法の理念と共通していて、「戦後民主主義は朝日岩波文化」と言われるほどだがら、朝日新聞社と同様、現憲法に対する護憲の立ち位置の岩波書店としては、つい力が入って憲法関連書籍を熱心なまでに連続して出してしまう。特に岩波新書は改憲反対の護憲論の憲法関係新書をよく出す。おそらくは、そういったことである。

このように類書が非常に多くある岩波新書の憲法関連書籍であるが、その中であえて一冊選ぶとすれば私は青版の宮沢俊義「憲法講話」(1967年)を挙げる。

宮沢俊義は、言わずと知れた憲法学者の美濃部達吉の弟子である。美濃部達吉といえば、戦前に国家法人説である天皇機関説を主張した人だ。美濃部は後に岡田内閣から二回に渡り「国体明徴声明」を出され、美濃部の天皇機関説は国家により排撃され明確に否定された。実は宮沢の師の美濃部にも「憲法講話」(1912年)という同タイトルの著作がある。もっとも美濃部のものは戦前の帝国憲法に関して、宮沢のものは戦後の日本国憲法に関しての「憲法講話」という違いはあるが。そして美濃部達吉の師は、戦時に国会にて軍国主義に抵抗した法学者であり政治家でもあった一木喜徳郎であった。つまりは戦前から天皇機関説の学説を介して、「一木喜徳郎─美濃部達吉─宮沢俊義」の師弟のつながりがあり、宮沢は近代日本の憲法学者として出自がしっかりしている。宮沢の憲法学の背後には一木や美濃部から引き継いだものが確実にあって、そこが読んで宮沢の憲法書籍には、ある種の重さの凄(すご)みがあり信頼できる。

この人は基本の憲法理論についても個別の条文解釈にしても個々の判例理解にても、そこまで新奇で突飛な変なことを言わない安定感がある。宮沢の発言や政治的立ち位置も戦前から戦中、戦後にかけてその都度、多少は変わる。しかし、宮沢憲法学の基本的立場は美濃部の天皇機関説に準ずるものであって、そもそも天皇機関説とは、大日本帝国憲法の欽定憲法下にて国民主権や民主主義を堂々と主張できない中での、それでも国民本位の政治遂行のためにギリギリのところまで煮詰めて考えられた、帝国憲法体制下にて決して憲法否定にならないよう配慮された高度に政治的な、後の日本国憲法の国民主権に連なる主権の運用をめぐる「健全な立憲主義」への志向を有する民主的な憲法解釈理論なのであった。

そうした戦前からの帝国憲法下の天皇主権説から故意に逸脱するような確信犯的な天皇機関説を素地にもつ宮沢俊義が、戦後の日本国憲法に関する「憲法講話」にて、戦前の帝国憲法的なものを容赦なく批判し、現行の憲法について堂々と語っている姿は、一木や美濃部らのことを思うと非常に意義深い。宮沢俊義は「憲法講話」の「はしがき」にて、本書タイトル「憲法講話」に関連づけ次のように書いている。

「『憲法講話』という表題には、忘れられない思い出がまつわる。…美濃部達吉先生の『憲法講話』は、出版の当時、一部の人からあたかもわが国体の基礎を揺るがさんとする危険思想を含むものの如く攻撃せられ、後の機関説事件での政治権力による学説弾圧の遠因となった。これを思うと、今の憲法の下で公刊されるこの『憲法講話』は、どのような批判をうけるにせよ、そういう政治権力による弾圧からは自由だと予想されるのは、ありがたいことである。これも、日本国憲法の前文にいう『自由のもたらす恵沢』というべきであろうか」

岩波新書の青「憲法講話」を始めとする宮沢俊義の著作を読むときは、同時に宮沢の師である美濃部達吉や一木喜徳郎ら近代日本の憲法学の営みをも意識して読むべきだ。

「日本国憲法に結実した人間主義・平和主義の精神は、国民が旧憲法下でのにがい体験から学びとったものであり、敗戦による荒廃から立ち上る戦後民主主義の基本原理であった。だが、今日なお『いつか来た道』へ戻そうとする動きが執拗に続いている。日本国憲法のふくむ問題点とその意味を、旧憲法とかかわらせつつ分りやすく語る」(表紙カバー裏解説)